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03 プログラム

 スキルス性胃がん。


 死刑宣告のような告知を受けたあの日、俺は伊織と一緒に診察室にいた。スキルス性胃がんです。伊織がそう言われたとき、俺はどんな顔をしていたんだろう。無言のまま、彼女がちらりとこちらを見やったのが分かった。

 伊織の両親同様、俺の両親もすでにこの世にはいなかった。母親は俺が中学の時、父親は俺が大学の時に死んでいる。そして二人とも、スキルス性のがんだった。

 だから俺にとって『スキルス性』という単語は、聞いたこともないようなカタカナの病名よりもよっぽど現実的で身近で、絶望的だった。

 病名を聞いた瞬間、俺の中で勝手に出来上がった未来は、『無』に等しいものだった。そう、彼女をなくすことは、自分が死ぬのと等しいものだと思っていたんだ。


「なあに暗い顔してんの!」


 医師の説明をぶった切って、伊織はばん、と俺の背中を叩いた。咳き込む俺を見て、彼女はげらげらと笑う。いつものように。いつもと、同じように。

 そのあと伊織は、積極的に自分の余命や生存確率を訊ねていった。数字はどれも、統計をもとに医者が勝手に決めたものだ。けれどそれは、ろくに当たらない天気予報よりも、よっぽど信憑性があった。



 今日から入院してくれても、という医師の言葉に首を振ったのは伊織だった。今日は家に帰りたい。伊織はそういうと、さっさと歩きだしてしまった。医師は、そんな伊織を止めなかった。それはきっと『個人の意思を尊重する』というより、『いまさら入院しても遅い』というニュアンスの方が近かったと思う。

 病院からの帰り道、伊織は饒舌だった。普段からよく話す娘だったが、今までで一番よく喋っている日だったと思う。俺があまり返事をしないせいか、伊織は一人で話し、笑い続けていた。話の内容はあくまでもいつもと同じ。今日の晩御飯から始まって、最近見た面白そうな映画の広告のこと、おいしかったお菓子のこと、本屋でエロ本を立ち読みしている爺ちゃんを発見したこと――。つまりは本当にどうでもいいことを、伊織はどこまでも楽しそうに話していた。

 自宅の最寄り駅近くにあるイチョウ並木は、不思議な黄緑色に染まっている。それは秋が近づいた合図なのか、夏が遠ざかった合図なのか。どちらなのだろうと、俺はふと思った。


「……ねえ」


 それまで止まることを知らなかった伊織の笑い声が、ぴたりと聞こえなくなった。イチョウの葉から、伊織へと目をやる。彼女は俯き、上目遣いに俺を見ていた。


「手、繋ごうよ」

「はい?」


 俺が間の抜けた返事をしたのは、手を繋ぎたくないからではない。伊織が、付き合いだした当初から『公共の場でイチャイチャするのを嫌う』タイプだったからだ。だから外出先でキスはおろか、手を繋いだこともなかった、のに。


「……だめ?」

「え、あ、いや、そんなことは」


 初デートの時のように慌てふためく俺の手を、伊織はきゅっと掴んだ。そして、満足そうに笑った。けれどその手は、驚くほどに冷たくて、そして――。


 俺が伊織を抱いたのは、その日の夜が最後だった。




「え、なんて?」


 テレビ画面を注視したまま、伊織は聞き返してきた。その「なんて?」が、ただ単に質問が聞こえなかったという意味なのか、『何馬鹿なこと訊いてるんだ』という意味がこもっていたのかは、分からない。


「いやだからさ、もしも、本当にもしもだよ。自分があと数か月で死ぬって分かったら、俺に何をプレゼントする?」

「えー……?」


 画面を見つめながらも、直感に頼る彼女にしては珍しく時間をさいて考え、


「現金」


 果てしなくロマンスのない回答をしてみせた。俺は頭を抱える。伊織が好んで見ている土10(土曜十時スタート)ドラマは今、『不倫相手の女性が、男性の家庭に押しかけ、奥さんの前であれこれ暴露する』というとんでもないドロドロ状態となっていた。伊織はそれに夢中で、俺の話を半分以上聴いていない。質問するタイミングを間違えた、と俺は激しく後悔した。


「……なに?」

「え?」

「もしも私がもうすぐ死ぬ人間だったら、プレゼントして欲しいものでもあるの?」


 誕生日プレゼントでも聴いてくるような軽いノリで、伊織。そりゃそうだと思う。彼女は、自分が『病気だった』ことも『死んだ』ことも知らないのだから。


「……特に何もない」

「なんだ、面白くない」


 面白さを求められてもなあ、と俺は抱えていた頭を掻いた。それから、ふと思いついて聞き直した。


「じゃあ、もしもお前が死んだとして。そのあとお前から、俺にロボットが送られてきたとする」


 俺の言葉を聴いて、伊織は顔をあげた。ドラマから目を離してくれたのかと思ったら、CMに突入したため目を離しただけのようだ。


「なんて? 時系列おかしくない? 死んだ後にロボット送ったってこと?」

「いやもうそこら辺は気にしないでくれ。とにかく、死んだはずのお前からロボットが送られてくるんだよ。すげー高性能でさ、本物の人間と遜色ないような」

「アンドロイドってやつ?」

「そんな感じの」


 もしもお前なら、どういう意図でそれを俺に送る?

