ドリップ
三章 ドリップ
◯ 喫茶プチポート
古い板材が組み合わさった扉を、小湊が自宅らしく遠慮なく押し開けた。
そして黒木に先に入店するよう、手で差し示す。
「どうぞ、お客様」
「ああ、ありがと。おじゃましまーす……」
黒木は、心地良い高揚感を伴って、一瞬でありふれた住宅街から別世界へやってきたことを実感する。
カジュアルだが手の込んだ、古い木造蒸気客船を思わせる内装と、薫香に似たビターな焙煎香が、ほとんど馴れ馴れしいほどに黒木を包む。明るさは控えめで、目に優しい。
印象としては、硬派なのにどことなくソフトな雰囲気のある空間だった。誰の趣味と気質を反映しているのだろうか。
「いらっしゃいませー」扉を閉めた小湊が、心なしかいつもより質の良い声を出す。
黒木は、カウンターの奥の人物と目が合ったので会釈をしたが、相手の男性は口元を引き締めて、かすかに頷くだけだった。
そして男性は後ろの小湊を見て、必要最小限の声を届かせる。
「るぅ、あの席つかいな」カップを拭っている両手の代わりに、肘で方向を示した。
「はーい。ではお客様、お席にご案内」小湊は、にやにやしながら黒木を先導する。「あれが父さんね。いいかんじに緊張してるみたいから、きっと本気のコーヒーが来るよ」
「本気って……、なんかすごそうだね。構えちゃうな」
「ふふふ……どうぞ、当店をお楽しみください」
フロアは、少し下がっている。入り口付近にレンガが敷かれている分の段差だ。無光沢でグレーがかった板張りの床を踏みながら、手摺にも柵にも見える仕切りに沿って数歩。左手にカウンターが近づいてくるが、小湊は右側の、テーブルが並ぶ広い方へと進む。
結局、一番奥の、角の四人席に案内された。
壁には目を引く円形の窓が角を挟んでふたつあり、そこからの円い明かりが、線は細めだが頼れる精度を感じさせる木製テーブルセットに、一種の愛嬌を与えている。
「さあどうぞ、奥のほうが良いかな、順光だし」
小湊がまたボウイのように手で黒木を誘導する。
黒木は店内を見渡せる角の席に座った。
「ああ……。なんかいいね」
椅子は軽いが軋んだりはしない。生まれも育ちも良いようだ。テーブルの上には、紙ナプキンなど、ここが商業施設だと思い出させる品々もあるが、中央に置かれたオブジェがそうはさせじと注意をひく。
ほとんど食器に見えるほどシンプルな舟の模型に、小さな野菜らしき物体が積載されている。緑色のミョウガといったようなもので、リアルな質感からすると、フェイクではないかもしれない。
「あ、それ、変にかわいいでしょ」
と腰を下ろした小湊が、黒木の視線に反応して説明する。「エアープラントだって。根っこがなくて、そうやってコロンとしたまま生きてんの。ファンタジーだよね」
「へー生きてるんだ、これ。エアープラント……」黒木はそれを初めて知った。「じゃ、水は空気中から直接?」
「そうそう、霧吹きで水やるの」小湊が片手でジェスチャーする。「これ、名前忘れちゃったな……こういう観葉植物とかの名前ってさ、変なのばっかですごいよね」
「そうだね、パキラとか……他は思いつかないけど。あと熱帯魚の名前も大変だよね」
「あー熱帯魚かあ、もうそっちは余計思いつかないね」小湊が宙を見ながら笑う。
「わたしも、グッピーしか思いつかない」
「グッピー! そうあいつらね、共食いするからね、ああ見えて」
「え……嫌な情報だな」黒木は苦笑いを浮かべ、ふとカウンターの方を見ると、小湊の父親と目が合った。
彼は一瞬ためらった後、距離に応じてさっきより大きな声を飛ばす。
「るぅ……るぅ!」
彼は、振り返った小湊に、叱責の視線を送る。
「ああ、えっとね、私レモネード!」
娘の声を受け、父親は細かく首を振り〝お前の注文なんか知らん〟と言わんばかりだった。
