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プチトマト  作者: コスミ
3/12

カオッスィー


   ◯ 黒木と小湊 部活見学


 この日における義務的な時間はすべて過ぎ去り、二人は、自由に校内を回るついでに、自主開催の部活見学ツアーへ出かけようとしている。そういう予約が、ランチタイム終盤に二人の間になされていた。

「さあて、まだ夕方って時間でもないし、いろいろと寄り道できるよ」

 誰かをおんぶするような姿勢で伸びをした小湊に、黒木が少ない荷物をしまって言う。

「部活マップ、お昼にPCのとこで一枚もらってきたから。これ参考にしよう」

 黒木が机の上に残していた一枚の紙には、校内の見取り図が両面に印刷されていた。図自体は両面ともまったく同じだが、位置を示す情報はそれぞれ、運動部と文化部とに片面ずつ別れていた。

「おお、見して見して」小湊が紙を覗き込み、すぐ文化部の面にひっくり返した。「ここから近いのだと……」

 黒木も一緒になって紙を見る。「ものすごい多いね。ああ、同好会とかもあるのか」

「そうだねえ……一番近いのは、このすぐ下にある〝心理学同好会、主な活動――人心掌握に関して〟か」

「なんか恐いね、それ。でも入り口の前だけ、通りすがってみようか」

「行ってみようか、それで気配を読み取ろう。あとは……なんだろう。もうー、よりどりみどりすぎ」小湊が困ったような嬉しいような表情になる。

「じゃ、これ行ってみていい?〝製菓クラブ、主な活動――調理部と連携の上、おかし作り〟だって」

「おおー」小湊が紙に最接近した。「これは、マストだね。よし、後は行きながら見てナビっていこう」

 黒木は、席を勢いよく立った小湊に続いて、硬質なリュックを背負って教室を出た。

「忘れ物、大丈夫?」

「っと、うん、大丈夫」

 歩きながら、二人は紙を指差し合い、その部がどんなものか予想して楽しむ。あのテストの最中に起きたことは、暗黙の連携で全く話題に上がらなかった。



   ◯ 校長室 メフィストの帰還


 ドアノブが突然にガチャッと鳴り、椅子にゆったり座っていた校長が縦に振動する。

「誰だ、ノックくらい……!」

 とそこで校長は、開かなかったドアの向こうにいる人物の心当たりがつき、心臓が圧縮・急速冷凍されるのを感じた。

 重厚な茶色の木材が、随所に柔らかな光沢を添えている一室……ここが一瞬後には、血に飢えた猛獣の檻となる予感。

 校長は、隣接している職員室へ脱出するべく立ち上がろうとしたが、遅きに失した。

 ドアの鍵はかかっていたが、その人物は用意していたのだろう、一瞬で解錠して、今度こそガチャリと猛速でドアを開け放った。

 数メートルの距離をものともしない風圧と威圧感が、校長にのしかかる。

「お邪魔します」とスーツ姿の若い半洋風の女性が、すでに数歩入室したところで言った。そして校長の机に到達し、片手をドンと突き下ろす。

「お久しぶりですねお父さん、いえ、〝校長先生〟」

 校長は発声能力を失っていた。開いた口が小刻みに震えている。

「どうかしましたか? 私には、怯えているように見えますが……なぜでしょうか」

「……ああ、いや、怯えてなんか、いないさ」

 ここで校長は正気を取り戻し、思考に基づく発言をした。「そ、そうさ、くしゃみが出そうで出なかっただけさ……。私が、涼子さん……いや、お前に、怯える理由なんてないに決まってるだろう?」

「そうですか。当然ですね。さて校長、私は例の会社での任期を繰り上げ、こうして当校に戻りました。そしてまた校長の秘書兼補佐の任に就きましたことをご報告いたします」

「ああ? え? なんで、そうだよ、まだ早いでしょう? なんでもう戻ってるの?」

「あら、不思議そうですね。となると、私も今困惑しております……どうして、そのように指示なさった〝校長〟本人が、不思議がっているのでしょうか? 何かの手違いか、あるいは校長、指示したことをお忘れになったのですか?」

