安らかに、眠れ
執務室には、紙をめくる音だけが静かに響いていた。
青年は机に向かったまま、無駄のない動きで書類を捌いていく。
視線を落とす。
書類を読む。
判を押す。
次へ回す。
その一連の動作は、あまりにも滑らかだった。
机の端には未処理の書類が山積みになっている。
青年は淡々と、一枚ずつ片付けていた。
静かな室内に、こんこん、と戸を叩く音が響く。
青年が返事をしようと口を開きかけた、その瞬間だった。
勢いよく扉が開く。
「遺跡調査に行きましょう!」
明るい声とともに、男がずかずかと部屋へ入ってきた。
青年の手が止まる。
書類を持ったまま、ゆっくり視線だけを上げた。
沈黙が落ちる。
部屋の空気がわずかに冷えた。
だが男は気にした様子もなく、期待に満ちた顔を向けている。
やがて青年は、小さく息を吐いた。
「……ここにそんなふうに入ってくるのは、お前くらいだ」
呆れを滲ませた声だった。
男はまったく堪えた様子もなく笑う。
「そうでしょうね」
青年は書類を静かに机へ置いた。
「手が必要なら、正式に依頼を出してくれ」
「そんな固いことは言わずに。一緒に行きましょう」
男はふいに笑みを消し、声を潜める。
「その遺跡……変な音がするらしいんです」
わずかに間を置き、続けた。
「噂では、“彷徨える魂”がいるとか」
男の言葉を聞き終えても、青年はしばらく黙ったままだった。
感情の薄い目で、静かに男を見る。
「……冗談は大概にしてくれ」
それだけ言うと、視線を机へ戻した。
だが次の瞬間。
すっ、と男の手が書類の上へ差し込まれる。
青年の指先が止まった。
「業務妨害だ」
「一緒に来てください!最強の名を欲しいままにする貴方なら、亡霊の方が逃げるでしょう!?」
青年は男を見上げ、ため息をつく。
「そんなものの存在を信じているのか。……他でもない、お前が」
「信じたくないですよ!」
男は勢いよく身を乗り出した。
これ以上ないほど真剣な目だった。
「怖いんです!現象として説明できないんですよ!?剣や魔法で倒せるならまだしも、それが通じない相手にどう立ち向かえと!?」
「……だったら、俺が同行したところで──」
「一人より二人、です」
青年は机に肘をついたまま、静かに男を見る。
その視線が、少しずつ別の色を帯びていく。
理解。
納得。
そして、わずかな哀れみ。
「……他に友人がいないのか」
「やめてください」
男の返答は速かった。
「私にも友人くらいいます。中でも貴方が一番、戦力になるだけです」
「……そうか」
再び書類へ視線を戻す青年を見て、男がため息をつく。
「今日は一人なんですか?」
「ああ。今日は別件で外している」
その返答に、男は小さく肩を落とした。
「それにしても、すごい書類の量ですね。ずっとこもるのはよくないですよ、今すぐ行きましょう」
「……今?」
男は頷く。
「どうせ急ぎの仕事は、もう終わっているのでしょう?」
「それはそうだが……」
その瞬間、男が動いた。
止める間もなく机の横へ回り込み、青年の腕を掴む。
「さあ、行きましょう」
半ば強引に立たされ、青年が眉を寄せた。
「……おい」
「大丈夫、遠足みたいなものですよ」
そのまま男は青年を引っ張っていく。
青年は一度だけ、書類の残る机を振り返った。
未処理の山。
置いていかれる仕事。
小さく息を吐き、呟く。
「……お前は本当に、人の都合を聞かないな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
男は楽しそうに笑いながら、青年を連れて部屋を出ていった。
*
