王妃失踪四十一日目から四十六日目
王妃失踪四十一日目
二ヶ月に一度開かれる王宮舞踏会は貴族たちの社交と出会いの場である。貴族同士もそうだし、王族、騎士、文官が必要な人物に声をかけたり、密かに根回しするのにも利用される。つまり舞踏会と名は付いているが、国の仕事を支える人々の情報交換の場でもあるのだ。
前回の舞踏会が盛況とは言い難い内容だったため、国王は早くから側妃に趣向を凝らすように言いつけていた。公務など行ったことのない王妃がやれたのだ。素直で愛らしく優しい彼女なら、王妃以上に皆を楽しませることができると思ったのである。
もちろん側妃は承諾した。彼女とて前回の舞踏会でミュール夫人が話した『王妃の手柄』に腹を立てていたのである。
「趣向を凝らすなんて初めて聞きましたわ。あの方はなんて意地悪なんでしょう。私の方が上手くやれるので隠していたのでしょうね」
趣向の為に少なくはない予算を請求してきた側妃に、一体何に使うつもりなのかと聞きに来た宰相は彼女の愚痴を聞き流していた。国王の前ではあれほどにこやかで慈悲深いのに、それ以外だと男爵家出身にしては我が儘なだけの女性なのである。
「わたくし、素晴らしい趣向を思いつきましたの。これならミュール夫人も楽しんでいただけるはずですのよ」
「だから内緒です」と二十代後半になるというのに無邪気な笑みを浮かべる側妃。王妃の趣向に予算が使われたことはないと言いたい胸の内を我慢した宰相は、舞踏会の結果を見てからでも遅くないとお世辞を口にした。
「予算は承りました。今から舞踏会を楽しみにしております」
側妃が何をしようがどうでもいい彼は、部屋を出る前から次の仕事に思考を巡らせていた。
「服飾師のトラル・ランバートだな」
国王が私的に使用する応接室にて、国王と宰相、そして王都で一番人気が高い服飾師が重苦しい雰囲気で向かい合っていた。昨日、彼を王城に呼ぶようにと突然言いつけられた宰相には理由がまったく判らず、国王も話そうとはしなかった。だが、その雰囲気から怒っていることだけは察せられたので、万が一の為にも同席することにしたのだ。
「なぜ我が妃のドレスを作らない」
「私の工房でご依頼を受け付けましたが?」
国王の第一声に宰相は顔を覆いたくなった。ここのところ急激に増え始めた側妃がらみの問題らしい。問われたトラルは国の最高権力者に怯むこともなく落ち着いた表情で答えた。
「工房の弟子たちは皆優秀です。側妃様のご希望通りのドレスをお作りすることができます」
「そういうことではない。弟子がデザインして作ったものではなく、お前自身のドレスが欲しいと申しておったぞ? あんなに美しい妃がお前のドレスを所望しているのだ。喜んで作るべきだろう!」
「国王陛下」
トラルの冷静な呼びかけが熱くなった国王の思考を冷やし、宰相は服飾師を見て背筋を凍らせる。
宰相という立場柄、よく人を観察してきた。国王よりも十歳以上も歳を取っているからこそ気付いたと言っていい。服飾師トラルは落ち着いているのではなく、国王との会話にまったく興味を持っていないのだということを。
「私は七年前より決めていたことがあります。それは私が王族の方で服を作るのは王妃様とそのご子息のみ。それ以外の王族の方には決して服を捧げることはない、ということです」
「……なに?」
このままでは国王の逆鱗に触れる彼の為に、宰相は会話をはぐらかそうと試みる。
「ですが、貴方は今まで陛下と側妃様の服を何度も作っているはずです」
今の話と矛盾していると問うと、トラルはそこで初めて微かに笑った。それは大切な何かを思い出したような暖かな笑み。
「国王陛下の服は王妃様からもご依頼がありましたのでお受けいたしたのです。側妃様のドレスは私でなくとも作れるものでしたので弟子たちが作りました」
今回だけ作らぬのではなく昔からそうしていたと白状したトラルは更に告白を続けた。
「陛下が即位された頃、私はまだ無名の服飾師でした。その頃王宮で『妃殿下』のドレスを選ぶ品評会があったのを憶えていらっしゃるでしょうか? 私は自分の腕を認めてもらおうとその品評会にドレスを提出しました。すると会場でドレスを見ていたのは側妃様だけで、あの頃有名だった服飾師のドレスを褒めちぎっていたのです」
「さすがノアの新作ドレスね! 色も生地もデザインも、全てわたくしのためにあつらえたのでしょう? とても素敵だわ!」