小湊は、してやったり顔で黒木の方へ向き直った。「さあ、お客様、なんにします?」
「ああ、ホットコーヒーの……」
黒木はテーブルの端に立つミニメニューを見た。
どうやら産地等の分類はなく、焙煎度合いが浅、中、深と三段階あるだけだった。後にはぎっしり説明文が待ち構えている。
「じゃ、中煎りので」
「はいかしこまりましましたー」小湊は敬語をしくじりながら、また上体をひねり振り返る。「ホットM1!」
黒木は、店内に二組いる他の客の目線を一瞬だけ気にした。
◯ マスターと常連
コーヒーの注文を受けた店主、小湊篤也は、ケトルを火にかけた後、焙煎して一日寝かしておいた豆を挽く。いつもはよほど暇な時か、何か心に影のある時にしか使わない、手動のミルの出番となった。手際良く、しかし熱を持ちすぎない程度の早さでハンドルを回す。
とそこで、店主には何ら感動のない馴染みの顔が、店に入って来た。
「うっす……お、珍しいことやってんな」
その男は、ヨレた丈の長い黒ジャケットと品性に欠けるプリントのTシャツに、下は、裾が擦り切れつつある綿のズボンにサンダル履きで、持ち物は唯一、手提げ型のノートPCケースをぶら下げているだけ。という、あまり整った風体ではなかった。
がしかし、呆れたことに顔の造形がそれを肯定的な印象に反転させる場合も多いらしい。頭皮から出たと知る者は少ない、天然のワックスでまとめた雑な長髪を左右に垂らした、やや面長で彫りの深い顔が長身のてっぺんにある。今は、いかにも睡眠を嫌っていそうな表情をしていた。それはもちろん、同時に、睡魔からは熱烈に好かれていそうな表情、ということでもある。
この店へは主に弱った時にだけやって来る男――多賀良順は、仕事となるとそれなりに元気に褒められた活動をしているらしい。地域活性コンサルタントの元締め、とか何とか。
多賀は、地位も実績も臭わせない遠慮がちな存在感と歩き方で、指定席であるカウンターの最奥、店主のほぼ正面に、真横を向いて座った。
「俺の分も頼むわ、それ」
右肘をつき、タバコを出そうとして、店主の視線を受けて止める。長女の瑠璃が友人らしき女の子を連れて来ているのを、ちらと目の端で確認。
彼は色々と譲ることにした。「……ああ、じゃあそのコーヒーと相討ちで」
「しょうがねえな」小湊父は、すでに豆を追加して挽いていた。「邪魔してやるなよ」
多賀はカウンターでノートPCを開き、画面に顔を寄せた。それは声量を減らすためでもある。
「わかってるよ……るうちゃん、案外久々だよな? 友達連れて来るの」
見上げる視線を受け、小湊篤也は少し手を速めた。声は返さない。
多賀がついでに作業を始めながらつぶやく。
「まあ、同年代じゃ、なかなかわかんねえかもな……あの子の良さは」
「おい、お前……」父親が、理性の最終防壁に亀裂の入った声を出す。「不穏な物言いだな、ずいぶん」
「は? おい、ばかっ」多賀は失言したことを悟る。「そんなつもりじゃねえよ、被害妄想だぞ、それ」
「く、ふふっ……」小湊父は下を向き、口元を引き締めながらまた豆を挽き始める。
「あ……お前っ、この野郎……」多賀は、定期的にこういったことを繰り返して来たのを思い出す。「ずりぃんだよなー。だいたい、そんなマジ顔で言われたら絶っ対騙されるだろ。節度を守れよな、冗談にしてもよ」
「はあ、面白い」店主は、ついに微笑を浮かべた。「今日は、ツケでいいよ」
「……当たり前だ」多賀は、短いあご鬚をさすりながら作業に戻りつつ笑って喋り続けるという、器用な技を見せる。「言われなくても食い逃げしてやる。早く出せよ、もう。カップだけでいいから先に持ってこい。バリバリ食って逃げてやる。てえか、おごれよ」
店主は声は返さずに、息を漏らして笑った。