遺跡の階段を、青年は無言で下っていた。
背後から、鼻歌が聞こえ始める。
青年は視線だけ振り返った。
「陽気だな」
「古い童謡です。怖さが紛れて、いいと思いませんか?」
そう答えて、男はまた鼻歌を歌い始める。
ただ、絶望的に下手だった。
音程が迷子──などという生易しいものではない。
青年はしばらく無言で耐えていたが、ついに足を止めた。
「やめろ。不気味だ」
「失礼ですね!」
男の顔が引きつる。
「耳に悪い」
「そこまで言います!?」
抗議しながらも、少し傷ついた顔をしていた。
やがて鼻歌も止み、再び静寂が戻る。
階段を下りきると、青年は炎の球を浮かべ、周囲を照らした。
「“ちゃんとしている”方の遺跡ですね」
「ああ」
青年は歩みを止めないまま、視線だけを横へ流す。
次の瞬間。
甲高い金属音が通路に響いた。
真っ二つになった矢が、床へ転がる。
いつの間にか、青年の剣が抜かれていた。
「さすがですね」
男が呑気に言う。
「歓迎されているようです」
「そうだな」
飛来する矢を払いながら進む。
「貴方と来て、正解でし──」
床が抜けた。
「たっ」
男が舌を噛む。
青年は落下しながら、冷静に下を見た。
剣山。
「アレ──」
次の瞬間、風魔法が炸裂した。
男の声が掻き消える。
荒れ狂う風が周囲を切り裂き、壁を砕き、瓦礫を剣山へと叩き込んでいく。
穴の底は、瞬く間に埋め尽くされた。
青年は瓦礫の上へ、軽やかに着地する。
直後、隣に男が落ちる。どさっ、と鈍い音。
「ぅ、ぐっ……」
呻きながら立ち上がろうとするが、動きがぎこちない。
青年が首を傾げた。
「大丈夫か?」
「……無事ではあります」
「そうか」
青年は一瞬だけ目を細めると、そのまま踵を返した。
そして、崩れた瓦礫を坂代わりに踏みながら、何事もなかったかのように登り始める。
「……いや、おかしいですよね!?」
背後で男が叫んだ。
「何がだ?」
「全部ですよ、全部!」
男は慌てて後を追う。
そうして、罠を回避──もとい破壊し尽くしながら進んでいた時だった。
男がふいに足を止める。
「……水滴の滴る音がしませんか?」
青年も立ち止まり、耳を澄ませた。
「……何も聞こえないが?」
男の顔が、目に見えて青ざめる。
それからというもの、男はひっきりなしに悲鳴を上げていた。
「今、後ろで足音が!?」
「一本道だ。反響しただけだろう」
また少し進んで。
「声が……聞こえませんか!?」
青年は眉間を押さえた。
「いい加減にしてくれ。幻聴か?」
「ひどいです! まだそんな年齢じゃありません!」
その瞬間、男がはっと顔を上げる。
「天才的な発想を思いつきました」
「……その発言で、全部台無しだな」
青年の言葉は聞き流された。
「静かだから怖いんです。代わりに私が歌いましょう」
「何故そうなる」
再び始まる鼻歌。
青年は深く息を吐いた。
奥へ進むほど、空気が淀んでいく。
腐臭とも、土ともつかない匂いに、青年は眉をひそめた。
その時だった。
どこか遠くから、かすかな音が響く。
耳を澄まさなければ気づけないほど、小さい。
「ひいっ!」
男の足が止まった。
勢いよく青年の腕へしがみつく。
「聞こえましたか!?やはり何か得体の知れない……」
「聞こえたが……」
男はさらに密着した。
「あれです、もう背後が怖い!私を背負ってくれませんか?背中合わせでいれば、多少はマシです」
「勘弁してくれ。……どういう体勢だ、それは」
青年は静かに男を見下ろす。
「離してくれ」
「無理です!“怖いなら遠慮なく掴まれ”くらい言ってくれてもいいじゃないですか!」
