インフレーション
◯ 無自覚な英雄
その時、アパートの廊下では。
「――くらえええぇえっ!」
と、ドアの向こうからの声を聞き、新聞配達員がびくりとした。
くしゃみでズレてしまったクラシカルな眼鏡を直すことも、鼻を拭うことも忘れ、手を素早く、掴んでいた朝刊の端から離す。
(勢い良く刺しすぎたからでしょうか……?)と罪悪感と恐怖が渦巻く。
彼は、ほとんど入りきって室内に落ちそうな朝刊を見る。
すると、その新聞受けの隙間から、白い煙が細く吹き出る。それが湯気だということを彼は知らない。
――ドアの向こうから、轟く男の悲鳴。
「ひゃああっ!」配達員は跳び上がった。慌てて、階段を数歩で駆け下りる。
「……けらすぐねぞ! ただでね、ただでねこった!(とんでもない事態です。なんと大変な、大変なことでしょう)」
彼はアパートから転がり出て、警察に電話をしながら交番へ走った。
◯ 後片付け
「まあ、でしたら正当防衛になるかもしれませんが……」
警官の一人が言った。
「私たちも職務上、ちょっと疑わないといけません、状況も状況ですし……」
と救急車に担ぎ込まれる男を横目に見る。靴紐の束縛はとかれていたが、両手はうっ血してまだ変な色だった。
風子は着替えて、男は廊下に引きずり出したところで放置し、アパートの外に出ていた。今は警官の冷たい視線を受け、疲労感に肩を落としている。
と、そこで風子は閃いた。
「あの! でしたら、カメラに映像が残ってると思います――」
風子は要領よく説明した。犯人のカメラが玄関に転がっていること、そのカメラは耐水性の機種だと思われること。そして、記録されているであろう映像の内容と、犯行内容について。
「わかりました……確認しましょう」警官の顔には同情の色が浮かんでいた。「もちろん、直接に視聴して確認するのは婦警に任せます。ただその分お時間をいただきますので、それまで署内でお待ちいただくかたちとなります」
安堵すると同時に、今後のスケジュールについての煩わしさがいっぺんにのしかかる。事情聴取、無駄な待ち時間、書類責め、親への説明などなど……。きっと今日は、午後に登校できれば早いほうだろう。
「わかりました……あの、私より先に通報した人っていうか新聞配達の人に、会ってお礼を言いたいんですが……」と風子は付け加えた。
しかしその人道的な要望は、「今日のところは」とすぐに遮られた。
◯ 英雄の宿命
警官と風子が話している様子を、遠くから見つめている人物がいた。
『……おい、結局ボクの出番無かったじゃないか』
左耳のイヤホンから、そんな声が届く。
興津は振り返って歩き出すと、小さく口を開いた。
「当たり前です。我の支援すら不要だったのですから……ですが良いものを見られました。彼は、本物です」
『彼? 捕まった奴のことか』
「アホ野郎。確かに捕まった奴も手強い悪でしたが、新聞配達員のことですよ。彼はこれほど接近するまで、我にすら全く感知不能でした。敵味方問わず、ここまで見事に気配を隠すなど、信じ難いレベルですね。しかも、宿主である彼自身は完全な無自覚なのです。最高の隠密ヒーローと言えましょう。おかげで我は楽が出来ましたが、少しこの身体で怪我でも体験したかったので残念っちゃあ残念です」
『いや、全力で大事にしてくれよ……ボクの帰るべき身体なんだから』
「ヒーローに帰る場所なんて要りません。孤独なほうがカッコイイでしょう、タマタ」
『ボクはっ、田又じゃない……!』
「タマタ、我は貴方のそんな泣き声を聞くと有機的な幸福感を得られます。泣くところをもう見られないのは残念ですが……」
『返せ……返せよ、ボクの身体……』
「またそれですか、まったく。……返したら、泣いてくれますか?」
『ああ泣くさ。泣き明かすさ。ただし嬉し泣きだけどね……って、え? もしかして、返してくれるの?』
「いや、返しませんけど」
『く……くっそおおおぉぉおお! ボクの声でボクを弄ぶな!』
「うるさい。我の鼓膜が破れるでしょう」
『お前の鼓膜じゃないっ!』
五章 動くつぶつぶたち
◯ 球技大会 ソフトボール
校長の怒りをかった野球部員は、一時、球技大会に出場する権利を剥奪されたが、何らかの圧力により、再び権利を与えられて事無きを得ていた。
ただ、ピンクのユニフォームは選手達に配られてしまい、しかたなく練習・祭事用として役立てられている。
今まさにグラウンドでは、たくさんいるジャージ一色の生徒達に混じって、助っ人的に活躍する薄ピンクの野球部員の姿があった。
控えのベンチからその様子を眺めつつ、野球部監督は、腕を組んで笑みを浮かべる。
「こうして見ますと、やはり動きがいいですなあ」
