卑屈な救世主・2
ついにこの日が来てしまった。
「はあぁ……」
玄関先に佇んだ非常に見に覚えのある二人組を見つめて、舞子は大きく肩を落とした。
一人は銀色のグリップのステッキを持ち、少し奇抜な白いスーツを身に付けた青年――セイガ。もう一人は、オレンジ色のジャンパーを羽織った萌葱色の髪の少年――ジオだ。
二人ともちょっと暑そうだな――
そんなどうでもいいようなことを考えながら、すでに準備万端の自分にも落胆する。
夏休みが始まって初日。いつの間に調べたのか、セイガから家の電話に連絡があった。
『さっそく明日迎えに行くよ。最低三泊くらいはしてもらうから適当に準備よろしく』
用件だけ伝えられ、返事をする間もなくすぐに電話を切られてしまった。伊代には、セイガが訪れたその日にすでに了解を取っていたらしく、「行っといで」と軽くあしらわれてしまった。元々豪快な性格といえばそうなのだが、さすがに焦った舞子は、本当にいいのかと聞いてみるも「あんたが行くと決めたなら止めないよ」と笑顔で返された。
もしかして伊代も、セイガからあの突拍子もない話を聞かされたのではないかと思ったが、それを確認して伊代に危険が及ぶことを怖れた舞子は、それ以上問い質すことができなかった。
言い訳をする手間が省けただけでもよしとするべきだと考えたのだ。
そして舞子は、嫌々ながらも滅多に使うことのない赤い色のトランクに荷物を詰め込み、律儀に三泊する為の用意を整えたのだった。いつものようにおさげを結い、着脱が楽だという理由からよく着ている少しダボッとした地味なワンピースを纏い、不安にかられながら彼らの迎えを待ち、現状に至るのである。
「やあ、舞子ちゃん。準備はばっちりみたいだね」
赤いトランクを見て、セイガは満足気に言った。
「……はあ、まあ」
それに対し、舞子は落ち着かない様子で答える。ちらりとジオを盗み見ると、ばっちりと目が合ってしまった。思わず目を背けたのだが、どうやら相手も同じように視線を逸らしたようだ。
「……なんだい、君ら。付き合いたてのカップルが初めて喧嘩してしまいました、って感じの反応は」
『…………』
呆れたようなセイガの言葉に、舞子もジオも押し黙る。否定してやりたい気持ちはもちろんあったのだが、いつものことながら上手く言葉が出ない。正直なところ、ジオとは出会い方が出会い方だったせいで、かなり気まずい。不審者だと思い込んで全速力で逃げ出してしまったのだ。いや、今もまだ十分に彼らの存在は不審ではあるのだが。
ジオはどうなのか、恐る恐る視線を向けると、セイガのことを思いきり睨み付けていた。舞子の視線に気付いたのか、一瞬決まりの悪い表情で俯いたが、すぐに顔を上げ、萌葱色の瞳で真っ直ぐに見つめられる。
「舞子さま!!」
「は、はいい!?」
まさかの様付けで呼ばれた上、あまりの大きな声に舞子は裏返った声で返事をした。
「先日はすみませんでした! あなたを怖がらせるつもりはなかったんですが……」
「怖いというか、ドン引きしたんじゃないかな」
「……セイガは黙ってろ」
低く呟くジオにも怯まず、セイガは大層面白そうにクスクスと笑う。
「とにかくですね! こいつが何か脅迫まがいなことを言ったかもしれませんが、何がなんでもおれが阻止するんで、安心して下さい! ――ただ、おれ達の星には……来てもらいたいんですが……」
後半、声が弱々しくなる。
結果としては、どうしたって彼らの星に行かねばならならないのだから同じことである。だが、セイガよりは好感が持てるかもしれない。
「おや、あんた達、まだいたのかい」
舞子は肩をびくりと揺らした。振り向けば伊代がいた。
「もう行くところです。少し立ち話が過ぎましたが」
伊代は微笑みを絶やさないセイガと少しの間視線を交わすが、「この子のこと、よろしく頼むよ」と言って、舞子の頭にポンと手を置いた。誰よりも安心できるシワシワの手。
伊代が事情を知っていようがいまいが、もう関係ない。仮に知っていたとしても、こんなよくわからない事態に巻き込みたくはない。
「……おばあちゃん。――行ってきます」
「――ああ、行ってらっしゃい」
舞子が精一杯の笑顔で微笑むと、伊代も頼もしい笑顔で応えてくれた。
「暑い……」
トランクをカラカラと引きずりながら、舞子はぼそりと呟く。夏は大の苦手で、長期の休みは大抵家に引きこもるのが常だ。今は十一時を回っており、すでに日が高い。こんな真夏の真っ昼間に外に出る人達の気が知れない。
そして、目の前を歩く二人の格好はどうにかならないものか。
「……お二人は暑くないんですか」
「舞子ちゃんとは鍛え方が違うからね」
ステッキをクルクルと回しながら得意気に振り返るセイガ。どう鍛えたら汗一つかかなくなるというのか。
ジオもこちらを振り返り、「あっ」と声を上げた。
「気付かなくてすみません。荷物お持ちします!」
「いや、別に……」
いいです――と続ける前にトランクをパッと奪われる。
「舞子さま、遠慮は無用です! あと、おれに敬語も無用ですから」
「そういえば、ジオと舞子ちゃんは同い年だったか」
