表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
プチトマト  作者: コスミ
10/12

コンプレッション





     四章   どうしようもなくても




   ◯ 小湊姉妹 普通の遊び


 小湊家のスタッフ控え室的なリビングルーム。

 キミが、牛乳を飲んでいる姉に言った。

「姉、とんでもない遊びを思いついたよ私」

「ん……どんなん?」小湊はグラスを置いた。「あ、でも先に断っとこうかな。やらないよ、それ」

「やるよ、これをやらずして生まれて来た意味はないよ」

 姉は、くいっと口を左右に引きのばした。「キミってさ、たまに冗談がキツいよね。でも、その年頃って、皆そんなんかな」

「いや、頻度は低いけど、群を抜いてキツいと思う私のは。なるべく生命を粗末にした言い方は控えるよ」

「そこは裁量に任すけどさ、遊びってなに」

「簡単だよ。普通のことしか言っちゃいけない、という遊び」

「……え、なんか面白さに繋がりそうもないね、そのルール」

「それはわからないよ。とにかく、ひたすらに、極限まで個性的な要素を省いた発言だけを繰り返していくなかで、この言語というもののもつ役割の核心と神秘に肉薄できる気がするから、とても意義深い遊びだと思う」

「……そうか、まずそういう不可思議無量大数に長い発言を防止できるんなら、いい遊びだ」

「もちろん姉の今の言い回しも、遊びが始まってたらアウト対象だから。まあとりあえず始めてみようよ、人生トライ&エラーだよ」

「いいよ。じゃ、スタートの合図して」

「それでは、遊びを始めます。よーい……スタート」

 ぱん、とキミは手を打った。

 瞬間――二人の間の空気が殺気を帯びて硬質化した。やがて、アイコンタクト合戦の果てにキミが先に口を開く。

「わたし、おやつを食べたい。お姉さん、わたしと一緒に、おやつを食べようよ」

 小湊は全身から〝騙された〟という気配を醸した。一瞬で、退屈に絞め殺されそうな表情になる。

「いいよ……一緒に食べよう」心の存在しない声だった。

「お姉さん、油断しないで、ゲームを楽しもうよ。ゲームは、楽しむためにやるものだよ」

「そうだね、お姉さん頑張る……」小湊はクッキーをひとつ食べ、牛乳を飲む。

 その隣にキミが座った。

「今日のおやつは、クッキーだね」と手に取ってから言う。

「お姉さんは知ってたよ」小湊は無造作に返した。

「ええ、そうなの?」キミは、いかにも意欲的な声を出す。「お姉さんは、今日のおやつが、クッキーだということを、いつから知っていたの?」

「ついさっきからだよ」小湊は少し悲しそうな顔になる。「いいから、食べなよ」

「うん。いただきます」

 キミはクッキーを食べて半月にした。

「……おいしい。クッキーって、サクサクして、甘いね」そして輝かしい笑顔。

 小湊は、妹の奮闘ぶりに得体の知れない感動と恐怖を見出しつつあった。

「キミ……牛乳を飲んだらいいよ。クッキーと合うよ……」別のグラスを取って来て、パックの牛乳を注ぐ。

「ありがとう、お姉さん。わたし、今、クッキーを食べたから、ちょうど喉が渇いていたの」

「さあ、キミ、どうぞ」グラスを手渡す姉。

「ありがとう、いただきます」

 キミはグラスを両手で受け取り、片手で傾けて二口飲んだ。「……ああ、おいしい。牛乳って、冷たくて、白いね」

「……もうだめだっ」姉がグラスを奪い取った。「見てらんない! やめよう! 私の負けでいいからっ!」

「お姉さん……」キミは平然としている。「まだ、終わってないよ。だってお姉さんは、まだ、普通のことを言い続けているもの」

「な……、わかったよ、それなら見せてやる」小湊は妹を救うべく真剣な顔になる。「やってられまへんで、ホンマ、やめさせてもらうわあ。でんがなまんがな」

「お姉さん、それは、地域によっては普通の言い方だね」

「出た……へ理屈少女が。もー、個性的な台詞なんて、方言なしじゃオリジナルでつくるしかないじゃん」

「お姉さん、今、倒置法を使ったから、アウトだね」

「えっ倒置法? どこにあったの……? まあ、いっか」

 小湊は息をつき、ゆっくりと肩を回した。「あー良かった終わったー……もう、悪夢だよ、この遊び」