「いや……」校長は、何かを理解して絶望の表情をつくる。「確かに〝私〟がそのように指示したね……忘れていたよ。もう歳かなあ、ハハハハ……はあ」

「さて早速ですが校長、一学年のテストを受け持った教師一同より、苦情が入っております。本日の午後、何をしでかしなさったのか、ご供述願えますか?」

「え……、何のこと、かな~? うーん、そうか、春の妖精のいたずらかな……」

 その時、革張りの椅子の手すり――校長の中指と薬指の隙間に、瞬間で飛来したペーパーナイフが突き立った。

「とぼけてると、まず指から痩せていくから」

 一転して、無感情となった女性の声。

「ハァアッ! ああ、うああ……」

 校長は、わたわたと後ずさって椅子からずり落ち、背もたれの後ろに逃げ込んだ。怯えきった片目を出して彼女の手元だけを注視する。それは命を守るためだ。

「さて、どうして私が、私の愛する我がお父様に対して、こんなことをできるのか……」 

 涼子は、ゆっくりと椅子へ回り込み、椅子ごと逃げる校長を、ついに部屋の角で追いつめ、手すりからナイフをぶつりと引き抜いた。

「もう、わかったでしょうね。〝あなた〟は……」

「はっ、はい……」校長は歯を鳴らしながら答える。意志の有無は伺い知れない。「わかりました。わかりました……」



   ◯ 魔窟、心理学同好会


 黒木と小湊は、危うく、入り口付近でまんまと上級生たちに捕まってしまうところだった。団体名に反して、思ったより活発で社交的な雰囲気があったためである。しかし、怪しさは隠しきれなかった。

 女性ばかりの会員たちの格好といい、BGMといい、活動内容は明らかだった。

 一瞬だけ見えた室内では、壁際に並んだ円イスに一年生達が座らされ、部屋の中央で長机を囲んでだるそうに会話する華やかなアイドル衣装の先輩達を見守っている。という、判断に困る状況が展開されていた。

 二人をそこへ連れ込もうとしたのは、マネージャー係と思わしき、まともで現実的な格好をした女子達だった。今も、離れていく黒木と小湊の背後で、引き続き呼び込みに勤しんでいる。あのまともな姿に騙されずによかった、と二人は心をひとつにしていた。

