部活トライ
◯ 答え合わせ
小等部五年二組で行われている授業は、生徒たちがひとりづつ順番に答えだけを言っていく機械的な時間にさしかかった。
答えを聞くごとに、中年の男性教師が間の手を打つ。
「あってますね、次」「五十四」「はい、あってます、次」「四十二あまり五」「そうですね、次。……あっ」
教師は目の前の、その空席を見た。誰あろう、小湊キミの席である。どっと襲い来る疲れを顔に出すまいと、深呼吸。
「ふう……よし。……小湊さーん」
「はい」間髪を入れず、教室の最後方から声が響く。キミは床から起きて、まっすぐ、窓の方を向いて立った。「いま返事をしましたか私……?」
「しました。十五ページの問題四、どうぞ」教師が手順通りに言った。
両目を閉じたように見える絵が描かれた、アイマスク。キミはそれをつけたまま、直立不動で口を開く。
「夢かうつつか……二十二あまり七分の四」
「はい、あって……な、ない!? そんなまさか……」教師が黒板へ後ずさる。
教室が、にわかにざわめいた。
「あ、ドリルの方でしたか?」と、キミが聞く。
「あ、そうですドリルの方です。ドリルの十五ページの――」
「二十九です」
教室に、日常の空気が戻る。
「はい、よかったです。次」
キミは再び、床に敷いたタオルの上に横たわった。
◯ 奇妙きてれつ発明部
ほとんど探検家の気分で、二人はその一室の中へ入った。風子先輩が、大きな分子模型のような物を迂回して二人を迎えに来る。
「いらっしゃい、ちょうど私も来たとこだったの」後輩の緊張をほぐそう、という声だ。
床、棚、イス、テーブル、所嫌わずに物が置かれている。もし奥に大きな窓がなくて暗かったら、いっぺんに怪しげな部屋となっていただろう。様々な意味で実験的な模型たち、平積みの雑誌、キックボード、大小のスチロールボードやパネル、段ボール、PCや機器類が、何と何を繋いでいるのかよくわからない配線とともにひしめいている。
おもちゃ箱の中にカラフルなサラダスパゲティをぶちまけたような賑やかさだった。
「ここまですごいとは思わなかったかも……」小湊が、天井から吊るされた複葉機の模型を見上げながらつぶやく。
「先生とかに怒られないんですか?」
「そのへんは、いたちごっこだね」先輩は軽く手招きして歩き出す。「こっちは混沌だけど、奥の、秩序の側に案内するから安心して」
明るく奇怪な部屋の中を、二人は呆気にとられながら、先輩に連れられてポスターの貼られた仕切りの向こう側へと進んだ。
そこは工作室といったエリアらしく、手前側の半分にはただの床が広がり、ずいぶんとすっきりとしていた。大掛かりな機械などはないが、棚には電動工具が揃っている。
奥の側では、何も乗っていない作業テーブルが円イスをいくつも抱えていた。
そこで一人ぽつんと、ノートPCと手袋を広げている、鋭い目の男子が彼女達に気づく。丸顔でフクロウに似ていた。
「ああこんにちわ、適当にどうぞ」彼は笑顔になり、愛想良く手で席を勧めた。
軽く会釈して挨拶を返した二人へ、風子先輩が先に行ってイスを引きながら紹介した。
「こちら、あたしのいとこで、仁藤朝陽くん」全員イスに座ったところで、仁藤に向けて後輩二人も紹介。「こちらは、黒木さんと、小湊ね」
「はい、どうも」仁藤は少し顔を上げ、また元に戻す。「じゃあ軽く、この部の紹介をしよう。ご覧の通り基本的に、おもちゃを作って、遊んで、楽しむ部活だと思っていい。僕のような大学生も何人か在籍してて、サークルとしての側面もあるけど、活動としてはほとんど合同だね。みんな遊んでるよ。ただ僕を含む何人か、研究のためにここを拠点としているメンバーがいて、真面目におもちゃを作ってる。ちょうど、今あるのだけでも見ていってごらん、楽しんでもらえるかも知れない」
仁藤は、そう話す間で、手袋とノートPCをたくさんのコードで繋ぎ終えた。三人の女子に見えるよう、PCをぐるっと動かす。
モニターには、白紙のテキスト画面が表示されている。そして仁藤は、手の甲にタバコの箱くらいの機械がついた黒い皮手袋(たぶん元ゴルフ用)を、両手に装着。身を乗り出して、斜めに画面を覗き込みながら、テーブルの上に両手をかざした。