青年は無言で男を見る。
男の口元が引きつった。
「今、“は?お前に言うのか?”って思いましたよね」
「……気のせいだ」
男が両手で頭を押さえる。
「くっ……もっと優しい人と来ればよかった……!」
呻くような声が、遺跡の奥へ消えていった。
*
歩を進めるごとに、音は少しずつ形を変えていく。
──ら。
最初は、ただの一音だった。
だが進むにつれ、“続き”を持ち始める。
──らら……。
一定間隔で繰り返される、不気味な揺れ。
男が足を止めた。
視線は前を向いたまま、微動だにしない。
「……これ、人の声ですよね」
確認ではなく、否定を願うような声だった。
顔色が、目に見えて悪い。
青年は男を一瞥すると、再び通路の奥へ視線を向けた。
「確認しよう」
そのまま足早に歩き出す。
「ちょっ……待ってください!」
男も慌てて追いかける。
「人がいる可能性は?」
「数年間、入口は封鎖されていました。あり得ません」
その瞬間。
空気が変わった。
視界が開ける。
炎が、広い空間を照らし出した。
遺跡の最奥。
崩れかけた天井。
折れた石柱。
その中心に、“それ”は立っていた。
最初に目に入ったのは、長い髪だった。
床を這うほど伸びた髪が、揺れるたびに遅れて波打つ。
人の形に似ているが、違う。
首の角度がおかしい。
まるで、一度ねじ曲がったまま固定されたような歪さがあった。
擦り切れた布をまとっている。
原型すら分からないほど朽ちていた。
そして、“それ”は歌っていた。
「ら、ら」
旋律が空間へ滲む。
「で……で……」
男が震えながら一歩下がる。
理解したくないものを見た時の目だった。
「やっぱり、“彷徨える魂”じゃないですか!」
その隣で、青年が静かに告げる。
「違う。瘴気魔獣だ」
髪と布の隙間から覗く皮膚は爛れ、黒い筋が血管のように脈打っている。
足元からは、漆黒の瘴気が滲み出していた。
「すぐに討伐──」
青年が踏み込もうとした瞬間。
瘴気魔獣の腹が、横に裂けた。
「アァァァァァッ!!」
悲鳴が空間を貫いた。
耳を裂くような高音。
空気そのものが震え、音が脳へ直接ねじ込まれてくる。
青年の表情が、わずかに歪む。
「っ……」
反射的に左手で耳を押さえた。
眉間に皺が寄る。
それでも姿勢は崩れない。
鋭く細められた目だけが、音の発生源を射抜いていた。
だが、男は違った。
「ぅ、あ……っ」
声にならない呻きが漏れる。
脳を直接揺さぶられるような不快感に、平衡感覚が一気に狂った。
立っていられない。
男は膝をつき、片手を床につく。
「な、なんですか……これ……!」
吐き気を堪えるように息を乱しながら、男が顔を上げる。
青年は剣を構えた。
刃に赤い炎が走る。
熱が一気に膨れ上がり、空気を歪ませた。
炎は剣へまとわりつくように燃え広がっていく。
青年が踏み込む。
横薙ぎ。
振り抜かれた刃から、灼熱の斬撃が放たれた。
石畳を焼きながら走る炎。
だが、その瞬間。
「ァ゛アアアアアーーッ!!」
再び悲鳴が響いた。
炎の軌道がぶれる。
直後、見えない衝撃が真正面から叩きつけられた。
炎の斬撃が掻き消える。
四方へ弾けた炎の残滓が、ぱらぱらと零れ落ちた。
「……遠距離攻撃は不可か」
「では、直接叩いてみましょう」
男は膝をついたまま、ぐっと顔を上げる。
乱れた呼吸を押し殺しながら、瘴気魔獣を睨み据えた。
腕を突き出す。
異様な速度の詠唱が口から滑り出た。
左の掌を上へ向ける。
右拳を縦に構え──叩き落とす。
その瞬間。
瘴気魔獣の頭上に、巨大な“闇の腕”が現れた。
闇そのものを塗り固めたような剛腕。
