後日談1~真実とは目に見えにくいもの~
蛇足的お話です。
王宮の機能停止から一ヶ月。
離婚の手続きが飛ぶようにスムーズに進んでいるのに対して、側妃の王妃教育が進まない現実に国王は頭を悩ませていた。最近は一息つくのに王宮にあるエリザベートの執務室を訪れることも多く、今日も紅茶を飲みながらいつものように軽い相談をしていた時だった。
「わたくし、陛下に感謝していることがあるのです」
ソーサーにカップを置きながらエリザベートは向かいのソファに座る国王に笑いかける。エリザベートが喜ぶようなことをした覚えのない国王は、動揺も顕わに元王妃を見返した。
「なにを……」
「一つはエリックを授けてくださったことです」
息子を思いだして穏やかな眼差しで笑うエリザベートと、一ヶ月前に見た子供を道具として扱うなと怒る彼女の差に国王は女性の強さを感じとる。そして思わず身構えていた彼は言われた言葉を理解するのに数秒を要した。
「私が王妃になると決めたとき、子供は必要ないと思っておりました。王妃として陛下と王宮を支えるのに子は邪魔だとすら思っていたのです。子供がいてもわたくしにはメリットはないとも断じておりました。ですが……」
たおやかな手が白い茶器をテーブルに置くと、年齢を重ねた聡明な目がなにかを思い出すように窓の外の青空を写す。
「お腹に子供がいると判ったとき。初めて胎動を感じたとき。そして産みの苦しみの後、不安そうに大声で泣くエリックを抱いたとき……その度にわたくしはこの子のために強くあらねばと思いました。自分でも想像できなかった意識の変化です。それと同時にこの子を守るためならばなんでも……極端なことを言えばこの手で人を殺めることすらできるだろうとも思いました」
赤銅の髪をシンプルに結い上げた元王妃は慈愛の笑みを浮かべつつ物騒な言葉をサラリと口にした。それを聞いた国王がお茶を飲むのを思わず躊躇ったとしても自業自得である。
「そして一人では見えていなかったことも見えてきました」
「親になってみないと判らないということか。騎士団の奥方の会もそこからか?」
国王は愚王ではない。経験のない若さで国王に就いてしまったが故の間違いや思い込みはあったが、示しさえすれば理解する度量はあるのだ。王宮の機能停止後、エリザベートがしていた仕事のほとんどに目を通した国王は、王妃の仕事と部下たちに任せられる仕事を分け、更に仕事を任せた人材が突然いなくなったとしても機能するようにそれらの仕事の『把握』を王妃の公務としたのである。
「はい。どれだけ政がうまくいこうとも子供の育ちにくい国は発展しないでしょう。ましてや国を守る騎士が自分の家族が気になって実力を発揮できないなどあってはならないと思いました」
腕の立つ騎士を地方から集めるのは、なにも王都ばかりを守るためではない。いざというときは騎士の家族を守るためでもあり、彼らが安心して地方へと赴くことが出来るようにするためだ。
「あと子供は一人として同じ性格を持つ者はいない……ということも。それは王子も孤児も一緒なのだと」
人ならば当たり前のそれが子供となると忘れる者も多い。
「確か……孤児院のネットワークを作ったんだったな」
紅茶のおかわりを受け取った国王がエリザベートの仕事を思い出しながら肯く。
「我が国の孤児院は他国よりも国からの援助が手厚く、わたくしのしたことなどほんの少し手助けをしたにすぎません」
エリザベートがしたのは孤児院同士の横の繋がりを持たせたことだ。この広い王都で人数の偏りがあった孤児院に、均等に子供が入るように、そして場所による差もなく予算が回るように手配した事実は記憶に新しい。それと同時に孤児院に馴染めない子供を引き取って彼らの性格に合わせた教育を施した。
ごく一部なのだが貧困層の子供や孤児が犯罪に走る最初の原因は、弱い仲間を守るために犯されることが多い。責任感が強く力のある子供ほど大人を信用せず、弱い仲間たちを助けるために罪を犯すのだ。そして闇から逃れられなくなる。
その前に彼らの力に方向性と知識を与えてやると、彼らは面白いようにそれらを吸収し見違えるような成長を遂げた。
今、エリザベートに紅茶を淹れている専属メイドもそういった経緯で育った一人である。キャップと詰め襟のドレスに白いエプロンを身につけた完璧な女性に見える黒髪の『彼』は、エリザベートの復帰後、謁見室で背後に控えていた影だ。影とは隠密に特化した配下の総称である。
「もともと孤児院の慰問や寄付は貴族の女性たちのたしなみでしたが、それ故に国政の手出しも不十分でした。これも王妃の仕事の一つでしょう」
「慰問すればそれで終わりと言っていられないのは王族だからか。王妃もそこを理解してくれればいいのだが」
国王の思わずといった様子で洩れた王妃への愚痴を聞こえなかったことにしたエリザベートは続きを話す。
