「お前といると落ち着く」と言っていた男友達が、知らないうちに結婚していました
悠吾が結婚したと知った日の夜にも、彼から食事の誘いが来た。
〈来週の土曜、空いてる?〉
〈この前話した店、予約できそう〉
画面を伏せると、テーブルの上でスマホがもう一度震えた。
続きが来たのだろうと思った。それでも、すぐには見ることができなかった。
*
「悠吾の奥さんって、職場の人なんだね」
その話が出たのは、デザートのメニューを開いたときだった。
向かいに座る夏帆は、写真のプリンを指さしながら、何でもないことのように言った。
「……奥さん?」
「あれ、紗知、まだ聞いてない?」
夏帆の指が止まった。
「この前、駅でばったり会って。指輪してたから聞いたら、四月に籍入れたって。式は来年、身内だけでやるんだってさ」
六月になったばかりだった。
四月、と頭の中で繰り返した。
「四月に」
「うん。ごめん、もう聞いてると思ってた。二人、よく会ってるって言ってたから」
「ううん。最近、そういう話してなくて」
最近。
先週の金曜日も、会っていた。
私は鶏肉の香草焼きを頼み、彼はハンバーグを頼んだ。サラダに入っていたセロリを避けていたら、「まだ苦手なんだ」と笑って、自分の皿に移してくれた。
駅までの道で新しくできた店の話をした。今度行こうと言われた。
彼の左手に、指輪はなかった。
「そっか。おめでたいね」
声は、自分で思ったより普通に出た。
夏帆が私の顔を見たので、私はメニューを持ち上げた。
「プリン、頼む?」
「……半分ずつにしない?」
「うん。そうしよう」
運ばれてきたプリンには、たっぷりカラメルがかかっていた。
半分を食べた。味は覚えていない。
店を出てから、夏帆が言った。
「紗知、何かあったら連絡して」
「何かって?」
反射的に笑ってしまい、夏帆が少し困った顔をした。
「何でも。愚痴でも」
「……ありがとう」
それ以上、何も聞かれなかった。
別れて電車に乗ってから、私はようやく唇の端から力を抜いた。
窓に映る顔は、二十九歳にしてはずいぶん頼りなく見えた。
泣きそうなのか、怒っているのか、自分でも分からなかった。
悠吾は結婚した。
私ではない誰かと。
その事実は分かるのに、先週の金曜日の続きにうまく置けなかった。
*
彼からの三通目は、店の予約ページだった。
送られたリンクの下に、見覚えのあるオムライスの写真が表示されていた。
〈ここで合ってたよな?〉
合っている。
私が行きたいと言った店だった。
返信欄を開いて、閉じた。
おめでとう、と入れて消す。
どうして言ってくれなかったの、と入れて、それも消した。
何を怒っているんだろう。
付き合っていなかったのに。
彼女になってほしいとも、付き合おうとも、一度も言われていない。
私も、好きだとは言わなかった。
それでも、メッセージを遡る指は止まらなかった。
〈今日、しんどかった。少し電話できる?〉
〈お前といると落ち着く〉
〈紗知は今週、何曜日なら空いてる?〉
先月も、その前の月も、私の名前があった。
けれど、奥さんの存在につながるものは何一つなかった。
大学の友人たちのグループにも結婚の報告はなく、彼のSNSは何年も更新されていなかった。
二年前、母が手術を受けた。
医師は比較的負担の少ない手術だと説明してくれたし、母自身も落ち着いていた。父を高校生のときに亡くした私だけが、必要以上に怯えていた。
大学の友人との集まりを欠席すると、悠吾から連絡が来た。
〈夏帆から聞いた。大丈夫?〉
大丈夫、と答えたあとで電話が鳴った。
彼は病院のことを少し聞き、それから勤め先のコピー機が壊れた話をした。
後輩が直そうとして余計な場所を開け、結局、業者に笑われたらしい。
「全然関係ない話してごめん」
「ううん。もっと聞きたい」
その晩、私は久しぶりに笑った。
母の手術が終わった日にも、彼は電話をくれた。
退院して一週間ほどした頃、私を夕食に誘ってくれた。
「お疲れ。松浦家代表に、今日は一杯おごります」
私が笑うと、彼もうれしそうにした。
大学時代から知っていた人を、好きになった。
あの電話を、今さらなかったことにはできなかった。
好きになり始めた頃、恋人はいないのかと聞いたこともあった。
いないよ、と彼は答えた。
それから誰かができれば、教えてくれるものだと思っていた。
七か月前の誕生日には、二人で食事をした。
大げさなプレゼントはなく、小さな焼き菓子の箱をもらった。私が以前、おいしそうだと言った店のものだった。
帰り道は寒かった。
信号を待ちながら私が両手をこすっていると、悠吾が片手を取った。
「冷た」
「冷え性なんだよ」
「知ってる」
青になっても手は離れなかった。
駅までの短い道を、私はほとんど何も話せなかった。
そのあと一度、聞きかけた。
「ねえ、私たちって」
「何、急に改まって」
彼が笑い、私も笑った。
「何でもない」
何でもないわけがなかった。
あのとき、聞いていればよかった。
でも、聞かなかったら、結婚まで知らされなくても仕方がないのだろうか。
翌朝、冷めたトーストを半分残して、ようやく返信した。
〈夏帆から結婚したって聞いた。おめでとう〉
〈土曜日は行きません。これからは、二人で会うのはやめておくね〉
十時前に送ったメッセージには、すぐ既読がついた。
一分ほどして、電話が鳴った。
*
「ごめん。報告、遅くなって」
いつもの声だった。