男の動きに呼応し、拳が叩き落とされる。
轟音。
空気が潰れた。
瘴気魔獣の身体が中央から折れ曲がる。
長い胴がひしゃげ、石畳へめり込んだ。
だが。
「硬い……!」
男の顔に焦りが走る。
潰し切れない。
「圧し潰すのは無理か……方法を変えるぞ」
「これだから、瘴気魔獣は……!」
闇の腕が霧散する。
魔獣の身体が、ぎゅるり、と音を立てた。
折れた胴が戻る。
潰れた肩が膨らむ。
歪んでいた首が、ゆっくりと元へ戻っていく。
そして再び。
「らら──」
歌が始まった。
「腹のあれが、口ですかね?」
「おそらく。閉ざせるか?」
青年の問いかけに、男は不敵に笑う。
「誰に言ってるんですか?」
またも素早い詠唱。
石畳に、黒い波紋が複数同時に浮かび上がる。
波紋の中心から、黒い針が突き出した。
開いた腹を中心に、四方から瘴気魔獣を貫く。
「これで──」
魔獣の頭頂部が、縦に開いた。
裂けたその隙間から、暗い空洞が覗く。
「ら、ら、らァァァァァ!!」
目に見えない圧力が一気に広がり、闇魔法の針へと叩きつけられる。
ひびが走る。
黒い針が次々と崩れ、砕け散った。
「限界です!」
男が叫ぶ。
その声を背に、青年は短く息を吐く。
「十分だ」
踏み出した瞬間、剣に風が絡む。
風魔法をまとった刃が、押し寄せる衝撃波を正面から断ち切った。
逸れた圧力が石柱を砕き、壁へと叩きつけられた。
青年は止まらない。
石畳を蹴り、一気に間合いを詰める。
魔獣の懐へ肉薄した刹那、再び剣へ炎魔法をまとわせた。
刃そのものが赤熱し、金属が焼けるような光を放つ。
空気が歪む。
魔獣が再び悲鳴を上げるより早く。
赤い軌跡だけが視界を裂いた。
魔獣の首が、遅れて滑り落ちる。
ずるり、と胴から離れ、崩れ落ちた。
青年は剣を振り抜いたまま、静かに告げた。
「安らかに、眠れ」
「ら……」
瘴気魔獣の肉体が灰のように崩れ落ちる。
そして、石畳に触れる前に軽く舞い上がり、そのまま空気へ溶けるように消えた。
落ちたはずの場所、石畳に残された瘴気の染み。
黒が、じわりと広がる。
その染みを見下ろし、男が眉を寄せた。
「すぐに浄化しなくてはいけないですね」
「ああ。手配しよう」
青年が剣を納める。
その隣で、男は大きくため息をついた。
「彼女にも同行してもらえばよかったです。どうしてこんな時に限って、用事が入るんですかね……」
「仕方ないだろう。俺たちは立場上、息子と過ごせる時間もそう多くはない」
「ああ、やはりそうでしたか。これだから子持ちは……。結局、独り身が一番気楽で自由なんですよ」
青年は男を横目で見た。
数拍遅れて、わずかに口元が緩む。
笑ったというより、呆れに近い吐息だった。
「……何も分かっていないな」
ほとんど独り言のように呟き、青年は視線を前へ戻す。
その表情は、すぐにいつもの薄さへ戻った。
男が腰に手を当て、息を吐く。
「さあ、帰りますよ!」
来た時とは違い、軽い足取りで歩き出す。
「いやあ、よかったです。思った通り、“彷徨える魂”などという、理論では説明のつかない存在はいないんですよ」
「そうだな」
青年も足を一歩前に出す。
その時だった。
ふいに、何かが聞こえた気がした。
青年は足を止め、振り返る。
「どうかしましたか?」
「いや……」
青年は眉を寄せた。
気配はない。
自分たち以外、何も。
それなのに。
──ら。
歌が、聞こえた気がした。
青年はゆっくり男へ視線を向ける。
男は何も気づいていない様子で、安堵したように首を傾げていた。
その旋律は。
男が鼻歌で口ずさんでいた童謡によく似ていた。




