スイート・ドーン
二章 まだ眠い季節の中
◯ 朝、迫る初戦の刻
興津はあの日から、常に左耳にイヤホンをはめて生活するようになっていた。田又まりんの神託をいつでもこっそりと聴けるようにと。
しかしこの半月の間、まともな情報は一切なかった。ただその分、田又まりんが退屈を紛らわす為にこぼす、心ない小言、嘲笑、そしりのいずれかは絶えず聞こえていた。
『コウヅ、起きなさい』
興津は、苦しそうに呻きながらベッドの上で寝返りをうった。平日の休日(授業選択の調整によって)の朝七時に起きる機能は、彼には備わっていない。
『起きなさい。起きなさいって。ねえ……、起きろよ。今すぐ起きないと貴方の大好きな甘ったるい声を流し込んで、鼓膜をコンポートにしてやるぞう。おい、ねばってんじゃねえ、反抗期とか似合い過ぎてて笑い転げるわ。……よーし、いいでしょう。それじゃ、今から生涯忘れ得ぬ悪夢を見せ尽くす』
「うるせえなあ!」興津は腹筋の瞬発力で起き上がった。「本気で起こす気なら大音量一発でいいだろうが! なに小さくじわじわ甘い声を荒い口調でささやいてんだよ、このっ! 夢の中で困惑したぞ!」
無駄なこととは知りつつも、興津は携帯を消音のため手に持ってから数発殴った。
『ざまあです。さて、コウヅ、喜びなさい。そのほとばしる若さを、ついに正義の為に使う時が来ましたよ』
「喜べだって? うるさい……お前が取り憑いてからというもの、ボクの感情から喜怒哀楽の半分が消失したんだ……。返せ、返せよ喜と楽を……」
『やだ。さあコウヅ、まずは顔を洗いましょう。涙だけで洗顔を済ませるわけにはいかないでしょう』
「やかましいわ……」興津は、しかし悲しいかな、半ば無意識で声に従う習性が染み付いていた。部屋を出て、各種生活雑務をこなす。
そして朝食中、母親に声をかけられた。
「ミノル君、今日おデートなの?」
興津は、肩越しに返事をしようとした。
『むしろデートじゃない日なんてない。という返答をオススメします』と即座に左耳に声。
「……デートじゃないよ母さん。こんな無駄な早起きが必要な交際をするほど、ボクは、堕ちちゃいない」
興津は自虐的皮肉に哀しい微笑を添えた。
『はあ? よくもまあ言いますわ。ウザダサですね。よっ、恥知らず!』
息子の悲況を知らない母は、小首を傾げてイヤリングを揺らした。
「そうなの? まあ深くは聞かないけどね。でもダメよう、女の子を泣かせちゃ。女の子に優しくするのは、美少年の宿命なんだから」
『お母さん、貴方もけっこうアレですね。これぞ負の遺伝子、いえい。と言ってやれ』
「この……っ」興津は奥歯を固く嚙み締めた。「ゴホッ、ゴホン。……お母さん、仕事でしょ、早く行きなよ……」
「っとと、そうね。もう行かなきゃ。それじゃ……あ、後でメールしようと思ってたんだけど、今日二時くらいにお手伝いさん呼んであるから、その頃ミノル君、家にいてくれる?」
『やかましいわ、居るっつうの。だって今日は、お母さんの口紅に瞬間接着剤を仕込むんだもんね。と言え』
「ああ……わかった、居るようにしとく」
「ありがとう助かるわ。それじゃよろしくね、行って来まーす」
それから興津は黙々と、心理作用によって食物の味が悪くなるメカニズムを実感しながら、残りの朝食に取り組んだ。途中、たまたまりんに何度もしつこく急かされた。
『急いでください。可及的速やかに。さあ……早く。早く飲め。嚙むな。飲め』
◯ 黒木と小湊 スムース
「おはよ」と軽く言い合って、小湊が席に着いた。
「今さらだけどさ、黒木さんスケボーで通学って、かっこいいね」
「わあ、本当に今さらだった」黒木は目を大きくした。「何日寝かせた感想なのそれ」
「たぶん十日以上は熟成されてるね。それだけ深みのある感想だよ」
「んん、朝からありがとう。電車通学っていうのも、大人っぽくていいよね」
「確かに、大人たちをたくさん見られるよ。でも彼らは、学割定期という神の恩寵は受けられない」
「へえ、大人は大変だね」
「うん、でも若くても電車すぐ飽きるのは一緒。もう単なる素早くスライドする箱って感じ」
