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プチトマト  作者: コスミ
12/12

and it was……


   ◯ 傷跡


 黒木は、溜っていたプリントを片付ける為に、ひとり教室に残っていた。

 進路に関する内容が、とても書きづらい。

 どうしようもなく窓を見る。テニス部員達が一斉に返事するのが、遠くに聞こえる。これから準備運動の後、ランニングだろう。

 黒木は俯いた。まだ、プリントのほうが見やすい。

 それでも、練習メニューのひとつひとつの光景が、鮮明にイメージされる。

 黒木は椅子に、浅く座っている。斜めに床へと伸びる左脚は、まだ曲げることが出来ない。内視鏡手術の穴を塞いだばかりのひざは、包帯とサポーターで封じられている。

 気づいて、両手の握力を緩める。手のひらを見ると、爪のあとがくっきりと残っていた。

 大きく息を吸って、ゆっくりと長く吐いた。それだけの時間は、いくらでもあった。

 泣く必要はない。泣いてもいいことはない、と強く念じる。

 ノックの音がして、ドアはすぐにスライドしていく。先生ではなかった。

「外から見えたから……黒木さん、ちょっといい?」聞きながらも、彼女はもう後ろ手にドアを閉めている。

「うん、どうぞ……」黒木はすこし、相手に背を向けるように上体をひねる。

 彼女は、ゆっくりと歩き、自分の席へ行った。

 黒木の背後から、椅子を引いて、机の中をいじる音がしたが、すぐにやんだ。

「……なんで、あんなとこで怪我したの?」

 何も反応できなかった。

「そりゃ、悪気もないだろうし、わざとできることじゃないけどさ。なんでよ」

 彼女は息を吸う。どうやら泣いている。

「わたし……強いとこに進学して、テニス続けたかった。けど、結局この実績じゃ、もう推薦は無理。……大会、わたしラストチャンスで、今までさんざん勝って来たあんたと組めてさ、すごいラッキーだと思った。頑張って、諦めないでやってきて良かったって。……ねえ、なんで? 今まで通り、あんたシングルスで出れば良かったじゃん! なんで最後だけ、わたしとだけ組んで、道連れになんかしてくれてんのよ!」

 彼女の息づかいだけが聞こえる。

 黒木は動けずに、じっとして、小さく声だけを返した。

「……ごめん。そうだよね」

 長い時間があった。彼女は、声を震わせながら、聞いた。

「治るの……? それ」

「わからない」黒木はすぐに言った。

「なに……わからないって、どういうことよ!」

「生活に支障はないけど、速く走ったりするには……早くて、一年……かかるって」

「じゃあ、テニスは……」彼女の声は、ずっと弱々しくなった。「いつからできるの?」

 黒木は何も言わなかった。ただ、首をわずかに振る。

「なんでよ……! わたし……黒木さん、あなたと同じとこに進んで、もっと一緒に……」

 泣き声が、言葉を隠していく。

「憧れてた……ずっと、最初から、一番うまくて……強くて……わたしも、そんなふうに出来たら、きっと楽しいだろうなって……。いつか、ライバルになって、一回でいいから勝ちたかった……。あなたに勝って……わたしを見て……もっと、選手としても認めて欲しかった」