私の耳は、その声を聞くと自然に安心しようとする。そんな自分が嫌だった。
「本当に、結婚したんだね」
「うん。四月に」
「おめでとう」
「ありがとう。いや、その、ちゃんと言おうと思ってたんだけど」
椅子の背に掛けたカーディガンが、ずり落ちた。
拾わずに、膝に乗った袖口を見ていた。
「先週も会ったよね」
「うん」
「そのときは、言わなかったんだ」
「タイミングがなくて。大学の連中にも、まだ全員には言ってないし」
私も、その全員の一人なのだと思った。
なのに彼は、来週も二人で会おうとしている。
「分かった。じゃあ、報告は聞いたから」
「待って。土曜、どうして? 俺が結婚したから?」
「そうだよ」
「でも、友達なのは変わらないだろ」
指先が冷えた。
「奥さんは知ってるの?」
「何を?」
「私と、二人で何度もご飯に行ってること」
「大学の友達がいるっていうのは話してる」
「最近も二人で会ってることは?」
返事がなかった。
「いちいち、誰と何を食べたかまで報告しないよ」
私は息を吸った。
ここで黙ったら、また何でもない話になる。
「私が悠吾を好きなの、気づいてた?」
隣の部屋で掃除機の音がした。
日曜日の午前中だ。世の中は普通に動いていた。
「……そうなのかな、とは」
目を閉じた。
「いつから?」
「はっきりいつって言われても」
「誕生日に手をつないだときは?」
今度は、聞こえるくらい大きく息を吐かれた。
「あれは、紗知が嫌がらなかったから」
「嫌じゃなかったよ。好きだったから」
言いたかった言葉を、こんなふうに言うことになるとは思わなかった。
「紗知」
「その頃も、奥さんと付き合ってた?」
「……うん」
彼が話す断片を、私は一つずつ確かめた。
交際が始まったのは去年の六月。婚約したのは十二月。入籍は四月。
その間、私と会った夜を、何度か思い出した。
「先週、指輪もしてなかったよね」
悠吾は、すぐには答えなかった。
「……まだ、紗知には言ってなかったから」
外して来ていたのだ。
知らされなかっただけではなく、見て気づく機会も、彼がなくしていた。
「どうして一回も言わなかったの」
「最初は、付き合い始めたばかりだったし。そのうち言おうと思ってたんだけど、急に言うのも」
「急じゃないよ。一年あったんだよ」
自分の声が、少し大きくなった。
「うん。だから、ごめんって」
「彼女がいるって言ったら、私が何かすると思った?」
「そうじゃない」
「じゃあ、どうして」
悠吾は黙り、やがて声を落とした。
「言ったら、もう今までみたいには会えなくなると思った」
電話を持つ手に力が入った。
なぜだか、やっと少しだけ頭が静かになった。
「……そうだね。知ってたら、会わなかったと思う」
「だろ。だから、言いにくくて」
彼は私に、理解を求めていた。
会わなくなると分かっていたから、言えなかった。その気持ちも分かるだろう、と。
「私が知らないままなら、会ってくれるってことだよね」
「そういう言い方しないでよ」
「でも、そういうことだよ」
声が震えた。
泣く前に終わらせたかった。
「結婚したことを責めたいんじゃない。私を好きになってくれなかったことも、仕方ないって分かってる」
言葉を切った。
それは言い切るだけでも、ひどく痛かった。
「でも、知ったら離れるって分かってて、言わずに会ってたのは嫌だよ」
「俺たち、付き合ってたわけじゃないじゃん」
一瞬、返事ができなかった。
「……うん。だから、お別れの話じゃないよ」
膝のカーディガンを握った。
「これからは二人で会わないっていう話。私からも連絡しない。しばらく、そっとしておいてほしい」
「ちょっと待って。そんな、全部なくすみたいな」
「電話、切るね」
画面の通話終了を押した。
直後にもう一度鳴った電話には出なかった。
椅子から立とうとして、足に力が入らなかった。
座り直したところで、涙が落ちた。
好きだった。
この人と付き合えたらと思った。
母の病気で弱っていたからだけではない。おいしいものを食べたときの顔も、よく笑うところも、私のつまらない話を覚えているところも、好きだった。
スマホを遠くへ押しやり、落ちたカーディガンを抱えたまま、声を殺して泣いた。
*
月曜日、入力した注文番号を二度間違えた。
一度目は送信前に気づいた。二度目は隣の先輩に指摘された。
「松浦さん、今日ちょっと疲れてる?」
「すみません。確認し直します」
睡眠不足だった。
仕事を終えて家に帰ると、何をしていても、ふと悠吾のことを考えた。
結婚しているなら、金曜日の夜に会ったあと、彼は奥さんの待つ家に帰ったのだろうか。
私に仕事の愚痴を送った指で、夕飯はいらないと送ったのだろうか。
確かめてもどうにもならないことが、いくらでも浮かんだ。
彼からは、謝罪と、もう少し話したいというメッセージが来ていた。
二日目に通知を切った。
読めば何か返したくなる。返せば、彼の言葉を待ってしまう。
夏帆には電話で話した。
途中でまた泣いてしまい、謝ると、夏帆は「謝らないで」と言った。
「あの日、知ってるふりさせちゃったね」
「私が勝手にそうしただけだよ」
「うん。でも、今度はプリンの味、ちゃんと分かるときに行こう」
そこで少し笑えた。
次の土曜日は、洗濯をして、掃除をして、近所で食材を買った。
夕方四時を過ぎた頃、無意識にスマホを見た。
悠吾から誘われるなら、このくらいの時間だった。
空いてる?
