アンチ・ワールド
あの日は何となく、むしょうに外に出たい気分だった。青すぎて恐ろしくなるほどに晴れ上がった秋の一日。今から考えると、“あの一日はわざと”あんなだったのかも知れない。僕はふらりと家を出た。
本当に、こんな晴れ上がった空は生れて以来みたことがなかった気がする。あまりにも澄み切っていて少し気持ちが悪いほど。実際、僕が天気につられて散歩まがいの外出をすることすらおかしいのだ。それにしてもなんだろう、いくらこの辺りが都心から離れているとはいえ、少し静かすぎはしないか?もう少し雑踏にまみれて、雑音が飛び交っていてもいいような気がする、まぁそんなことはどうでもいいことなのだけれど、僕の足はいつの間にか随分前に閉鎖され、廃墟と化して残されたままになっている遊園地へ向かっていた。むかし僕たち仲間が格好の遊び場としていたところである。
こんなところへきたのも何年ぶりだろう。僕にとってはここ数年間、近くて遠い場所だった。なんだかタイムワープしたような気分である。ゴーカートの裏側のフェンスは僕たちが閉じられては穴を開け、園内に入っていた入り口である。むかしのように、そっとフェンスの方へ近寄ってみた。子ども一人がやっと通れるような穴には、誰か大人が掛けたのだろう、赤錆びた針金が蜘蛛の巣のように覆っている。僕はフェンスに手と片足を掛けた。むかしは登れなかったフェンスも、今は楽に登れる。いくらそれが古いとはいえ、まさか腐り落ちて倒れることはないだろう。
両足が、薄く雑草の蔓延った地面についた。ゴーカートの車線まで僅か一・五メートルほどのところだ。僕はゆっくりと一歩一歩、地を踏みしめるように歩いた。向こうにはくたびれた様子のメリーゴーラウンドが見える。薄汚いシートを何年も着せられたままの飛行機も、数年前のままにある。たしか遊園地のほぼ中央に、噴水の出る大きな池があった筈だ。曖昧な記憶に任せてそこへ向かった。
いまは勿論、噴水など出はしない。浅く澱んだ緑の水面からただにょきにょきと、無愛想な噴水管が首を突き出しているだけである。僕は池と空を交互に凝視めた。太陽光線が澱んだ緑の面を辷り、金の光を拡散させる。それが一番強く起こったとき、風が吹いた!全てを掻っ攫ってしまうかのような強い風が!砂埃がもうもうと舞い上がった。僕は思わず目を伏せた。そして再び目を開けたとき愕然として、ただ極度の言語障害に陥ったのである。
空虚な調べに乗せられて、メリーゴーラウンドの木馬は浮き沈みを繰り返している。遠くで右往左往する楽隊の単調なマーチが耳に響く。可愛らしいBGMには何の遠慮もせずに、ごろごろと豪快な音を立てて廻り続けているのはコーヒーカップだ。僕は辺りの様子に馴染めるようになるまで暫くの間、呆然と立ち尽くしていた。・・・ここは何処?
眼前の池の水は透き通っていて、その底では赤や青のぼんやりとしたライトの光がゆらゆらと揺れている。
マリオ・・・マリ・・・オ・・・ガーガー。
何?耳慣れない機械音に、即座に振り向いた。いつの間にそばに来たのか、身長一メートル程の銀色のロボットが、半球になっている頭の目のあたりをぴかぴかとオレンジ色に点滅させながら僕の様子を伺っている。
・・・マリオ、マリオ・・・ガーガー、ヨウコソ、ヨウコソ・・・ガッ・・・ザーザー。
僕は聞き取りにくいロボットの音声に耳を欹てた。
・・・僕タチハ・・・待ッテイタ・・・マリオガヤッテクルノヲ・・・。マリオ、ヨウコソ・・・僕ハ、MY−45・・・僕ノアトニ、ツイテキナサイ・・・ザッ・・・。
MY−45はそう云うやいなや地面の上を辷るような、不思議な歩き方で動き始めた。僕は急いで彼のあとについた。そしてふと思い出したように彼に尋ねた。
「おい、君はどうして僕の名前を知っているんだ?」
MY−45は立ち止まった。そして半球の頭だけをくるりと僕の方へ回し、相変わらずオレンジ色をぴかぴかさせながら呟いた。
・・・ソレハ、、マリオガ・・・ニンゲン、選バレタ、ニンゲンダカラ・・・。
「どういうことだ?どうして僕が、選ばれた人間なんだ?」
彼は何も云わずに向き直り、再び地面を辷り始めた。仕方なしに僕も黙って彼のあとに従った。
・・・マリオ、ドウゾ。ココヘオ入リ下サイ、MY−45の発する音声がさっきより幾分、丁寧ではっきりしたものになった。彼が立ち止まった所はむかし、様々な催しが行なわれていたメインホールの入り口だった。辺りは妙に静まりかえっていた。僕は少したじろいだ。
・・・サァ、ドウゾ。マリオ!