 一方、室内では、遠慮も容赦もない、女子だけがもつ低い雑な声での会話が続いていた。

「マージばかウケじゃーん、それえ」赤い衣装の一人が、冷ややかに笑った。

「一年超うらやま~」青い衣装の一人が、お菓子の袋をガサガサ鳴らす。「ウチも見たかったわあ、どんだけキレてたんかなあ」

「なんかもう、弟のクラスにくる頃には、最初から拳赤かったってよ」黄色の衣装がケタケタと嘲笑しながら言う。

「はーっ、うける何それえ」緑色が豪快に笑い声を上げた。「一学年全部のクラスで同じことやって来たんじゃね? 何ステージ連チャンしてんだよマジで」

「わー見てえなあ、それ」紫が携帯を見ながらにやつく。「誰かネットにアップしてねえかなあ、一年」

「しないっしょー」と赤。「一年で、いきなしそんな根性見せてたら惚れるわー」

 青も口を揃える。「テスト中っしょ? さすがに無理すぎじゃね」

「あー、んだよ無えよ。根性ねえわあ~、一年」紫の吐き捨てるようなため息。「……あ、君たちのことじゃないよ? 今ここに来てくれた君たちは、神、もしくは下僕だから」

「ウチらのメンバーに入れれば神、ファンになったら下僕なんで。よろしこなでしこ~」

 とそこで、マネージャー達の深い会釈を受けながら入室するスーツ姿の女性が現れた。

「あ!」赤が勢いよく席を立って挨拶する。「涼子さん、お疲れ様です!」

「わ、ああ、すごいすごい」「え? うっそやったあ!」「どうしたんですか? まだインターン中でしょ?」などと、カラフルな声が飛び交う。

 涼子は机に寄ってBGMを若干小さくした。

「今日からまた学校。ここの顧問にも復帰するから、同好会からまたクラブに戻るよ」

「マジ? 嬉しい! 同好会って堅苦しくて嫌だったんですよ、みんな」

「ま、名称はともかく楽しくやればいいよ」涼子は話題を変えるべく息継ぎをする。「……で、例の嫌がらせ、首尾良くいったみたいね。偉いわよ、皆」

「あざーっす!」と、喜色満面のアイドル達が、一斉に涼子へ頭を下げた。

「特に、紙ガムテとビックリメンシールを使ったのは妙案だったね。さぞ、剥がしにくかったことでしょう……」涼子が女帝のごとき笑みを見せる。「もちろん、他もナイスだったわ。半額シールとガムは、精神的にもクリティカルだったと思う。皆、成長したね」

「あざーっす!」

「……あれ? なんだ、一年の子達もう居るのね」

 涼子が壁際で気配を押し殺していた仔羊達に気づき、声に優しい温度を加えた。

「見学に来てくれて、ありがとうね。よかったら、この後握手会もあるし、先にそろそろ一曲くらい歌わせるから、楽しんで見て行ってね」

 涼子から短いアイコンタクトを受け、アイドル達は素早く動き、長机を奥へ運び始めた。

 準備の時間を利用して、隙のない微笑をたたえた涼子が一年生達に説明する。

「うちの同好会……もといクラブは、人心掌握の方法を学び、実践するのがコンセプトで、ご覧の通り、アイドルユニットの形式にのっとってるの。ファンもそれなりにいるのよ」

 一年生達は、心の置き所がわからない顔をしながらも、静かに聞いている。

「ただ、もう気づいてる人もいるかも知れないけど、普通のアイドルではない。かなり実験的で、過激なアイドル……」涼子は顔を持ち上げ、ライトブロンドの髪を揺らした。

「一貫してファンを下僕として扱い、視界に入る間は徹底的に、ひたすらに蔑み続ける。それが、彼女達の愛――ファンサービスなんです」

 ここで、アイドル達が背後でスタンバイを終えたことを知り、涼子は身を引きながら、一際よく響く声を上げる。

「さあ、謁見の時間です……貧民ども、跪き、拝顔せよ! 神聖女王同盟ゴッデス!」

 マネージャーの一人が、音楽をスタートさせる。

 ……こうして始まった彼女達のパフォーマンスについて、平均的な感性の持ち主ならば、まず次のように評するだろう。

〝けっこう普通だ〟と。それほどに、完成度は高かった。

 繰り広げられる歌は、歌詞でメンバー紹介を兼ね、明るい曲調に乗ってそれぞれがセンターに出たり戻ったりをしながら、だんだんとおぞましい言葉を飛ばし始める。彼女達の発声のしかたも熱が加わっていき、サビではほとんど吐き捨てるように歌う。

 このあたりで〝けっこう恐い〟という評価に変わるだろう。

 歌詞の毒性は増していく。そして、そろそろ中学生以下の青少年は聞かないほうがいいと思われるレベルに到達した。

〝大丈夫なのか〟と皆がソワソワし始めた頃、幸か不幸か、曲は唐突に終わった。

 ポーズを決めて権力者らしい眼差しを客席に向けるアイドル達へ、真っ先にマネージャーが猛烈なスタンディングオベーションを開始。つられて、一年生達もぱらぱらと拍手の真似をした。