と語りかけられたその隣の人物は、反対に、仏頂面のお手本を披露していた。
「奴らは、憎い仇……」抱えられたハトの写真が震える。「でも、あのユニフォームはなかなか素敵……。むう、複雑だ」
「校長、あなたが作ったんでしょう?」監督が大きな腹を揺らして笑う。
「ああそうだよ。辱めると同時に、ハトの愛らしさに胸を焦がされるがいい……そんなふうに思ってデザインしたんだよ。でも上手く出来過ぎて、裏目だ。恨みにくくなってしまった」
監督は、ゆっくりと頷く。「きっと、あなたは復讐が下手なんでしょう。なんでも素直に捉えてみたらどうですか。あのドロシーは、あなたともっと一緒にいたいから、そういう運命を選んだのかもしれない。そして、あなたのインスピレーションに働きかけて、ユニフォームの形でメッセージを送っているのかも……」
「うるさいな。何を言ってるんだ、あんたは」校長は唇を歪めて監督の横顔を睨む。「……ていうか、監督? あんた、そんなに太ってましたっけ」
「私は以前から、これぐらいのボディです」
「そうかな? しかもなんか……さっきから英語の発音がすごいな」
「それは、母国語ですからねえ」
「はあ? 何を、どう見ても純国産……」とそこで校長は、監督の眼を凝視した。「あ、青い……ああ! その瞳の色合いは、まさか……」
「ふあっはっはっ……」
監督は笑い、首のあたりを両手で掻くような仕草をした。「もっと楽しい瞬間をお目にかけよう……」
と校長へと顔を向けた監督は、一息に、首元でめくれた皮を引き上げる。
頭部の皮が、まるごと脱ぎ取れた。
異常に大きかった顔が、異常ではない程度に大きい顔となる。
現れた顔は、ちょうど、向かい合う校長と全く同じ大きさで、そして全く同じ、形だった。
監督の服を着た校長の顔が、言った。「ただいま、コウヘイ……」
「父さん……」と校長の服を着た校長の顔が、惚けた声で返す。「ああ、ごめんなさい……」そして彼もまた顔を脱ぎ捨て、青年の顔になった。
しばらく、眼だけがお互いを繋ぐ時間が流れた。
やがて父と呼ばれた男が、にっこりと笑う。
「このいたずら息子め……。どうだ、同じようないたずらをされた気分は」
「ああ、最悪に最高だよ、父さん……」
今や衣装は無関係な、校長とその息子。二人は、しっかりと抱き合った。
◯ 球技大会 卓球
体育館の二階、平べったくて広い屋根裏といった空間に、音が満ちていた。
床に等間隔に配置されている、青い卓球台が反響板の役割も兼ね、軽く軽快なカやコといった音の粒を無数に生んで溢れさせていく。
「相手の人、手加減なしだね~」回田が平和な調子で言った。
その場にいる誰よりも新品に近いジャージを着ている黒木が、一拍置いて首肯する。
「そうだね。あれはあれでスポーツマンシップっていうか、紳士的だけど」
壁際で座っている二人は感想の交換を終え、また観戦に集中した。
十対ゼロ。
小湊は、絶望的な得点票を見る事はせず、低いサーブを打つ。球足も遅くない。
ただ、相手はその倍速以上のリターンをコーナーに決めた。数年以上の研鑽を積んだ者にしか許されないであろう、最適化されたフォーム。振り抜いた腕の先、ラケットの末端にまで神経が行き届いているかのようだ。見えない速度で振っているのに、なぜこうも球を捉えながら、その行き先までコントロールできるのか。素人には、ほとんど曲芸に見える。
審判がコールした。
「ゲーム、琴丘くん。一対ゼロ」
これで一ゲーム先取され、次のゲームを落とせば小湊の負けとなる。
「もうー……」小湊は一度天井を仰いだ。「結構練習したんだけどなあ」
しかし、膝を抱えて見守っている黒木には、小湊の表情に一種の高揚があるように見えていた。むしろあるべき悔しさや諦めは見出せない。目つきは真剣で、普段は主要成分である緩みが、今はなかった。
球を拾ってきた小湊が、相手を心底讃えたふうに言う。
「琴丘くんって、ほんとにすごい上手いね」
返事は、わずかな頷きだけだった。彼は眼鏡を素早く指で押し上げ、上体を前傾させて構えに入った。
「でもなんとか、一点取るぞ。せーの……」
小湊は左手で球を投げ上げると、斜めに寝かせたラケットを振りながら、掛け声。
「がっちゃんき!」
落ちてきた球とラケット、両者は、接触せずにすれ違った。空振りだ。
「でたよ……」小湊は慌てて屈んで球を拾おうとした。
審判が得点票を一枚めくる。サーブミスにより、相手に一点が入った。
球は、小湊の指に当たり、台の下へと潜り込んだ。
「あちゃ」それを追って腕を伸ばす。次は、しっかり捕らえた。
そして台の下から上半身を引き出し、頭を振り上げる――。
ゴッ――!