思い切って重い扉を押し開けた。
真っ暗である。ホールの中へ入って扉を閉めた瞬間、僕の視界は闇に閉ざされた。
「MY−45?」
一緒に中へ入ったはずである彼に、急いで呼びかけてみたが、返事はなかった。突然、静けさを裂いて音楽が鳴り響き始めた。それと同時に、ライトがいっせいにホール中を照らし出した。あまりの眩しさに眩んで僕は二、三歩後ずさりした。そのとき何か冷たい物が僕の足に触れて倒れた。振り返ってみてみると、それはMY−45だった。
「おい、君!大丈夫かい?」
僕は急いでMY−45を元どおりに起こした。彼の頭のオレンジ色は薄くなっていた。
・・・マリオ、皆ナマリオヲ待ッテイル。真ッ直グ進ンデクダサイ・・・。
それきり、彼は何も云わずオレンジ色も消えてしまった。僕は彼に言われた通り、ホールの順路らしき道を歩き始めた。
それにしてもここは一体、どうなっているのだろう。細い順路の両脇には様々な人形が無造作に置いてある。展示のつもりなのかはよくわからないが、映画に出てくる様な人間型の銀色ロボットがあれば、市松人形が何体か並べられていたりする。フランス人形やアンティックドール、倒れたマネキン人形まである。それに鳴り響いている音楽も多種多様で、何とも云えない不快な不協和音を奏でている。わけのわからないホールに少し苛苛しながら足早に歩き進み続けた。周りの様子もどんどん変わっていく。ふとおかしなことに気付いた。真っ直ぐ一本道の順路を来たはずなのに、軽くホールの外観の三倍は歩いている。すると、妙な具合に曲がり角が現れた。どうやら順路らしいのでそれに従い進んだ。曲がり角を曲がると、そこはちょうどトンネルの様になっていて薄暗く、天井も低くなっていた。ここはタイム・トンネル?頭にふとそんな言葉が浮かんだ。・・・けれどそんなわけがない、即座に自分の頭に浮かんだばかりの言葉を否定した。ただ何となく、ここが二つの異質な世界と世界とを結びつける、不思議な空間であることを確信とも云える気持ちで感じていたのは事実である。
薄暗いトンネルをどれほど歩いただろうか。再び明るい場所へ出た。そして再び、僕は驚いたのである。そこは順路という区切られた空間は無く、一面がひとつの世界になっていた。そして菊の束帯や十二単を纏ったきらびやかな人形たちが、素晴らしい御殿のあちらこちらに佇んでいた!