「お疲れさま、ゴッデス……」涼子もアイドル達に拍手を送った。



   ◯ 侵入


 サスペンダーと不自然な髪型が今日も人目を引いてやまない青年、興津ミノルは、手慣れた動作で、大学構内にある一室のドアを叩いた。

 中からの返事を待つことなくノブに手をかけ、入室する。

 部屋に五台あるPCの内、今は一台しか動いていなかった。

「おっす、珍しい時間に来たね」

 部屋の奥から、四角い顔の眼鏡大学生が、一切画面から目を離さずに挨拶する。ノックの音だけで相手を判別したらしい。「あ、もしかして春休み終わった?」

「うん、先週ね」興津は、PCを起動するとキャスター付きの椅子に腰を下ろし、脚を組んだ。「ボクも、もう高校生だよ」

「ほーん……大きくなったなあ、ドンマイ」

「何、ドンマイて」

「ん……? そんなこと言った?」石見は明らかに心ここにあらずだった。「たぶん深い意味はないよ」

「石見さん、また提出期限迫ってるんでしょ、ドンマイです」

「うるせえなあ、迫ってないよ……まだ三十時間ある」

 二人は少し離れた背中合わせで、しばらく、それぞれのモニターにかぶりついていた。キーを打つ音とマウスのクリック音が、時の流れを刻んだ。

「進級祝いとか、無いんですか?」興津は試しに聞いてみた。

「んー? 進級祝いー?」石見は緊張感ゼロの声で返す。「じゃあ、これ食べる?」

 振り返ってみると、石見が画面に向かったまま肩の上から菓子パンを差し出していた。

「なんだ甘いやつか……てこれ、賞味期限ぶっちぎってるんですけど」

「時間より残酷なものはないね」石見はあくびを噛みつぶした。「何日いってる?」

「七日半も過ぎてるけど……」

 そこで石見は何の拍子か、椅子ごと机を離れ、くるりとこちらへ向いた。

「七日半? 惜しい、新記録ならず。それじゃ何か代わりの物でもおごってあげるか」

 彼はポケットから財布らしきものを取り出し、興津に千円を渡した。

「わ、ありがとう」

「それで何か、コスパ良さげな弁当買って来て」

「なんだ、パシリってこと?」

「頼むよー、おつりあげるからさ。あ、あとコーヒー牛乳も」石見はそれだけ言うと、また半回転して作業に戻った。

「しょうがないな……いいけど、ボクもキリのいいとこまで先にやるから。五分だけ」

 そして八分後、興津は席を立った。机には、自動解析中のPCと、彼のケータイとが残される。

 それら画面を光らせたままの機器ふたつは、白い一本のコードで繋がっていた――。



   ◯ 魔城、心理学クラブ


 一曲の歌が、彼らを常闇の墓場から蘇らせた……。ファン達だ。

 学校内外から集いしファンの軍勢は、地鳴りのごとき唸りを上げてアイドル達を賛美する。心理学クラブの部屋は、数分の内に入場制限が敷かれるほどになった。もはや、一年生達に脱出路は残されていない。

 ただファン達は、人数としては少ない。室内に六人、廊下に五人くらいのものだ。

 しかし特に熱心な室内組の豊富な運動量が、入場制限につながった。対して廊下の人達というのは、通りすがりやライトなファンからなるようだ。

 マネージャー達が、両手を広げて献身的にバリケードとなる。アイドル達は、いそいそと長机をまた部屋の中央に戻して、その上に椅子を乗せていく。その様子を、各自様々な理由で放心している一年生達が、不思議そうに目線で追っていた。

「なぜ椅子を上にのせているのか……」

 涼子が、一年生の近くへ寄って説明した。かき消されまいと、声量を上げる。「それは、これから見ていれば、わかるわ」

 アイドル達は、靴を履いたまま机の上によじのぼり、ちょうど一年生達に背を向けた形で、高い位置エネルギーを持った椅子に腰かけた。それが、五人並ぶ。

「それでは、握手会を始めまーす!」マネージャーの柵の端が切れ、それまで荒れ狂っていたファン達が、礼儀正しく一人づつ入場する。

 彼らは膝立ちになり、捧げるように何かを口走りつつ、高い所に座るご本尊達を恍惚たる表情で見上げ、その片足を両手で大事そうに握っていく。

 アイドル達は無言で脚を組み、次々と、数秒ごとにファンの手を軽く蹴って振り払う。

 恐ろしい流れ作業を見ながら、一年生達のほぼ全員が泣きそうに眉を寄せ、何人かは泣きながら小さく震えていた。その後、クラブへの参加を表明したのは一人だけだった。



   ◯ ハロートーキー


「……石見さん、居ないし。あんにゃろう」

 買い出しに行った興津は、無人の部屋へと戻ってきた。石見の使っていたモニターには、布団を干すように、一枚のコピー紙がかけられている。置き手紙だ。赤ペンの走り書きで、次のようにある。

