産声【ここにいるよ】
お世話になっております、赤依 苺です。
偶然にもコレをお読みになる女性の方から背中を刺されないために前置きをしますが、産婦人科というものがどのような形態で運営されているかは男の私には未知ですので、想像を働かせている部分が多々あります。『これは違うだろう』という部分があれば、静かにツッコミを入れてください。これでも恥ずかしさを堪えて色々と調べている部分もあるんです……。
では、以下より本編です。後書きにてお会いしましょう。
初めての診察を受けてから、明日香は定期的に沢渡のもとへ通うようになった。
「……上浦さんも変わり者ですね。まさか名指しで受診されるなんて」
「いいじゃないですか。信頼してますよ、沢渡先生。あ、それと。実は私の苗字、竹下なんです」
「え? ……あぁ、旦那さんの方ですね。黒谷さんからは上浦の姓で伺っていたものですから」
「呼びやすい方で呼んでください。私、気にしませんから」
明日香はゆったりした服装を選んでいる。さらに、季節を二つも経験すれば腹部も目立ってきた。
「……暖かくなってきましたけど、体調はどうですか? 水分補給の量は守ってますね?」
「ええ、もちろん。最近、産休をもらったので、こちらに専念できますし」
「あぁ、それはいいですね」
お腹にいる子どもの成長は、心配など皆無だった。沢渡の異名は本当のようで、定期的に診察を受けるたびに、母体の活力も戻るような気さえした。何か特別なことをしているとは思えないが、沢渡という人間が経験した全てが、子どもと母体の生命を支えているのかもしれない。
さらに季節は移る。
十月十日の言葉を信じて、明日香は出産に向けた入院を行った。脚が悪いために、もしもの時のことを考えてのことだった。
「あとどれくらいだっけ?」
「ちゃんとカレンダーに印つけてるでしょー? 家のカレンダーには丸つけてないの?」
「つけてない」
「……無精者」
渡も、毎日ではないが、三日に一度ほどのペースで明日香の様子を確認している。いつも仕事帰りにスーツの下だけをジーパンに履き替えてバイクで病院に来て、その日の面会時間いっぱいまで居るのだ。
「あと三週間くらいかなぁ」
「かなぁって、やっぱり予定日に産まれてくるわけじゃないんだよな……」
「そりゃそうだよ、誰にだって分からない」
明日香はお腹を擦りながら話す。
「最近は、前よりももっと蹴ってくるようになってね。力、強くなったなぁって思うの」
「楽しみだ。無事に産まれてきてほしいね」
笑顔で頷く明日香に面会の別れを告げ、渡は帰った。最近、子育ての本という愛読書ができた渡に、独りである孤独は感じなかった。
何コール目になるのか分からない電話を、渡は受けた。見覚えのない番号だが、相手の聞き覚えのある声に緊張した。
「……はい。…………分かりました。すぐに向かいます」
いつもより陣痛がひどいというナースコールを受けて様子を確認したところ、予定よりも数日早いが分娩室に入ったという。時間があれば来てほしいとの連絡だった。
「部長……」
「はいはい?」
「妻が、出産の準備に入りまして……」
「いいよ、行ってあげな」
「ありがとうございます!」
言い終わると同時には出勤時の荷物を抱えて会社を飛び出していた。電車を乗り継ぐよりも、バイクを走らせる方が早い。自宅に戻るといつものようにジーパンに履き替えて、愛馬で飛び出した。一分でも、一秒でも早く駆け付けたいという気持ちが、スロットルを自然と開かせる。病院にも到着し、普段よりも荒い駐輪をすると、ヘルメットを脱がずに院内に向かいそうになった。
「だあーーー! 違う違うっ!!」
盗まれる危険性を忘れてシート上にヘルメットを放置して再び走り出した。
総合受付に見知った顔が見えた。
「あら? 竹下さん」
「――――――はぁはぁ……。妻は……分娩室はどこですかっ……!」
周囲にいる何人かが、渡を怪しい視線で突き刺す。
「落ち着いてくださいよ。明日香ちゃ……明日香さんなら問題なく分娩室に入られましたから。分娩室の場所は――――――」
場所だけ聞くと、渡はエスカレーターを駆け上がり目的の部屋まで駆ける。分娩室の前までは二分と経たずにたどり着いた。激しい息切れの中、明日香を運んだであろう看護師が搬送の役目を終えて出てきたのを見逃さなかった。
「す、すいませんっ! 妻は、明日香はこの中に居ますかっ!!」
渡が病院に駆け込む一時間ほど前。
明日香は、渡が読み終わった子育ての本を読んでいた。何冊か買っていて、読み終わった物を交換する形で二人で読んでいた。
