第二間奏曲・『あなたの鼓動』
第二ですが、最後の間奏曲となります。
今回の内容、詳しく書いてしまうと私は追放されてしまいます。どうか、寛大なオトナの心を持って読んでいただければと思っています。
では、以下より本編です。後書きにてお会いしましょう。
お互いの親友同士の交際が発覚した結婚式から数週間。
渡と明日香は普段通りに過ごしていた。
「それじゃぁ、行ってくるよ。明日香も気をつけてね」
「いってらっしゃい。……ネクタイ、曲がってるわよ?」
「その手には乗らん」
ある日、渡が珍しく寝坊をした。大急ぎで締めたネクタイが曲がっていたので、玄関で直そうと明日香が近付いたが、急に倒れこんできたために赤面してその日は仕事にならなかったらしい。
「……お主、腕を上げたな」
「それはどうも……。本当に、戸締りだけは気を付けて」
「大丈夫だから。いってらっしゃい」
渡が扉の陰に隠れたことを確認して、今度は明日香が出勤準備となる。
折り畳んだ車いすを片手に、杖を使いながら玄関口まで押し出す。通勤用のカバンを部屋から取る前に、部屋の戸締りとガスの元栓、不要な電気を消す。もはや慣れた作業だ。
このマンションに移り住んできたばかりの頃は、渡が『俺がやるから』と言って炊事と洗濯以外の作業を全て引き受けるつもりでいた。しかし、明日香が部屋に独りになれば、それらの作業ができなくなってしまう。結局、長年の相棒となっていた杖を脚のように使う明日香に軍配が上がり、めでたく日常作業の自然な分担が行われるようになった。
「…………いってきます」
杖を玄関内の壁に立て掛けて、部屋を後にした。もちろん、渡に散々言われた扉の鍵を閉めて。
◇
「上浦さーん。このリストのデータってどこに保存されてたっけ? ちょっと必要でさ」
「…………」
「あー……、上浦さん?」
「…………」
この仕事が終わったら、次はこれ。お昼近くに会議があるって聞いたから、あの資料も持っていかなくちゃ。あれ? どの部署だったけ?
「……竹下さん?」
「……あ、はい何でしょうか?」
しまった。課長の呼びかけを無視したかも。
「いや、ごめんごめん。そうだったよね、うんうん。いや本当にうっかりだったんだ。許しておくれ」
「あの、何がでしょうか?」
「苗字が変わったんだよねってこと」
そう、私の名前は上浦明日香から竹下明日香になった。私が結婚したことを知らない人や、今の課長のようにうっかり『上浦』と呼ぶ人はまだ多い。きっと自然と浸透すると思ってるけど、どれくらい時間がかかるだろう。
「はい、お陰様で。今のところ、夫とは問題なく」
「いいことじゃないか。ところで話を戻すけど。このリストのデータってどこにある?」
「それでしたら、ここの部署用のサーバーに保存されていますので。たった今私が更新しましたから、最新の情報ですよ」
「助かるよ。ありがとね」
「あ、課長」
「ん? どうしたの?」
「その資料、お昼過ぎの会議で必要なんですけど、どこの部署まで持っていけばいいんでしたっけ?」
「調達部かな。取引先の一覧を見たいって言ってたよ」
「あー、そう言えばそうでしたね」
「まぁ、会議は昼食後だし。印刷して持っていくだけだから。それよりも、昼食一緒にどう? みんなを誘ってさ」
「いつもと変わらないじゃないですか」
「おめでとうの一言くらいは言わせてよ。ね?」
「ありがとうございます」
祝福されているのは分かるけど、いまいち元気に喜べない。これじゃぁ、みんなに悪いな。昼食までには調子戻さないと。……印刷っと。
◆
「竹下。結婚おめでとう!」
「どうもです」
「俺への指輪相談が功を奏したのか?」
「いえ、俺の実力です」
「なんだとぉ~!?」
実はかなり助かったけど、本音は伏せておこう。その方がこの人は楽しい。
「でもまぁ、これまでずっと同棲してたんだろう? 何も変わらいな」
「そうですね。籍を入れたには入れましたけど、何も変わらないです。それが楽でもあるんですが」
「いつか絶対に『あの頃は良かったのに……』っていう日が来るぞ。今のうちに噛みしめておけよ?」
「あの頃も良かったって言えるように仲良くしますよ。先輩の体験談のようにはならないように努力します」