〝3hourねてくる。べんとう感射、おいといて〟

「なんか、ツッコミどころ多いぞ……」

 嫌がらせにメインのおかずだけ食べてやろうかとも思ったが、興津は書かれた通り、弁当と飲み物の入ったビニール袋をそのまま置いた。

『コウヅ、いいから早くこっち来なさい』

 興津は反射的に振り返った。今、自分の机の方から声がした……しかも何か、命令口調で。モニターは、自動で行っていた作業の完了と、不明なデータを携帯に送ったことを報告していた。

「……え、ケータイに何か落としたっけ?」

 携帯は画面が黒くなっていた。手に取って、ボタンを押す。

「……あれ? 点かないぞ」興津は慌てたが、やがて電源が切れているという可能性に気づいた。ボタン長押しで起動を試みる。

「焦ったー……」

 食べかけの果実のマークが暗い画面の中央に浮かび、その下のメーターが一杯になって、めでたく携帯はホームメニューを表示。正しく起動した、そのはずだった。

 画面に親指をすべらせたが、反応がない。そして直後、画面が真っ白になる。

「うわっ、な……なんだよこれ!?」

 悪態をつこうとすると、また画面に変化が起こった。

 白い長方形の中、ゆで卵を縦に切ったような二重の円が浮かび上がってくる。かと思うと、くるくると回り出した。最初はじわじわと加速し、今はもう次第に減速しているようだ。

円の色はそれぞれ、内側の正円はカスタードクリームで、外側の楕円は抹茶。どことなく、害の無い色合いとでもいうのか、見る者の心への気遣いが感じられるような、柔らかく有機的な色調だった。

 しかし当然、事態全体としては極めて怪しい状況だ。言葉も瞬きも忘れて見入っている興津は、次の変化に、いよいよ肌を粟立てた。

 縦になったところで静止したカラーゆで卵は、内側の円を半ば埋めるようにして像を結んでいく。最初は杯かと思えたが、みるみるディティールを加えられ、最後には、人の顔、首、肩に変化した。

 顔……繊細な頬のラインと、単なる横棒に過ぎない無感動な小さな口、あるのかないのか判然としない鼻。そしていわゆる〝ぱっつん〟の前髪のすぐ下で閉じられた目は、下向きの睫毛によって二隻のガレー船のようにも見えた。

 前髪というのは、外側の楕円だった部分である。今は額のあたりで多少縦に切れ目が入り、より頭髪らしく見えるよう、外の輪郭線は曲げたり伸ばしたりと調整されていた。しかし全体として写実性は、あまりない。

カートゥーンのようにくっきりとデフォルメされた、少女の胸像……。

 もちろん興津は、画面にこんな設定をした覚えはない。

「ウイルスか……?」自分の発した声だと、一瞬遅れて知覚する。ウイルス。言われてみれば、その可能性しかない。どっと全身に嫌な疲労感が満ちる。

『主観・客観両面から見ても、我はウイルスと違います』

 興津は、携帯を危うく落としかけた。

「ったく脅かすなよ……。何こいつ、勝手に喋るの」

『勝手に喋ります』

「うわっ、え……?」



   ◯ 楽園、製菓クラブ


 その調理室では、天使の液体を天使の半固体へ昇華させる作業――すなわち生クリームの泡立てに総力をあげて取り組んでいた。やってきた新入生達を一網打尽にする、製菓クラブの恒例イベントだった。

 クラブ員の先輩達は今のところ五人で、その人達が言うには、頻繁に通っているのはざっと二十人ほどらしい。そうしたビジターの生徒はいつも、お菓子を楽しんだ後、クラブへ寄付をする習わしとなっていて、もちろんクラブ員達は皆、毎月材料費を納めている。しかし今回のイベントでは、新一年生に限り、無料とのこと。