「感謝しているうちのもう一つは、わたくしと結婚して下さったことです」
「は?」
思いがけないことを言われてばかりだと驚く国王に、少しイタズラ気味に笑うエリザベートは執務机へと移動した。
「ご存じなかったのですか? 王太子でいらした陛下の妃候補にわたくしの名は無かったのですよ。クラインフィルド公爵家から出されていた候補はわたくしの姉だったのです」
机に置かれていた薄紅色の手紙は隣国に嫁いだ姉からだ。
「美人で優しくて利発で……姉こそこの国の王妃に相応しい人物でした。姉でしたら側妃様の件ももっと穏やかに解決できたかもしれません」
「クラインフィルドの双子の姉弟だな? 妃候補に挙がっていたというのは初耳だ」
エリザベートには双子の兄と姉がいる。兄はクラインフィルド家を継ぐ身であり滅多に領地から出てくることはないが、その双子の姉は早くから社交界へと顔を出していた。どうやらそれは貴族のたしなみというよりは妃候補故だったようだ。
「陛下への代替わりの折り、隣国各国との国交が一部悪化し関係強化が急務になりましたでしょう。その手っ取り早い方法として三公爵家の未婚者が嫁すことになったのです。当時はわたくしを……という話だったのですが、公爵家は王家を支えるためにあり、王家は国を支えるためにある。だから貴女は陛下をお助けするように……姉はそう言って嫁いでいきました」
多少なりとも打算を持った婚姻は生半可な者には勤まらないからこそ、国内の貴族が他国へと嫁すときは国と王家の了承が必要だった。
「当時のわたくしは使い物にならないほど憔悴しておりましたから、国外に出して失敗されるくらいなら国内に置いておいた方がいいと判断したのでしょう……」
そこまで語ってからエリザベートは不自然な沈黙を挟む。国王も語られた内容に違和感を憶えて元王妃を見ると、珍しく狼狽する姿があった。
「貴女がそこまで憔悴するようなことがあったのか?」
国王の追求にいつもは凛として向けられる視線がそれと判るほど彷徨い、開いたり閉じたりする唇からは明瞭な答えも出ず。しばらくそうしてから、やがて諦めたようなため息と共にエリザベートは胸の内をポツリと零した。
「……国王陛下が……亡くなられたので」
「それは」
確かに驚くような事態だったろうが、この常に冷静な女性が使い物にならないくらい憔悴する理由になるのだろうか?との疑問が浮かぶ。そして国王がそれを問う前にエリザベートは書類を揃えながら懐かしむように目を細めた。
「わたくしは余り物でしたので、たとえ病床の前陛下がわたくしを陛下の妃にと望んでも準備が整っていたわけではありません。陛下がそれなりに地位のある他の女性を望まれれば簡単に覆ってしまう程度の下地しかなかったのです。ですから陛下が認めておらずともわたくしと婚姻を結んでくださったことに感謝いたしました。これで――」
常に薄い微笑みを浮かべているエリザベートがまるで少女のようにはにかむのを国王は見た。
「あの方の最後の願いを叶えることができる……と」
国王は気が付けばエリザベートの執務室を出て中庭へと向かっていた。どれだけ呆然としていたのだろうか、しばらく足を止めて日差しが照らす緑を眺める。
「陛下」
齢を重ねた声が背後からかけられ、振り向いた国王に騎士団長が近づく。少し暖かいからか騎士服の上着を脱いで白いワイシャツに黒のズボンを身に付け、腰には使い込まれた長剣を差した男は在りし日の父を思い出させた。
「ギルバート叔父上。叔父上は知っていたのですか? エリザベートは父上を……」
役職名ではなく名を呼んだ国王に、彼は驚きの表情を浮かべる。それからなにかを悟ったように腕を軽く叩いてきた。
「ああ。だからこそエリーは王妃の座に就いた。契約を知っていたのは俺と当時の宰相と三公爵当主のみ。王妃教育を拒むお前たちを諫めなかったのはエリーが望んだからだ。異例の若さと早さで王座に就いたお前に、これ以上心的負担を掛けたくないと言っていた。もうしばらくして国内外が落ち着いてからでもいいと。今にして思えば即位して余裕のなかったお前を潰さないようにするためだったんだろうな」
全ては前国王の望みの為に。
「五年、子供が出来なければ廃妃される。そのタイミングで王妃の仕事を引き継がせる予定が、初夜は見届け人がいるから仕方がないとしても……エリーに堪え性がないと言われて当然だろうが。子供が出来たせいで降嫁することも出来なくなったんだからな。当時の宰相が頭を抱えていたぞ」
愛している女性がいるんじゃなかったのかという視線は目を逸らしてかわすが、当時を思い出していくつか思い当たる。
王妃エリザベートの懐妊が判った頃から当時の宰相が側妃に対して口うるさくなったことがあった。国王の妻としての心構えだとか教育だとか言っていたが、あれはそういう裏があったのだ。