「ようこそ、マリオ。お待ちしていましたよ」
呆気にとられている僕に、一番手前に居た十二単の人形が云った。僕は思い出したように慌てて尋ねた。
「どうして僕のことを待っていたんだ?一体、なにが目的なんだ?」
十二単の人形は冷静に答えた。
「それはあなたが、選ばれた人間だからです。その理由はいずれ、あなた自身が答えを出せるようになるはずです・・・」
彼女は続けた。
「私たちはマリオにお願いがあります。頼まれてくださるなら、マリオを元の世界へお返しします」
僕はハッとした。そうだ、僕には帰るべき元の世界があったのだ。いつの間にか自分がこの世界の一員であるかのように感じていた。そして訊ねた。
「お願いとは何ですか?」
「簡単なことです。私たちの話を聞いてくださるだけで良いのです。」
「聞いてどうするのですか?」
「どうもしません。聞いたあとにどうするかは、マリオが決めることです。・・・聞いてくださいますか?」
僕はよく判らなかったけれど、人形たちの眼は真剣だった。そして無意識のままにゆっくりと、頷いていた。
「あの夥しい人形たち・・・。マリオ、あなたは見てきたでしょう?可哀想な人形たちを・・・」
奥に居た十二単の人形が話だした。僕はここへ来るまでに順路の両脇に見てきた人形たちを思い出した。
「あれは文明社会によって疎外され、行き場を失った人形たち・・・。そう、みんな人間社会からやってきた」
菊の束帯を纏った男の人形も続けた。
「あの人形たちはどうして人間社会から疎外されてしまったのだろう?私たちは考えた。大量で過度の“もの”が氾濫する文明社会・・・、古く、要らなくなったり、流行や人気がなくなった彼らが捨てられてしまったのだろうか?それも理由の一つかも知れない。けれど、大本ではない。では大本の原因とは何か、それは人間自身の心、ではないのか?」
「心・・・・・・?」
僕は呟いた。束帯の男は続けた。
「時代とともに文明が進んでいくにつれ、人間たちは大事なものを忘れていくようになった。素直な心や、人間本来のやさしさ・・・、ある意味では人形たちの源、である。人間たちはそれらを失い始めるにつれ、人形たちも不必要になり始めた。人形たちの疎外は、ここに始まるのではないだろうか?」
濃い束帯を纏った男も続けた。
「心を失い始めた人間は、競争の渦に巻き込まれてゆく。競争を好まなくても、競争が無いと信じる場所を求めて競争しなければならない。そしてそこへ辿り着いても、また新しい競争を発見し、再び安息の地を求めて競争を始めねばならない。人間たちは空虚な堂々巡りを繰り返しているに過ぎない!」
いちばん大人しそうにみえた十二単の女も重い口を開いた。
「これが文明社会の、“もの”や“頭脳的にだけ”発達が進んだ文明社会の生み出した結果なのでしょうか。人形たちは人間に夢や希望を与え続けてきたはずだった。心の安息の場であるはずだった。けれど人間は、夢をみなくなった。儚くて現実的な夢しか。そんな人間たちには人形なんて役不足になった。このままの状態が続いていくのは恐ろしいことです。爪弾きされた人形たちは帰りたがっています、人間たちが忘れかけた大事なものを取り戻して、人間そのものが発達した、文明社会に!」
いちばん最初に話した十二単の女が云った。
「ありがとう、マリオ。私たちの聞いてほしかった話はこれだけです。お礼に渡せるものといったら、これしかありませんが・・・」
彼女は御殿のそばに置いてあった小さな菊の鉢を持ってくると、僕に手渡した。
「・・・ありがとう・・・」
僕はヘンな機械音声みたいな声で、無意識の返事をした。菊を纏った人形たちの話した言葉を何度も何度も頭に巡らせて、その意味を考えていたのだ。
さやさやと、微かな風が束帯や十二単の菊を靡かせはじめた。僕はあの、池の前で味わった強い風を思い出した。それと同時に、その風は吹いた。ただ、前と違っているのは舞い上がったのは砂埃ではなく菊の花で、僕の小脇にはしっかりと菊の小鉢が抱えられていたことだった。
気がついて目を覚ますと、僕は自分のベッドで寝ていた。ふと窓辺の棚に目をやると、“あの”菊の小鉢が綺麗な花を咲かせて置いてあった。僕は家を出た日から一週間行方不明で、もしやと思って捜査された、廃園になった遊園地の中の池の前で倒れているのを発見され、保護されたのだという。菊の小鉢と一緒に・・・。ただ僕が衰弱どころかすり傷ひとつせずに無事にいたのは随分不思議がられたのだった。
あれから三年。小鉢の菊は今年も他に類をみない美しい花を咲かせている。僕はいまだにあの日の答えを出せていない。なぜ僕が選ばれた人間で、あんな経験をしなければならなかったのか。この三年間で全く思い当たるふしがなかったわけではない。けれど決定的なものではないのだ。十二単の彼女は確かに云ったのだ。理由は僕自身がいずれ、答えを出せるようになる、と。そしてあの人形たちが僕に訴えたかった本当の意味を知り、解決するために努力する義務が、僕にはあるのだ、と。僕はあの経験を二度と忘れはしないだろう。