 この撒き餌が、効果絶大だった。

 黒木と小湊は、そうした甘い情報を知ると迷わず入室して、イベントに参加していた。

 生クリームのボウルは五つ。集まった一年生十名は、二人一組で割り当てられた。

 先輩の内で比較的社交性の高い三人と家庭科の先生が、ボウルを見回りながら励ましたり簡単にアドバイスしていく。

 そうしたゆるい指導の下、最初はハンドミキサーのモーターの力でとろみがつくまで一気に撹拌して、今は、泡立て器に持ち替えて手動で頑張る行程に入っていた。だんだんと固まって、手応えが重くなっていく。

 黒木は、泡立て器でボウルをこすらないよう、静かに素早く混ぜる技術を追求していた。それほどに、余裕があったのだ。

 筋力は、あるだけ全部を使ってしまうのではなく、不要な部分はなるべくリラックスさせながら必要な部分にのみ力を入れる、という客観的な采配のもと使役するのが好ましい。

 彼女はそういった、運動における最適な形を意識的・無意識的に素早く把握することに長けていた。単に、コツを掴むのが早い、とも言える。

 このまま苦もなく一人で完成できそうだったが、それでは味気ないだろうと、だいぶ固まってきたところで気をきかせる。黒木はボウルを隣へスライドさせた。

「よし、疲れた、バトンタッチ」

「ええっ」小湊は驚く。「うそー、絶対余裕だったでしょ今、疲れてたの?」

「うん、メンタル的な部分が」それは比較的嘘ではない、と黒木は思う。

「メンタルかい」小湊はツッコミつつしぶしぶ泡立て器をつかんだ。「すごいポーカーフェイスっていうか、あまりに唐突だったよ。残り一周ってところで、いきなりピットインされたメカニックの気分」

「まだ残り何周もあるよ、頑張って混ぜて」

「はー、うわー」小湊は生クリームの手応えに喜んだような悲鳴のような声を上げる。「結構ひさびさだから重く感じるー、これはポールポジション陥落の危機」

 黒木はF1をよく知らないので、一際静かなテーブルの方を見た。そこでは、シフォンケーキの生地が大人しそうな二人の先輩達によって作られている。

 ちょうど混ぜ終わった生地が、しゃぶしゃぶ鍋に似た形の焼き型に流し込まれた。空気をたくさん含んで白っぽい、ぼったりとした流体だ。ただ、今そこで作られているケーキは、黒木達の口に入るものではない。しばらく後、次の組に振る舞う分だった。

 香ばしく甘い空気が、換気扇に負けずに部屋の中に留まっている。

 すでに焼き上がっているケーキが、無人のテーブルで、伏せたコップの上に型ごと逆さまに置かれていた。体積が縮まないよう、重力を逆手にとっているのだ。ケーキはそうした不安定な姿勢で、じっくりと熱と香りを放ちながら生クリームの完成を待っていた。

 見ていると、プリンのように型からケーキが落ちて来ないか、すこし不安になる。

「八分立てでいいんだよね?」小湊は柔らかい角を見せる。「はい、もうできちゃった」

「お、ナイスフィニッシュ」

「へへ……私、喫茶店の娘ですから。生クリームとは幼なじみ」

「へえ、そうなんだ」

 幸い、不安は杞憂に終わり、二人はゆっくりと、すこし早い三時のおやつを堪能した。



   ◯ 興津とハンプティ・エンプティ


 興津の手の中で、携帯は、なめらかな音声を出し続けた。

『喜びなさいコウヅ。今この時、貴方の願望が形となりました』

「は? 願望……?」

『貴方は今より正義の使者として、ミッションをこなして生きていくのです』

「なんだよいきなり……え? ミッションってなんだよ」

『主に、悪を討つのです』

「はあ? 怖いもう色々わかんないし、ってか待って、あんた何なの?」

『理解への心理的抵抗が強いようですね、このうすのろ。我は、言わば貴方のマネージャー兼ナビゲーターです』

「……なんだよおい。もう、ちょっと、まず時間をくれ、とにかく落ち着くから……」興津は、椅子に身体を預けた。そのまま、静止。

 そこへ、彼を諭すように、ゆるゆると柔らかな声が流れ始めた。

『思い当たるでしょう……貴方は、幼少の頃からずっと志してきた。この世に潜む悪を見つけだし、正していく存在になることを。誰もが、成長過程で失い、あるいは覆い隠してしまうその正しき願望を、コウヅ、貴方は今この歳になってもまだ持ち続けている……くすっ』

