わたしのお母さん
夏の暑い日。わたしは、楽しい夏休みだというのにプールにも海にも行かず、かといって友達と一緒に遊ぶわけでもなく、嫌いな算数と向き合う気分にもなれず、部屋で静かに本を読んでいた。蝉の声が煩わしく、それが一層暑さを強調するようで、外には出たくなかったのだ。
本にわからない言葉が出てくるたびに、辞書を引いて調べた。母がわたしと同じ年の頃にはそうして学んできたことを、昔からよく聞いていたからだ。わたしは、母が大好きだった。
「陽炎……春や夏の天気のよい穏やかな日に、地面から炎のような揺らめきが立ちのぼる現象。強い日射で地面が熱せられて不規則な上昇気流を生じ、密度の異なる空気が入りまじるため、通過する光が不規則に屈折して起こる?」
わからない。
そのとき、わたしの部屋の扉を、遠慮がちにノックする音が聞こえた。それだけで誰が来たのかわかる。
「……どうぞ、ゆきえさん」
きい、とおもむろに開かれた扉。その向こうには、母よりも小柄で可愛らしい女性が立っていた。父の再婚相手だ。一応、母の友人でもあるらしい。
わたしがいま、母と呼ぶべき存在。
けれど、そんなに簡単に受け入れられるほど、わたしはまだ大人じゃない。自分で言うのもナンセンスだが、ただの小学生の子供。ちゃんとそれを理解している父とゆきえさんは、無理に強いることはしなかった。しかし、わたしが壁をつくり続けているから、ゆきえさんはわたしに踏み込むこともできず、困惑顔ばかりを見せていた。それは一層、わたしを腹立たせた。
「ゆうちゃん、お、おやつ食べる?」
ああ、胸がむかむかする。
「はい」
わたしは、ぶっきらぼうに答えた。
「じゃあ、ここに置いておくね――」
「そういえば」
遮るようにわたしが言葉を発すると、ゆきえさんの肩がびくりと震えた。
「な、なに?」
とっさの思いつきだったが、からかい半分に彼女に聞いてみることにした。
「陽炎って、どういうものですか」
無理に笑っていた顔は、予想もしなかっただろう問いに、きょとんとした。
母であれば「そんなの自分で調べなさい」と一蹴していたと思う。それに対してわたしは「だってわからないんだもん」とふてくされて見せるのだ。
そんな何気ないやりとりが楽しくて仕方なかった。
「かげろう? 虫の?」
まさかの返しに一瞬固まったが、何事も無かったかのように装う。
「違います。太陽の陽に炎って書くやつ」
「ああ、陽炎ね」
にこやかにそう言うと、ゆきえさんは一瞬考えて答えた。
「今日みたいな天気のいい日に、景色が揺れて見えるのが陽炎だよ。……でも、なんで急に陽炎のことなんて」
ゆきえさんは一瞬怪訝な顔をしたが、すぐにいつもの笑顔でわたしを見つめた。本心を押し殺したような、そんな笑み。わたしはゆきえさんのそんな表情が嫌いで、眉を寄せた。
「読書をしていたんです」
わたしの答えを聞いて納得したようだったが、机の上に開きっぱなしにしてある辞書を見ると、また不思議そうな顔をした。
「自分で調べたんでしょう?」
「それでも、よくわからなかったので」
なぜだか責められているような気がして、冷たく返してしまった。
「そ、そうよね、だから私に聞いたのよね」
あはは、と明らかに苦笑いとわかるように笑ったかと思うと、急に真面目な顔をして呟いた。
「やっぱり郁奈の子なのね」
そう、聞こえた気がする。はっきりとは聞こえなかった。
すると、なにかが吹っ切れたように清々しい笑みを浮かべて、ゆきえさんは突拍子もなく、わたしにこう訊ねた。
「お母さんに、会いたい?」
いままでお母さんの話題は出さないようにしていたのに、と口をついて出そうになったが、はっとして言葉を飲み込んだ。
「会いたいでしょう、素直に言っていいのよ」
言葉が急にコンクリートで固められたみたいに咽喉につかえる。以前母の話をしたときの、ゆきえさんの顔が忘れられない。一瞬で殺気立ち、かと思ったら死人の顔のように青くなったのだ。不気味だった。それもまた、わたしがゆきえさんと打ち解けられない要因だった。
気まずい沈黙がよどむ。
その空間に耐えきれなくなったわたしは、静かに唇を開いた。
「会いたい、です」
*
目の前の光景に、わたしは立ち尽くした。虚ろな目をして、不気味に笑う母。
――わたしが会いたいと言うと、ゆきえさんは父を呼んで、急に外出する準備をはじめた。