うん、空いてる。
たったそれだけのために、何度、土曜日を空けておいたのだろう。
まだ何も予定のないカレンダーを閉じ、ブラウザーを開いた。
少し前から気になっていた、器と暮らしの道具の展示が、月末まで開かれていた。
悠吾にも話したことがある。
皿は白ければ何でもいいと言われて、私も笑った。それで終わった。
一人分のチケットを予約した。
予約完了のメールが届き、私は念のため日付を確認した。
来週の土曜日には、行く場所ができた。
*
展示室の入り口には、小さな片口の器が並んでいた。
乳白色、薄い灰色、土の色。その前で、私は十分近く立ち止まった。
後ろの人に道を譲り、解説を読み、もう一度戻る。
誰かを待たせていないか、気にしなくてよかった。
以前から一人で出かけることはあった。それなのに、その気楽さをしばらく忘れていた。
最後の売店で、青い線の入った小皿を一枚買った。
二枚組ではなく、一枚だけにした。
迷ったのは値段ではない。まずは一枚、普段の食事に使ってみたかった。
昼は近くの喫茶店に入った。
窓際の席で、サンドイッチを食べながら展示の図録を開く。ページの途中でスマホに手を伸ばし、悠吾に写真を送ろうとした。
手が止まった。
彼は、興味がなくても返事はしてくれただろう。
いいじゃん、とか、買ったの、とか。
私はその短い返事だけで、うれしくなっていたと思う。
スマホを鞄に戻した。
サンドイッチの最後の一口は、少しぬるくなっていた。
帰ってから、買った小皿にスーパーの焼き鳥を二本載せた。
思ったより似合ったので写真を撮った。今度は誰かに送るためではなく、ただ残しておきたかった。
*
「それ、行ったんですか」
月曜日の昼休み、給湯室で瀬田さんに声をかけられた。
展示の売店でもらった紙袋に、お弁当を入れていた。しっかりした作りで、捨てるのがもったいなかったのだ。
「はい。土曜日に」
「どうでした?」
「よかったですよ。器が好きなら」
「今週末、行くつもりなんです。案内を見つけるのが遅くて、危うく会期を逃すところだった」
瀬田航平さんは、別の部署で設備の施工手配を担当していた。
年齢は私と同じで、今の事業所に来たのは二年前。電話の取り次ぎや納期確認で、仕事上のやり取りは多い。
何度か大勢で食事に行ったこともある。
「瀬田さん、こういうの好きなんですね」
「詳しくはないです。皿を見てると、何を載せようか考えるのが楽しくて」
「分かります」
思ったより大きな声が出た。
瀬田さんが少し笑い、私は紙袋の持ち手を握り直した。
「片口の器が、入り口にたくさんあるんですけど。あれ、すごくよかったです」
「何を入れる用なんですか?」
「いろいろ。お酒とか、たれとか」
「じゃあ俺は、ポン酢になりそうだな」
彼の手にはコンビニの袋があった。
弁当のほかに、冷ややっこの小さな容器が見えた。
「冷ややっこ、好きなんですか」
「夏になると、ほぼ毎日」
「飽きません?」
「今のところは。飽きたら報告します」
給湯室のドアが開き、別の社員が入ってきた。
私たちは会釈をして、それぞれの部署へ戻った。
翌週、瀬田さんは本当に展示の話をしに来た。
彼が一番気に入ったのは片口ではなく、縁が少し歪んだ大皿だった。
「あれに焼き魚を載せたい」
「私は果物かなって思いました」
「果物って、あんな大きな皿で出します?」
「桃とか切って、何人かで食べるなら」
「一人で一尾食べることしか考えてなかった」
そんな話をしていたら昼休みを知らせるチャイムが鳴り、彼が時計を見た。
「松浦さん、今日、お弁当ですか」
「今日は買いに行こうかと」
「俺もなんです。よかったら一緒にどうですか。駅前に、昼だけ定食を出す店があって」
昼食の誘いだった。
それ以上でも以下でもないと自分に言い聞かせるほどのこともなく、私はうなずいた。
「いいですね。行きたいです」
*
店は、夜には居酒屋になるらしかった。
壁に焼酎の札が並び、昼のメニューは三種類しかなかった。
私は鯖の味噌煮、瀬田さんは唐揚げにした。
運ばれてきた唐揚げの大きさに、二人で目を見開いた。
「食べ切れます?」
「今、ちょっと不安になりました」
彼は大きな一個を割り、中から立つ湯気を見て、真剣な顔で冷ました。
熱いものが苦手だという。
「熱いうちに食べたほうがおいしいんでしょうけどね」
「口の中、やけどするよりいいですよ」
「そう。なのに毎回、一口目を急ぐ」
私は笑い、鯖をほぐした。
食べる速さも、沈黙になるタイミングも、悠吾とは違った。
瀬田さんは、私が箸を動かしているときには自分の話をした。私が話し始めると、急かさず聞いた。
展示の話から、子どもの頃の食器の話になった。
彼の実家には、使うたびに絵が薄くなっていく茶碗があったらしい。
「まだあるんです。もう何のキャラクターか分からないんですけど」
「買い替えないんですか」
「母が、割れてないからって」
「うちも同じです。昔、景品でもらったお皿が現役で」
仕事に戻る前に、互いの分を払った。
瀬田さんがレジ脇の飴を見ていたので、私は一個取って渡した。
「ご自由に、だそうです」
「あ、ありがとうございます。取っていいか迷ってた」
大きな手のひらに、桃の絵のついた小さな飴が載った。
帰り道、暑くなってきましたねと言いながら歩いた。
午前中に来ていた厄介な問い合わせのことを思い出し、私は少しだけ眉を寄せた。
失恋のことではなく、午後の仕事を考えていた。