「じゃあ、そうだな……」仁藤はもったいぶるように言った。「ひらがなと言えばこれだね」
彼は素早く、テーブルをそれぞれの指先で四方へ向かってこすり始めた。そこだけを見れば、両手でテーブルをくすぐっているようにしか見えない。
だが同時に、画面には次々と、ひらがなが生まれていった。
〝いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねな……〟
「おー、すごいすごい」小湊が歓声を上げる。「殻の小さいヤドカリコンビだ」
「え、手のこと言ってるの……?」風子が恐れをなしたように小声で言った。
「すごーい……。フリック入力に似てますね、スマホの」黒木は、特に指の動きを見ていた。
「そう、まさしく」仁藤が操作を止めて黒木を指差す。「指先に感圧センサーを仕込んで、四方向の動きにもそれぞれ反応するようになってる。それで、指一本につき五つのパターンを、素早く入力できる」
仁藤は右の人差し指で、とん、とテーブルを叩く。画面には〝ま〟が現れた。人差し指は続けて、上右下左、とテーブルをこすった。それぞれ、〝みむめも〟と書かれる。
「すごいですねー」小湊が彼を見て言った。「これ、よく操作覚えましたね」
「えっそこ?」風子先輩がイスを鳴らす。「ヒューマンのほう? ここはマシンの方でしょ」
仁藤も歯を見せて笑っている。「今はこんな、ものものしい手袋だけど、小型・簡略化できたらもっと面白そうじゃない? 腕時計くらいの物になれば、楽でいいよね。まあ最終的には何もつけなくて、モニターの下部からテーブルの表面を覆うようにレーザーとかの膜を張って、そこで指を今みたいに動かすだけで感知して入力される、とかね」
「……そっか、レーザーのキーボードなら、もうありますもんね」と黒木。
「うんうん、まだ高いけど」風子が頷く。
「え、レーザーって……指だいじょうぶなのかな?」小湊は、ある意味では一番楽しんでいた。
◯ 定着
『さあ、このように……』
床に衝突して盛大に跳ね上がり、転がった携帯は、驚くべきことに、平然と機能し続けた。
『我は現代のテクノロジーの範疇に収まらない存在なのです。また同時に、コウヅ、貴方のごとき人間一人のマインドを把握・操作するくらいのことは、我にとって容易この上ないのだと実証されましたね』
画面の中、たまたまりんちゃんの閉じられたままの目から……あるはずのない視線が、足下から興津の全身を突き上げる。
彼は呼吸を落ち着ける間もなく、目を見開き、空気に溺れながら声をこぼした。
「なんなんだ……くそっ、このボクが、取り乱すなんて……」
『恥じることはありません。貴方は本来、比較的、抑制上手なマインドを持っています。今のは一時的に、我の干渉により気性を歪曲させたのです。機械に例えると、軽くショートさせました』
「なっ、なんて危ないことを……」
『それはお互い様です。さて、冗談半分のデモンストレーションは終わりです。我のことは自由に呼ぶがいいでしょう。たまりん、もしくはたまたまりん、と』
「おい、まだその話かよ。しかもそれ……二択なのか?」
『いや、やはり、たまたまりん、に決定しました。〝ちゃん〟という敬称を免除したこの限りない慈悲に、むせび泣くがいいでしょう』
「もうなんでもいいよ、せせら笑いながら呼んでやるから。というかもう早く何者か自己紹介してくれよ、田又まりん」
『待ちやがりなさい、コウヅ、いま脳内で漢字に変換してませんか?』
「なんの話かな。田又まりんさん」興津は人工的な無表情を作った。
『……なかなか油断ならないですね、このとんち猿め。ですが、あんまり我の勘に障るようなことをしていると、所構わず大音量で女子の悲鳴を発しますので』
「え……うわ、きったねえこいつ! 最低!」
『今後は、我を持ち歩くことを拒否したり、どこかへ投棄しようとするのも当然ながら許可しません。その際はメールシステムを操作してこの学校の女子全員に猥文を送ります』
興津は、首をゆっくりと引きながら左右に振った。