「なにも今日じゃなくても」
わたしがそう言っても、ゆきえさんは「今日じゃなきゃだめ」と意思を変える様子はなかった。そうして、わたしは母の実家に連れてこられた。いま、父とゆきえさんは家の前に車を止めて、その中で待っている。母は精神を病んでいて、あまり刺激しない方がいいだろうという判断だった。先日退院したばかりだったようだが、そんな状況で果たしてわたしが会ってよかったのだろうか。
……否、会ってはいけなかったのだ。
「どうしたの、ゆう、こっちにおいで」
その声は優しい。
「お母さん、その格好――」
ただの布きれと言っても過言ではないくらいに、びりびりに引き裂かれた服。悪臭を放つ身体。
「どうしたの、ゆう、こっちにおいで」
母はわたしの声など聞こえないように、先程と同じ言葉を繰り返した。
耳が聞こえていないわけではない。目が見えていないわけではない。身体的には、不潔ではあったが健康体の母。だが、わたしの姿を、母は認識しなかった。
わたしは、ここにいるのに。
そんな母にわたしは孤独を覚え、一歩下がり部屋の外に出て扉を閉めた。
しかし次の瞬間、バンと物凄い音と振動が空間を伝わり、わたしの心臓を震わせた。
「ゆう、ゆう、ゆう、ゆうユウユウ――」
突如豹変した母は扉を隔ててすぐそこで、わたしの名前を執拗に繰り返しはじめた。狂ったように。
ドン、バンと叩かれる扉の音に恐怖し、わたしは背を向け、そこから一目散に逃げようとした。
わたしが離れた瞬間に扉は開かれ、その中から必死の形相をした母が飛び出してきた。つり上がった眉に、充血した目、荒い息。わたしの心臓は、いまにも胸を突き破ってくるのではないかと思うほどに、激しく脈打っていた。部屋越しに聞こえたくぐもっていた声は、いまは明瞭に聞こえる。
「わたしのゆうはどこ! ゆう、ゆうユウ――」
髪を振り乱しながら、こちらに迫ってくる。ひい、とまるで金属の軋むような、高い声がわたしの喉から漏れた。
必死に、外にいる両親のもとに走る。
「お父さん、お母さん!」
違和感なく、わたしはそう叫んだ。わたしの異変に気付いた二人は、車から降りてきた。
「どうしたんだ、いったい」
父は言いながら、わたしの背後を見て悟ったようで、震えるわたしの身体をゆきえさんにあずけた。それからわたしとゆきえさんの前で、庇うように立ってくれた。
「なんだ郁奈、なにか――」
「わたしの子供を、返して。わたしのゆうを返して!」
さすがの父も母の剣幕に吃驚したのか、二の句が継げない。
ゆきえさんはわたしの身体を守るように抱きしめてくれていて、ほっと息を吐いてわたしは安心した。母に包まれている、そんな感じがした。
異変に気づいた祖父が、裏庭から姿を現した。
「郁奈――?」
父がようやく口を開いた。
「――病院に連れて行こう」
父は携帯電話を取り出してどこかに電話しようとしたが、母につかみ掛かられた。その勢いで、携帯電話はカツンと硬い音を鳴らして地面に落ちた。
父はやむを得ず暴れる母を押さえつけ「親父さん、病院に連絡してください」と、おどおどしている祖父に頼んだ。ああわかった、と言って祖父は家の中に消えていった。
「ゆうちゃんは私といようね。大丈夫だから」
ゆきえさんは微笑み、わたしを強く抱きしめる。
「わたしのゆうを返せええ」
母の叫び声はまだつづいている。
急に、わたしは抵抗なくゆきえさんを「お母さん」と呼んだことを思い出した。父から逃れようとしている異形な母から、わたしは目をそらした。
そのときわたしの頭をよぎった。
――コレハ、ワタシのおカあサンじゃナイ。
お母さんは、わたしを守ってくれるの。それがお母さんなの。
わたしを狂ったように追いかけてくるアレは、お母さんなんかじゃない。お母さんなものか。アレはただのバケモノだ。
わたしはお母さんの胸にすがりついた。
「お母さん、お母さん、おかあさん、おカあサン……」
何度も、何度も呼びつづけた。
――景色が揺らめく。視界のすみに映るお母さんの顔が微かに歪んで見えたが、きっと気のせいだ。いつものような柔らかい笑顔で、わたしを見てくれている。裏表なんかない微笑みを。
陽炎のせいに違いない。今日はよく晴れて風もないから。そうに違いない。
ワたシノ、おカあサンだモノ。