「…………出産後の乳製品は、摂取量に注意。摂りすぎは母乳の質に影響する……。へぇ、意外ねぇ……。『乳』繋がりで、てっきり……」
視線を自身の胸に落とした時だった。
「――――――っ!!」
声は出せなかった。まるで身体の中から突き破られそうな痛みに襲われた。出産予定日も近くなってきたから、ひどい陣痛には何度か世話になったが、ここまでの痛みは初めてだった。
痛みに筋肉が緊張する。ナースコールに片手を伸ばそうとするが、腕や手が動いてい気がまったく感じられない。それでも、伸ばした指に力を込めて、ナースコールを押した。
『……はい、竹下さん。どうされ――――――』
「来て下さいっ!!!」
その一言だけが、今の精一杯だった。叫び声のようになったかもしれない。だが、何でもいい。この痛みは我慢できない。
「竹下さんっ!」
ナースコールのスピーカー越しと同じ声で名前を呼ばれた。
「分娩室に向かいます。このベッドのまま運ぶので、揺れますよ。でも、すぐに到着しますからね」
何か言っている。明日香には何を言われているかは理解できない。この痛みが取り除かれるならば、何だって耐えられる気分だ。
ベッドが動き出す。応援の産婦人科医も駆けつけて、明日香は廊下へと運び出された。明日香にこれ以上の刺激を加えないように慎重に運ぶが、声にならない痛みが休みなく明日香を襲っている。曇る視界に一瞬だけ、知る顔が映ったような気がした。
ベッドが止まる。もう、この痛みとは今日で最後だ。数秒前までは怖かったが、明日香の肝は据わっていた。これからの戦いの直前に見た顔。あれは確かに沢渡だった。陣痛の度に、今でもあの言葉が耳に響く。
『…………おめでとう』
「…………出産準備に入ります。聞こえますか、竹下さん?」
「……は、い」
あぁ、やっとあなたに会えるんだ……。
「……見間違い、か?」
一瞬だけ目の前を霞めたベッド。看護師たちに囲まれて誰が分娩室に運ばれているのかじっくり確認することはできなかった。しかしその一瞬でも、沢渡には誰だか分かった。自身に診察されたいと変わったことを言った人、明日香だということが分かった。
沢渡は一階の総合受付まで急いだ。
「ん? 沢渡さん? どうしました?」
「竹下さんが……分娩室に入りました。外線、借りますよ?」
「え? 本当に、明日香ちゃんが……!」
顔が明るくなっていく黒谷を他所に、沢渡は強引に外線を引き寄せた。首から提げるネームホルダーの裏には、明日香の夫である渡の携帯電話番号のメモが入っている。
「……頼む、出てくれよ……」
コール音ばかりが聞こえる。相手も仕事中だが、なんとかして伝えなければという気持ちだけが逸る。
『……もしもし?』
「あ、もしもし。正道医大付属病院の沢渡です」
新しい命が産まれる瞬間を迎えるのに、独りは寂しい。だから、伝えなければ。
「今、明日香さんが分娩室に入られました。来てください。あなたは、明日香さんの心の支えになれます。そして、産まれてくる子が元気よく泣けるように、祈ってください」
それから短い返事を渡から聞いた沢渡は受話器を置いた。
「結構、熱いことも言うんですね、沢渡先生」
「茶化さないでください。私の本心ですよ」
どんなに母体が安定していても、人間の身体というものは最後まで分からない。沢渡はその『分からない』に賭けて、転落した。それでも、沢渡を恨む人間は居なかった。だからこの仕事を、いつしか沢渡は天職だと思うようになった。もう二度と、死産の経験をする必要がないように。私の目が届く人たちには、命が産まれる瞬間を喜んでほしいから。この心の傷は、仕事道具になっていた。
腕時計の秒針の音が、やけに五月蠅い。
分娩室の前で待たされて、もう一時間になるかもしれない。明日香は今、必死に痛みと戦っているとことは想像できるが、渡は何もできずに座っているだけだった。
『祈ってください』
沢渡はそう言った。有難みが無くなるのではと心配になるくらい、渡は祈っていた。こんな時だからこそ、悪い予感ばかりが背中を這うようにして纏わりついてくる。立っては座り、座っては立つことを繰り返して、もう何時間経過したも分からなくなっていた。
「心配ですか?」
「えぇ、本当に……」
隣に沢渡が来ても、この不安は晴れなかった。まだ明日香は痛みと戦っている。その痛みを体感できないことが何よりも不安だった。
「沢渡先生……」
「はい?」
「あの……妻は、産めるんでしょうか……?」
「え? それはもちろんです。どうしてですか?」
「いや、脚の影響は……と、思いまして……」
「あぁ、なるほど。ご心配なく。もし影響が出るようなら、全国の赤ちゃんの数は今よりも少ないはずです」
「そ、そうですか……」