「わたしも、スライドするのは一緒だよ」
「おお、朝からありがとう」
「そういう〝上手い事言いますねえ〟みたいなリアクションやめて、恥ずかしいから」
「えー? そう? 素直に照れてればいいのに……」
◯ 接敵
「ごちそうさま……」
興津は食卓に肘をつき、左耳のイヤホンを指先で押さえた。「おい田又まりん、それで一体ボクに何させるつもりだ?」
『それではブリーフィングに入りましょう。(緊張感のあるBGM)――昨夜、ふたふたさんまる(午後十時半)に、一対の悪の接近を検知しました』
「なんだよ……一対って、二人ってことか? ってか、悪ってお前のことだろ」
『はーいはい。さて、接近行動は検知とほぼ同時に止まり、該悪性体は非生物であることが予想されます。時間的にみて、恐らく、あの母親によって持ち込まれた物質でしょう』
「おい、ちょっと待て。何、母さんが持ち込んだ? 大丈夫なのかよ。しかももうこの家ん中にいるのか」
『安心なさい、現在のところ母親は無事です。が、家にこのまま置いておけば当然危険です。さあというわけで、探し出して討ち取りましょう!』
「いやいやいや、ちょっと、まず教えてくれよ。そもそもお前の言う悪ってなんなんだ」
『そうですね、少し教えてやりましょうか。我が悪と指しているものは、それこそ、一種のウイルスとも言える形で現れ、この物質世界のあらゆる生命、非生命に取り憑きます』
「それってやっぱりお前じゃないか」
『だまれ。告白メール拡散させるぞ』
興津は完全に沈黙した。
『さて、奴ら悪の目的は、この世界における不幸の増幅と定着、そしてその運営です。奴らは、知的生命の苦しみを絶えず摂取していなければ生きていけない存在なのです……なんと厄介な、憎むべき存在か、コウヅ、貴方ごときでも分かるでしょう』
興津は、心の底の底から同意し、激しく首を縦に振った。自分を支配する物に向かって。
『いざ、悪の撃破へ。立ち上がりなさい、コウヅ。……もう喋っていいですよ』
興津はダイニングチェアから立ち上がった。
「結局さあ、今から探すやつの特徴については、情報皆無なのか?」
『いいえ。我は知っていて敢えて教えないのです。さあ、いざ進めキッチンへ』
「なんだよ……武器の調達か? 大丈夫なんだろうな、言っておくけどボクは物理的な戦闘能力なんてほぼないぞ」
『大丈夫です、我は勝てる戦しかしません。今回の悪は言わばレベル一の雑魚ですね』
「まあ……そんならいいさ、早く無事に片付けよう」
興津はとりあえず手頃な包丁を手に取った。
『コウヅ、今は武器を置きなさい。まず振り返って、戸棚の中を見なさい』
「え? なんだよ……」声に従って何カ所か戸を開けていくと、見慣れない箱が現れた。
『お出ましですね。ではその箱を、ひとまず調理台へ』
「これ……? これって、おい、お前……」
『いいから早く調理台にのせなさい』
箱は、立方体をふたつ繋げたような形で、高さ十×横幅二十×奥行き十センチといった大きさだった。色は薄いうぐいす色で、持ってみると、五百グラムほどの重量があるようだ。調理台にのせ、声に従って蓋を開けた。
中には、短く祝言の書かれた紙きれの下に、握り拳大の半球体がふたつ詰められていた。
「で……この紅白まんじゅうに何の用があるってんだ?」
◯ 黒木と小湊 なになにのなになに
休み時間になった途端、水を得た魚のごとく小湊が黒木に話しかけた。
「ねえねえ、日本の歴史上の人物でさ、苗字と名前の間に〝の〟って入る奴ら、いるじゃん。小野妹子とか、小野小町とかさ」
「うん、いるね……奴ら呼ばわりはどうかと思うけど。なぜか小野推しだし」
「でねでね、現代ニッポンの言葉で、そういう〝の〟と相性の良い言葉を見つけたんだ」
「へえ、どんなの?」
「もぐら叩き」
「えっ……」黒木は嫌な予感がした。
「もぐらのタタキ」
「うわちょっと、なんか料理っぽい……かわいそう」
「ワラを燃やした炎で炙るんだよ」
「想像を促すな!」
◯ 若き新聞記者の苦悩
仁藤慶太が廊下をふらふらと歩いていると、一人の少年が背後から近づき、その揺れる肩をむんずと掴んだ。