蒸らし終え、コーヒーはドリップの行程に入る。店主は銀色のケトルを持ち上げると、一定の高さで傾け、ごく小さく旋回させ始めた。お湯の細い線が、ネルに入った豆へ絶えず注がれ、微細な泡の面をもこもこ浮上させる。
「やっぱ、なんだかんだ言って最高だな、この席」多賀が香りにひかれてちらと顔を上げる。
小湊は、その動きに一切の誤差も出さずに言った。
「そういや聞いたか? 近所の、あの保育所の隣の内科な、食あたりで休業中だって」
「あの、じいさん医者のとこか。まあ見た感じ頑丈そうな人だけど……大丈夫かな」
「だから、今カップ食って腹痛めたら、危ないぞ」
「んなもん食うわけねえだろ――っと、ちと電話、ここで悪いけど」
多賀が携帯を素早く出して通話に入る。「あい、もしもしどうした? ……うん、ああっ……いやあのね、そこは急場じゃないでしょ、今俺作ってるの二時間後に送るから、途中のデータなら今送っ……た、はい。で本町さんの方は最終、俺が後で合わせて説明しとくんでそこまでで、いい。そっちはあれやって、役所用の説明資料。いい、うん、レイアウトまで、もっと詰めといて。あれで今残り三日って、やばいでしょ……」
通話をしつつ、多賀は何やら、店主に向かって苦笑と共にハンドサインを送った。
〝胃の薬、ある?〟
店主はそれを見て、ケトルを持たない片手を動かして応じる。彼らは手話をしていた。
〝ある。絶対に効かないのでいいのなら、例の内科に行けば〟
「だあっはっ……ああ、悪い、こっちの話……」笑ってしまった多賀は、慌てて電話の相手に注意を戻す。「ん、はい、うん、随時っつうか出来たらでいいよ。送って。……あ、今届いた? オッケ、はい、ちゃんと開けたね。おーしじゃ、よろしく……はい」
通話を終え、多賀は口を斜めにして店主を睨んだ。「やめろよなー、そういう、しつこいのに弱いって知ってんだろ……って、無視すんな」
コーヒーをカップに注ぎ、店主は黙ってまず、遠くの賓客へ運んで行く。
一方、多賀の笑い声を聞き、小湊瑠璃はカウンターに視線を向けていた。
「あ、多賀さん来てたんだ」彼女は、黒木への説明も怠らない。「多賀さんって、ここの常連さん。今忙しそうだし、話すのは今度でいいかな……」
「オーガさん? へえ……」
黒木は、心中穏やかではなかった。電話をしながら手話をして笑わされる人と、コーヒーをドリップしながら手話で笑わせる人(しかも今こちらへコーヒーを持って来る)とを同時に目撃したことで、かつてない衝撃と驚きが渦巻いていた。
◯ 黒木と小湊とキミ ナウ・インパクト
コーヒーは途方もなく素晴らしかった。生命力の輝く、豊かな香り。強いのに優しい、溶けていくような苦みと、繊細な酸味。立体的に調和した美しい旋律が、長く、澄んだ余韻を残してどこまでも広がっていく。
身体に浸透していく過程で、これほどに新鮮な驚きと感銘を受けた液体はなかった。
黒木は、自身が何か新たな存在に置き換わったような気さえしていた。
たぶん、これと混ざる前の自分と今の自分とでは、何かが、決定的に変わったのだろう。
非可逆で、しかし好ましい変化……。
浮遊・霧散した思考力もそのままに、この感動に至った経緯、あるいは構成要素を考える。
喫茶店までの道のり、外装と内装、店内の香り、小湊との会話、コーヒーを待つ時間。
何が核で、何がその取り巻きか、わからない。
感動の理由より、感動の目的を探してみる。
この感動を、自分はどんな収穫として取り入れて、進むのだろう。もしかしたら、こうした感動があるということを知って、信じて、胸にお守りのように抱いていく、それが、感動というものの最良の有効活用なのかもしれない。そしてこの感動というものの存在に、望めば、またいつでも触れることができる。それをわかって生きていられたら、きっと、心強いだろう。
塵芥ほどのわずかな一瞬――黒木はそうした、言語としては保存しきれない大量の思いを、頭と胸の中に、電子の移動の早さで巡らせた。