 彼女はそこで、逃げるように離れて行った。机にラケットを置いたまま、ドアに飛びついて、止まる。

「……もうわたし、どこにも行けない。けど、一つだけ叶った。あなたと、一緒だってこと」

 ドアが開いて、そして長らくそのままだった。

 言葉は、いつまでもそこに残った。

 どこにも行けない……。わたしも、あなたも。

 つらい宣告には、もう慣れているはずだった。

 黒木は、動けなかった。

 そうして誰もが忘れた頃に、誰にも聞こえない声を、震わせる。

「どうして……。二人で、勝ちたかっただけなのに……」



   ◯ シングルス・マッチ


 集中力の高まりを感じる。

 シングルスでは、どんなに大きな試合でも味わったことない感覚。

 背中が暖かいような、目の前に強い意味があるような……あらゆる肯定に身体が包まれて、支えられている感覚。

 それでいて、縛られていない。しなやかに、意志は動きに変わる。

 サーブが来る。相手の姿勢を見る余裕があった。

 ストレートに返す。相手は軸足を入れ替えて対応。わずかに高い。

 黒木は散々決められてきた強打を、見たままに再現する。

 決まった。まずは一点……。

 相手は胸元でラケットを当てるだけ。そうとしか見えなかった。

 天井へ向かった球は、強いスピンの空力により急降下、黒木のコートの最奥で高く跳ねた。

「ロブ? なんて軌道……」黒木は上を向いて慌てて数歩退く。

 遠くから、相手のコートを狙って飛ばす。その距離は攻撃に適さない上に、そもそも不慣れ極まる。

 ミスショット、球は相手コートを越えてしまう。

「しまったトップスピンか……」

 黒木は油断したことを悔いた。十対ゼロ、マッチポイント。

 次、一点取られたら終わる。さらにサーブ権は相手にあった。これ以上ない水際だ。

 それでも黒木は臆さない。悲観も、開き直りもしない。

 透き通る呼吸の線を辿って、真っ直ぐに構える。

 両脚に、均等に重さを預けて。

 相手が球を投げ上げ、打つ。

 黒木は今までで一番遅いサーブを待った。まだ来ない、もどかしいほどに、遅い。自分の射程範囲を避けているのか。

 なら、一歩前へ。

 右足で踏み込む。相手の反応を裏切り、角度をコントロール。右腕をしならせて叩く。

 打球は右側へ流れて切れ込んでいく。変則的な、両者にとって初見のショットだ。

 靴の鳴る高い音。

 急ブレーキと共に相手は上体をひねり、バックで振り抜いた。

 上手い。黒木は嬉しくなる。

 ようやく本気を出してくれた。その心意気に応えて、黒木は見えた中で一番難しくて厳しいコースを選ぶ。もっと速く、振り抜く。

 相手は、もう読みを捨てていた。靴が鳴る。構えるのが速い。待つように、テイクバック。どちらが攻められているのかわからない。関係もない。

 黒木は重心をわずかに後退させた。予感がそうさせた。

 真ん中だ。

 コートの中心に向かって、相手のドライブショットが来る。それは高い。

 ネットの真ん中を越える、その一瞬に黒木は全てを込めた。

 退いた反動で、一歩、跳ぶ。

 宙で黒木のコートへ下降し始める球を、前のめりで、身体を真正面へ伸ばして、腕の先端、ラケットが空を裂き、弾き返す。

 角度も速度も凄まじいボレーショットが、相手の伸ばしたラケットを、振り切る。

 球は遠く、速度を保持して壁へ進んでギャラリーの人垣を割った。

「やったっ……!」

 黒木は小さく跳ね、抱き締めるように拳を胸に寄せた。

「あれぁ……」相手は目を見はり、やがて恥ずかしげに緩んだ口元を拭って、首を左右に揺らした。「わがっててもひろえねがったなあ(予期できていたにも関わらず、お返しできませんでした)」

 審判が、片手を上げる。

「十一対ゼロ、ゲームセット。琴丘くんの勝ちです」

「……えっ?」黒木はそのポーズのまま凍りついた。



   ◯ 黒木と小湊 gently


 収穫はあった。

 卓球においては、自分のコートに一度跳ねた球しか打ち返してはいけない、というルールを知ることができた。

 テニスとテーブルテニスは、名前ほどは似ていないようだ。

 音もなく歩いて戻ってきた黒木は、小湊から、見上げる視線とジャージを受け取った。

 情けない声しか、返せるものがなかった。

「ごめん……一点も取れなかった」

 しかし小湊は、首を振る。どこか嬉しそうに。

「良い試合だったよ。本当に、良いものが見れて……とにかくさ、目が覚めたよ」

「そう……」黒木にはなんだか大げさな評価に聞こえた。特に最後。「そんなに、意識が変わるくらい……?」

 と、小湊の目が大きくなり、視線は黒木の背後へ向けられていた。

 振り返ると、琴丘がラケットを小脇に挟み、右手を黒木へ差し出していた。

 眼を真っ直ぐに見合い、握手。言葉は要らなかった。スポーツを好むもの同士が、スポーツと相手への感謝を捧げる為のセレモニー。

 と、琴丘の微笑に、照れが猛速で加わった。ぱっと手を離し、後頭部を抑えてお辞儀。

「あっ、すんまねす……(これは、失礼をいたしました)」

「ああ、いえ……」黒木はひとまず首を振って、相手に気にしなすぎないよう勧める。

 しかし琴丘はそそくさと去っていき、女子達は和んだ笑顔を向け合った。

「琴丘くん、やるときはやるってタイプなんだね」小湊が、感心したふうに言う。「目つき、全然違ってたよ、試合中は」

「そうだね」黒木は心のままに話す。「強かった。完敗だったけど、なんだろう……、なんていうか、元気が出たよ」

「彼には、そういう力があるみたいだね……まわりに勇気を配っていくの」回田が変なことを真面目に言う。

「二人ともすごかったよ。本当にさ、二人の集中力の火花が散ってたのが見えたよ。しびれたなあ。私、すっかり目が覚めちゃった」小湊はしみじみと感想を述べた。

「るぅ……」黒木は心配そうな表情を作る。「やっぱり保健室行ったほうがいいかな?」

「えっ、だいじょうぶだって」小湊は笑う。「頭っていうか、たんこぶ冷やしてもらいに行こうかと思ったけど、今日は保健室忙しいかもしれないし、邪魔しちゃ悪いから行かない」