その夜、歯を磨いている最中に、昼食の間、悠吾から連絡が来ていないか、一度もスマホを確認しなかったと気づいた。
だからもう平気、とはならなかった。
でも、そういう時間もあるのだと分かった。
*
七月の初め、器を扱う小さな店の案内を、瀬田さんから教えてもらった。
展示に出品していた作家の品が、常設で並んでいるらしい。
「土曜日、行ってみるんですけど」
昼休みの終わり際だった。
彼はスマホの画面を私に見せ、それから言った。
「もし興味あったら、一緒にどうですか」
うなずきかけて、私は一度口を閉じた。
「その前に、一つ聞いてもいいですか。瀬田さん、結婚されていたり、お付き合いしている方がいたりは……」
彼は少し驚いた顔をしたが、すぐに答えた。
「どちらもないです。松浦さんは?」
「私も、いません」
ここで理由まで話す勇気はなかった。けれど、聞いてよかったと思った。
私は、その週の予定を確かめた。
歯医者の予約は午前中だった。
「午後からなら」
「俺も、そのほうが助かります」
連絡先を交換した。
仕事の話なら社内のチャットで足りていたから、私的な連絡先はまだ知らなかった。
土曜日、駅の改札前にいた彼は、会社で見るより少し若く見えた。
薄いグレーのシャツに黒いリュック。いつも整えている前髪が、風で額に落ちていた。
「お待たせしました」
「俺も今来ました。……って言うつもりだったんですけど、十分前には着いてました」
「正直ですね」
「改札、間違えたらと思って」
店では、私は小鉢を買った。
瀬田さんは悩んだ末に何も買わなかった。欲しかった大きさの皿を置く場所が、自宅の食器棚にはないらしい。
「増やす前に、整理します」
「その決心、いつまで持ちます?」
「厳しいこと聞きますね」
近くでお茶を飲み、夕方には別れた。
帰宅すると、彼から、店に付き合ってくれたお礼が届いていた。
私も楽しかったと返信した。
翌朝になっても、送った文章を何度も読み返すことはなかった。
それが少し寂しくもあり、ありがたくもあった。
*
二度目は、私から店の話をした。
知人に勧められた小さな洋食店で、ハヤシライスがおいしいらしい。
「そこ、気になってました。次、行きません?」
瀬田さんが言い、私たちは七月の半ばに出かけた。
ところが、店の扉には臨時休業の紙が貼られていた。
店のホームページには、朝の日付で告知が出ていた。前の晩に営業日を確認した私は、そこで安心してしまっていた。
「ごめんなさい。昨日は出てなくて」
「ああ、臨時か」
瀬田さんが小さく肩を落とした。
がっかりしたのが分かり、私の胸も沈んだ。
「朝、もう一回見ればよかった」
「俺も確認してなかったです。近くに、ほか、何かあるかな」
スマホを取り出した彼の横で、私も地図を開いた。
人気店はどこも行列だった。
一軒目の店には、二人とも入るのをやめたくなるほど長い列ができていた。二軒目は営業していたものの、昼の受付を終えていた。
日傘の下でも、汗がこめかみを伝った。
瀬田さんはハンカチで額を押さえた。足を止めるたび、申し訳なさが増した。
「本当に、すみません」
「松浦さん、ちょっと待って」
彼が指したのは、自動販売機だった。
「先に何か飲みましょう。俺、冷たいのが欲しい」
互いにお茶を買い、建物の影へ入った。
冷えたボトルを持つと、ようやく息がつけた。
「遠くまで付き合わせちゃって」
「残念なのは残念ですけど、店の人に何かあったのかもしれないし。次にしましょう」
彼はお茶を一口飲んだ。
「それより今、何が食べたいですか」
「……何でも」
「俺は、もう何でもではないんですよね。冷たい麺が食べたくなってきた」
少し考えると、私もそうだった。
「お蕎麦とか」
「いいですね。じゃあ、蕎麦で探しましょう」
条件を絞ると、さっきまで見落としていた店が見つかった。
通りから一本入ったところにある、昔ながらの食堂だった。
のれんをくぐると冷房がよく効いていた。
壁には短冊のメニューが並び、奥のテレビから野球中継が流れていた。
「助かった……」
瀬田さんが小さくつぶやき、私もつられてうなずいた。
冷たい蕎麦と、揚げたての小さなかき揚げが出てきた。
彼はかき揚げを半分に割り、慎重に息を吹きかけた。
「今日も熱いですか」
「見た目以上に」
お互い、ようやく笑った。
私は蕎麦を食べ、テーブルに置かれた大きな七味の缶を眺めた。
瀬田さんが、その缶の大きさに気づく。
「これ、一本で何年持つんでしょうね」
「業務用だから、案外すぐでは」
「うちにあったら、引っ越しのたびについてくるな」
くだらない話をした。
教えてもらった洋食店の評判の話も、買ったばかりの小鉢に何を入れたかという話もした。
「最初は冷ややっこでした」
「いいじゃないですか」
「瀬田さんと同じになっちゃった」
「あ、俺、このところ枝豆です」
「飽きたら報告するって言ったのに」
「すみません。大事な報告を怠りました」
笑いすぎて、私は一度箸を置いた。
帰り、通りに出ると、来たときより少し風があった。
食堂の前で、瀬田さんが看板の写真を撮った。
「また来たいから」
私が見ていたことに気づき、彼が言った。
「洋食の店は、また別の日に行きましょう。今日は蕎麦を食べた日で」
「……はい」
朝から失敗していた気がした一日が、そう言われると、ただ違う行き先になった日になった。
私も食堂の名前を、スマホに残した。
*
瀬田さんと会えば、いつでも話が弾むというわけではなかった。