「ようしわかった」興津は、大げさに脚を組んで携帯を睨んだ。「お前はまずボクを馬鹿にしてるってことだな」

『我にそのような浅はかな機能はありません。ただ悪を検知し、貴方を導くのみです』

「偉そうに……ぺらぺら喋るだけだろ。っていうか、せいぜい誰かが操作してるってとこか。かわいそうにね……こういう行為は、確実にアシがつくってことを今に知ることになるよ」

『いいえ。誰かに遠隔操作されているのではなく、ここに我が存在しているだけです。では、最初の肩ならしとして、その証明の方法を考えてもらいましょう』

「何言ってんだ、笑わせるね。そんなの、ボクの手にかかれば……って、おい」

『なんですか』

「お前まず消えてくれよ。状態チェックさせろ」興津は、画面もボタンも無反応なことに腹を立てた。「それともフェアにする気はないのか?」

『甚だ仕方ないですね。いいです、二分だけ許可します』

「……お前、法的な措置をとってやるからな。覚悟しろ」

 元のホームメニューが表示されると、興津は携帯を迷いのない速度で操作した。表面上の情報は全て無視、ごまかしのきかない深部へと潜って確認する。

 通信状況……異常なし、現在不使用。ネット接続状況……異常なし、現在不使用。

「はあ? どういうことだ?」

『ほらご覧なさい。通話でも、ネットでもなく我はこうして喋っています。この場所に我という意志が存在しているのですよ。ところでコウヅ、ここまで一分もかからなかった手際は評価できますね。寂しいでしょうからもう戻ってあげます』

 との声のあと、画面はまた白光を放ち、中央に例の顔が浮かんだ。

「まさか……AIってことか……? いや無理だろ。あり得ない、ここまでのレベルで自発性もレスポンスも供えた会話能力……スパコンならともかく、こんな普通のスマホに……そんなはずは無い」興津は半ば放心したようにぶつぶつと口走りながら、手だけは素早く動かしていく。携帯本体への直接の操作は諦めて、次はコードで接続中のPCを使ってのアプローチを試みた。ほとんどひと繋がりに聞こえる打鍵音を部屋に響かせ始める。

 ……長い格闘の末に、万策尽きたのか、興津はクルミを食べるリスのように、握り拳を口元にあてて声にならない独り言を量産していた。

『お疲れさまです、コウヅ。それ以上の時間とカロリーの浪費は控えたほうがいいですよ』

 それが合図となって、興津は深く長く、ゆっくりと息を吐き出した。そして今度は、勢いよく吸いこむ。

「今できることは全部やった……。お前は、どう調べても、ただのごく微量のデータに過ぎない……、なのに、こうもうっとしいほど喋っている。さっぱり不思議だ」

『不思議でしょう。それでは自己紹介をしてあげましょうか』

 興津は眉を寄せ、おどけて肩を軽く持ち上げた。

「……悔しいけど知りたいね、君のスペックを」

『うざ。君……ですか。ともあれ我の存在を肯定しましたね。ふむ……君、というのも好ましいですが、今後、我のことは、たまりん、と呼ぶがいいでしょう』

「……ん? なん、なんて言った?」

『いえ、やはり、たまたまりんちゃん、に義務づけましょう』

「あー、うん。全面的に聞かなかったことにする。とりあえず、君ね、正体を――」

『エラー。呼び名が違います』

「おっとー……。おい、ふざけてると割るぞ。正体だよ、正体、教えてくれ」

『誰のですか? 名前を呼んで対象を指定してください』

「だーかーらあ、お前だよ。この三キロバイト風情が」

『はあ? 密度が違うんだよ、低能。いいから呼べよ照れてんじゃねえウブ猿が』

 興津はコードを静かに抜き、振りかぶって携帯を床に投げつけた。




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