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安全な世界 後日談

「――ワドォ!」



 新鮮な空気で肺が満たされる感覚。

 それはただの感覚であって、実際に肺が空気で満たされた訳ではないのだが、少なくとも、俺の体が精神体でしかないこの世界では、俺はそれだけで生を実感出来る。



 ......いや、死んだのだが。俺が目覚めた途端、真っ先に呼んだあの狂人......ワドに喉をナイフで抉られて。

 だが、ここでは生も死も曖昧だ。俺がここでは生きていると思っているなら、そういう事でいいのだろう。



 しかし......何かがおかしい。なんだろう、いつもある事が、今回は無いような......?



 そう、そうだ。まだ......



「――あの方の名を......口にしないで下さい......!」



「女神......様......?」



 ......とても、おかえりなさいなどと言ってくれるような雰囲気では無かった。

 女神様が今纏っているのは......そう、憤怒。いや、違う。憤怒を抑えている。今にも爆発しそうな憤怒を自らの精神力で押さえ付けているのだ。



 心なしか、女神様の光のローブが赤色に染まっているように見える。あれは女神様の感情に左右されるのか。今までそんな現象は無かったのだが......怒りのみに反応するのか?



 ともかく、このままではマズイと俺の直感が告げていた。それは間違った直感なのだろうが、でも少なくとも、俺は女神様がここまで本気で怒っているのを見るのは初めてだった。

 或いは今までに見た事があったのかもしれないが、幾ら凄まじい時間が流れたからといって、俺が女神様の今までになく激しい感情をみすみす忘れるとは思えない。



 つまりこれは......物凄くありえない事だという事だ。そして、ありえない事が起こった結果というのは大抵の場合は二択。



 ......則ち、幸福か不幸。希望か絶望。好転か悪化。ハッピーかバッド。

 良いか、悪いか。



 ましてやこの場合は怒りである。憤怒である。

 実際無いとは言い切れないが、大抵の場合は不幸、絶望、悪化、バッド......悪い方だと言うのは、言い切れる。



 俺がどうにかしないと、俺がどうにかなってしまうのではないかと危惧するのも、仕方のない事ではあった。



「お、落ち着けって女神様......俺、あの変人野郎に殺されちまったんだぜ? なんか、嫌な奴だよな。俺は大嫌いだ」



 とにかく、女神様のフォロー。ワドが嫌いなのは事実だし、嘘も偽りも無い。

 俺は本音を上手い具合に女神様の気分を持ち上げられるように使っているだけだ。



 それにしても、なんだかあいつ......《ヒューマン支援プログラムAI》と長く接していたせいで、女神様があいつと被って見える。

 『マスター』と呼んでくれないのが少し、寂しく感じてしまって......何だかんだ言って、結局俺はあいつを女神様と被せてしまっていたんだな......



 ......こんな事になるなら、名前くらい付けてやれば良かった......もっと、あいつにも優しく接してやれてあげられていたら......



 ――いや、もう戻らない事だ。いつまでも気にしていても仕方ない。そんな事より......さて、効果はどうか。



「そう......ですよね! 嫌な奴ですよね!」



 チョロかった。いや、かなり凄い剣幕だったからもっと説得に時間かかるかなーって思ってたんだけど、とんでもない。一瞬だった。



「だよ......な! あぁ、もう思い出しただけでイライラしてきたぜ! 女神様もそうだろ?」



 後は、情報探り。

 女神様相手にこんな事はしたくないのだが、今下手にこちらから質問すると、怒りが再点火する恐れがある。

 ここは上手いこと言葉で誘導して、自らある程度の情報を自白させた方がいいだろう。



 ――なんと! 君は、知らない! 知らされていない! 知る術すら無いというのかい! あぁ、哀れだねぇ!



 あの時の言葉が記憶にこびりついて離れないというのは、俺が女神様に探りを入れた原因とは何の関係も無いはずだ。

 仮にそうであったとしたら、俺が女神様を信頼していないようだから。

 女神様から何も知らされていなかったということに怒りを感じているようであったから。

 だから、俺は否定する他無い。否定したところで、なのだが。



「ほんっ......とうにそうですよね! あの方は元は上位神だったっていうのに、今ではあの堕落っぷり。どうしてあそこまで落ちぶれてしまったのでしょうか......? 世界には、それだけの力が......?」



 途中まではワドの愚痴をこぼしていた女神様だったが、途中からは何かを考える素振りを見せる。



 上位神......あの方、という発言といい、女神様より上の存在って事なのかな......なんか少しショッキングな事実が判明した気がするんだが、今はとにかくそれは後回しだ。

 女神様の言葉から察するに、ワドは元は女神様より上の、上位神という存在だった。

 だが、なんらかの要因があって、ワドは様々な世界に転生するようになる。

 あいつは自分で自分の力を《ワールドトリッパー》と呼んでいたし、俺と同等............いや、俺のは女神様からの貰い物である分、劣化されてる可能性もある。となると、オリジナルを持っているワドの方が格上なのか。

 とにかく、ワドは恐らく俺のより強い力を持っていて、女神様がかつて尊敬していた相手であり、そして今では女神様から敵対している......と。



 なら俺は、女神様の味方だ。つまり、ワドの敵。

 元々ワドは嫌な奴だったし、勝手に俺を殺しやがったし、まぁ言ってる事に同調出来ない部分が無かった訳では無いのだけれど、やはりそれでも、俺はあいつが嫌いだと断言出来るぐらいには嫌いだ。大嫌いだ。



 だから、俺が女神様に味方をしない理由は無い。無い、のだが......