「それにしても仮の王妃だと私に言えば良かったものを。そうすれば子を生すこともなく、王妃教育だとて受け入れた」
「そんなことを言えばお前は有無を言わさずエリーを廃しただろう。王の役割のなんたるかすら全てを理解していなかったお前が、王妃の役割を理解していたか? それを、憎んですらいたエリーから素直に聞くことが出来たか? 側妃は耳を貸したか?」
答えは否、だ。三公爵家から無理矢理押しつけられた婚姻だと思っていた当時、たとえこの婚姻が父の遺言だろうと認めたくなかった王太子はあらゆる手を使ってこれを覆そうとした。たとえ一時的な仮の王妃だと聞かされても当時の自分は許さなかっただろう。今にして思えば若気の至りだが、愛する女性以外と結婚するつもりは毛頭なかったのである。
「今回の騒動が起こるまで王妃の仕事をまるで認識していなかったお前に、嫌われ憎まれていたエリーがなにを諭せる。仮の王妃だと言えばよかった? お前が公平に、冷静に対処できると思えればもっと早くに言っていたさ。だがエリーにはなにをしても守らなければならないものがあった」
長剣の柄に手を置いて光溢れる庭へと歩み出すギルバートが振り返り、鋭い視線に気圧されながら国王は心当たりを口にした。
「エリックか」
自身の息子とは一度も思ったことのない目障りな存在。数ヶ月前まで第一王子をそう思っていた国王は拳を強く握る。この思いを見透かされ、信用どころか仮の王妃の子ならば不要だと処分されかねないとエリザベートは考えたのだろう。
たとえ処分の可能性が低くとも、少なくない確率で子供の命が脅かされるとしたら……現状のまま、自分一人が耐えればいいと彼女なら思ってしまうかもしれない。
「現状維持も時間の問題だったがな。仮の王妃じゃ国は回らん。そこまで考えの至らないエリーもまだ若い」
なにか突発的な理由でエリザベートが消えれば、収拾できる者がいないままにこの間のような騒動が起こるだろう。国が揺れればそれまで傍観してきた国や不満を抱えた者達が動き始め、一度動き出せばその揺らぎを静めるのは容易いことではないはずだ。
そこまで考えて国王は先を行く騎士団長の背中を見た。王族には似つかわしくない短く刈り込まれた茶金の髪と日に焼けた肌、それに相応しい逞しい肩とシャツの上からでも判る鍛え抜かれた筋肉が引き締まったウエストまでしなやかに続く。自分より頭一つ分ほど大きいせいか股下が長いように感じられ、その歩みは隙がなく、まるで優美でどう猛な肉食獣を連想させた。
叔父は父とは歳が離れすぎていたために、自分が産まれたあと王位継承権を放棄して十二歳で騎士になったと聞く。父が亡くなったのは自分が二十七歳、ギルバートが三十九歳の時だ。
国王は今回の騒動で意外な関係を垣間見せたエリザベートとギルバートを思い出し、エリザベートの心がギルバートに向いていないと判った今、自分が感じたあの親密さの理由を判った気がした。
「叔父上はいつからエリザベート……シルフィルド公を想っていたのですか」
国王のあからさまでストレートな言葉にギルバートは目尻に皺を刻みながら笑った。
「お前の母親が早くに亡くなって周りの人間は献身的に兄を支えた。その中でもエリーは十五で社交界に入るやいなや俺が手を回せなかった王宮や王都の情報を集め始め、二人で兄が死ぬまで裏から支え続けたんだ。だから俺達は同僚で同じ秘密を共有する者で……歳は離れていたが心を許せる友人だった」
『だった』と過去形で話す叔父は大人の色気を漂わせて自分の手を見つめる。
「エリーが兄を慕っているのは判っていた。だから俺は兄が死んで抜け殻のようになった彼女を抱きしめ、泣かせてやるので精一杯だったんだ。遺言もお前も国も、全て見捨てて共にどこかに行こうとはどうしても言えなかった」
すべてはエリザベートの為。
「たとえ意に沿わぬ婚姻だったとしても、彼女にとって前王の遺言を叶えることで生きる力となるなら、それを見守ってやるのが男だろう」
「いえ、ただ単に弱気なだけです」
良い感じで終わろうとしていた言葉に被さるように言葉が掛けられ、二人は驚いて振り向いた。そこにいたのはエリザベートの執務室にいたメイドである。小柄な女性の突然の出現にギルバートが嫌そうに唇を歪めるが、メイドは気にもせず丁寧に一礼した。
「国王陛下にエリザベート様より言付かって参りました。『王妃様の教育の件でお悩みでしたら飴と鞭で参りましょう。わたくしも微力ながらお手伝いいたします』とのことでした」
「ああ……その、前のは……?」
「気のせいでございましょう。それでは失礼いたします」
表情をまったく変えずに去っていくメイドを、この国の最高権力者と王族の一人は黙って見送る。やがてお互いが視線を合わせるとギルバートは珍しく大きくため息を吐いた。
「クラインフィルドはこれだから……言われなくとも判ってるってぇの」