「ニッケイ、だいじょぶかよ?」
「わ、びっくりするなー」仁藤は半目でゆっくりと振り返った。「もっと平和に話しかけてくださいよ」
「平和ボケしてんのが悪い、ってかお前、目の下クマすごいな。同学年の奴のクマとか初めて見たわ。クマってお前相当ビビるな、色とかこわ、ホラーだわ」
仁藤はここで、今友達に話しかけられているという現状を把握した。相手の言う内容は、ほとんどが頭を透過して後方に去った。
「え、ウソ? クマか、そりゃクマったなあ。でも大丈夫だよ」
「いやダメだな、保健室送りだわ、その返しっぷりじゃ。てかお前寝てんの最近?」
「寝てる寝てる、そんな大げさに心配いらないよ」
「心配するよ、最近誰とも遊んでないらしいし塾も来ないじゃん」
「色々あんだよ、取材法の勉強とか、準備とかさ」
「いやなにそのちょっと偉い感じ。なんか行き過ぎだって。もっと気楽にさ、小学生ライフをエンジョイしろよ」
「してるよエンジョイ、その結果が今だよ。ホントに」
「いやでも、クマ作る青春ってどうなのって話だよ」
「そんな見た目ほどじゃないんだって、内部はすごい元気だからオレ。ほら、地球だって内側マグマでしょ? その勢いだから。太陽だって表面に黒点あるでしょ? 以下略だから」
「オーバーヒートだろ完全に。まあ、元気ならいいけど、無理しないで人並みに寝なよ?」
「わかったよお母さん。で、何? オマエも新聞見て来たの?」
「そりゃとっくに見たよ。それじゃなくて、単に様子気になっただけ。てかお前、小湊キミと話したんでしょ? 次号から連載始めるとか書いてあるし、キミさんと今どんな感じでやり取りしてんの?」
「ああ……そっち、そういう事ね」
「な、なんだよ、お前、たまにそういう知能犯みたいな反応するよな。知能悪用すんな」
「いや、ごめん、その類いで聞かれるのもすんごい多かったから最近。ちょっとうんざりが出ちゃった」
「まあそっか、そりゃだろうね。でさ、疲れてるとこ悪いけどさ、俺にも教えてよ。どんな感じ? ねえどんな感じな感じ?」
「ごめんホントねー、新聞に書いてあるのでほぼ全部なんだよ。新連載についても、実はまだ本人に言ってないからね……何か怖くて」
「ええ? あー……何? マジな方なんだ、マジ隠しか。あれだろ、約束でしょ? 誓ったんでしょ?」
「いや誓ったってオマエな……現実はそんなおもしろおかしくなんかないんだって。冷静に考えてよ、オレが記事にさ、全部あったことを残さず書かないなんておかしいじゃん」
「うわ……お前のそのジャーナリスト精神は知ってたけど、そこまで言い切るとは。なんかかっこいいな」
「でた、オマエ、たまにそういう手使ってくるよな……おだて戦法だろ」
「いやいや本心だって、心のドン底からそう思ったの」
「はあ、わかったよ。もうホント些細なことだけど、オレの個人的な手応えっていうか、感想ね」
「おーおー、いいじゃん。聞きたい聞きたい」
「そうだなあ……。別に、記事にもならないもんだよ……? そうだなあ……」
「じらすなあ、まだ? ねえまだ?」
「何て言うかな……もしかしたら、怒らせちゃったかもしれない。散歩の邪魔しちゃったから」
「おい、マジか、キミさんがかつて怒ったことなんて……お前それ、観測史上初だぞ」
「だから、かもしれない程度だって。表面の感情ほとんど無いじゃん、キミさんて」
「それは確かに、観測所っていうか、俺らもそういう見解で今は落ち着いてる」
「え……。まあ、なんつうか、今思うとね、オレの扱い方がさ、後半あたりから、もしかしたら敵意とかあったような感じかなー、と解釈できなくもないんだよね」
「なんだよ、曖昧だなー。まあさすがに、記事にならない部分だわ」
「でしょ? でもまあすごい楽天的に捉えると、敵になれたらラッキーかも知れない。あの人、ある意味あまのじゃくとも言えるしさ」
「違う、予測不能なんだよキミさんは。予測しようとするのが、おこがましい。だから逆にあれかもよ、ニッケイ、お前もしかしたらキミさんに気に入られたのかもよ」