 伊織の思考回路をインプットされた彼女に、これを訊ねるのは卑怯かもしれない。けれどやっぱり、どうしても知りたかった。

 伊織はやはりしばらく考え、それから俺にもう一度「そのロボットは本当に人間と同じことができるのね?」と確認し、性別を確認し、口を開いた。


「そりゃ、遺された旦那の性的なアレを心配して、じゃない?」


 果てしなく夢もロマンスもない現実的なことを言い放たれ、俺は床にへたり込んだ。伊織はそんな俺を見、眉をひそめる。


「え、なんでショック受けてるの? 『もしもの話』なんでしょ?」


 お前にとってはもしもでも、俺にとってはもしもではない。内心でそう突っ込んだが、もちろん伊織には聞こえていない。伊織は再びテレビへと視線を戻し、そこからしばらくの間無言になった。

 テレビは相変わらず、妻と愛人が罵りあうという素晴らしい展開を見せている。よくもまあそんなセリフ考え付いたなと思うくらい、昭和臭漂うセリフが時折混ざっていた。「泥棒猫」とか今時言うだろうか。昼ドラでも言わないんじゃなかろうか。

 ドット柄のパジャマ姿で床にへたり込み、ろくに目の焦点も合わない状態でテレビを見ている俺は、さぞかし滑稽なものであったろう。ちなみにドット柄のパジャマは、伊織とお揃いである。伊織が死んでから着ていなかったこのパジャマを引っ張り出したのは、伊織という名のアンドロイドに「私のパジャマがない」と騒がれたからである。確かに伊織は、昔からパジャマにこだわっていた。


「そういや慎吾」


 ソファに体育座りし、頬杖をつきながら、伊織は口を開いた。


「明日、なんか予定あるの」

「明日?」

「日曜でしょ」


 俺が曜日を理解していないと思ったのか、そんな返事が返って来た。彼女がこんな風に訊ねてくるときは、どこかに行きたいとき。というのは知っていたが。


「明日は出かける」

「一人で?」

「……ああ」


 俺がはっきりしない口調で答えると、伊織はちらりとこちらを見やった。それから、「どこに?」と訊いてくる。まあ、当たり前の質問だろう。俺は口元に手を当て、考えた。


「ええっとな」

「はいストップ」

「え?」


 口元から手を離して呆ける俺に、伊織は笑った。


「慎吾が『ええっとな』って言うときは、隠し事か、嘘つこうとしてるときでしょ。本当に、頭の回転遅すぎ。嘘をつくときは口先と脊髄反射で言わないと、そんなに考え込んでたらすぐバレるわよ」

「……流石だな」

「何年一緒にいると思ってんの」


 けらけらと笑う伊織に、俺は力なく笑い返す。彼女は不意に笑うのをやめると、上目遣いに俺を見た。続きを正直に話せ、ということらしい。


「……墓参りにな、行きたいんだよ」


 俺の答えに、伊織は首を傾げた。


「あれ、明日は誰かの命日だった?」

「いや、命日とかじゃないんだけどさ。大切な人だから、出来る限り行っておきたいんだ」

「ご両親のお墓……は、日帰りにしてはちょっと遠いよね。誰のお墓に行くの?」


 伊織きみの、とは言えない。俺は肩をすくめた。


「良いだろ別に」

「えーなに、本当にお墓参りなの? 実は不倫してるとか言わないよね?」

「言わねえよ!」

「じゃあ、私も一緒に行く!」


 その時ほど、俺が反射的に「だめだ」と言ったことはなかっただろう。あまりの剣幕に、伊織は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。

