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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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雫の欠片

安らかに、眠れ

掲載日:2026/07/25

 執務室には、紙をめくる音だけが静かに響いていた。


 青年は机に向かったまま、無駄のない動きで書類を捌いていく。


 視線を落とす。

 書類を読む。

 判を押す。

 次へ回す。


 その一連の動作は、あまりにも滑らかだった。


 机の端には未処理の書類が山積みになっている。

 青年は淡々と、一枚ずつ片付けていた。


 静かな室内に、こんこん、と戸を叩く音が響く。

 青年が返事をしようと口を開きかけた、その瞬間だった。


 勢いよく扉が開く。


「遺跡調査に行きましょう!」


 明るい声とともに、男がずかずかと部屋へ入ってきた。


 青年の手が止まる。

 書類を持ったまま、ゆっくり視線だけを上げた。


 沈黙が落ちる。

 部屋の空気がわずかに冷えた。


 だが男は気にした様子もなく、期待に満ちた顔を向けている。


 やがて青年は、小さく息を吐いた。


「……ここにそんなふうに入ってくるのは、お前くらいだ」


 呆れを滲ませた声だった。


 男はまったく堪えた様子もなく笑う。


「そうでしょうね」


 青年は書類を静かに机へ置いた。


「手が必要なら、正式に依頼を出してくれ」

「そんな固いことは言わずに。一緒に行きましょう」


 男はふいに笑みを消し、声を潜める。


「その遺跡……変な音がするらしいんです」


 わずかに間を置き、続けた。


「噂では、“彷徨える魂”がいるとか」


 男の言葉を聞き終えても、青年はしばらく黙ったままだった。

 感情の薄い目で、静かに男を見る。


「……冗談は大概にしてくれ」


 それだけ言うと、視線を机へ戻した。


 だが次の瞬間。

 すっ、と男の手が書類の上へ差し込まれる。


 青年の指先が止まった。


「業務妨害だ」

「一緒に来てください!最強の名を欲しいままにする貴方(あなた)なら、亡霊の方が逃げるでしょう!?」


 青年は男を見上げ、ため息をつく。


「そんなものの存在を信じているのか。……他でもない、お前が」

「信じたくないですよ!」


 男は勢いよく身を乗り出した。

 これ以上ないほど真剣な目だった。


「怖いんです!現象として説明できないんですよ!?剣や魔法で倒せるならまだしも、それが通じない相手にどう立ち向かえと!?」

「……だったら、俺が同行したところで──」

「一人より二人、です」


 青年は机に肘をついたまま、静かに男を見る。

 その視線が、少しずつ別の色を帯びていく。


 理解。

 納得。

 そして、わずかな哀れみ。


「……他に友人がいないのか」

「やめてください」


 男の返答は速かった。


「私にも友人くらいいます。中でも貴方が一番、戦力になるだけです」

「……そうか」


 再び書類へ視線を戻す青年を見て、男がため息をつく。


「今日は一人なんですか?」

「ああ。今日は別件で外している」


 その返答に、男は小さく肩を落とした。


「それにしても、すごい書類の量ですね。ずっとこもるのはよくないですよ、今すぐ行きましょう」

「……今?」


 男は頷く。


「どうせ急ぎの仕事は、もう終わっているのでしょう?」

「それはそうだが……」


 その瞬間、男が動いた。

 止める間もなく机の横へ回り込み、青年の腕を掴む。


「さあ、行きましょう」


 半ば強引に立たされ、青年が眉を寄せた。


「……おい」

「大丈夫、遠足みたいなものですよ」


 そのまま男は青年を引っ張っていく。


 青年は一度だけ、書類の残る机を振り返った。

 未処理の山。

 置いていかれる仕事。


 小さく息を吐き、呟く。


「……お前は本当に、人の都合を聞かないな」

「褒め言葉として受け取っておきます」


 男は楽しそうに笑いながら、青年を連れて部屋を出ていった。



 *



 遺跡の階段を、青年は無言で下っていた。


 背後から、鼻歌が聞こえ始める。


 青年は視線だけ振り返った。


「陽気だな」

「古い童謡です。怖さが紛れて、いいと思いませんか?」


 そう答えて、男はまた鼻歌を歌い始める。


 ただ、絶望的に下手だった。

 音程が迷子──などという生易しいものではない。


 青年はしばらく無言で耐えていたが、ついに足を止めた。


「やめろ。不気味だ」

「失礼ですね!」


 男の顔が引きつる。


「耳に悪い」

「そこまで言います!?」


 抗議しながらも、少し傷ついた顔をしていた。


 やがて鼻歌も止み、再び静寂が戻る。

 階段を下りきると、青年は炎の球を浮かべ、周囲を照らした。


「“ちゃんとしている”方の遺跡ですね」

「ああ」