「え……うわ、なんだろう、むしろその場合の方が何か怖いわ。まあ、無いだろうけど」
「……自分で言っといてだけど、憎しみがわいてきた」
「オレもさっきから恐怖心がわいてきてるよ、オマエやオマエの属する組織に。……わかった、余計妬まれそうかもだけど、これも言うよ、じゃあ」
「お、おお、何だ? 嬉しいような、聞いた結果殺意が芽生えそうな自分が恐いような……」
「いや、やっぱナシで。大したことじゃないから」
「いい、いい、言えって。まず言おう、とりあえず言ってから考えよう、マジで」
「こわ……オマエ、目血走ってるぞ。命は保証してよ、ホント」
「いいからもうそういうの、パッと言おう、まず言えば何もかもだいじょぶだから」
「う……あの、小湊さん、ね、何か苦い……焦げた感じの匂い……してた、かなーって……」
「は? なに。焦げてたって?」
「いや、なんかそういうような、その、匂いが、少しね……」
「はあーあ? マジかよ! なんだよそれえ。ぬっるいわー」
「え、ええ? なんで、そんな勢いよくガッカリしてんの……」
「なんでって、それコーヒーでしょ?」
「え? 何が……何、コーヒーって?」
「なーもう! 匂いだよ、それコーヒーの匂いだろって!」
「……あー、かな? そうかも、うん、そんな感じだった……いや、え? なんでそれ、わかったの?」
「お前本気で言ってんのか。キミさんち喫茶店だぞ」
「え……いやウソ。うわ、でたよまたっ、ははははは!」
「マジだよ。……うん、本当。場所とか、結構有名だし。今度こづかい入ったら行く? 一緒に」
「いやいやいや、それ、だって、え……ウソじゃん。えっ、それ、すごい、取材できるじゃん。いやってかさ、オレがさ、そんなさ、基本的な情報をー……調べ損なってたなんて、そんなわけ、ホントないしさ。てか、さ。え、ウソでしょ……?」
「本当だよ。皆に聞いてみ? あ、やだなーお前! いいよそういうノリ……いや、え? 本気で知らなかった……? 本気で!? うわ、いや、あー……そっ……かあ。なん、何……頷いてるの? 頷いてるのかそれ。ああ、知らなかったの……そう。あの、ごめんな。いや違うわ、その……そう、頑張れ。うん……それじゃ、あの……俺あれだから、またな」
……それから、静かな七分が経つと、仁藤は保健室へ行き、放課後まで眠った。
◯ 黒木と小湊 つぎたしつぎたし
休み時間、ふと目が合った瞬間、小湊が言った。
「うなぎなう」
「どうした急に?」
「あのさあのさ、うなぎ屋さんのタレってさ、何十年も継ぎ足しされてるよね」
「老舗とかで聞くね」
「そこで、考えました。うなぎのタレ以外の、継ぎ足しメニュー案!」
「……頑張って聞いてみるよ」
「発表します。生――」
「あ、もうダメだ」
「――卵かけごはん!」
「うわあ……」
「半分ほど食べたら、別のごはんの上にかける」
「え……ごはんもろとも引き継ぐの」
「そう。この〝生卵かけごはんかけごはん〟を、半分ほど食べたらまた別のごはんの上に――」
「限りなく薄まってく……」
◯ まんじゅうの恐怖
キッチンで紅白まんじゅうの箱を開け、憮然とする興津。その左耳に、やや興奮気味の声が届く。
『これこそが、即刻撃破すべき対象、悪に憑かれし紅白まんじゅうです』
「そうか……よし、わかった。おやすみ」興津はフタを閉めた。
『こらボケ何やってんですか。ブログに気色悪いポエムをアップしますよ』
「もーいちいち脅すなよ!」興津は引き剥がすように再びフタを開けた。「こんなふざけたことの為に早起きさせたのか……。泣かせたいのか。お前は、ボクを泣かせたいのか」
『もちろん泣かせたいですが、ふざけてはいません。大真面目に、このまんじゅうが悪だと言っているのです。いい加減、もうすこし早く理解して欲しいものです。頭固いですよ』
「理解しろってのが充分ふざけてるんだって。このまんじゅうの、どこがどんなふうに悪なんだよ。まず納得いく説明をしてみろ」
『いいですか、このまんじゅうを不用意に体内へ摂取すると、悪いことが起きるのです』