「もう……言葉も無いよ。鬼、悪魔、魔王……その詰め合わせだ。ジェット気流攻撃だ」
『いいえ、むしろ天使です。そして安心しなさい、我は捨て駒戦法など用いません』
「あのさ……思ったんだけど、何かやっぱもういいからさ、消えてくれない……?」
もちろん、そうはならなかった。興津はこの日から、どんなことをしても電源の落ちない高性能な厄介ものを、肌身離さず携帯するはめになった。
◯ 校長室 ドロシー
校長は机に身を乗り出し、元々ふてぶてしい顔をいっそう険しくして、組んだ両手にあごをのせていた。
「ああ、いまいましい……。もう、やめちゃおうかな……」
そこでぶるぶると、自分の独り言を打ち消すように顔を振るわす。
「だめだ、だめだ。弱気になっちゃだめだ……。まだ、まだ全然遊び足りないし、何より、シール犯を見つけ出してここに呼びつけて、こってりと、叱りに叱りまくってやるまでは、頑張ろう……。シール犯め……捕まえたら、どうしてやろうか。そうだ、ほっぺたにビックリメンシールを貼って、そのまま生活させてやろう……」
つぶやきながら、ふと、腕時計を見て立ち上がった校長は、窓へと向かう。その側にはクラシックな鳥カゴがあり、平凡な色のキジバトが一羽、大人しく止まり木の上で首を縮めていた。
「おいで、ドロシー……」
校長がカゴを開け、手を差し伸べると、ハトは首を伸ばしてくっくっと傾ける。珊瑚細工のような足で跳ぶと、校長の指先から手首、腕と、身軽に伝っていき、最後は肩に止まった。
「よーし、よし、お前だけは本当に良い子だ」
そのまま、彼は校長室を出て、日課である構内の散歩を始めた。
◯ 黒木と小湊 メガロポリス
「ねえ黒木さん、かっこいいね、そのリュック」
「ああ、これ。わたしはこのデザイン割と好きだけど、ちょっと大げさだよね」
「安全第一って感じ。だいぶさ、防御力が上がりそう」小湊は、その光沢のある表面に触れてみる。
それは布などの繊維ではなく、硬質な樹脂だった。
肩ひもと、開閉する上面と、背中に当たる面以外は、一体成形の黒いシェルで出来ている。真後ろから見ると、四角っぽい紙コップ、といったシルエットだ。しかしその長めの下部、腰の辺りで、シェルは極端に凹み、半円形に反り返っていた。丸太で横薙ぎに打たれた痕のようでもある。その凹みによって、全体を真横から見るとウツボカズラにも似ていた。
このシェルの特異な形状には、意図がある。腰のラインに沿うことで、荷物の加重を引き受け、肩の負担を軽減させる、というものだ。
未来的な印象だけでなく、アクティブな機能性も併せ持つデザインだった。
「これ、メガロポリスって言うんだよ」黒木が、肩越しに小湊を見た。
「え……。それ、名前?」
「そうだよ。名前もちょっと大げさだけど、この見た目なら似合ってると思う」
「……あ、なんだ、びっくりしたあ」小湊は息をつく。「いま一瞬、黒木さんがそういう名前をつけて呼んでるんだと思っちゃった。商品名だったんだよね?」
「ええ?」黒木は驚いた顔をして、考えた。「ああ。……いや、わたしがつけたんだよ」
「えっ」小湊は立ち止まった。
「わ、ちょっと、ごめん……」黒木もそれを見て止まり、笑い出した。「うそだよ……商品名が、メガロポリス。そんな、リュックに名前をつけるほど、わたしはクリエイティブじゃないよ……」
「えー? なーにその二転三転……」小湊は、不満げなふりをして微笑んだ。
◯ サボテン
校長は肩にドロシーを乗せ、中庭を散歩していた。
と、花壇の片隅で異彩を放つ植物の前で、足を止める。
柱状のサボテン。サンドバックに似た大きさで、トゲは固めの本格派だ。
校長は、その針先に数回、指で優しくタッチする。そして何かを得たように満足げな様子で歩き出した。
抱えていたスケッチブックに視線を落とし、校長はまた立ち止まる。サボテンへ数歩バックしながら、ぱらぱらとめくる。
そしてページを一枚、破り取った。
その一枚の両端を掴み、サボテンのお腹のあたりに押し当てる。
トゲがぷつぷつと貫き、校長が手を離しても、もうその紙は動かない。
トゲトゲが紙を支えていた。
「いいね……。そうだ、防犯カメラ、こっちに向けさせとこうかな」