互いに次の話題を探して、少し黙る日もあった。
私が好きな映画を話したら、彼は結末を知らないまま、見当違いの推測をした。
駅前のケーキ屋では、私は季節のタルトに迷い、彼は迷いなくチーズケーキを選んだ。
「桃もおいしそうじゃないですか」
「おいしそうですね。でも今日は、チーズの気分なので」
私に合わせて同じものを選んではくれない。
だから、私も自分の分だけ選べた。
職場で顔を見ると、週末に見かけた店の話をしたくなった。
昼休みに席を外していると、どこへ食べに行ったのだろうと思った。
彼からの連絡には、夜でもすぐ返すようになった。
その変化に気づくのと、怖くなるのは、ほとんど同時だった。
店が楽しかっただけかもしれない。
気が合う同僚だから、誘ってくれているだけかもしれない。
〈来週の土曜、今度こそあの洋食の店に行きませんか〉
彼から届いた誘いを、私は何度も読んだ。
予定は空いていた。行きたかった。
なのに、指は別の文章を打っていた。
〈すみません。最近ちょっと忙しくて〉
送った直後に、胸が重くなった。
瀬田さんからは、少しして返事が来た。
〈分かりました。また会社で〉
今度の返事は、何度読んでも意味が増えなかった。
*
瀬田さんは、会社では変わらなかった。
朝は挨拶をし、仕事の確認にはきちんと答えた。
ただ、お昼にどこへ行くか尋ねられることも、器の店の写真が届くこともなくなった。
木曜日の昼、彼が同じ部署の人と連れ立って外へ出た。
私は自分で買ってきた弁当のふたを開け、割り箸を割った。
片方だけ、変な形に割れた。
あの返事をしたのは私だ。
忙しいと言われたら、それ以上誘わないこともある。私だってそうする。
なのに私は、もう一度声をかけてもらえるのを、どこかで待っていた。
夕方、給湯室で一緒になった。
彼がコーヒーを入れる横で、私は空のマグカップを持って立っていた。
「松浦さん?」
「あ、すみません」
お湯を使う場所を空けてくれたのに、私は動かなかったのだ。
瀬田さんが、湯気の立つカップを持ち上げる。
「じゃあ、お先に」
「瀬田さん」
呼ぶと、彼が振り返った。
何か言わなければと思い、けれど、背後の廊下を社員が通りかかった。
「……あとで、連絡してもいいですか」
彼の眉が少し上がった。
「はい」
短い返事だった。
私はうなずき、今度こそ自分のカップにお湯を注いだ。
帰宅して、夕食の前にメッセージを書いた。
〈この前は、曖昧な断り方をしてすみませんでした〉
〈行きたくなかったわけじゃないです。少し話を聞いてもらえませんか〉
送ると、動悸がした。
都合が悪いと断られるかもしれない。その場合は、受け止めなければいけない。
十五分ほどして、返信が来た。
〈明日の仕事のあとなら時間あります〉
私はスマホを両手で持ち、ありがとうございます、と打った。
*
金曜の夕方、会社から少し離れた喫茶店で会った。
彼はアイスコーヒー、私は冷たい紅茶を頼んだ。
「お忙しいのに、すみません」
「そんなには。締め切りも昨日終わりましたし」
気を遣ってくれたのか、本当にそうなのかは分からなかった。
私は、グラスの水滴を指でぬぐった。
「この前、忙しいって言ったの、嘘です」
瀬田さんは、すぐに返事をしなかった。
「土曜日、空いてました」
「……そうだったんですね」
「ごめんなさい」
嘘をつかれたほうの気持ちを、私は知っている。
事情があるからと言って、それをなかったことにするつもりはなかった。
「会いたかったんです。でも、怖くなって」
瀬田さんが私を見た。
私は、少し前まで好きだった人がいたことを話した。
二人で何度も会っていたこと。自分では期待していたこと。相手は、その間に別の女性と結婚していたこと。
詳しい台詞や、相手の勤め先までは話さなかった。
それでも、十分に情けない話をした気分だった。
「だから、親しくしてもらうと、また自分だけ期待してるのかなって」
言ってから、彼が何も約束していないことを思い出した。
「すみません。瀬田さんが悪いっていう意味じゃなくて」
「はい。それは分かります」
彼はストローの袋を畳んだ。
「でも、断られたときは、あ、嫌だったのかな、とは思いました」
「嫌じゃなかったです」
「うん。今、そう言ってもらえてよかった」
その声に、肩の力が少し抜けた。
けれど、それで全部済んだわけではなかった。
「松浦さん」
「はい」
「今の話、聞かせてもらってよかったです。ただ、俺は、松浦さんがこれからどうしたいのかも知りたいです」
顔を上げた。
「俺と出かけたいと思ってるのか、今は誰とも、そういうのは難しいのか。どっちでも、言ってもらえたら」
彼の顔も、少し強張っていた。
私だけが、返事を聞くのを怖がっているわけではなかった。
「また、一緒に出かけたいです」
口にすると、思っていたより簡単な言葉だった。
「食事が好きな人なら誰でもいいわけじゃなくて。瀬田さんと、話したいです」
最後は小さな声になった。
彼が、ゆっくり息を吐く。
「よかった。俺、デートのつもりで誘ってました」
頬が熱くなった。
うれしい、と思ったあとに、急に泣きたくなった。
「すみません。全然、分からなくて」
「俺も言ってなかったですから」
「また誘ってもらえるか、待ってました」
彼は少し困ったように笑った。
「そうか。俺、前に何度も誘って、迷惑だったって後から知ったことがあって。最近は、断られたら一度引くことにしてるんです」
「そうだったんですね」