「なんだよ悪いことって。お腹壊すとか言ったらお前をこのまんじゅうに埋めるぞ」
『そんなぬるい悪じゃありません。人によっては死に至ります』
「はあ……? そんな……毒でも入ってるのか?」
『いいえ、成分等は正常です。もっと物理的に、喉に詰まらせれば窒息死に至る恐れがある、ということです』
「……よし、待ってろ。今まんじゅうの包装剥がして埋めてやるから」
『冗談はさておいて。この説明をするには、少しスケールを拡大して話さなければなりません……埋めたらまんじゅう爆散させるからな』
興津は白まんじゅうのビニールを剥いたところで止まった。
「はあ……いい加減、本当に頼むよ……説明として成立させて今度こそちゃんと話してくれ」
『まあまあ、気を大きく持ちなさい。そんなに深いため息をつくティーンがいますか。まずはコーヒーでもいれて、飲みながら聞きなさい』
「うるさいな、言われなくても今やってただろ……」
興津はコーヒーメーカーから取ったピッチャーを傾け、固めたら黒曜石になりそうな液体をカップに注ぐ。
『……そもそも、かつて悪の連中の活動拠点は、ここよりも高次元な世界――貴方がたの感覚で言うところの、霊界といったような世界でした。そこで最近、正義の勢力によって滅ぼされかけたので、目立たない所へ逃げ込み、隠れ潜んで力を蓄えようという魂胆なのです。これが、この物質世界に悪が侵攻した経緯です』
「内容はともかく、不気味なくらい丁寧だな……」興津は調理台に寄りかかって脚を交差させ、ぬるいコーヒーを無音で飲んだ。「でも、その調子で頼む」
『だまれ言われるまでもないです。……さてなぜ、奴らは高次元世界を拠点にしていたか、それは単に、そこが重要な世界だったからです。その世界を統制下に置けば、この物質世界を含む、多数の世界を波及的に支配できます。例えば、人々の心理的な部分を操作することで、人々の物質的な部分、生活や行動をもコントロールできる、といった具合にです。それでもって、前に言いました、邪なる悪の目的――最大限の不幸を永続・運営させる、というところへ繋がるのです。が幸いにも今のところ、奴らは疲弊しきり、影響力の弱い場所と方法でしか活動できなくなりました。しかし、弱く小規模な故に、目立ちません。ゲリラ的に広範囲で活動されれば、被害の総計は甚大となる恐れがあります。そこで、コウヅ、貴方のようなアレでもいいから、とにかく出来ることからコツコツと、という精神で、町のゴミ拾いイベントのごとき残党狩りキャンペーンが絶賛開催中なのです。……さあ、どうですかコウヅ、あまりにも理解が深まった感動に、滂沱たる涙を禁じ得ないでしょう』
「うん、長かったよね」興津はカップを流しの中に置いた。「このまんじゅうの危険性については……さて、いつ説明するのかな?」
『げえ。相変わらずの天性のウザさですね。いいですか、何度も言うようにウイルスと似たようなものなのです。もちろん奴らは世界と場合によって様々な手口を講じてきますが、この物質世界においては、このウイルスタイプが最も多く見られます。今回ではこのまんじゅうを介して、誰かに移り、その人自身や周りの人へと、不必要で理不尽な不幸を増やしていくのです。そうとは知れない程度に、じわじわと……。そして生まれてしまった不幸は、後からでは容易には拭い取れません。そこで、治療よりも予防、ということなのです』
「まあ、それはよくわかる……理不尽で、全く糧にもならない不幸は、本当につらい」興津は首を振って肩を落とした。
『未来にも活かせない、笑い話にもならない不幸……。さながら、希望を入れ忘れた不良品のパンドラの箱』
「それが田又まりん……お前なんだな」
『……はい、一人、告白メール送りました』
「え?」興津は不整脈というものを体感した。「……やめろおい、誰に? 冗談なしだぞ!」
『冗談なしなら、本当に送りますよ?』
「はあ? え? なになにどういうこと? ……やっ、冗談あり! ありあり!」
『コウヅ……貴方は本当に冗談が好きですね。この冗談中毒』
◯ 黒木と小湊 ウィキッドグラス
鞄の中を整理していた小湊が、何かを思い出したようだ。