とにやにやしながら言い、校長は軽い足取りでその場を離れて行った。
サボテンに、変則的な方法で掲示された紙。
そこには、HREEHUG(ご自由に抱擁ください)との文字があった。
◯ 美術部の留守番さん
「どうする? 中庭いってみる?」黒木が、小湊の背中に聞く。
美術教室の入り口。両開きのドアの閉じた片方に、張り紙があった。
〝新入生歓迎イベント、構内スケッチツアー開催〟その日時は、まさしくジャストナウだった。
「むー、迂闊だった」小湊は諦めて、張り紙から数歩後ずさり。「前もって調べておけばよかったなー。あ、ごめんね黒木さん、無駄足させちゃった」
「いいよ全然、こうして教室も下見できたわけだし……」黒木は静かな教室の中へ顔を覗かせ、その人物と目が合った。
テーブルが並ぶ中、彼は一番入り口から見えにくい席に、ぽつんと座っていた。重そうな本から顔を上げ、眼鏡を、曲げた人差し指で持ち上げる。
「あ……どうも」黒木は会釈した。
相手は、すぐに眼だけを逸らすと、遅れて会釈を返した。シャイのお手本のような反応だった。
「え、誰かいるの?」小湊が黒木の袖をつまみ、一緒になって教室を覗き込む。「あ、こんにちは」
彼の心は今、ちょうど二倍うろたえ始めているようだ。「……あー、ども、あんの……」
短い発声でもわかるほど、強い訛りがあった。それを珍しいと思う前に、何となく、ほっとする。
要素の組み合わせだけではなく、何か全体的な意味で色んなものが似合っていた。実直そうな印象を受ける、素朴な作りの顔。そして控えめな気質に反して、がっしりとした体格が、不釣り合いなようで調和している。微笑ましい、と黒木は失礼ながら思う。
二人は、じっと次の発言を待った。
「……すんにぅせえの方ですかぁ(新入生の方ですか?)」彼は微妙に目を合わさない。
「はい……」黒木は返事をしてから、言われた内容を理解した。注意していれば聞き取ることは可能だ、と判断する。
「どんぞ、もうまぉなぐ部の人さけってくんで、まんずへってくんなめす(どうぞ、もう間もなく部員の方がお戻りになられますので、まずはお入りになってください)」
黒木は、小湊の顔を見た。目が合って、彼女は小さく首をふった。
彼が言ったのは「帰れ」か「入れ」か。二人とも主にその解釈に迷っていた。
「お好きなとごさはぁ、どんぞ(お好きなところへ、どうぞおかけくださいませ)」
二人は受け入れられていることを理解して、安堵する勢いで入室してしまった。黒木はこれからの時間にわずかな不安を感じた。
彼は、手で席を示しただけで、もう案内はしなかった。また本に戻ったようだが、数分間、ページはめくられなかった。
席に座り、こっそりと、彼を斜め後ろから観察する。
短髪の、無骨な形状の頭部。サイズの小さそうな楕円の眼鏡は、骨董商の知り合いでもいるのか、クラシカルな作りだ。フレームは真鍮製に見える。
「あのー……」と小湊が、果敢にたずねた。「先、輩? は美術部員、ですか?」
「んなあ(いいえ)」
と彼はわずか半ラジアン(約29度)ほど振り向いた。「わぁあつげえす(私は違います)」
「そうですか、あの失礼ですけど……何年生ですか?」
「何年……?」彼は一瞬考え、言った。「いつ年ですはぁ(一年ですよ)」
「え?」小湊は、いつの年ですか? と聞き返されたと勘違いした。「それは……いま私が、そう聞いた、んです、けど……」
黒木が先に気づいて、とんでもない行き違いが発生していることに、軽い戦慄を覚えた。
小湊の腕に触れて、教えようとする。
とその時、廊下に話し声が近づき、この教室へ向かって二人の男子が歩いて来るのが見えた。
教室の彼もそれを聞きつけ、入り口へ安堵の眼差しを向けている。
それは、見ず知らずながら二人にとっても援軍であることを意味していた。安堵が伝染する。
入室直前で、二人と二人は会釈の交換を終えた。
入って来た男子の一人が、座っている彼を見つけて笑顔で言う。「おお、なんだお前、まだひとりだったのか。皆遅いな」
「二人とも、部活見学に来てくれたのかな?」もう一人の男子が、女子達に確認する。