 しかし、こちらの気持ちにもなってほしい。故人の記憶データを持つ人間が、その人間の墓参りに行く、なんておかしすぎるだろう。

 ――そんな事情を一切知らない彼女に俺の気持ちを汲み取れということ自体、土台無理のある話なのだが。


「なんで? なんでだめなの」

「いやだって、伊織は行っても面白くないだろ……」

「いいじゃん! 久しぶりにデートっぽいことしようよ、デート!」


 デートが墓参りっていうのもどうだ。とはいえ伊織の性格上、ここまで言って退くことは絶対にないだろう。俺は溜息をついた。


「いいよ、わかった。んじゃ、明日の朝出かけるから」


 俺が降参すると、伊織は嬉しそうに頷いた。

 墓そのものに行くのは辞めよう。どこか他の場所で、それでも故人のことを思っていれば、それだってきっと立派な墓参りになるはずだ。『墓』じゃないけど。

 伊織はその後珍しく、弁当がいるかどうかを確認してきた。「別にいらないよ」と答えた後も執拗に、おやつはどうだの水筒がどうだのと、遠足のようなことを言っている。楽しそうで何よりです。俺は疲れました。


「んじゃ、俺は先に寝るわ……」

「うん、おやすみ」


 弾んだような、それなのにどこか引っかかるトーンで、伊織は笑った。



 その夜、夢を見た。

 俺は『俺』ではなく、カメラのレンズでも通すように客観的にそれを見ていた。

 布団にくるまった俺と、とんとんとん、と規則正しく聞こえる包丁の音。その音から、キッチンに立っているのは伊織ではなくカナタなのだということが、安易に予想できた。

 画面は切り替わり、キッチンに立っているカナタを横から映す。彼女は、一生懸命ネギを刻んでいた。くつくつと音を立てている鍋の中には、恐らく味噌汁が入っているはずだ。沸騰した湯にいきなりすべての具材を放り込み、ネギまで煮込んでしまう伊織とは違い、カナタはいつだって最後にネギを入れ、風味と触感を楽しませてくれていた。

 カナタは鍋の火を止めると、ちら、と壁時計に目をやった。そろそろ、俺を起こしに行く時間のようだ。


「……マスター、おいしいって言ってくれるかなあ」


 完璧な見栄えと完璧な味付けを誇る自身の料理を目の前にしながら、それでも彼女はそう呟いた。


「伊織さんには、勝てないもんな……」


 その言葉は意外だった。どこからどう見ても、伊織の料理よりカナタの料理の方が上手いに決まっている。恐らく、誰に見せてもそう答えるはずだ。なのに。

 カナタはふう、と息を吐くと、スリッパをパタパタと言わせて俺の元へと向かった。そして、布団ごと芋虫のように丸まっている俺に、声をかける。


「マスター、朝ですよー」

「うう……あと二分……」

「だめですー。叩き、起こしますからね」


 そうしてまた、ぽふぽふと間の抜けた音を鳴らしながら、俺の布団を叩く。布団の中の俺は身じろぎ、むにゃむにゃとした声を出した。


「じゃ、あと二分三十秒……」

「み?」


 カナタはまたもや硬直した。しかしいつもと違い、硬直しているカナタが何を考えているのかが、手に取るようにわかった。



 私に、そういう感情はプログラムされていない。それでも、好きだなあ、と思ってしまう。こういうやりとりも、彼の声も、こんないじわるも。

 本当は、思考停止のためにこんな長時間、硬直する必要はない。私の回路は優秀で、一秒以内に答えを導き出さなければ欠陥品として扱われるくらいだもの。それが、五秒も十秒も硬直しているのは、決して答えが分からないからではない。次に言うべきことはもう分かってる。それでも、私はすぐに、その答えを出さない。


 少しでも、彼のそばにいたいから。


 ――きっとおかしいんだろうな。アンドロイドがこんな風に思うなんて。もしかしたら、どこか違う回路が壊れているのかもしれない。もしもそうなら、マスターは私を修理に出すのだろうか。私は今度こそ機械的に無機質に、業務をこなすようになるのだろうか。

 このままでいたい、というのは私の独りよがりでしかないのだろうか。



 それからカナタはふっと微笑むと、「えと、えと……」と呟いた。




「慎吾ってば!」


 布団を引っぺがされ、その勢いでベッドの上を転がり床に着地した俺は、はっと目を開けた。天井の隅と白い壁、そしてそれよりも至近距離に伊織の顔が見える。


「もう何時だと思ってるの! 午前中に出かけるって言ったの、慎吾なんだから」


 遠くで聞こえる小鳥のさえずりと、窓から差し込む光が、俺に朝だと伝えていた。

 俺は少しずつ頭を整理しながら、ああ、と答えた。そうだ、墓参りに行くと言ったんだ。そのあとすぐ眠って、――夢を見た。

 伊織は、ふんと鼻を鳴らし、かと思うと俺の顔を覗き込んだ。そしてなんでか、困ったような、笑ったような顔をする。


「慎吾、泣いてんの?」

「いや……」


 俺は上半身を起こして力なく笑うと、窓の外に目を向ける。

 絶好の、墓参り日和だった。



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