ズラリと並んだドレスなどには目もくれず、有名な服飾師の前ではしゃぐ側妃を見たトラルは、これが出来レースだったことにようやく気が付いた。始めから服飾師ノアのドレスを選ぶつもりで品評会を開いたのだろう。興奮で上擦った側妃の声が耳に触る。ドレスの上質な生地を買うために家族にも迷惑をかけたが、デザインや縫製でも負けてはいないと言うのに側妃はトラルのドレスを見ることもなかったのだ。
「だいたい『妃殿下』といったら王妃様の事だろうにっ」
実際トラルは王妃様を見たことがない。結婚式で国民に姿を見せたのは一度きり。それ以降、戴冠式や国の重要な式典ですら側妃が出席していた。それでも『王妃様』に似合うようにイメージして制作したのに。
「お待ち下さい」
国王と側妃が服飾師を伴って消えると解散を命じられた。品評会に出品した報償すら渡されず、意気消沈していたトラルを女性が呼び止めたのはその時だ。
「……なにか?」
どこかの侍女だろうかと、若いというのに落ち着きすぎた服を身に纏った女性を見下ろして息を飲む。女性は確かに似合わない服を着ていた。赤銅色の髪を軽やかに結い上げトラルを見上げる藍色の目には理知的な光が宿り、上品な物腰と佇まいを控えめに醸し出す高貴な人物。思わず跪こうとしたトラルを女性は慌てて止める。
「膝をつかないで下さい。わたくしはお忍びでここにいるのです……貴方のドレス、わたくしのためにデザインされたものではないでしょうか」
ゴテゴテと花やフリルで飾り付けられた赤やピンクのドレスたちの中で、一際目を引く薄緑色のシンプルなデザインを提案したトラル。それも当たり前だろう。彼のドレスは身につける人物が違ったのだから。
「はい。恥ずかしながら自分の中の勝手なイメージでデザインいたしました。ですが……」
本人を目の前にして確固たるイメージが浮かぶと、トラルは万が一のためにと持ち込んでいたソーイングセットからはさみを取り出し左脇のスカートの部分を腰近くまで切ってしまった。
「あの!」
驚く王妃を置いて極細の浅黄色の糸のついた針を持つと猛然と縫い進めると、ある地域で生産され始めたばかりのシフォン生地がみるみる整形されていく。
そして三十分後。持ち込んだ形は崩れぬまま、ドレープを付けたシフォン生地が女性らしさを醸し出した見事なドレスが出来上がった。
「素敵ですね」
王妃といえども女性である。自分のためにデザインされたドレスを潤んだ目で見ているのをトラルは満足げに眺めていると、現実に戻ったらしい王妃がある提案をしてきた。
「わたくしには貴方のドレスを披露する場がありませんが、貴方のその才能を潰すのは惜しいと思います。ですがわたくしが貴方にしてあげられることといったら、いくばくかのお金を渡すことだけ。王妃の後ろ盾などこの国では不利益にしかならないのです」
そこで恥ずかしそうに俯き、それでも王妃は提案を続けた。
「どうかこの国の服飾文化発展のために力を貸して下さい。ノアのような、自分のイメージを着る人間に押しつける服飾師ではなく、着る人間のあるがままの姿をデザインする貴方のような服飾師がこの国には必要なのです」
「それから王妃様が後援者になって下さったのです。私はかなり凝る性質なので生地の材料や織り方も、その道の職人たちと共に作り上げてきました。今、社交界で流行っているシルクシフォンは私が見いだして質を高め、王妃様が支援してこの国の特産物にまでなったのはご存じですよね」
「ご存じですよね」と言いながら彼の表情は「知らなかっただろうが」と語っていた。
「シルクシフォンは国でも援助しているぞ」
ムッとした国王の反論にトラルは小さく首を振る。
「それは本格的に生産できるようになり人気も出てきたころでしょう。その前の開発段階で私は何度も援助して欲しいと国に要請しましたが、返ってきた答えはドレスの生地の開発に出す金はない、でした。開発中は職人たちの収入も減り、労働時間も長くなります。そんな一番苦しい時期に王妃様は手を差し伸べてくださったのです」
国王に気圧されることなく対峙するトラルを観察しながら、宰相はつい最近も同じ言葉を聞いたのを思いだした。
「国王陛下」
内心では怒り狂っているであろう国王に再びトラルが呼びかける。