「あ、はい」小湊が頷く。「ちょっと、教室とか見てみようかなって……ちょっとだけ」
「おおどうぞどうぞ」笑顔の方が、持っている紙束をふる。「俺いまちょうど案内の資料っていうか、パンフ作るんで、あとで持ってって」
「じゃ、僕が教室を案内するよ。あんまり絵とかないけど」
「ああ、はい、ありがとうございます。すこしで大丈夫ですので」小湊が笑顔で席を立つ。「私たち、まだ色々見て回ろうと思ってるので……」
「いいよ、小湊さん、ここ本命なんでしょ」黒木も席を立ち、小湊の気遣いに応じた。「ゆっくり見させてもらお」
「そっか、じゃあ……間をとって普通コースで、よろしくお願いします」
二人は案内役に頭を下げた。
「はい、了解。よろしく」
三人は教室の奥側へ進み出す。紙束を机に広げてチェックしはじめた男子には、あの彼から、意外にも鋭い声がかけられた。
「あん、いがらこさけ(兄さん、いいですからこちらへいらしてください)」先ほどよりも、ずっと速い口調だった。
「なんだよ、ちょっと確かめてんだろ、行くから待ってろ」
と兄と呼ばれた男子は悠長に返し、紙束をまた重ね、呼ばれたその席へ持って行った。そして机越しに説明する。
「じゃ、これね。三種類あるでしょ? それをセットにして重ねて、右上かな、ここを止めて、完成。それだけ」
「なんす、えんらぐらぐでねぁ(なんとまあ、とても容易ではないですか)」彼は眼鏡を上げて席を立つ。「んだらこさ広げてけろ(でしたら、こちらで展開してください)」
「おう。ちょっと二度手間だけどな……」兄は机に紙を並べながら、弟の顔色を読んだ。「ああ……悪かったよ、留守番頼んじゃって。一瞬だけとはいえ」
「そっただこた、おぁきにすね(そのようなことは、私は気にしておりません)」
「……悪かったって。あ、そっか」上体を伸ばして言う。「あれ要るな、ちょっと持って来る」
兄は準備室へ消え、また残された弟は、一組だけあった見本の通りに、黙々と三枚を重ねていく作業に入った。
もちろん教室見学ツアーは上の空で、黒木は、その男子二人の様子に聴覚での注意を向け続けている。見ると小湊も、似たような状態らしかった。最初からずっと案内には、他の重要な音声情報を隠さないよう、小さい声で「へえ」とか「なるほど」と返すだけだった。
「おっと、それちゃんと順番あってるか?」
戻って来た兄がホチキスを机に置き、紙の重なりを確認。「……うん。おっけおっけ」
そのまま彼も三枚重ねの量産に入り、弟は、出来上がったものをずらして横へ退避する。
そして、急かすように顔を上げた。
「あん、こさけ(兄さん、こちらへお貸しください)」差し出した手を開く。「がっちゃんき(ホチキス)」
がっちゃんき? という心をひとつに振り返った二人の女子の視線が、先にその手に注がれた。
「おう、はいよ」兄は、弟の手にホチキスを渡す。
「ええっ」二人の女子が同時に声を上げた。
◯ 映像教材、小五理科
「はーい皆静かにー、始めるから、ちゃんと良く見ててくださーい」
理科の授業中、珍しく席に座っていたキミは、これから始まる映像に対して、どの程度見て見ぬフリを決め込むかを考えた。結果、五パーセントだけ意識を残して寝る、というプランを採択した。
教師がリモコンの衰えたボタンを押し込み、数回目でようやく反応。不意を突くように始まった、いかにも国営放送らしい映像と音楽のオープニングに、堅苦しいタイトルの文字が躍る。
同時にほんの一瞬だけ、画面の下部に次のような字幕が現れて消えた。
〝この映像教材は実験的に、尋常では考えられない内容の解説音声をつけてあります〟
そして本編、壮大な空撮映像に、人畜無害な声のナレーションが重なる。
『――ここは、世にもホットな大火山地帯。吹き出す溶岩は、きっと、触るとやけどします』
『あちちっ。言ってるそばからやけどしちゃったよー、お姉さーん』
『やらかしましたね、はい、博士がやけどして、水ぶくれをつくってしまいました』
『テンション下がりましたよ、お姉さん。こんな火山地帯は、もう滅ぼそうと思う』
『また博士ったら、たかが初老の研究オタクに、大自然を滅ぼす力なんてないでしょう』