 ――気になる。そんなに何かを考えるような素振りをして。俺の知らない何を知っているんだ。教えてくれ。



 どうやら俺はいつの間にか、女神様の特別であるのは自分だと思っていたようだ。自意識過剰も甚だしい。

 俺は女神様の事を何も知らないと、常日頃から思っていたでは無いか。それなのに、どうして特別になれようか。

 それとも何か? 女神様が接触出来るのは俺だけだから、それで特別だとでも? それこそ的外れも良いところだ。

 女神様はワドの存在を知っていた。ワドもまた、女神様の存在を知っていた。ならば、互いは必ず接触しているはずだ。

 そして、女神様と接触していたのがワドだけという可能性は、もう無いに等しい。それは安全な世界で聞いた、他の転生者の存在からも明らかだ。彼らが俺達の味方なのか、ワドの味方なのかは分からないが。

 どちらにしても、ワドや俺、女神様と同一の存在は複数存在している。これだけは確実だ。

 ならば、女神様が誰とも接触していないという線は、ほぼ無いと見て間違いないだろう。



 ......つまり、俺はもう特別じゃない。最初から特別などでは無かったというだけなのだが、少なくとも俺の幻想は消えた。だから......



「――教えてくれ。女神様は一体何をしようとしてるんだ? あいつが......ワドが知っていて俺が知らない事って何なんだ!?」



 だからせめて......俺を同じ場所に、立たせてくれ......っていうのはおかしな言い方かも知れないけど、せめて同じ事を知りたい。

 俺が女神様に助けられて、それで存在としての大きさの差があるっていうのはどうしても変えられないけど、それでも情報ならば、俺が覚えておくだけで彼女に近付ける。



 ――彼女の事を一番分かってあげられる存在は、自分でありたい。強欲で傲慢な願いだけれど、俺にはやっぱりその願いを捨てる事は出来なかったのだ。



「......それは、出来ません」



 女神様はゆっくりと俯き、目を伏せ、気まずそうにそう答える。



「どうして!?」



 強く聞き返した俺に、女神様は驚いたように顔を上げて目を丸くした。



 いつもなら黙って引き下がる俺なのだが、今回ばかりは事が事だ。

 女神様が俺に知らせる必要は無い......知らせたくないと思っているのだとしても、俺は知りたい。

 それを知って初めて、俺は女神様の隣に立てる。女神様のやりたい事の手伝いが出来る。



 しかし、そんな俺の思いに反して、女神様は再び、顔を背けた。



「あなたは......知らなくても、いい事だからです」



「でもワドは知っていた! 俺が知らなくてもいい事って何なんだよ! ワドと女神様は知っていて、俺が知らなくていい事って!」



 下手な質問をして怒りが再点火、だなんて心配、もう俺の頭の中には無かった。

 俺はただ、真実を知るために感情的になって女神様を問い詰める。



「......だって、じゃないと俺、女神様を信じ切れない......」



 信じてはいる。だが、その全てを信じ切る事は出来ない。俺に秘密を残したままの、今の状況では。



「トリプ......本当は......私も、言ってしまいたいんです......でも......でも......!」



 女神様は『でも』と二回続けて、自らの手を拳に握り締め、肩を震わせた。

 しかし、その口から、『でも』の続きが紡がれる事は無かった。



「......そっか。その上位神って奴に口止めされてんだな」



 すこし冷静になり、冷めた口調で俺は再び口を開く。



「トリプ!? どうして、それを......?」



「上位神って奴がワド一人ってのは考えにくいからな。女神様も、他の上位神の下で俺を使っているってわけだ。俺に真実を、隠したままで」



 何故だろう。

 俺の口調が、徐々に嫌味ったらしくなっていくのは。



「生きようとする魂の姿に一目惚れしたから生きてほしいって思った......女神様、そう言ってたんだぜ? ......俺、嬉しかったんだけどな」



 もっとも、その言葉を信じていたわけで無いが。

 俺は女神様から目を背け、皮肉のように口を歪ませる。



 あの頃は、何かの計画に利用されていたとしても動じない自信があるとか何とか言っていたと思うが......とんでもない。俺は動揺しまくりで、女神様に怒りすら......認めたくは無いが、どうやら感じてしまっているようだ。



 あぁ嫌だ。自己嫌悪。俺って本当に最低だよな......だけど、やっぱり俺は真実を知って、それで初めて女神様と同じ場所に立てると思うんだ。そう、だから、その為には......



「――俺、ワドに会ってくる。それで、あいつから全ての真実を聞く」



 顔を上げ、極めて真剣な面持ちで女神様を真っ直ぐに見つめる。



「ぜ、絶対駄目です! そもそも、どうやって会おうというんですか!?」



 女神様は慌てたように俺を止めようとするが、もう俺の覚悟は決まっていた。



 誰も俺に真実を教えてくれないならば、自分の力で掴み取る。そう、俺は決めた。



「あいつは......俺と自分は惹かれ合っていると言っていた。なら、会えるはずだ。俺はあいつが嫌いだけど、大嫌いだけど......嘘をつく奴には思えない。自分の気持ちに正直過ぎて、それを隠そうと必死な奴って感じか」



「例えあの方が正直者であったとしても、本当の事を話してくれるという保証はどこにあるんですか!?」



「元々、平和的に解決しようなんざ思ってないさ。言わないなら、吐かせるまでだ」



 実力行使で。



「でも、でも......」



「大丈夫。俺は全てを知ったら、また女神様の所に......女神様の隣に戻ってくるさ。それまで......待っててくれ」



 微笑み、そして、目を瞑る。

 彼女の返事は必要無かった。



「トリプ、待っ――!」



 再び、俺が自信を持って君の隣に立つ為に。

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