「そっか……やさしいね」黒木はジャージを着て、自分の体温を感じる。

「それより、その……ちなちゃんこそだいじょうぶ?」小湊がたずねる。

「え? ああ……」

 黒木は、なぜこんなことを黙っていたのか、その理由も今は気にせず、さらりと伝える。

「左膝ね、これくらい大丈夫だよ。むしろリハビリでちょうどいいかな、もう術後半年くらいだし」

 回田は、黒木の左膝を見て口を引き結んだ。

 小湊は不安げな表情だ。「え……術……ちゅじゅつ?」

「言えてないよ……」黒木は笑ってたしなめる。「そのころ左膝、故障してさ。しばらく運動できなくなってたんだ」

「そう、なんだ……」

 とそこで小湊も、何か意を決したように顔を上げた。「実は、でも、なんとなく、そんなような気はしてたんだよ。だって、スポーツ好きそうなのにさ……うん、でももう、今さらそんなこと言っても……」

 黒木は、言葉に迷っている小湊に手を差し伸べる。

「そうだろうと思ってたよ。これは、バレてるかなあ……って」

「えっ、うそ」小湊はぽかんとする。

「いや……まあいいよ、そういうことはもう、ね」

「ちょっとー」小湊は楽しそうに口を尖らせる。「なんか、変な感じじゃんかー。こういうのを、水臭いっていうのかなあ」

 ささやかに、彼女達はまた笑い合った。

 どこまでも自由に響いていける、高く、優しく、明るい声で。

「るぅは、水より氷のほうが好きだもんね」

「え? まあ……今は氷なら、たんこぶに与えてやりたいけど……って、何言ってんの」

「わ、のりつっこまれた」




     六章   見えていくもの




   ◯ キミとせかい


 うららかな喫茶店の昼下がり。

 中央のテーブル席から、浮遊感のある小湊瑠美子の声が発散され、店内の空気をいっそう柔らかくしている。

 母子が二組、四人がそのテーブルを囲んでいた。

 母と母の大人二人の話題は確定申告に差し掛かり、パイナップルパイを瞬く間に食べ終えた子供二人にとって、今やテーブルの拘束力はゼロになった。

 パイナップルパイ――小湊瑠美子が、秋冬限定のアップルパイに代わる春夏のパイとして考案。台湾名物のパイナップルケーキにアレンジを加えたもの。パイナップルジャムと卵黄多めのカスタードクリーム(ココナッツミルク入り)を厚めのタルトに満たし、パイ生地で覆って焼いて作る。美味。

 先にうずうずし始めたのは、客である若い主婦が連れてきた、年長さんの男の子。

 その向かいに座るキミは、自動的にお守り役を任された事を悟る。

「こっちきて」キミは椅子から離れた。「いろいろあるから」

 子供二人は他のテーブルへ移った。

「それ知ってるよ」男の子は指を差し、得意げに声を上げる。「マトリョーチカでしょう」

「どうかな。確かめてみよう」

 キミは隣接する棚から、赤い楕円の物体を取った。

 それを広いテーブルに置いて、連続的なショーを始める。

「一番大きいこれは、宇宙」

 中から二番目を出して、隣に置く。「そしてこれは銀河」

「なに、なんで……」男の子は忙しくキミとマトリョーシカの目を交互に見る。

「これは太陽系で」キミは三番目を開けて、四番目を出す。「これは地球」

 男の子は口を挟む無意味さを悟り、黙って座視している。

キミは続けた。

「これは人」

「これは細胞」

「これは原子」

「最後は陽子」

 キミは揃えた指の間に、その小さな粒をのせて差し出した。

「なんで、われてるの? かわいそう」男の子は眉を寄せた。

「前向きな好奇心が、ここまで辿り着いたからだよ」

 キミは自分の手に指をさす。「陽子が割れて、この中は素粒子。まだ目には見えないけど」

「わかんない」男の子は正直に生きることにしたようだ。

「素粒子はいろいろあるの。ニュートリノとか」

「マトリョーチカじゃないの?」男の子は自己の正当性と優位な点を探す。

「ロシア語は知らない。だからこれらは、宇宙から素粒子まで、ってことにしたの私は」

「うちゅう? ぼくには、ぜんぶ女の子にしか見えないよ」

 キミは微笑んで、その時ちょうど我が子の回収にきた主婦に向かって言った。

「この子は健康ですね」



   ◯ 惑星プチトマトの色相感


 黒木はスケートボードを抱え、自分の脚で歩いていた。

 街がゆっくりと流れていく。視界は、呼吸をするようにわずかに上下に揺れている。歩行による揺らぎだ。

 追いかける春風が優しい。黒木は、胸の中心の暖かさを感じる。

 ここが暖かくて元気なら、それはきっと良いことだ。

 黒木は一度も脚を止めない。

 道を譲るように、信号は、ずっと青が続いている。

 オールグリーン――それは一時的に過ぎないことなのかも知れない。

 それでも黒木は無意識に、信号というものを好きになる。




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