「じゃあわたし、お姉さんのぶんも、頑張って続けるね」

「え! ちょっとやめ、やめてよ! 戻って来て!」小湊が妹の肩をつかんで揺さぶる。

 しかしキミは静かに口元を拭うだけで、全く取り合わない。

「ティッシュって、柔らかくて、薄いね」



   ◯ 小湊姉妹 普通の探求者


 小湊はキッチンへ逃げ込んだ。

「お父さん、あ、多賀さんも、ちょっと大変で、キミがまた……」 

 指定席に座る多賀が、ちらと目を上げる。「なに、キミの助がどうした」

「緊急時以外は、静かにね」父親はコンロの前でハイスツールに腰掛け、膝元に開いた雑誌をこっそり読んでいる。

「あの……いや怪我とかじゃないんだけど、結構緊急で……」難しそうな顔の小湊は、背後の気配を察して振り返る。「うわ、来た」

「お姉さん、どうして、おやつから逃げるの……あ、多賀くん」キミは背伸びをして、カウンターの多賀を見た。「こんにちは、いらっしゃいませ」

「ああ……」多賀はぽかんと口を開けた。「なんかもう、わかった気がすんな」

「ほら、そうなんですよう。さっきキミが突然ね、これからは普通のことしか言わないって、宣言して……」

「本当は、お姉さんと一緒に始めたのだけど、お姉さんはすぐに、普通であることをやめたから、私だけでも、頑張って続けようと決心したの」

 小湊はゆるゆると首を振った。「最初は、しょうもない遊びだと思ったら、こんな、狂気の性格改造に突き進んでしまったんです……」

「はは……そう、なるほどね。ある意味、らしいよな」作業に戻っている多賀が歯を見せた。

「笑い事じゃないですよう、キミはこういう時、本当にしつこいって知ってるでしょう?」

「わたし、丁寧に、頑張ります」

 父親がキミの横顔を見て言った。「ああ、手話の時の前例があるね」

 多賀がいっそう歯を見せる。「あん時はすごかったなあ。手話をマスターするって宣言してから半月くらいかな、すっげえ無口だったよな。おかげで俺らもちょっと覚えたもんな」

「私は覚えられなかったですけど……」小湊がぽつりと言う。

「るうちゃんはアレだろ、キミの助とは、テレパシーで会話できるからだろ」

「わたしたち姉妹の絆って、強くて、太いよね」

「いや……」小湊はあまり妹の顔が見られない。「みんながやたらと頭いいだけです。多賀さん、分けてくださいよIQ。余ってるでしょ」

「余ってねえよ。てか何で俺なんだ。そこの親父の方が、よっぽと多いし持て余してるから。もうほとんど持ち腐れ」

「何、腐ってるって。ウチは鮮度には気をつけてるよ」

「みなさん、今日も、楽しそうですね」キミが標準的な笑みを見せる。「楽しくて、幸せで、嬉しいです」

「うう……。もはや鳥肌メイカーでしょう、こんなキミは」小湊が訴える。「さっきなんか、牛乳を飲んだら『牛乳って、冷たくて、白いね』なんて感想をピュアスマイルで言いやがったんですよ」

「それはそれで普通じゃねえだろ。白いとか普通言わねえし、冷たいってのは冷蔵庫と電力のおかげだしさ」

「そうですけど、とにかくいつものキミとのギャップがこう、なんだか不気味なんですって。前に牛乳飲んだ時なんかは『今、文字通りのほ乳類だね私たち』とか言ってたのに……」

「……ああ、文字通り、ね。なるほど、やっぱそっちのほうがらしいわ」

「ねっ、ですよね?」

「お姉さん、口調が変わっても、わたしは、わたしだよ」

「違うっ、そんな普通のキミはキミじゃない……」

「まあ本人もそう言ってることだし、きっとその内、馴染むか戻るかするだろ。それに口調ごときじゃその個性は隠しきれねえだろうし、信じて待つか、楽しく観察したらいいんじゃないの?」

「多賀くん、良いことを言えるんだね、意外だね」

「えー? 私、家でずっと一緒に居るんですか? これと……」小湊は肩を落とした。



   ◯ 小湊姉妹 普通の破壊者


 翌日、姉は早起きしてキミの部屋に入った。情け容赦なく、電気を点ける。

 何も変わった所のない部屋。

 ただ特殊な点としては、教科書類とランドセルとアイマスクが座卓に載っている以外、キミの持ち物は全て、壁面に備え付けられた収納に収まっていた。本棚や勉強机といった常識的な家具も揃っているが、それらは姉の占領下にある。