「ねえ、メガネってさ、現状に満足しすぎだよね」
「そう? 色々進化してるよ」
「そうじゃなくてさ、耳に頼りきりなんだよ。耳が無いとかけられないじゃん」
「え。まあ……ね。晩年のゴッホとかか」
「そうそう。耳の怪我とかだってあるし。でー、そんな人達のために! じゃーん!」
「げっ、なにこの恐い物体……作ったの?」
「うん! その名も、マウスピースメガネだよ!」
「見た目奇怪すぎ……って、え、つけちゃうの……!」
「――ろお? れもこれ、ひよくおかわいにこえをうしあうお(どう? でもこれ、視力の代わりに声を失うの)」
「……なんて?」
◯ 成るか、アースドリブラー始動
「……どうかな、小湊さん」
生まれ変わったニッケイ少年は、清らかな気配をまとっていた。雨水に洗われ、故郷を背に未開の山野を踏み進み、移ろいゆく大空を幾度もくぐり抜けてきた、修行僧を思わせる眼差し。
「無断で、新連載に小湊さんの名前を入れた事はホントに、オレの勝手で、ごめん、でもどうか協力してほしい」
教室、緊迫の休み時間。顔を洗って来たばかりだったキミは、左耳に手をのばすと、親指で弾くような動作をした。前髪を持ち上げていたアイマスクが額から滑り落ち、右耳にぶらさがる。小さな水滴が、いくつか散った。
「日経さん、ええと……まず言うとね」
キミは、顔を左右半分ずつタオルで拭いながら、机の側に立つ相手を見上げた。
「まだその新聞読んでないの私」
予測不可能……ニッケイは、早くも前世の頃へ逆戻りしたかのように驚いた。
「えっ、ウソ!?」
だが、こうした不条理を消化する能力を今の彼は会得していた。瞬時に立て直す。
「まあ、そっか……ごめん、読んでると思い込んでたよオレ。……あのね、新聞に、次号から小湊さんのおたよりコーナーみたいなのを始めますって、そう書いちゃったんだ。無断で」
キミは途中ぴくりと、少し首を伸ばす仕草をした。説明の終わりを待って声を返す。
「あ、そういうこと。わかった、理解」
「それで……、まず謝ろうと思って来たんだけど……」
「違う。謝るほど悪い事は何もないよ、いま悪い気持ちはほんの少しも感じてないから私」
キミは短い時間に詰め込むように、早口でそう言った。
「それは……オレとしては助かる、ホント……うん。それじゃあ、図々しいけど、今後の連載に協力してくれるかどうかも、聞いていいかな?」
「その前に、むしろ私が謝る必要性がありそうに思う。出来たての内に新聞を読んで、すぐ日経さんに声を掛けておけば良かったみたい、私から」
「え……いや、そんな、いいんだよ。何だろう……ちょっと混乱しちゃうな」
「大丈夫かな。いま、悪い気はしていない?」
「してないよ、もちろん。ちょっとね、責められる準備で来てたから、びっくりで……」
「準備って大事だけど、すがる為に用意しちゃうと困るときもあるね。とにかくいまのところ、日経さんを新聞係として強く支持するよ私は。特に今、一度たくさん学んだことを、捨ててきたような感じがするから」
言葉に詰まる彼へ、そうした声が連なった。なんとなく励まされていることだけは、伝わる。戸惑いも生まれるが、今はそれも前進への動力に変えるべきだと感じた。それがきっと、正しいまっすぐな応え方だ。
ニッケイは、顔を上げる。
「オレ、みんなから集まった小湊さんへの質問や相談を、ノートにまとめて来たんだ」
「よかったら見せて」
彼は身体の横から、掴んでいた暖かいノートを差し出した。
「もちろんその全部じゃなくて、答えられるのだけ、お願いできるかな」
「わかった。……このAのうしろに返事を書いていけばいいんだね」
横書きの大学ノートに、五ページ、百七十五行に渡ってぎっしりと質問が書かれている。一行ずつ、左側に質問が詰めてあり、Aの文字を仕切りに、右半分は空けてある。
「うんそう。……小湊さん、そのノート、預かってくれる?」
キミは、ちらとノートから顔を上げて、かすかな、皮肉めいた微笑を見せた。
「うん。もし何か書くものも貸してくれたらね……いまクーピーしか持ってないから私」