「口の減らないヤツだな~本当に。でも、あれだぜ。子ども。子どもができたら奥さんが法律になるからな。だんだんと家での地位が下がってくるのが実感できるから」
「……子ども?」
先輩の言ってることは分かるけど、突然、知らない単語を聞いたような気分だ。
「なに、お前? 考えてなかったの?」
「いや、考えなかったわけではないですが……。俺たち、本当に子どもができるかどうか……」
「……竹下」
「はい……」
やっと先輩も思い出してくれたようだ。明日香は脚が悪いから、それを気にして子どもを欲しがらないことを……。今では少し、説得できた気はするけど。
「お前、不能だったのか……すまない、知らなくて」
「その味噌汁からアーモンド臭がしないことを先輩は喜ぶべきです」
「冗談だよ、冗談」
そもそも青酸カリウムの入手方法なんて知らないけど。
「自分は欲しいんですけどね、子ども。でも、実際にお腹を痛めて産むのはアイツですし。無理はできませんよ、脚のこともありますから」
「そうだよなぁ。竹下んとこはそれがあるからなぁ……。奥さんはなんて?」
「渋ってます。『私の脚が子どもを殺してしまうかも』とまで言われました。正直、キツかったですね……」
もう二度と明日香の口からは聞きたくない言葉。『私の脚が子どもを殺してしまうかも』。まだ、話し合わなきゃいけないことがありそうだな。
「奥さんのことを考えて大切にするのは男の鑑だけどよ。お前だって人間だろう、欲望の一つや二つ伝えたっていいんじゃないのか?」
「欲望って……。間違ってないんですけどね……、もう少し言葉を……」
選んでくれてもいいもんだけどなぁ。
「まぁ、あれだ。考えすぎてお仲を痛めんようにな!」
…………どうして俺は、この上司と長年上手くやっていけてるんだろう。
◇
ここまで食欲が落ちるなんて……。
「大丈夫ぅ?」
「……うん、平気平気」
いつもと変わらない昼食が小さな祝賀会のようになったけど、いつもの美味しい社食に食欲が湧かなかった。今だって、隣に座ってる同期に心配されてるし。
「平気って言うけど、顔、白いよ?」
「……笑わない?」
こんなに声を潜めたところで、怪しいだけなのに。
「笑わないから、相談してみぃよ?」
「……実はね。…………胸が、苦しいの」
「…………………………ぷっ」
あ、やっぱり笑われた。
「だから言いたくなかったのに……」
「ごめんて。この歳で少女漫画のセリフかいっ! って思ったらね、ついね」
「そんなの、とっくの昔に卒業してるわよ」
「たはは。そんで、その胸の苦しみの原因は分かってるんか?」
首と肩のマッサージ兼、否定の首振り。
「分かってたら対処するし、休みもらうくらいはするって。分からないから困ってるのよ……」
「毎夜毎夜、夫に揉まれて……」
泣き所アタック。
「あ、痛いなぁ。今時毎日求める男がいるかぁ?」
「ちょっとずつ話が逸れてるから戻そうか。ね?」
「はいはい……。産婦人科に行ったか、明日香?」
……………………なんだって? サンフジンカ?
「いや、行ってないけど」
「じゃぁ、今すぐにでも行くべきだよ? 明日香、お昼もあんまり食べてなかったでしょ。胸が苦しいってのも、もしかするともしかするから。ちゃんと調べてもらいなよ?」
「……なんで胸が苦しいと産婦人科なの?」
「……明日香サン、本気ですか? 明日香のココに、居るんじゃないの? って言ってるの」
私のお腹に……居る。
「赤ちゃん……?」
「そうそう。胸が苦しいのは、ホルモンバランスの影響じゃない?」
「やけに詳しいね」
「体験談」
「……参考になります」
明日、行ってみよう。産婦人科。場所は…………、あそこだ。先生たち、元気だといいなぁ。
オトナのみなさん、お読みいただきありがとうございます。
最後の役者に登場してもらうためには、避けては通れない道なので今回は色々と隠している部分がありました。きっと分かっていただけると信じて書きました。分からなかった無垢な方には、本当に申し訳ありません。煎じて飲みたいので爪の垢をボクにください。
予定では、もうあと数話で完結を迎えます。お先真っ白ですけどね。
では、次話にて。