「だから、今日の連絡、うれしかったです」
私は紅茶を飲んだ。
氷が小さくなり、少し薄くなっていた。
「まだ、すぐに気持ちを整理し切れるかは分からないんですけど」
慎重に言葉を選んだ。
「それでもよかったら、もう少し二人で会いたいです。今度は、私から誘ってもいいですか」
「もちろん」
「あの洋食屋さんに」
瀬田さんが笑った。
「今度こそ」
帰りの電車で、私は来週の土曜日の予定を尋ねた。
隣で話せるうちに聞けばよかったと思い、送ってから笑ってしまった。
〈空いてます〉
〈今、駅のホームで笑ってます〉
すぐに来た返事を見て、さらに頬が緩んだ。
*
約束の前日、瀬田さんから連絡があった。
急な仕事の対応で、土曜日の午前中に出社することになったらしい。
〈午後なら行けると思うんですけど、終わる時間がまだ読めなくて〉
私は画面を見つめた。
楽しみにしていた分、残念だった。
反射的に、大丈夫です、と打ちかけた。
何が大丈夫なのか、考えた。
一日ずっと、連絡を待つことはしたくなかった。
〈楽しみにしていたので残念です。でも、仕事なら仕方ないですね〉
〈今回は別の日にしませんか。来週の日曜なら空いてます〉
そのまま送った。
わがままだろうかと思い、スマホを伏せた。
少しして、電話がかかってきた。
「ごめんなさい。終わったら連絡するって言って、ずっと待っててもらうところでした」
瀬田さんの声に、私は起き上がった。
「いえ、私も、明日、別の用事を入れられるので」
「はい。来週の日曜、お願いします」
日時を決め直し、電話を切ろうとしたところで、彼が言った。
「楽しみにしてくれてたの、うれしいです。俺もだったので、残念ですけど」
「……はい」
「だから、日曜日はちゃんと空けておきます」
電話が終わってから、私はカレンダーの予定を移した。
残念だと言っても、相手が不機嫌になるわけではなかった。
予定を変えてほしいと言っても、会う約束までなくなるわけではなかった。
空いた土曜日には、夏帆とプリンを食べに行った。
「今日はおいしい?」
「おいしい」
私は、カラメルを多めにすくった。
夏帆がそれを見て笑った。
翌週の日曜、私たちは洋食店のハヤシライスを食べた。
濃いソースがかかったご飯を前に、瀬田さんはいつものように、最初の一口を冷ましていた。
おいしかった。
蕎麦の日の話もした。
次にあの食堂へ行くなら、冬に温かいものを食べたいという話になった。
冬、という言葉が、うれしかった。
そのときまで一緒にいることを、彼も考えている。
私は勝手に決めつけないように、でも、そのうれしさまで押し殺さないように、ゆっくりとうなずいた。
*
八月の終わり、大学の友人たちのグループに連絡が入った。
地方に転勤していた友人が、九月にこちらへ戻ってくる。久しぶりに食事をしようという話だった。
参加すると返事をしたあと、悠吾の名前も参加者に加わった。
スマホを持つ指が止まった。
彼からのメッセージは、あの電話以来、何通か届いていた。
謝罪が二通、近況を尋ねるものが一通。
私はどれにも返していない。
夏帆から個別に連絡が来た。
〈無理しなくていいよ〉
しばらく迷って、私は返信した。
〈みんなに会いたいから行く〉
〈もししんどくなったら先に帰るね〉
悠吾が来るなら私は来られない、ということにはしたくなかった。
大学時代の友人は、彼一人ではない。
当日、店に着くと、悠吾はもう座っていた。
隣には一人分の席が空いていた。
「紗知、久しぶり」
「久しぶり」
私は挨拶をして、斜め向かいの夏帆の隣に座った。
悠吾が、空席に載せていた自分の鞄を足元へ下ろした。
左手に、指輪があった。
一度見て、それから私はメニューを開いた。
六人での食事は、最初は和やかだった。
転勤先で大雪に遭った話や、仕事を変えた友人の話を聞いた。
悠吾の結婚も話題になり、皆で乾杯した。
「式は本当に身内だけなんだな」
「うん。大げさなのは二人とも苦手で」
奥さんと相談したのだろう。
その、ごく普通の話を、私はようやく現実のこととして聞けた。
途中で悠吾が、昔よく行った店の話を私に振った。
「紗知、あの店、閉まったの知ってる?」
「ううん」
「この前通ったら、もう別の店になっててさ。今度見に」
そこで彼は言葉を切り、私の顔を見た。
私は注文した料理を取り分け、隣に皿を渡した。
「残念だね」
それだけ答えた。
会が半ばに差しかかった頃、夏帆が、新しく見つけたカフェの話をした。
「紗知も好きそう。今度行こうよ」
「行きたい。写真見せて」
スマホをのぞき込んでいると、悠吾が笑った。
「夏帆には、すぐそう言うんだな」
顔を上げた。
「俺、結婚してから紗知に冷たくされてるんだけど」
軽い調子だった。
何も知らない友人が、「そうなの?」と私を見た。
大学時代なら、私も笑って返していたかもしれない。
そんなことないよ、忙しかっただけ、と。
悠吾は、その返事を待つように笑っていた。
「結婚して二か月経つまで、知らなかったから」
私は言った。
自分の声が、よく聞こえた。
「夏帆から聞いて、これからは二人で会うのをやめようって話したんだよ」
箸の動きが、いくつか止まった。
「二か月? その間も会ってたの?」
友人の一人が、悠吾を見た。
「まあ、友達として普通に」
「でも、言ってなかったんだ」
「言うタイミング、逃しただけ。別に、やましいことは何も」
私は自分の前に置いたグラスを、少し横へ動かした。
「結婚を言ったら私が会わなくなると思ったって、電話では言ってたよね」