一瞬だけ、卓球台が数ミリ浮いた。
「った!」小湊は逆再生で頭を下げ、卓球台の裏にぶつけた後頭部へと手を伸ばした。膝をつきラケットを床に置く。「いっ……つうー……」
「わ~、痛そう~」回田が少し不安げに苦笑する。
黒木は、その瞬間を目の当たりにして、無意識に自分の胸元を掴んでいた。
驚きは一瞬。心の中で急速に膨張するのは、それとは別のもの。
うずくまる小湊を見ている。視界はそれだけになる。
黒木は彼女へ駆け寄っていった。大げさにも見える速さで。
そこには、自分が重なっている。消えそうな声を差し出す。
「大丈夫……?」
黒木は胸を掴んだまま、小湊の肩に触れた。
返事を待つ短い時間。
心臓は思い出している。過去に流れた血が、また鮮烈な色を取り戻していた。
◯ 痛み
河川敷の広大な土地にある、運動公園。
地区大会、ダブルスの二回戦が行われている。
緑色のハードコートにボールをつき、黒木はサーブを打つ。鋭いスライス。ペアを組む、味方の前衛の頭に近いところを通るほどの、厳しい角度。相手は、ラケットの先端を届かせるのが精一杯だった。ボールは、黒木達のコートには返って来ない。
審判の控えめなコールが、高いところから聞こえる。これで三ゲーム連取だった。
「ナーイスサーブ」前衛の選手は振り返って、黒木へと近き、軽く手を合わせる。「次もブレイク取ろう」
「うん」黒木は、まだ鋭い眼を相手ペアへ向けている。
その後も、黒木達は、順調に試合を運んでいく。ただ、コートの中で黒木のカバーする範囲がずいぶんと大きな比率を占めていた。それは作戦や狙いというよりも、必然的にそうなっているようだった。ペアを組む彼女は、出来ることだけに専念して、ミスもフォローもない平坦なプレーに徹していた。
これは、望んでいた形ではない。黒木は、どこかでかすかにそう感じていた。
後衛の黒木が、前衛の頭を越えてきたロブに追いついてストップ、構える。
打ち返す。高い打点で力を込めた、強いショットのはずだった。
黒木だけが、その音を全身で聞いた。
ボールは、ネットにも届かない。
黒木は、コートに手を突いていた。
やがて、ひとり、またひとりと黒木に近づいていく。
試合は、そのプレーを最後に終わった。
黒木はずっと、コートより上を見ることができなかった。
嘘のように、呆気なかった。
これまで痛みを無視してきた左ひざが、壊れていた。その瞬間の、全身に響き伝わった音を、黒木は忘れられない。そして、信じることもできない。
恐らく、十字靭帯の断裂。
外からは見えない、しかし頭が割れそうなほどの痛みの信号が、確かにそこから激流のごとく押し寄せてくる。
視界の光の具合がずいぶんと騒がしい。意識がばらばらに離れて消えていきそうになる。
これから、どうなるのか。
痛い。それ以上に怖い。
終わり? もう、これで……?