「キミ……起きて」

 部屋の中央に敷いてある布団から、キミは目を閉じたまま手探りでアイマスクを掴み取り、顔につけた。

「うん、起きた。姿勢も、起きたほうがいい?」

「姿勢は、そのままでいい。でももう普通の口調は終わりだよ」

「……どうして? お姉さん」

「キミは自覚なかったと思うけど。今ね、キミものすごい寝言いってたんだよ。タスマニアのマニア達とルーマニアのマニア達によるマニア討論会、とか何とか……それを全部倒置法で」

 姉の作戦が開始された。もちろん寝言というのは、まるごと捏造である。

 キミはしばらく黙り、やがて、薄く口を開いた。

「……寝言は、ノーカウントだよ」

「うわっ……ちくしょう、いとも普通に……!」

「私は、普通だもの」

「そう……でもそんな、普通なんて自称する子が……」小湊はプランBに移行する。「こんな笑い方をするのかっ?」

 真横から布団の中に両手を突っ込み、脇腹を狙ってくすぐる。

「うあ……ちょっと、やめて」

 キミは身体を曲げて姉の手首を捕らえた。必死な握力。

「な……」万策尽きたことで、小湊はかえって攻めの闘志を点火させた。

「押してダメでも……押してやるっ」

 小湊は雑巾がけのポーズをとり、渾身の力で妹の身体を横へと押し始めた。時計は朝の三時半を示している。

 キミは掴んだ手首を離すわけにもいかず、そのまま布団の外へ押し出された。

「お姉さん、力任せって、野蛮で、痛いね」

「そっちこそっ」小湊はそこで今度は両手を引っ込めた。

 キミは手を離し、素早くアイマスクを弾く。鋭い眼光、臨戦態勢の構え。

「お姉さん……言っておくけど、笑い声も、ノーカウントだよ」

「え、ノーカウントばっかりじゃん」

「もっと言えば、もう、なんでもアリだよ。次来たら、アリキックだよ」

「な……なんてやつ」小湊は歯を食いしばる。「でも、それでも、キミが普通をやめると誓うまで、くすぐり続ければいい……そうでしょう?」

「それは、脅迫だね、恐ろしいね」

「知るかっ」

 姉が間合いに入った。寝たままの妹と両手で牽制し合う間に、数発、良い蹴りをもらう。脛に走る鈍い痛みに絶えつつ、柔道の序盤のような攻防を展開。

 やがて、また距離を置く。

「何て反応だ……寝起きのくせに」姉はすねをさする。

「お姉さん、もう諦めて、私と一緒に、普通を極めようよ。そうして、世界の全ての普通を、〝半分こ〟しよう……」

 乱れた髪が横切る頬の上に、野望に輝く瞳がある。そして笑顔の浸透圧。

「そんな……そんなもん要るかあ!」

 小湊は再度、妹に飛びかかる――。

 と見せかけ、足下の敷き布団をひっくり返して浴びせ掛けた。

 続いて小湊はその上へ、素早く逆馬乗りになった。

 布団の下からキミの息がもれる。

「おふっ……お姉さん、やめて。普通に、やめて……」

 姉は、腰の後ろに差した毛筆を抜き、無防備な標的に、哀れみの眼を向ける。

「キミが疲れて何もかもどうでもよくなるまで……私も、強い心で、頑張って続ける!」

 布団から突き出した、まだ何も知らないキミの素足を狙う。

 次の瞬間――小湊家の、特別に早い朝が始まった。



   ◯ 未明、興津よどこへ行く


 午前三時半に、興津は起床した。

 ベットを降りるところから、動きはすべてひと繋がりだった。

 素早く一番目立たない服装に着替え、武器の確認、装備。

『……何してんだ、武器まで持って。こんな時間に外をふらついて、職務質問でもされたら、ボクの身体に前科がつくじゃないか』

 興津は財布と、そんな声を発した携帯をイヤホンごとひったくり、家を出る。

「アイホン略してアーホ。我が警官に見つかるわけなどないでしょう」

『アホとか言うなよ……しかもある意味余計に不安な返事だし。無茶なことはするなよ』

「大丈夫です。もし逮捕されたり死にかけたら、我は元の次元に退避しますので」

『相変わらず最低すぎるな……。ああもう、どうしたらお前に復讐できるのか、まだ考えつかない……』