ふと、目を開けてしまうだけで、世界はまた黒木を無条件で包む。曖昧な思考の大部分は、時間と視覚情報の暴風に散った。
太陽が登れば、星々は嘘のように隠される。
強い青空を見上げても、その存在を思い出すことは難しい。
「……どう? おいしい?」と小湊が、興味津々といった様子で聞いてくる。
「うん……おいしい。最高」
黒木は、実は口を開けるのも何だかもったいなかった。
「そっかー、すごい、なんて言うか、染み入ってるみたいだね――あっ、あ、キミだ」
小湊が目を大きくしている。視線は、黒木の肩の後ろ、窓に向いている。
しかし黒木も、その存在に気づいていた。テーブルに落ちた楕円の光の中、ひょこっと影がのびていたのだ。
振り返ってみると、窓のすぐ外に、水色の小山があった。
それは、タオルを頭からかぶって顔を隠すキミだった。
じいっと黒木が見ていると、そのタオルに、そうっと隙間が開いた。
そこから現れた両目。窓ガラス越しに、キミと目が合う。
が、直ちにタオルは閉ざされた。そしてゆっくりと、水色の小山は窓の下へフレームアウトしていった。
「ああ、行っちゃった」
黒木は完全に見えなくなった切なさに絶えきれず、窓に顔を寄せた。そこで、このガラスは完全な平面ではなく、ほんの少しだけうねりがあるようだ、と無意味に気づく。
「あれー、もういないみたいだ……」
黒木は諦めて席に座り直す。「今、おばけがいたね」
小湊は無邪気に笑った。「おばけじゃないよー、今のがキミだよ」
計ったように、ここで扉が開く。
「ただいまー」
キミが颯爽と入店した。水色のタオルを堂々と肩に羽織っている。
さては走ったな……それもかなりの全力で、と黒木は読んだ。
「うっす」
という多賀の軽い挨拶を受け、キミは通りすがりに「なにコーヒーなんか飲んで、生意気。カフェインと農園の人に謝ったほうがいいよ」と言い捨てた。
「ぶっ、ひでぇ、なんだそりゃ」多賀が吹き出して笑う。
「キミ、口悪いな、うがい手洗いしてきな」父が厳しく、ふざけたような組み合わせで言う。
「おっと失念してた」
キミはくるっと方向転換し、カウンターの中に消える。あっという間に、水色の小さな突風は過ぎ去った。店内に、それまであった平和が戻り、それまでになかった退屈もやってきた。
小湊が、満面の笑みを黒木へと向ける。
「あれがキミ。へへへ……いいでしょー、あげないよ」
「ええ? それは、残念かもしれない……」
黒木は、かつてない生き物を目撃して、不思議と、心中穏やかに安らぐのを感じていた。
◯ 旋風、ウェイトレス
父親は、戻って来た小さい方の娘キミに、ちょうど用意し終わったレモネード(スライスレモン抜きの身内仕様)と水を一杯づつのせたトレイの配送を任せた。
その際二人は「ん」と一音づつ発して、依頼・受領の手続きを瞬時に終えていた。
「ちゃんとうがい三回したか? そもそもうがいの効果って、医学的根拠は薄いらしいけどな」
トレイを持って厨房を歩くキミへ、そう父親が確認するとともに、日々の習慣に潜む疑いの余地を提示する。
「うん、一回で済ませた。医学的根拠に乏しいから」とキミは返して、フロアに出る。
「なんだよ、そしたら手洗いだけでいいんじゃん。うっす」多賀は作業に集中しつつ挨拶してカップを持ち上げて飲む。
「うっす。多賀くん」キミが歩調を緩め、彼の耳元へ確かめるように言う。「……ちゃんと、謝った?」
「……ぶっ!」多賀はPCに被害がないことを慌てて確かめる。「ばか、飲んでる時に!」
「だめだぞ、キミ……」父親が明らかに上機嫌な目で叱る。「あっちだけはあまり邪魔しないでおきなよ」
キミは父と目を合わせて頷き、配送に戻る。
「わかった。ごゆっくりどうぞ多賀くん」