わかっている。嫌だ。わかりたくない。わからない。わかるはずがない。
思考から溢れて逃げた、いくつのも理解と現実が、心を貫いては飛び回る。
今立ち上がれたとしても、どこにも逃げ込める場所はない。
心が、黒木を中心から苦しめる。
どんなに強い痛みでも、それを隠せない。
◯ 一点を entry
「だいじょうぶ……」
という小湊の声。
黒木は大きく呼吸した。身体の密度が空気に近づき、ふわりと浮いてしまいそうだった。
壁を背もたれにして座る小湊は、まぶたを強く開閉する。
「痛かったあ、目がちかちかした……」
「保健室行った方がいいよね、それとも変に動かさない方が……」
と言い募る黒木に、小湊は手を振って「だいじょうぶ」と繰り返す。
回田がその横顔を見つめながら言う。「しばらく動かないで大人しくしてれば、良くなると思うよ」
「そっか……なら良かった」
と、審判の人がやってきて、試合を棄権するかどうか聞いてきた。
「わたしが代わってもいいですか」
黒木はすぐにそう返して、審判の顔を強く見つめた。
「え……ああ、はい。まあ、いいんじゃないでしょうか。点数は途中からですが」
「わかりました」
黒木は立って、ジャージの上を脱ぐ。
小湊が呆然と見上げていた。何か言いたげに口を開けている。彼女がまだ言葉を見つけられない内に、黒木は、ジャージを彼女の投げ出した脚に掛けながら言い切る。
「一点、代わりに取ってくる」
彼女に返事を考えさせないよう、すぐにコートへ向かった。
◯ 挑戦者の背中へ gen try
黒木がラケットを拾い、赤と黒の両面を交互に見ながら、握り方を探している。
「ふああ……」
小湊は、手の影であくびをした。
「大丈夫? 思ったより脳ゆれてたのかな……」回田が近寄る。
「……あう、いやあ、今日さ、とんでもなく早起きしちゃったからさ……眠い」
「あ、なんだ~。普通のあくびか~」
「んん……」と小湊は、悲しそうな顔になる。「だいじょうぶなのかな、運動して……」
回田は、小湊と視線を揃えた。「黒木さん? どうして?」
「だってさ、ちーちゃんはもう運動を……いや、まあだいじょうぶだから、やってるんだよね。ああ、でも私がちゃんとしてれば、そんな無理させることにもならなかったのに……。昨日もっと寝ておけば良かったあ……」
「やっぱり、保健室行った方がいいかな~……」
事情を知らない回田は、ぽつりとつぶやいた。
◯ 彼女たちのために
黒木はペンホルダー用のラケットをシェイクハンドで握った。数回ゆっくりと素振りをしていると、審判に別のラケットを差し出された。
「これ、シェイクハンド用のラケットです」
「ありがとうございます。でも、これでやります」黒木はきっぱりと断った。
相手とアイコンタクトし、練習ラリーを始める。
黒木の打球は多少安定しなかったが、ラリーは途切れずに続いた。コースのブレは、やがて修正され、規則的な音で球が往復していく。
「卓球、やってたんですか?」審判が黒木に聞く。
「見た事はあります」
黒木は相手に一礼して、練習を終える。と、まごつきながら相手にサーブ権があることを察して、球を送る。
黒木は重心を落とそうとしたが止めて、何度かその場で跳ねると、上体だけをやや屈めて、ラケットを構えた。
相手がサーブのモーションに入る。
切るようなショット。低い球が這うように侵入してくる。明らかに強いスピンがかかっている。
あまり厳しい返球はできない。黒木はひとまず相手コートの奥を狙って押し返す。
鋭い音。相手の強打が、黒木の肩に当たった。
あまりにも、速い。
黒木は歯の内側でささやく。「ちょっとでも高く上げたら、即刻これか……」
次も相手のサーブ。黒木のリターンは、ネットに弾かれた。相手に連取を許す。
「バックは手首の返しか……繊細」
黒木は球を受け取り、フォームを確認した。
そして、初めてのサーブを打つ。一球目は浅く入り、相手の強烈なアングルショットを遠くに拾いに行くはめになった。
二球目は深く打てたものの、ラリーで圧倒される。
この失点が、黒木に作戦の考案を強く要求していた。
正攻法では難しいかもしれない。五対ゼロ。あと六点取られれば、試合は終わる。
「それまでに……なんとか」
延命を計り、ショットの学習をしながら、相手の弱点を探す。二点使って、フォアの精度がわずかに向上しただけで、弱点に関しては成果がなかった。
どのコースも平然とさばいてくる。慌てさせることさえできない。
しかも恐らく彼は、これでもずいぶん手加減しているようだ。特にサーブは、小湊に対して打っていたものより曲がりがゆるく、今も徐々に甘くしているようでもあった。
「できれば、本気でやってくれると助かります」
彼は一瞬固まり、かすかに首を振った。「わぁずっと本気だす(わたしは、当初より本気で行っております)」
「よろしくお願いします」
黒木は微笑んだ。次から、ずっと本気出す、という言葉を受けて。
急速に目が慣れていく。そのことを黒木は自覚していない。その後も相手の打球がだんだん遅くなっていくように見えた。それは黒木のショットが良化している事も重なっている。
しかし、全てが相手の手加減のせいだと思っている黒木は、少し苛立ちを乗せて相手を一瞥した。
九対ゼロ。彼はサーブを打つ前に、眼鏡を上げて目元を拭っているところだった。
相手にもされていないと感じた黒木は、身体をコートに沈めるように深く重心を下げた。
「もう、絶対負けないから……」
左膝の痛みは、忘れている。