明日香本人からも問題はないと言われていたが、今の一言で気持ちが少し楽になった。厚い壁に阻まれて姿は見えないが、確かに頑張っている明日香を見据えて渡は姿勢を正した。
「明日香さん、本当に楽しみにされていました。いつか絶対に、車いすを押してもらうんだと、その日が待ち遠しくて仕方がないと、話していました。そんな日が来たとき、幸せ過ぎて死んでしまうんじゃないかとまで……」
「あはは……あいつは大袈裟なんですよ。過保護な親にならなければいいのですが」
「それは竹下さんにも言えることですよ。男親は、女の子を溺愛するそうじゃないですか」
「そうですねぇ……。女の子だったらの話ですけどね。…………え、女の子なんですか? ……あれ?」
沢渡の背中が遠くに見えた。いつ、隣を離れたのか。渡は驚くままに沢渡の背中を眺めていた。その時、分娩室の扉付近が中から騒がしくなった。渡はゆっくりと席を立ち、分娩室に近付いたところで扉が開く。
「おっとっ! 竹下明日香さんのご家族の方ですか?」
「はい、明日香は妻です。その、大丈夫だったんですか?」
「元気に産まれましたよ。明日香さんも問題なしです」
今日一番の、肺が破れんばかりの深呼吸をする。そして、たった数時間のうちに溜め込んだ、二人分の命の心配を吐き出した。
「よかったぁ…………」
渡の耳には、甲高く大きな鳴き声が届いていた。
その後に渡は、出産に対応してくれた医師により明日香の病室で待つように言われた。産まれた子どもの身体を洗う必要もあるし、明日香を病室まで戻す必要もあるそうだ。そわそわしながら待っていると、廊下の方からゆっくりと運ばれてきた明日香が見えた。駆け寄りたい気持ちを抑え、ベッドが固定されるまで明日香と、その腕に抱かれている子どもを見守る。
「おめでとうございます。かわいい女の子ですよ」
看護師の言葉に割れ物に触れるかのように手を伸ばしていく。
「女の子……」
「よかったね、待望の女の子だよ」
まだ大きく開かれていない目に、今の渡はどう映っているのだろうか。渡は小指で頬に小さな丸を描く。それに反応して、まだ小さな口がパクパクと開く。
「……か、かわいい」
「抱いてみる?」
「あ、あぁ……」
両腕を明日香の脚の上に置き、明日香はそこに静かに子どもを乗せた。
「……結構、重いんだな」
「デリカシー」
「いや、赤ちゃん相手にそれはないだろう。重いのはいいことなんだから」
「それもそうね」
明日香に沈めるようにして子どもを渡した。
「では、また何かあればナースコールでお呼びください」
「はい、本当に、ありがとうございました。……あの沢渡先生は本日いらっしゃいますか?」
「沢渡先生ですか? はい、今日は出勤されてます」
「あの、もしお時間があるようでしたら、私のところまで足を運んでいただいてもよろしいですか?」
「はい、伝えておきますね」
そうして、明日香と渡、子どものみとなった。
「……明日香」
「なぁに?」
「よく頑張ったな。ありがとう……」
「この子にも言ってあげなきゃ。一番頑張ったのは、この子なんだから」
「俺なんか、そわそわしてばっかりだったから。出産の辛さが分からなくてな……」
「理解出来たら怖いってば。それより……ん」
明日香は片方の頬を膨らませた。今しがた、渡が撫でた子どもの頬と左右が一致する。
「……どうしろと?」
「頑張ったから、撫でて……」
「……いや、ここ病院だろう」
「いま、私たちしかいない……ん」
照れながらも、頑張った明日香を労うために、仕方なく手を伸ばす。明日香の頬は先ほどの頬と比べてハリはない。しかし、全てのストレスから解放された今、ほんとうに健康そうな肌だった。
「はいはい、明日香さん。頑張りました」
「オ、オギャー……」
「恥ずかしいなら素直に言えよ……」
「あー……お熱いところ申し訳ない」
突然の人影に、明日香と渡は戦慄した。同時に、明日香の腕で子どもが泣き出した。
「あ、しまった……。ほ~ら、よしよし。怖くないですよ~」
「あ、あの……沢渡先生?」
「はい、なんでちゅ……なんですか? 私に用事があると聞きましたが」
「いえ、特別に用事というわけでは。一言お礼を申し上たくて」
明日香は沢渡と話しながら、小さく腕を揺らしている。
「仕事ですから。お気になさらず。それより、産まれてきた赤ちゃんも明日香さんも、お元気でなによりです」
「本当にありがとうございました。だから、感謝の気持ちを込めて……。沢渡先生、私の脚の上に両腕を置いてください」
「明日香、何するの?」
「まぁ、ちょっと。置いていただけますか?」
沢渡は不思議そうにしている。渡も首を捻る。
