ケモノの世界 終末編
それから、二十年もの月日が流れた。
結婚もせず、一人で勝手気ままに生きて、二十年。
もちろんケモノ化は既に目も当てられない程進行していて、俺は俺自身の体に限界が来ている事を悟っていた。
もう俺の姿は、人間の形をしていない。成りの悪い犬だ。妙に図体が大きくて、肩が広い犬。頭や手足は完全に犬そのもので、口が変形してしまった為、もう話す事も出来ない。
もちろん手も変形しているので、字を書く事も出来ない。
だが、二十年も経つと科学文明も随分発達する。その中の一つに、脳波を感じ取って様々に変換する機械があった。
俺はこんなになる直前に何とかそれを購入し、スピーカーやら何やらを付けて、話したい事を音声にしてくれるようにした。それに、これがあれば商品の注文も考えただけで行えるので、随分便利だ。
俺がここまで長く生きられたのも、科学の力のおかげだ。だが先も言った通り、もう限界に達し掛けている。
遂にウイルスは脳すらも侵食しようとしているのだろう。
たまに意識が薄れて、自分が何をやっているのか分からなくなるようになった。
もうそろそろ、彼らはやって来る。
あまりこの世界を楽しめてない感はあったが、好きになった一人の少女を幸せにする事が出来た。これだけでも、この世界で生きた価値はあったというものだ。
ガタン、とドアが開く音が聞こえる。もちろん俺は一人暮らしなので、鍵は俺しか持っていない。
俺以外にドアを開けられるのは、国の人間だけだ。つまり、遂に彼らがやって来たという事だ。
俺はベッドに横たわった状態のまま、廊下の方から歩いて来る人影をジッと見つめる。やはりその人物は白い服を着用していたが、二十七年前に見た時よりかなりスリムで、体にピッタリフィットしている。これも時代の進歩というものなのか。
しかし、全面だけガラスのようになっているヘルメットを被ってはいるものの、照明で反射してしまっている為、中の人の顔が見えない。
その服の性質上、体型がしっかり見えてしまうので、胸が膨らんでいるのが分かる事から、女性なのだという事は予想が付くのだが。
どうやら一人のようだ。昔は数人居たが、もう一人でも充分処理出来るだけの道具を持ち合わせているのか。
その割には両手に何も持っていないが......もしかすると、あんなスリムな服の中に内蔵されているのかもしれない。
こう、ビババっと一瞬で感電死させるみたいな奴が。でもなるべく痛くないようにして欲しいんだけど。感電って痛そうだよな......
下らない事を考えて自分で自分の気持ちを和らげつつ、遂に自分の目の前に到達した人影の姿を見上げた。
頭が丁度照明と重なって、その人間の顔がこちらを覗く。こちらもまた、照明が隠された事によって見えるようになったバイザーの奥の顔を覗く。見えた顔は――
「――もう随分になるね、とーくん」
「っ......」
そうか......彼女が、なのか。
バイザーの奥から見えた顔は、小さい頃の幼なじみで、二十年前に俺が行った贖罪と共に幸せを謳歌しているはずの彼女だった。
今年で四十になるはずの彼女は、年のせいかシワが少しあったりはするもののまだ若く、呼ぶならお姉さん、程度ならまだ通じそうな面持ちだ。
もちろん犬の耳も無ければ、二十年前は伸びていた鼻もすっかり元に戻っている。そう、彼女は完全な人間だった。
彼女と話をしたいが、あいにく声は出ない。
仕方無いので、今は俺の口となっているスピーカーの機械音声に頼るとしよう。
『久し振り。元気してた?』
あまり機械らしくない、抑揚のある声で話始める。
直ぐに彼女は俺が喋れないのを悟ったのか、一瞬悲痛な顔を見せるが、直ぐにそれを隠して会話を始めた。
「うん。おかげさまで」
『そうか......それじゃ、お偉いさん方にはちゃんと受け入れられたんだね。良かった良かった』
俺が行った贖罪......それは、彼女にワクチンを投与し、ウイルスの届かない安全な場所で保護して貰う事だた。
俺が気絶させた彼女を持っていった時は猛反発されたが、既にワクチンを投与した後なんだ、と言えば案外簡単に通してくれた。
ワクチンは貴重だった為、それを投与された人間をみすみす再感染などさせたく無かったのだろう。
近くに居ては俺のウイルスが感染するかもしれないので、後は国の人に任せて俺はこうして暮らしていた、という訳だ。
自分のワクチンを彼女に使ってしまった為、もちろん俺の分は無い。再び無駄な使用をされては困ると思ったのか、それ以降国からワクチンや手紙が届く事は無かった。
これが二十年前に行った贖罪だ。これで少なくとも六十年は生きられる。長く生きれば長く生きる程、幸せを感じる時間は長くなるだろう。
それは最終的に、俺と暮らす場合よりも大きい幸せになっているはずだ。内部の男性と結婚すれば、子供も何不自由無く人生を楽しむ事が出来る。
俺が生まれた時に向けられた、あの暗い目線を子供に向ける必要も無いのだ。
素晴らしい人生になるはず。俺はそう思って、彼女に対し贖罪を行ったのだ。
事実、こうして死の間際に立たされている俺に対して、彼女は元気な姿で立っている。やはり俺の判断に間違いなど無かった。
「どうして......私にワクチンを使ったの?」