「平和のために思考力を使ったらどうですか? どうせ塵ほどの思考力ですけど」

『うるさい! 最先端のスマホのCPUをなめるなよ……っていうか、どこに行って何をするつもりなんだ?』

 興津は、あまり役に立たない携帯に説明した。すると、家に帰れとだだをこねられる。それを興津は鮮やかに無視しながら、目的地へ向かった。



   ◯ 未明、事件発生


「はい、声出すなよ」

 背後の至近距離から、知らない男の、低くささやく声。

 それを首筋に受けて、風子の身体はびくりと跳ねた。開けかけた自室の玄関ドアが、小さく軋みながら彼女の腕に連動して止まる。その時、背中を、固い物で突かれる感触が襲った。

「中に入れ、早く」

 淡々と、落ち着いた声色での命令が重なる――一瞬間に詰め込まれた恐怖と驚きで、彼女は抵抗するという発想どころか、思考そのものが全て消え去っていた。

 行動さえ、咄嗟に男の声に示されたことをなぞることしかできない。

 自宅の中へ入る……悪魔を家に招き入れるような行為なのに、何故か、それをしてしまう。彼女が、ようやく肩越しに背後を盗み見たのは、サンダルから玄関マットへ素足を一歩移した時だった。

 今はキッチンの蛍光灯だけが点いている。男はその明かりの届くエリアへ、当然のごとく、風子と近い距離を保ったまま玄関内へとついてくる。

 その気配が身体に感じられるくらいに近いところに、男の黒一色の姿を見る。

 フードの中の顔は、サングラスとネックウォーマーのようなもので覆われている。

 そして手には、鈍い銀色の拳銃。

 その銃口は、ぴたりと風子の身体の中心へ向けられていた。

「きゃ……あのっ!」前崎は片足にサンダルを残したまま床を後ずさった。「出てって……! 声、出しま――」

 男が、後ろ手にドアを閉める音。別の手元からは、破裂音。

 同時に、彼女のすぐ横で大きな金属音がした。

 キッチン下の戸棚の中に積んでいた鍋が、ひとりでに崩れたのかと思った。が、そんなわけはない、と今目にした光景が教えてくれた。

 男の持つ銃から薄い白煙が広がり、ゆるゆると上昇している。

 ドアに施錠し、チェーンロックまでかけた男は、一度顔の前で手を振って煙を払った。

「……あんまり何度も言わせんな、静かにしてろ。でかい声出したら、こっちも黙らせないといけない」

 男はそこで、銃を差し出すようにして彼女に見せつけた。

「改造モデルガン。わかる? 牛肉の塊を撃ったときは二十センチ潜った。今のも、その板、貫通したかもな」

 キッチンの戸板を見ると、取手の下に、見慣れない小さな楕円の穴があった。

 わずかに塗装面が内側から持ち上げられたようなふちが出来ている。穴の深さと、木材の毛羽立つ方向から、弾は表面で跳ねていったのではなく、板材の中へと、めり込んでいったようだった。

 これだけの浅い角度で……どうやら男の言う通りの威力が、その凶器にはある。

 と男は、その場で彼女の靴達を蹴散らすと、風呂にでも浸かるように、長く息をつきながらゆっくりと腰を下ろした。

「はあ……、やっぱワンルームか、良かった良かった」

 銃で、正面の遠くにある窓を指す。「窓から逃げるってのもやめときな。弾を何発も食らいながらじゃ、二階でもきついだろ」

 男は、笑っていた。



   ◯ エネルギースフィア


 脳内では、対ストレス物質がオーバーフローしている。

 風子の思考力は、通常の状態への復旧を通り越し、過去最高の回転数を維持していた。火事場の馬鹿力とは、思考力にも適応されるらしい。恐怖は、怒りによって隠されていた。

 こういう手口の事件は、世の中にままあることだと、風子は思い出していた。

 凶器で脅しながら一人暮らしの女子の家に押し入り、卑劣な犯罪行為に及ぶ。

 そして更に卑劣なのが、犯行の口封じの方法だ。もちろん、殺しはしない。もっと、まったく唾棄すべき悪知恵で――ネットワーク化された社会の闇、としか言いようのない方法で、被害届すら出させないのだ。

