第2話 助けた女たちが、俺を放してくれない
翌朝、目を覚まして最初に確認したスマートフォンには、昨夜よりもさらに多くの通知が積み上がっていた。
俺が寝ている間にもメッセージを送り続けていたらしく、通知欄には見覚えのある名前がいくつも並び、その中には通話履歴まで混ざっている。深夜二時、三時、四時。まともな生活を送っている人間なら眠っている時間帯にまで連絡してくるあたり、俺がこれまで関わってきた女たちは揃いも揃って少々執着が強い。
もっとも、それを本人たちへ指摘したところで意味はない。
彼女たちの言い分は決まっている。
『怜司が途中で返信しなくなるから不安になる』
『急にいなくなりそうだから確認してるだけ』
『他の女のところに行ってないか心配だった』
俺としては、寝ている人間が返信できないのは当然だと思うのだが、それが通じない相手というものは世の中に存在するらしい。
昨夜、紗夜を送ったあとに届いていた七件のメッセージもそうだった。
中でも気になったのは、『また助けてほしいことがある』という一文。
送り主は朝倉美琴。
俺と同じ学校に通っている女子生徒であり、半年前、俺が悪質な男から引き離した女の一人でもある。
美琴の場合は紗夜とは事情が少し違っていた。
元恋人に暴力を振るわれていたわけでも、写真を使って脅迫されていたわけでもない。彼女が引っかかったのは、もっと厄介で、もっと外からは見えにくい種類の男だった。
最初は優しかった。
毎日のように好きだと言い、欲しい物を買い、何かあるたびに心配してくれる。
そうやって相手へ依存させてから、少しずつ自由を奪っていく。
友人と遊べば不機嫌になり、男と話せば浮気を疑い、返信が遅れれば何十件ものメッセージを送りつける。やがて服装や交友関係、帰宅時間まで管理し始め、それでも本人は『愛しているから心配しているだけ』と言い張る。
美琴がそれを愛情だと思い込んでいた時期を、俺は知っている。
だからこそ、放置できなかった。
結果、その男とは別れさせた。
そこまではいい。
問題は――助けられた美琴自身が、最近になって元彼と似たような行動を俺へ取り始めていることだった。
「……ミイラ取りがミイラになってないか、これ」
スマートフォンを見ながら呟いても、当然ながら答えは返ってこない。
とりあえず『昼休みに話そう』とだけ送信し、俺は学校へ向かった。
※ ※ ※
校門をくぐった瞬間から、いつもとは違う視線を感じていた。
元々俺は目立つ。
『セフレ百人のクズ男』なんて不名誉な肩書きを持つ人間が目立たないはずもなく、廊下を歩くだけで知らない生徒から指を差されることさえ珍しくない。
だが今日は、その密度が明らかに違った。
「昨日また女と揉めてたって」
「白雪さんと一緒だったらしいよ」
「元彼を殴ったとか聞いたけど」
「やっぱ黒瀬ってヤバくない?」
警察まで来たのだから、誰かに見られていても不思議ではない。
ただ一つ訂正するなら、俺は殴っていない。
勝手に殴りかかってきた相手を地面へ寝かせただけだ。
噂とは恐ろしいもので、半日も経てば事実が都合よく脚色されるらしい。
そんなことを考えながら教室の扉へ手をかけたところで、その前に一人の女子生徒が立っていることに気づいた。
「怜司」
美琴だった。
明るめの茶髪を肩口で切り揃えた彼女は、普段なら人懐っこい笑顔を浮かべていることが多い。しかし今日は違う。両手でスマートフォンを握り締め、何かを耐えるように唇を結んでいた。
「昼休みにって送っただろ」
「待てなかった」
「十分くらいだぞ」
「十分も、だよ」
感覚が違いすぎる。
俺が困っている間にも、美琴は俺の姿を頭から足まで確かめるように視線を動かし、それから制服の袖を掴んだ。
「昨日、紗夜と一緒だったの?」
「一緒だった」
「二人きり?」
「途中までは」
「どこまで送ったの?」
「家の近く」
「……家には入った?」
「入ってない」