「じ、じゃあ、あなただって……」
セイガの言葉に思わずジオを凝視した。大体、様付けされてるのだって落ち着かないのだ。
「おれはいいんです」
何がいいと言うのか。眉間にシワを寄せると、彼は頭を掻きながら困ったように笑う。
「あの……そんなに嫌だというなら、そのままで構いませんけど」
何だか寂しそうに見えるのは気のせいだろうか。これではまるで自分が悪者のようである。
「嫌じゃ……ない、けど」
掠れた声でそう言うと、ジオの表情が途端に明るくなった。
「本当ですか!?」
「え、えっと……」
そんなに嬉しいことなのだろうか。舞子は果てしなく疑問に思うが、そこまで喜ばれると何とも断りづらい。
「い、いいですよ……じゃなくて、いいよ」
「ありがとうございます! すげー嬉しいです! あ、ちなみにジオって呼んでくれていいですからね」
キラキラの笑顔が眩しい。
同年代の男子は苦手だと思っていたのだが、彼は少し違うかもしれない。何だか友達ができたかのような気分だ。
「じ、じゃあ……ジオくん……で」
さすがに呼び捨てにする勇気はなかった。
「え、えへへ……それでいいです」
ジオが少し照れ臭そうに笑うので、舞子も恥ずかしくなってきてしまった。顔が赤いかもしれない。
「おいおい、僕のこと忘れてないか?」
「……いたのか、セイガ」
ジオが冷めた視線を向けると、呆れた表情だったセイガは、スッとその表情を消した。
――瞬間。彼のステッキが隣に佇むジオに向けて振り上げられる。
「っ!?」
舞子は驚いて思わず一歩後退るが、ジオは立ち位置を少し変えただけでステッキを軽くかわしてしまった。
セイガはニヤリと笑みを浮かべ、振り上げたステッキを折り畳んで革の腰バッグに突っ込み、すぐに間合いを取るように後ろに跳んだ。ステッキはまさかの四段折りである。
急に何を始めたのかとただ唖然と二人を見つめる舞子に、ジオは「少し下がってて下さい」と言って、セイガのほうに歩みを進めた。
まさか喧嘩を始めるつもりか――
舞子はジオが置いた自分の赤いトランクを再び手にし、二人と出来る限り距離を置く。
思い切り住宅街のど真ん中ではあるものの、幸いなことに人通りはない。元々、老人の割合が多い閑静な住宅街だからというのもある。
ジオは舞子が離れたことを確認したのか、すぐにセイガに向き直る。
彼らはお互い微動だにせず、二、三秒の沈黙の後、セミが大きな鳴き声で合唱し出した。
まるでそれが合図だったかのように、ジオが動く。
「はあ!」
勢いよく走り出し、拳を繰り出す。
「甘いな!」
セイガは前屈みになってそれをかわすと、そのまま足払いに掛かる。後ろへ飛び退いたジオは一旦間合いを置き、再び殴り掛かるように走り出す。セイガはすぐに構えの体勢を整え、向かってきた拳を片腕で受け止め払いのけ、また蹴りを繰り出す。そしてその攻撃をジオが避け――と、二人の動きがどんどん加速していき、舞子は目で追うことができなくなってきた。
ヒヤヒヤしながら事の成り行きを見守っていると、瞬間二人が消える。いや、頭上に飛び上がっていたのだ。
二人は拳を振り上げ、ぶつかり合い交差した。
地面に着地すると、お互い背を向けたまま静止し――
「ああ、いい運動だった」
セイガは立ち上がり、髪を掻き上げ爽やかな微笑みを舞子に向けた。
「は……」
舞子は訳がわからず、反応に困る。
「……舞子さまが驚いてるだろ。場をわきまえろ」
すぐにジオも立ち上がり、不機嫌そうに呟いた。
「ごめんね、舞子ちゃん。一日一回はこいつとこんな感じで手合わせしてるんだ」
て、手合わせ――
ジオはともかく、セイガはそんな体育会系には見えなかったので面食らう。
「それに、ジオに無性に腹が立ってさ。舞子ちゃん、騙されないほうがいい。こいつ、君の前では従順にしてるけど、素行悪いから。偉そうに手下従えて喧嘩も絶えな……」
「おい」
いつの間に移動したのか、セイガの胸ぐらを掴み上げるジオ。
「お前こそ好青年振って、女取っ替え引っ替えしやがって……! おれが尻拭いしてやってるの忘れんなよ……!」
歯軋りしつつ、ジオは恨めしそうに睨み付ける。
どうやら二人とも二重人格らしい。聞く限りでは、ジオのほうがマシな気はするのだが。苦労してそうでもあるので。
ふと、道の曲がり角から小柄なお婆さんが現れた。まさか人が来ると思わなかったので、内心どきりとする。買い物か散歩か、のんびりと歩いて来てこちらを見ると、ニコリと笑い軽く会釈をして通り過ぎて行く。
さっきの二人の喧嘩だか、手合わせだかを見られなくてよかったと胸を撫で下ろす舞子。
「……あ、あの、とにかく……先を急ぎましょう」
これ以上、こんなところで目立つ行動は控えたい。
「おや、嬉しいな。舞子ちゃんがそんな積極的になってくれるなんて」
「お前のせいで居たたまれないだけだろ!」
「ジオこそ、僕の挑発に乗ったんだから共犯だろう?」
「黙れ」
二人の応酬を眺め、舞子は肩をがくりと落とす。
「私……何してるんだろ」
真っ青な空を見上げる。大きな入道雲は、舞子の置かれた状況などどうでもいいというように、堂々と空に浮かんでいた。