悠吾の笑顔が消えた。
「紗知、ここでその話する?」
「私が急に冷たくなったみたいに言われたから」
胸が速く動いていた。
言葉が震えないよう、急がず続けた。
「連絡しないでって言った理由は、悠吾にも話したはずだよ」
友人が悠吾に尋ねた。
「会わなくなるって、どうして? 紗知がどういうつもりか、分かってたってこと?」
「いや、俺は、別に付き合うとか言ってないし」
「それなら、普通に彼女ができたときに言えるだろ」
悠吾は口を開いたが、すぐには何も言わなかった。
私は、その沈黙を埋めなかった。
「付き合ってないのは、そうだよ」
私は言った。
「だから、私はもう二人では会わないって決めたの。それを、冷たくなったって言わないでほしい」
テーブルの端で、誰かが水を飲んだ。
悠吾は視線を落とし、「……分かった」と答えた。
店員が空いた皿を下げに来た。
そのあと夏帆が、転勤して戻った友人に、新しい家は決まったのかと尋ねた。
会話は少しずつ戻った。
悠吾は、しばらく黙っていた。
一度、別の友人の話に冗談を挟んだが、いつものようには笑いが起きなかった。
誰も彼を怒鳴らなかったし、帰れとも言わなかった。
ただ、私にもう少し優しくしてやれと言う人も、一人もいなかった。
会計を済ませて店を出ると、悠吾が近づいてきた。
「ちょっと話せる?」
隣にいた夏帆が私を見た。
私は首を横に振った。
「今日はもう帰るね」
「少しだけでいいから」
「話したいことは、前に話したよ」
彼は、何かを言いかけた。
でも、私が歩き出すと、追っては来なかった。
駅へ向かう途中、夏帆が言った。
「大丈夫?」
「うん。ちょっと、疲れた」
「そっか」
肩に軽く触れられた。
私は、夜風の中で息を吐いた。
まだ胸は痛かった。
けれど、あの場でまた彼をかばう返事をしていたら、家に帰ってからもっとつらくなったと思う。
*
翌日の夜、悠吾からメッセージが来た。
通知は切ったままだったが、別の連絡を確認したときに、彼の名前が上へ動いていた。
〈昨日はごめん。変な言い方した〉
〈でも、今まで普通に話してた相手と急に話せなくなるの、結構きついんだよ〉
〈仕事で嫌なことがあっても、紗知なら分かってくれるかなって、今でも思うし〉
画面を見て、長いあいだ動けなかった。
いつもなら、何かあったのと聞いていた。
聞き返せば、彼は仕事の話を始めるだろう。私は相づちを打ち、詳しく知らない同僚の話に腹を立て、最後には二人で笑う。
その先に、彼と付き合う日が来ると思っていた。
彼は、結婚しても続けたいと思っていた。
返信欄を開いた。
〈私は、二人で会っていた人が結婚していたと知ったときが、きつかったよ〉
〈連絡をやめたいって伝えた。急に何も言わずに離れたわけじゃない〉
〈悠吾の仕事の相談には、もう乗れません〉
送信してから、スマホをテーブルに置いた。
彼がこれを冷たいと思っても、書き直すつもりはなかった。
母から借りていた本を読み始めた。
最初の二ページは、ほとんど頭に入らなかった。
三ページ目でようやく登場人物の名前を覚え、五ページ目で話が気になった。
その晩、返事は来なかった。
五日後、仕事から帰ってスマホを見ると、悠吾から長い文章が届いていた。
〈ごめん。この前の連絡も、自分が困ってる話ばかりになってた〉
〈紗知が俺を好きかもしれないって、分かってた。それで、一緒にいてもらえるのがうれしかった〉
〈彼女ができたときに言えばよかった。結婚のことも、俺から言うべきだった〉
〈言ったら会えなくなると思って黙ってたのは、本当です〉
〈嫌な思いさせてごめん〉
私は椅子に座り直した。
読んでいて、目の奥が熱くなった。
今、ようやく認めてくれたことが、うれしいのか悲しいのか、うまく分からなかった。
少し時間を置いてから、返信した。
〈読んだよ。謝ってくれたことは受け取りました〉
〈でも、前の関係には戻りません。二人で会うことも、個人的に連絡を取り合うことも、もうやめます〉
しばらくして、既読がついた。
〈分かった。本当にごめん〉
そのあとに、何かが届くことはなかった。
私はトークの画面を閉じ、連絡先をブロックした。
友人たちのグループは、そのままにした。皆で集まることまで、今ここで決める必要はなかった。
小さな頃のように、これで全部終わり、と声に出してみたくなった。
けれど、何も言わずに本の続きを開いた。
*
九月の半ば、瀬田さんと駅前の書店で待ち合わせた。
先に着いた私は、料理本の棚を見ていた。
「お待たせしました」
振り返ると、彼が息を整えていた。
遅刻ではなかった。時計を見ると、約束の二分前だった。
「走ってきたんですか」
「最後の信号だけ。走らなくても間に合ったんですけど」
私は、持っていた本を棚へ戻そうとした。
彼が表紙をのぞき込む。
「買うんですか?」
「迷ってます。買っても、ちゃんと作るかなって」
「どれが気になったんですか」
ページを開いて見せた。
休日に作る、少し手間のかかる煮込み料理だった。
「いいですね。食べたい」
瀬田さんが言い、私は思わず彼を見た。
「……って、松浦さんに作ってってことじゃなくて」
「分かってます」
「俺もやってみようかな。こういうの、一人分だと難しいですかね」
分量を一緒に確かめた。
四人分のレシピを二人でのぞき込みながら、半量なら鍋に入りそうだとか、余ったら翌日も食べたいとか、話した。
私はその本を買った。