何の取り調べなのだろう。
教室へ入ろうとしていた生徒たちが面白そうにこちらを眺めているが、美琴は気にする様子すらなかった。それどころか俺の返答を聞くたびに少しずつ表情を緩め、最後には露骨に安堵している。
「良かった」
「何がだよ」
「怜司が紗夜と付き合ったわけじゃないんだ」
「付き合ってない」
「じゃあ、私にもまだ可能性あるよね」
「なんの可能性だ」
「それ言わせる?」
言われなくても分かっている。
俺は女心に疎いつもりはない。
美琴が俺へ向けている感情が、単なる恩人に対する好意ではないことくらい、とっくに気づいていた。
だからこそ、曖昧にするつもりもなかった。
「美琴」
「なに?」
「俺は今、お前と付き合うつもりはない」
周囲の空気が止まった。
俺たちの会話を盗み聞きしていた連中まで沈黙したのが分かる。
美琴の指先が、俺の制服を掴んだまま固まった。
「……どうして?」
「お前が嫌いだからじゃない」
「じゃあ、好き?」
「大切には思ってる」
それは嘘ではない。
俺が助けた人間だからではなく、美琴自身を友人として大切に思っている。だからこそ、中途半端な期待を持たせたまま都合よく傍へ置く気はなかった。
「今のお前は、俺に依存しかけてる」
俺の言葉に、美琴の表情が強張る。
「違う」
「違わない。昨日だって何回連絡した?」
「……十一回」
「電話は?」
「四回」
「俺が寝てる時間にな」
美琴が視線を落とした。
少し言い過ぎたかもしれない。
だが、それでも言わなければならないことがある。
「お前をあいつから引き離したのは、お前が誰かの顔色を窺わないと生きられない人間になるためじゃない」
「……」
「俺が誰と話そうが、誰と帰ろうが、それで美琴が不安になって何も考えられなくなるなら、そんな関係は健全じゃない」
美琴は黙っていた。
泣くかもしれないと思った。
怒るかもしれないとも。
けれど彼女は長い時間俯いたあと、小さく息を吐き、自分から俺の制服を放した。
「……そういうところ、嫌い」
「悪かったな」
「違うよ」
顔を上げた美琴は、今にも泣きそうだった。
「そんなこと言われたら、もっと好きになるじゃん」
困ったことになった。
依存を止めようとして説教した結果、好感度が上がったらしい。
※ ※ ※
結局、美琴が俺へ相談したかった内容は放課後に聞くことになった。
本人曰く、最近誰かにつけられている気がするらしい。
学校から駅までの帰り道。
アルバイトから帰宅する夜道。
振り返っても誰もいないが、人の気配だけは何度も感じる。
さらに昨日、自宅の郵便受けへ差出人不明の封筒が入っていた。
中にあったのは――美琴が下校している姿を撮影した写真。
話を聞いた時点で、俺の中から恋愛云々について考える余裕は消えた。
「その封筒、まだあるか?」
「ある」
「帰ったら触らず保管しろ。写真もな」
「怜司……」
「俺も確認する。必要なら警察に相談する」
そこまで言ったところで、美琴が俺の手を握った。
先ほど注意したばかりだというのに、今度は離す気配がない。
「……怖い」
その一言だけで十分だった。
依存させるつもりはない。
恋人になるつもりも、今のところない。
それでも、助けを求めている人間を突き放すほど器用にもなれない。
「分かった」
俺はその手を振り払わなかった。
「今日は俺が一緒に帰る」
美琴が息を呑む。
そして次の瞬間には、先ほどまで曇っていた表情を嘘のように綻ばせた。
「……うん」
ただ、その日の俺はまだ知らなかった。
放課後、美琴を狙っている人間を突き止めることになることも。
その相手が――美琴の元彼ではないことも。
そして。
俺がまた一人の女を救おうと動いたことで、『セフレ百人のクズ男』という噂が、さらに最悪な方向へ更新されていくことも。
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