「まぁ、置くだけならば……」
「重たいですよ、気を付けてくださいね」
「……? 明日香さん、何を……」
明日香は沢渡の腕に、抱いていた子どもを置いた。子どもはまだ泣いている。いますぐにあやさなければ、このまま泣き続けるだろう。
「あの、明日香さん。泣いてますよ? 早くあやしてください」
「お手本、お願いできますか?」
「え……いや、私ではなくて、明日香さんが……」
子どもは泣き続ける。明日香も渡も、仏頂面以外の沢渡の表情は初めてだった。
「お願いします、沢渡先生。私たちの子どもを抱いていただけませんか?」
「あの、でも……私、あやしたことなんて、ないから…………」
沢渡は、腕に生きている子どもが触れるのは初めてだった。産前の仕事に注力するのも、死産を思い出したくないという気持ちがどこかに潜んでいたからだ。たった今、明日香に子どもを乗せられた腕は、震えはせずとも緊張している。
「やっぱり、私にはあやせませんよ……。お気持ちだけ受け取っておきます……」
「…………そうですか……。なんか、ごめんなさい……」
「いえ、ありがとうございました。では、受け取っていただけ――――――」
沢渡の白衣に皺ができる。暴れた拍子に片手が包まれていタオルから出てきて、沢渡の袖を掴んでいた。
「――――――生きる子は、こんなにも強い力を持っているんですね」
「そうですよ。今、沢渡先生を離したくはないみたいですね」
沢渡の目が潤む。明日香に差し出されていた子どもを乗せた腕を、沢渡はゆっくりと体に抱きすくめる。
「重いですね……。あぁ、本当に重い……。子どもの鳴き声をこんなに間近で聴けるなんて…………。よしよし……、いっぱい泣いていいんだぞ~……。たくさんたくさん、お母さんとお父さんを困らせるんだぞ~……。えーと…………あぁ、ダメだ……。言いたいこと、たくさんあるのに……」
「沢渡先生、我慢しないでください。誰も、責めませんから」
沢渡の涙に、子どものような声は混じらない。ただただ流れるままに、これまでどれほど希望しても叶わなかった生きた子どもを抱くという行為に喜んでいる。
「『大好き』だなんて、本当の母親の前では…………言えませんよ……」
「言えますよ、ここでは」
「どうして、止めないんですか?」
「みんな、沢渡先生のことが好きですから。もちろん、この子も」
沢渡の涙は止まらない。いつまでも、腕に抱く明日香と渡の子どもをあやしている。嗚咽の混じる声を必死に正し、泣き疲れるまで終わらなかった。
確かに明日香と渡は見た。二人に映った白衣の沢渡は、医師ではなく、一人の母親のように感じた。
「…………産まれてきてくれてありがとう。……大好きだよ…………」
それから数日後。
明日香と我が子の退院の日。
「そういえば、役所に提出しなきゃな。出生届」
「そうだね」
「実はもう、紙だけはもらってあるから書くだけなんだけど。問題は名前だ」
コツコツと、ボールペンの先を紙面に当てる。
「え? 問題なんてないじゃん。だって、ねぇ? 女の子なんだし」
「もう決まってるの?」
「覚えてないの? 私の家であなたが言ったじゃない」
「いや、覚えてる、ハッキリと。でも、何年も前の話だぞ?」
名前の部分以外は埋まっている。竹下という苗字までも書かれている今、たった数秒で書き終わる書類だが、なかなか筆が進まない。
「たしかに前の話だけどね。ダメかな、その名前」
「俺はその名前を付けてやりたいんだがなぁ。明日香さえ良ければの話だけど」
「よし、それでいこう」
「決断が早いっすね……。この子のことだぞ……」
「既に沢渡先生を幸せにしてるんだし。ほら、有言実行するような子に育ってほしいじゃない?」
「まぁ、そういうことなら……」
「はい、決まり。ねぇ、私に書かせてよ、名前」
渡は筆跡が異ならないように名前まで書くつもりだったが、ここは明日香に譲った。
「ありがと。いや~、嬉しいなぁ。これからよろしくね――――――」
幸、歌…………っと。
お読みいただき、ありがとうございます。
ついに……。ついに、幸歌ちゃんを登場させることができました。かれこれ数話を費やして詐欺かと疑われるほどに『登場させます!』と言ってきた私です。ここで『次話、最終回!』と言おうもんなら、私が村長を務める村人は全員、オオカミに襲われてしまいますね。
さておき。
幸歌ちゃんの登場を終えました。役者が揃ったことになります。思い出すのは、明日香が幸歌に押されて進みたいと思っている、あの桜並木ですね。
それでは、次話にて。オオカミに襲われるかは、書き上がってからのお楽しみということで。