『もちろん、君が幸せになると思ったからだ。俺と生きるより、ずっと』
「......そうだね。本当に、信じられない位、幸せだった。自分を段々侵食していくウイルスに恐れる事無く、自由に暮らせる世界。そんな楽園があっただなんて、とーくんにワクチンを貰って無ければ、知れなかった......」
『......良かった』
良かった、本当に。俺は何度でも生き返れる命だからこそ、知っている。命の大切さを。命は一つしか無くて、限りあるものだ。長く生きられる道があるなら、それを選ぶべきなのだ。
......なのに、どうしてそんなに悲しそうな顔をして話すんだ。内容は幸せなお話だと言うのに、どうして。
「――でもね、とーくん。私、幸せだったけど、嬉しくなかった。とーくんが歩むはずだった道を、私が横取りしたみたいで、凄く嫌だった」
『なんで......』
彼女は泣いていた。バイザーが有るため、涙を拭う事も出来ない。流れ出る涙をそのままに、悲しそうな顔のまま、彼女は本心を語る。
「だって! 私はとーくんが大好きだったから!」
『俺だって、大好きだったから......だから、幸せになって欲しくて......』
「そんなのは違った! 私が欲しかった幸せじゃない! 私が欲しかった幸せは、とーくんの幸せ! だから最初、二十七年前に告白した時、私はとーくんを諦めたし、二十年前、とーくんが私の事を好きだったって知って、一緒になれたら二人とも幸せだなって思えたの!」
『でも、長くは生きられないんだぞ!?』
「それでも良かった! 私はとーくんと一緒に居られたら、それだけで良かったのに......なんで......」
そんなの、君に幸せになって欲しかったからに決まってる......! 俺の欲しかった幸せは、君の幸せなんだ......
結局、俺たちは似ているが故に、すれ違っていたという事なのだろうか。互いの幸せを求めるあまり、互いに幸せになれない。矛盾した話だ。だけど、あり得る話。
『......今日君がここに来たのには、理由があるはずだ』
もう今から何かを喚いても遅い。全てはもう取り返しのつかない事。ならば、俺は俺を待つ運命を受け入れるのみ。
「私......嫌だ、殺せない......! とーくんを殺すなんて、出来ないよぉ......」
首を振って後退る彼女。俺は咄嗟に右手を出して、何とか彼女の手を掴み、必死に問う。
『君は自分で俺を殺す事を選んだはずだ! 君がたまたま俺を殺す役に選ばれたなんて、そんな偶然があるはず無い! 君は俺を殺す覚悟の上、ここにやって来たはずだ!』
「でも、でも......無理だよ! 私やっぱりとーくんが好き! 好きな人を殺すなんて出来る訳......」
『出来る! 例え君が出来なくても、俺は結局誰かに殺される! なら、君は俺を殺さなければならないはずだ!』
せめて誰かの手ではなく、自分の手で。そう思ったからこそ、彼女はここにいる。
「分かってる、分かってるけど......!」
『大丈夫、君なら殺せる......くっ......』
マズイ、このタイミングで頭が......! 駄目だ、自分の体を制御出来ない......!
「――くん!?――メ、近寄ら――や、嫌ぁ――!」
意識が朦朧として、自分が今何をしているのか分からない。視界はぼやけているし、声も良く聞こえない。そもそも、俺は何をしている? あぁ、考えるほど頭が痛い。もういいや。何も思い出せないけど、まぁなるようになれば......
「――嫌ァァァァ!!」
瞬間、身体中が焼けるような痛みと共に、俺の意識は覚醒する。
だが、今ので体のありとあらゆる所が死んだようだ。もう手足は動かないし、首だって動かない。目も焼かれてしまって、何も見えない。精々耳が音を拾ってくれているのと、脳が動いているのが奇跡だが、心臓は動いていないので、もう後数秒の命だろう。
「とーくん、とーくん! ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい......謝るから、何回でも謝るから! だからお願い、とーくんを死なせないで! お願いします、神様、女神様ぁ!」
残念ながら、今から俺はその女神様の所に行くんだな......いや、この場合逝く、か。まぁどっちでもいいけど。
しかし、彼女がしっかり俺を殺せて良かった。やはり電気を瞬間的に流す装置みたいなのがあの服に内蔵されてたのかな。予想的中だ。
しかし......なんだか頭が揺れてる感じがするなぁ......もしかして体を揺すってるのか? もう全身の感覚が無いから分かんねぇや......
「死なないで、死なないで......死なないで......死んじゃ嫌だよ、とーくん......!」
自分で殺した癖に......よく言うぜ......そろそろ......限界だけど......最後に、なんか......喋って......おきたいな......喉......持って......くれてたら......いいん......だけ......ど......
――せめて......一言......だけ......
「あ......り......が......と......」
「――とーくん!」
そして意識は完全に消え......俺は死亡した。