 彼女に降り掛かったケースでは、まず口封じが先に行われていた。その順序の幸運に、延命以上の価値があるのかは、わからない。

 風子は、エプロンだけを身につけていた。そして裸足でキッチンに立っている。そこは、男と窓とを結ぶ直線上の一点だった。

 男はいまだ、玄関に座り込んでいる。窓へ走るにも、頼れる遮蔽物が無い。

 つまり脱出はできない。

 状況は最悪だ。無傷で生きている、という事以外は。

 時刻は朝4時をまわったところ。こんな変な時間にゴミ出しなんかしなければ良かった……と風子は激しく悔やむ。

「いいねえ、一度女の子にそうやって料理を作ってもらって……食べてみたかったんだよ」

 男は、風子の姿に片手でカメラを向け続けている。もう片方の手には、隙なく銃が握られている。安全装置を戻した様子はない、いつでもまた発砲可能だろう。

 鍋の中で、パスタが茹でられている。風子はその様子を見つめる。

 冷徹な怒りの力を借りて、策を考えていた。

 ――男に何か武器を投げつけて攻撃しながら、バスルームへ飛び込む。同時に叫んで助けを呼び始める。きっと、それで逃げ去るだろう。この男は冷静だ。顔を曝していないことからも、それは信用に足る。だが最悪の場合、男が戸を破ったり鍵をこじ開けてきた時には迎え撃つしかなく、助けが来るまで保つとは思えない。

 新聞配達員が乗ってきたスーパーカブのエンジン音を、研ぎすまされた聴覚が捉える。

 いや、やる価値はある。その一瞬ならば。

 投擲用と応戦用、武器がふたつがあれば、この賭けに出られる。

 決行すれば、ほぼ確実に、弾を浴びることになるだろう。しかしそれ以上に我慢ならないのは、男を逃がしてしまう事だ。

 絶対、捕まえたい。だがそれには助けが要る。

 新聞配達員の足音が、階段を上がってきていた。

 風子は、迫る決断の瞬間に、緊張を表さないよう、平静を装った。

 男にも足音が聞こえたか、黙って銃を口元の前で立てた。静かにしろ、という意味だろう。

 風子はそれにさえ気づかないフリをした。今、助けを呼ぶチャンスなど考えも及ばない状態なのだと演技をしながら、攻撃の方法と武器を考える。

 包丁、フライパン……手に取るまでの早さと、攻防力。どれが、最適か。

 朝刊が、廊下の向かいの列の家に届けられていった。足音が遠ざかる。

「……なあ、そろそろ茹で上がるんじゃない?」

 男が油断したことを、風子は密かに察知する。

「いや……その、もう少し、です」

「いいねえ、その初々しい感じ」

 それは風子のサービスだった。あるいは、ミスディレクション。

 好機が近づいてくる事を悟らせないために。

 男は、風子を見てはしゃぐことに意識をとられ、再び近づく足音を聞き漏らしていた。

 風子は知っていた。この家へは、往路ではなく、復路で新聞が届けられるのだ。

 その一瞬なら、不意を突ける。それで発砲回数を減らせれば、勝率が上がる。

 歯を嚙み閉め、被弾の痛みを覚悟する。

 その一瞬――。

 奇跡が、風子に加勢した。

 ――ッバクション!

 ドアの向こうで、配達員が激しいくしゃみをした。

 ちょうどその手で差し込みかけていた朝刊が、猛烈に加速して突き刺さる。

 ドアの新聞受けのフタを押し開け、進む。その先には――。

 風子は、男の首が後ろから猛速で突かれる光景を見た。

 朝刊が突いたのだ。

 男の顔がガクンと上を向き、カメラとサングラスがぶつかる。銃こそは落とさなかったが、体勢が大きく崩れている。

 こんなに隙が生まれるとは!

 と意識は驚いているがとにかく身体は無意識で瞬発的に躍動した。

 風子は腕を思い切り振る。

「――くらえええぇえっ!」

 火事場の筋力。活かされるラクロスの経験。

 高い位置――鍋の中から、それは放たれた。

 熱湯に包まれたパスタの玉が、宙を直線移動する。水蒸気が、白い彗星の尾を引く。

 真っ直ぐに、男の顔面へ。

 ――直撃。

 パスタが絡み付いて覆う。熱湯の飛沫、蒸気が飛散するスペクタクル。

 こんなにちゃんと当たるとは!

 風子はプランを変え、撃破を目指して男へ駆けた。

 ……そこから一秒以内に銃は床を転がり、一分以内に男は気絶して靴紐で縛り上げられた。風子の身体は、無傷だった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