「おう……。おい、あっち〝だけは〟ってなんだよ。俺は対象外か」多賀は店主とキミを一瞥して、また作業に復帰。「……ったくお前ら、本っ当に親子だよな」
「当たり前だろ、不穏なこと言ってんじゃねえぞ。累計のツケ全部払え」父親が凄む。
「やめろ、もう……」多賀は降参のポーズをした。「無限にふざけやがって……」
◯ 黒木と小湊とキミ クリエイション
大人の男達の戯れを尻目に、キミは目的のテーブルに到着した。
「お飲物、お持ちしました」
先に水を黒木に近いところへ置き、続いてレモネードを姉に手渡し。
席の二人はそれぞれ礼を言い、姉が黒木の顔色を伺いながら妹へ聞いた。
「キミもそっち座ったら? ちなっちの隣」
キミはフリーズした。縦にしたトレイを小脇に抱え、空いたもう片方の手がそのトレイの縁をつまんでいる。タオルはうがい手洗いの時に置いて来ていた。
黒木は、なるべく早く自分の無害さをプレゼンするべきだと感じた。
「私も、それはすごく賛成。是非どうぞ」右手で隣の椅子の背を引き、左手で座面を指す。
キミはすぐさま、まず声だけで応えた。
「お気持ちに感謝してお言葉に甘えます」
ああ、この子も緊張が発言となって表現されるタイプかな、と黒木は錯覚した。
「父さんに飲み物もらってくれば良かったのに」との姉の声を受けつつ、キミは勧められた席に座った。トレイは、姉の隣の座面に置かれた。
「あわよくば姉に分けてもらうからいい」キミは椅子ごとテーブルへ近づき、左上に顔を向けて黒木を見た。「こんにちは。……大丈夫ですか?」
「えっ?」黒木は頭脳の最大加速・最高回転数に挑んだ。「あーうん、大丈夫だよ。好きなだけ居て、良かったら色々聞かせて。飲み物とかも大丈夫、このコーヒーさえあれば、万全」
「……はい」二通りの返答を受け、キミは瞬きを数回重ねた。「あと姉と……友達でいることについては?」
「えっ」黒木と小湊が同時に声を上げた。
「あ……小湊キミです、妹です」キミは腰から会釈した。「姉のこと、感謝します私からも」
「ああ、いやそんな、かしこまらなくていいよ」黒木は少し慌てながらも、微笑ましい記憶を目の前に重ねていた。
「黒木ちなです。こちらこそ、お姉さんには、いつも世話になってます」
「え、本心から言ってる?」小湊が冗談めかして聞く。
「もちろん、嘘だけど」黒木は期待に応えておいた。
小湊は口を引き締めて笑った。「せめて社交辞令とか、ソフトな言い回ししてよ」
「黒木さん、姉と親しくしてくれて、今この近辺の誰にとっても本当に素晴らしく良いと思います」キミの声質は、ずっと柔らかくなっていた。「でも、無理はしなくていいですからね、完全に能動的でない限りは」
黒木は、その長い言葉の意図を咀嚼しながら小湊と目を合わせた。小湊は、肩と口角を上げてストローをくわえる。
キミを見ると、早くもリラックスした様子で、ゆるく組んだ手をテーブルの上――窓からの光がつくる自分のシルエットの中にのせていた。黒木の視線を受けて、少しだけ肩をすぼめる。相対的に光の面は広くなった。
ひとまず黒木は、心のままに返事を送ることにした。
「うん……よくわからないけど、ありがと、大丈夫。最近楽しいし、心配いらないよ」
「喜ばしいです」キミはわずかに目の下をふくらませ、ますます輪郭の淡い声を出す。「黒木さん、敬語じゃなくていい?」
「わあ、うんもちろん、そのほうがいい」
黒木は目を大きくして、上向きに頷いた。
◯ 黒木と小湊とキミ 弛緩膨張思考による速射砲
それはセーフティロックの解除だった。黒木は間もなく、小湊より量を喋る人間を発見することになる。
「姉……黒木さんとどんなことを話してたの?」キミが早速トピックスを引き出す。
「なんだっけね」小湊が時間稼ぎの言葉を前置きした。「あ、遡ると、そこのエアープラントの話も一瞬した」