夕食の帰り、母の話になった。
先週会いに行ったことを話すと、瀬田さんは、お母さんは元気なのかと聞いた。
「昔、手術をしたことがあって。そのときは心配したんですけど、今はすごく元気です」
「それはよかったです」
「私より旅行してます」
「うちの母もです。帰ってきた日に、もう次の話してる」
母の手術の話をしても、悠吾の名前を出さずに済んだ。
あのとき助けてくれた人がいた。それは今も変わらない。
だからといって、これからもその人を好きでいなければいけないわけではなかった。
駅へ向かう瀬田さんの横顔を見た。
少し顎を引いて歩く癖がある。信号が変わりそうになると、必ず一度こちらを見る。
この人にも、私はまだ知らないことがたくさんある。
どんな家で育ち、休日の朝は何時に起き、何に腹を立てるのだろう。
次の休みの話だけではなく、そういうことも聞いてみたかった。
「瀬田さん」
「はい」
「今度、こっちの駅にも来ませんか。好きなパン屋があるんです」
彼が顔を向けた。
「行きたいです。甘いパンですか」
「食パンもおいしいです。あと、チーズの」
「じゃあ、買いすぎないように気をつけます」
私は笑った。
自分の好きな場所に、彼を連れていきたかった。
*
十月の初め、私たちはあの洋食店へ、もう一度行った。
今度は二人とも朝に営業を確認していたことが分かり、店の前で笑った。
ハヤシライスと、小さなサラダを頼んだ。
サラダにはセロリが入っていた。
「あ、苦手なんですか」
私が一切れを端へ寄せるのを見て、瀬田さんが聞いた。
「はい。これだけ、どうも」
「俺は、これくらいなら食べられます。でも、炒めて大きく切ってあると、ちょっときつい」
「分かります。主張が強いですよね」
彼は笑い、自分の皿のセロリを食べた。
私の皿には手を伸ばさなかった。
私は端に寄せたままの一切れを、小さく切ってほかの野菜と一緒に食べた。
食べられなくはない。
やっぱり、あまり好きではなかった。
「無理しました?」
「ちょっと」
二人で笑った。
店を出てから、川沿いを歩いた。
日差しはまだ暖かいのに、日陰に入ると風が冷たかった。
瀬田さんは上着を着ようとして、片方の袖にうまく腕が入らず、少しもたついた。
「鞄、持ちます」
「すみません」
リュックを受け取り、彼が着終えるのを待った。
返すときに指が触れた。私は手を引くのが少し遅れた。
瀬田さんも、そのまま歩き出さなかった。
「松浦さん」
彼は、改めて私のほうを向いた。
通り過ぎる自転車を一台見送り、それから続けた。
「この前、パン屋に連れていってもらった日、帰ってから、次はうちの近くも案内したいなって思ったんです」
「はい」
「店に行きたいのもあるんですけど。最近は、何をするにも、松浦さんとだったらって考えてます」
彼が私を見た。
私も、目をそらさなかった。
「好きです。俺と、付き合ってもらえませんか」
心臓が強く打った。
言ってもらえた、とまず思った。
その次に、私も言わなければ、と思った。
「私も、瀬田さんが好きです」
彼の目元が、ゆっくり緩んだ。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
どちらからともなく頭を下げてしまい、顔を上げて笑った。
歩き出した彼の手が、私のすぐそばにあった。
一度、指が動いたように見えた。
私は自分から、その手を取った。
「つないでもいいですか」
握ってから尋ねると、彼が笑った。
「はい。もう、ぜひ」
握り返された手は温かかった。
それだけで彼の気持ちを判断する必要はなかった。さっき、ちゃんと聞いたのだから。
駅に近づく頃、彼が次の土曜日の話をした。
「土曜は、夏帆と映画を見に行くんです」
私は答えた。
大学時代の友人だという説明は、もう要らなかった。夏帆の話は、何度もしている。
「そうなんですね。じゃあ、日曜は?」
「日曜なら。午後からでよければ」
「俺も大丈夫です」
行き先を相談し、前から気になっていた水族館に決めた。
お互いの乗る電車を確かめ、十一時に改札前で待ち合わせることにした。
午後から、と言った私が、水族館なら長く見たいと自分で時間を早めた。
「お昼は向こうで」
「はい。俺、館内のレストランの変な名前のメニュー、つい頼むんですよね」
「変な名前って」
「魚の形に盛りつけてあるカレーとか」
私は、彼が熱いカレーを冷ましているところを思い浮かべた。
来週は、その向かいに座っている。
改札で別れ、ホームへ上がった。
電車を待ちながら、カレンダーに予定を入れた。
土曜日には夏帆との映画。
日曜日には航平さんとの水族館。
予定のない日は、まだたくさんある。
家で本を読む日も、一人で買い物へ行く日も、そのうちまた作るだろう。
電車に乗る直前、スマホが震えた。
〈今日はありがとうございました。次の日曜も楽しみです〉
私はドアの脇に立って、返事を打った。
〈私もです〉
送ってから、少し考えた。
先ほど一つ、言い忘れたことがある。
〈今度は、名前で呼んでもらってもいいですか〉
発車のベルが鳴った。
ドアが閉まり、電車がゆっくり動き出す。
〈じゃあ、紗知さん〉
〈俺のことも、名前でお願いします〉
口元を手で隠した。
座席の前に立つ誰かの視線が気になったけれど、笑うのをやめられなかった。
〈はい。航平さん〉
窓の外へ目を向けた。
向かいの線路に、夕方の光が細く伸びていた。
来週着ていく服を、もう考え始めていた。
~完~