『うるさいやい。たとえ脳内妻子に逃げられようと、科学の力でどうにかするもん』
『はい困りましたー。そこで今回は、博士に火山の仕組みと大切さを教えましょう』
『知ってるよ。僕、博士だよ?』
『まずは、どうやって火山が作られるのか、スーズーで見ていきましょう』
『スーズーじゃなくてCGでしょお姉さん。ピンポイントでなまらないで』
キミは開始十秒も経たないうちに、映像に対する注意を一パーミル未満に切り下げていた。
が、突然、夢の入り口に突き進む意識を現実へ連れ戻すアラームが鳴った。
全速で画面へ視線を飛ばすと、その上部で、地震速報の文字が点滅していた。
「先生、地震でした」
キミは画面を指しながら教師の顔を見る。
中年の男性教師は心底驚いたらしく、その表情通りの、すっとぼけた声で返した。
「え……何言ってんだ。これビデオだよ」
「そうですね、うっかりしてました……」キミは寝ぼけた頭を軽く振って、即座に機能を復旧させた。そして、この窮地を脱するべく、毎秒十四文字の速度で言い放つ。
「さて、しかしながら、もちろん今この時間に地震が発生したのだという意味で騒ぎ立てたのではない、ということをまずご理解いただきたいのです(即興のウソ)。私が先ほど、でした、と過去形を使った点を強調するまでもなく(言い間違いの悪用)、かつて地震があったということは紛れも無い事実であり、私が声を上げてまで指摘したかったのは正にその点のみでありました(完全なウソ)。が、先の短い言葉では情けなくも極めて情報が不十分であった為、再度、省略せずに言い直します。先生、その放送当時、地震があったそうですが、諸々、大丈夫でしたか(ミッションコンプリート)」
画面では、わかりやすく有意義な映像と不毛なナレーションが入り乱れ、その上部に、震度二~三といった比較的穏やかな情報が次々と表示されていた。
『しゃらくせえな。やっぱり滅ぼそうよ、お姉さん。火山なんて地球のニキビだよ?』
教室はしばらく、作られた音のみで満たされていた。その音のわずかな合間を狙って、教師がひかえめに声を発した。
「……大丈夫でした。皆、その調子、静かに見ましょう」
◯ 黒木と小湊 下校
靴を履いて、黒木は春の外気に包まれる。
夕暮れで冷えてきたが、暖かい匂いを感じた。風には桃色のドットプリント。
「黒木さん、帰りは、電車?」
「いいや、家近いから……自転車置き場ってどっちだっけ」
「あの、あっちに見えてるのじゃないかな」
「ああ、本当だ」
校門もそちらの方向だった。二人は自転車置き場まで歩く。
「わ、あの柱に立て掛けてあるの、あれって何だっけ」小湊が進行方向を指差し、黒木を見る。
「スケボーだよ。スケートボード」
「あーそうだそうだ。スケートボードか、でもちょっと久々に聞くと、不思議な感じの響きだね。スケープゴートっていうか……なんか印象がブレてる」
「んん、言わんとしてることは何となくわかるような……でもそれはダジャレっぽいね」
「まあね……でも別の意味が混ざってるような気がするってことでさ、うん」
「あまり身近じゃない物なら、そういうこともあるかもね」
と黒木は、そのスケボーの前に立った。そして、車輪の部分にくくりつけてあるナンバー式のチェーンロックを手に取る。
「えっ」小湊の驚いた声。「なに、どうするの……」
「ちょっと拝借しようと思って……」黒木はすぐにロックを外した。「なんて、うそうそ。実はこれ、わたしのでした」
小湊は、口を尖らせて、鼻から深呼吸した。「……ちょっと、一日一騙しまでだよ」
「え、そんなルール初耳」黒木は笑い出す。「でも、じゃあそうする……」
「いいよ、うそうそ」小湊も頬笑む。「冗談なら、いくらでも輸入無制限だから」
「輸入? それじゃそのぶん輸出もする気でしょ」
「するする。もちろんする。自給率を大幅に越えて、大黒字にする」
小湊の宣言が、その日の二人の会話を締めくくった。短いあいさつの後、同時に片手をあげて、微笑みあったまま別れた。
やがてそれぞれ、黒木は風の中で、小湊は駅のホームで、あいさつの復習をした。
「また、明日……」