三人の視線が、ぽつんと船に乗る根無し草に集まった。
「ああ、これも面白い生き物だよね」黒木が意識的に発言する。「キミちゃん、これの名前、知ってる?」
「固有名詞? 学名とか?」キミが植物を見たまま聞いた。
小湊が自慢げに言う。「そうそう、キミなら鮮やかに答えてくれるかもよ」
「うん、覚えてたけど忘れた」
「あれ」二人が首を傾げたり、がくっとさせる。
「けど知るところによると、母さんは〝ツンツン〟って命名してるらしい」
「えっ」二人が声を上げる。「知らなかった……」とは小湊の声。
「だから、黒木さん……」キミが黒木の目を見上げる。「今日のところはツンツンということで、ひとつ……」
「いや、なにその妥協案」すぐさま姉が言った。「何の解決にもならないし、ツンツンとか、余計な謎が加わっただけじゃん。ていうかキミ、黒木〝さん〟ってさ、敬語のはんちゅうじゃない? もっと適切に、フレンドリーで麗しい呼び方しなよ」
「え……」キミが視線で伺い、黒木は、眉と肩と口角を軽くあげてゴーサインとする。
キミは誰もいない正面を向き、あごの先に拳の角を当てた。
「そっか……黒木ちなさんの、新しい呼称ね……難しい」
「もちろん、私の〝ちなっち〟っていうのはだめだよ、特許だから」小湊がうそぶく。
「となると……この四つではこれが一番いいかな」キミは拳のスナップで顔を黒木へ向けた。「くろきんとん……というのは?」
何らかの連続性が、一拍だけ休んだ。
「あ、だ……」だめだ、と即座に言いかけた黒木は、腹筋で辛うじて留めた。「だーいじょうぶ、かも……」
「だめだってさ」小湊が笑いながら真実を告げる。「私もだめだと思うよ……、面白いけど、ちょっとだけ長い」
「そっか。長いのは、あとあと大変だもんね……」
キミがまた一瞬宙をみつめて、再チャレンジ。
「ちなもん……」そして即断した。「うん、だめだね、わかるようになった。進歩進歩」
二人は、じわりと声もなく笑い出す。
「思ったんだけど……」キミが、誰へともなく言う。「〝栗きんとん〟と〝シナモン〟って、合いそうだよね」
「えー、大脱線……」小湊は本格的に笑い始めた。「いいよそんなこと口にしなくて、思ったままで留めておきなよ」
「確かに、結構合いそうだけどね」と黒木が笑顔でフォロー。
「もー、ブレずに前だけに進み続けるなんて、天体の動きくらいなものだよ」キミは姉に向けて口を尖らす。「いま代案を考える間にもうちょっと言わせてもらうけど、この宇宙にたくさんある船のひとつに居る私たちは、転覆させないようにある程度船員達や船体をメンテナンスしながら、あとはそれぞれ楽しく旅と向き合っていけば良いんだと思うし、それはどんなスケールの船でもきっと似てるはずだよ」
「だから……自分で実証してるけど、長いのは大変でしょ」小湊がたしなめる。「主張の核心部分がわかりにくいよ。もっとコンパクトにして」
「じゃあ、うるさい」
「主張そんだけ!?」
「船は大規模になるほど混乱が起こりやすい、というのは指揮系統が末端まで届いていないことが原因の内で大きな割合を占めるとする、とその前提でさらに例えれば、もし脳が指先を思いやらなかったら、もちろんすぐに怪我をするし酷い場合はその怪我にさえ気づかない。でも小規模な今現在の場合なら、脳は指先の表情も考えもこうして目の前で見てわかっているはずなんだから優しく扱ってくれないと困るよ、というのが主張かな。ああ、だめだ、いいの思いつかない」
「わあ……これ、良かったら飲んで」
と黒木は、キミの方へ水のグラスをスライドさせた。
「はいはい降参。まったくキミったら……」小湊は目を逸らして、レモネードを揺らす作業に退避した。「相変わらず見せてくれるね……、思考のフロンティアの向こう側をさ」
「ありがとう、ちーちゃん」キミはグラスを取って小さく二口飲んだ。「水、好きなんだ私」