「処刑するならばどうぞお好きに。ただし私は東の大国の女王陛下に勧誘を受けている身であります。また海辺の大国の第一王女殿下にも専属の服飾師にならないかとお声をかけていただいております」
たかが側妃の服を作らなかったために処刑されたと知られれば、地味な嫌がらせをされるだろう。特に海辺の大国は海路を持たないこの国にとって重要な取引相手でもある。才女と名高い第一王女の機嫌を損ねるのは得策ではない。
だから彼は堂々と登城した。そして国王に怯むことなく言いたいことを言ってのけたのだ。
「私は私の信念を曲げるつもりはありませんし、恩義は一生かかっても返しきれないでしょう。ですから王妃様のおられない今、国王陛下の服ですら作ることはないのでございます」
結局トラルを説得できなかった国王は側妃に他の服飾師を使うように命じた。何事も流行りが好きな側妃はかなりごねたが、高価な装飾品と引き替えに最後は渋々納得した。
そうして王宮舞踏会で披露された側妃の趣向は『綺麗に着飾った自分と選んだ男性が踊ることができる』というものであり、仕事で出席していた若い文官や騎士ばかりを誘ったために人々の失笑を買ったのである。
* * * * *
王妃失踪四十六日目
「最近、お早く戻ってこられるのですね」
夕食後のくつろぎの時間に愛らしい側妃が嬉しそうに微笑んだ。その白くたおやかな手を掴んで引き寄せると、国王は彼女の華奢な身体を背後から抱き込み耳元で囁く。
「書類の量が減っていてな。政務もずいぶん余裕がある。宰相が仕事をさぼっているのかもしれないが……だから……もう一人、子供を作らぬか」
身体は重ねていても側妃が子供を身ごもることはない。なぜなら彼女は一人目を産んだ後から避妊薬を欠かさず飲んでいるからだ。その理由は――
「身体の線が崩れるのでイヤです。出産だって痛くて大変でしたのよ? 陛下はわたくしにまたあんなに痛い思いをさせたいのですか?」
二度とイヤだと言い張る側妃に国王は宥めるように言葉を掛ける。機嫌を損ねた側妃は寝床を共にするのもイヤだと言い始め、機嫌を取るために再び高価なドレスをプレゼントすることを国王は約束したのだった。
「陛下。こちらの請求書の意図をお教え願いますか」
顔色の悪い宰相が差し出してきた請求書は側妃の機嫌を取るために購入した装飾品とドレスのものである。
「ああ、彼女が欲しいというので贈ったのだ。予算は王妃に当てられていた分を回せばいいだろう」
側妃の為の予算は決まっているが、国王が自ら請求すればほとんど国庫から引き出せる。それを知ってからの側妃は高価なものを国王に強請るようになっていた。もちろん国王とて際限なく買い与えるつもりはないが、王妃が消えて節約した分を回すくらいならいいだろうと考えていた。
「足りません」
「なに?」
端的に答えた宰相に国王はようやく目をやる。
「王妃様の一ヶ月の予算では、ドレス一着分も支払えません」
「……それでどうやって服飾師に援助したり、騎士の妻を集めて情報交換会などを開いていたのだ? まさか国庫の金を横領していたのではないだろうな」
国王の頭に描かれたのは大人しそうな顔をしながら裏で悪事を平気で働く王妃の顔だ。国庫を横領して自分の好きなことをしていたのではないかと疑う国王に宰相は項垂れながら事実を告げた。
「王妃様はご結婚前からご自分の荘園で果実の品種改良を行っておりました。今、この国で食されている寒さに強い果物、ビスカの栽培方法を広めたのも王妃様の荘園です。そしてその荘園にはビスカなのに甘みの強いビスカールという品種がございまして、栽培個数が少ないので高値で取り引きされているのです。それは公に王妃様の私的な財産として登録されております。恐らく王妃様はその荘園で得た金銭を使用したのではないでしょうか」
「はっ。酸っぱい果物を回りに広めて、甘い果物の価値を上げたというところか」
「ビスカールという果物は特殊な環境でしか育たない種類なのだそうで、他の地域でも成育させようとしているようですが難しいようです。ですが酸味が強くても、冬の厳しいこの国で寒くても実がなるビスカはとても貴重なのですよ」
狡賢い女だと鼻で笑う国王は宰相の更なる言葉に機嫌を降下させる。最近、この男は王妃の肩ばかり持つような気がしてきたのだ。自分の言ったことに反論ばかりする宰相の顔も見たくなくなった国王は仕事を放り出して執務室を出たのであった。