「って危な、スルーしかけた」小湊が慌てて背筋をのばす。「ちーちゃんなの? ちーちゃんでいいの?」
「ああ、私はいいよもちろん」黒木は平然と流す。
「もっと麗しいのを思いつきたかったけどね私も」キミはグラスを置く。
「ええー」小湊は不満そうだ。「結局ふつー……」
◯ 黒木と小湊とキミ ゆるめしめる
「ていうか騙されちゃだめだよ、ちなっち」小湊は、びしっとキミを指差す。「長いこと色々言ってたけど、こんなの偉くもすごくも何ともないよ。最終的に何言ってるかわかんないし、単なる編集能力の欠如だよ」
「それは、いなめない」キミが素早く返し、黒木を見る。「残念ながら、油断するとついついやたらと喋っちゃうんだ私って。本気になったときもだけど、基本的には、ゆるむと際限なく喋る。さながら蛇口のような口」
「ええ……そうなんだ。油断が原因なんだ……意外だった」
「私は逆なのになー」小湊がレモネードを飲み干して言った。「油断すると口数減るっていうか、発言が短くなる」
「ああ、そんな感じかも」黒木は、そこでキミに聞いてみた。「それじゃ、キミちゃんは緊張するとどうなるの?」
「緊張って、転びそうになった瞬間とかにするやつだよね?」とキミは確認する。
「え、そういうのも、あるか……」
「ほら、全身に緊張が走るって感じで」
「キミって緊張っていうか、アガることって無いらしいよ」
「そうらしいよ」キミは同調した。「皆無ってほどではないけど、確かな実感が得られるほどでもない。不安の一種みたいなものだよね?」
「うーん、ざっくり言うと、そうだろうね」黒木は首をかたむけた。
「なるほど。じゃ、ち―ちゃんは油断すると、まずどこからボロが出てくるの?」
「緊張方面は聞かないんだ」小湊の横やり。
「後回し。先に共感可能な方から」
「そうだなあ……」黒木は考えてみる。「普通だと思うよ、いろんなとこからボロが出るね。あと言えるのは……割と、いつもよく油断してるかも」
「あ、そうそう」小湊が嬉しそうに、思い出したことを話す。「ちなっちね、初めて一緒にお昼食べた時、私のカレーを一口食べるのに、自分のデザート用のスプーン使って、いざデザートを食べようとしたときに困ったりしたんだよ」
キミは、おおむね把握できたようだ。「へえ、それは結構うっかりピンチだね」
「私にとっては、あんまり面白くない話だなあそれ」
黒木は苦笑して、コーヒーを飲み終える。つい、カップの底を見つめてしまう。
「でさキミ、その時ちなっちは、どうしたと思う? あ、私はデザートスプーン無いよ、替えの新しいスプーンなどは一切ナシ。カウンター遠かったから」
「そう……、じゃあデザート次第ではあるけど、持ち帰ったか、ストローで吸ったか、カレーを受け入れたか。くらいかな」
キミは、どうやら当てる気では言っていない。
「違うんだなー」姉はご満悦だ。「正解は、スプーンを、飲み干したグラスに残った氷の中に突っ込んで湿らせては拭く、という涙ぐましい方式でしたー」
「そっか、良いね。氷を再利用できて素敵だね」キミは納得した様子だ。
黒木には、妹の献身的なトスによって姉が気持ちよく無駄話を円満に終えた、というふうに観察できた。適度に攻守が入れ替わる、いい組み合わせの姉妹なのかも知れない、とも勝手に思える。
黒木は、氷が少し残った小湊のグラスを見て、言ってみた。
「……そういえばさ、るぅって、氷好きだよね。姉は氷で、妹は水が好きって、なんだか微笑ましいね」
「おお、そっか、そうだよね」小湊は嬉しそうに身を乗り出す。「じゃあ、また次の妹が生まれたらさ、その子はきっと、お湯が好きだろうね」
姉の視線と言葉を受けて、キミが連携する。
「もしくは……スチームサウナとか」
黒木は、溶けるように笑った。
「この仲良し姉妹め」