 青年は歩みを止めないまま、視線だけを横へ流す。


 次の瞬間。


 甲高い金属音が通路に響いた。

 真っ二つになった矢が、床へ転がる。


 いつの間にか、青年の剣が抜かれていた。


「さすがですね」


 男が呑気に言う。


「歓迎されているようです」

「そうだな」


 飛来する矢を払いながら進む。


「貴方と来て、正解でし──」


 床が抜けた。


「たっ」


 男が舌を噛む。


 青年は落下しながら、冷静に下を見た。


 剣山。


「アレ──」


 次の瞬間、風魔法が炸裂した。

 男の声が掻き消える。


 荒れ狂う風が周囲を切り裂き、壁を砕き、瓦礫を剣山へと叩き込んでいく。

 穴の底は、瞬く間に埋め尽くされた。


 青年は瓦礫の上へ、軽やかに着地する。


 直後、隣に男が落ちる。どさっ、と鈍い音。


「ぅ、ぐっ……」


 呻きながら立ち上がろうとするが、動きがぎこちない。


 青年が首を傾げた。


「大丈夫か?」

「……無事ではあります」

「そうか」


 青年は一瞬だけ目を細めると、そのまま踵を返した。

 そして、崩れた瓦礫を坂代わりに踏みながら、何事もなかったかのように登り始める。


「……いや、おかしいですよね!?」


 背後で男が叫んだ。


「何がだ?」

「全部ですよ、全部!」


 男は慌てて後を追う。


 そうして、罠を回避──もとい破壊し尽くしながら進んでいた時だった。


 男がふいに足を止める。


「……水滴の滴る音がしませんか?」


 青年も立ち止まり、耳を澄ませた。


「……何も聞こえないが?」


 男の顔が、目に見えて青ざめる。


 それからというもの、男はひっきりなしに悲鳴を上げていた。


「今、後ろで足音が!?」

「一本道だ。反響しただけだろう」


 また少し進んで。


「声が……聞こえませんか!?」


 青年は眉間を押さえた。


「いい加減にしてくれ。幻聴か?」

「ひどいです! まだそんな年齢じゃありません!」


 その瞬間、男がはっと顔を上げる。


「天才的な発想を思いつきました」

「……その発言で、全部台無しだな」


 青年の言葉は聞き流された。


「静かだから怖いんです。代わりに私が歌いましょう」

「何故そうなる」


 再び始まる鼻歌。


 青年は深く息を吐いた。


 奥へ進むほど、空気が淀んでいく。

 腐臭とも、土ともつかない匂いに、青年は眉をひそめた。


 その時だった。


 どこか遠くから、かすかな音が響く。

 耳を澄まさなければ気づけないほど、小さい。


「ひいっ!」


 男の足が止まった。

 勢いよく青年の腕へしがみつく。


「聞こえましたか!?やはり何か得体の知れない……」

「聞こえたが……」


 男はさらに密着した。


「あれです、もう背後が怖い!私を背負ってくれませんか?背中合わせでいれば、多少はマシです」

「勘弁してくれ。……どういう体勢だ、それは」


 青年は静かに男を見下ろす。


「離してくれ」

「無理です!“怖いなら遠慮なく掴まれ”くらい言ってくれてもいいじゃないですか!」


 青年は無言で男を見る。


 男の口元が引きつった。


「今、“は?お前に言うのか?”って思いましたよね」

「……気のせいだ」


 男が両手で頭を押さえる。


「くっ……もっと優しい人と来ればよかった……!」


 呻くような声が、遺跡の奥へ消えていった。



 *



 歩を進めるごとに、音は少しずつ形を変えていく。


 ──ら。


 最初は、ただの一音だった。

 だが進むにつれ、“続き”を持ち始める。


 ──らら……。


 一定間隔で繰り返される、不気味な揺れ。


 男が足を止めた。

 視線は前を向いたまま、微動だにしない。


「……これ、人の声ですよね」


 確認ではなく、否定を願うような声だった。

 顔色が、目に見えて悪い。


 青年は男を一瞥すると、再び通路の奥へ視線を向けた。


「確認しよう」


 そのまま足早に歩き出す。


「ちょっ……待ってください!」


 男も慌てて追いかける。


「人がいる可能性は?」

「数年間、入口は封鎖されていました。あり得ません」


 その瞬間。

 空気が変わった。


 視界が開ける。


 炎が、広い空間を照らし出した。


 遺跡の最奥。


 崩れかけた天井。

 折れた石柱。


 その中心に、“それ”は立っていた。


 最初に目に入ったのは、長い髪だった。

 床を這うほど伸びた髪が、揺れるたびに遅れて波打つ。


 人の形に似ているが、違う。

 首の角度がおかしい。

 まるで、一度ねじ曲がったまま固定されたような歪さがあった。


 擦り切れた布をまとっている。

 原型すら分からないほど朽ちていた。


 そして、“それ”は歌っていた。


「ら、ら」


 旋律が空間へ滲む。


「で……で……」


 男が震えながら一歩下がる。

 理解したくないものを見た時の目だった。


「やっぱり、“彷徨える魂”じゃないですか!」


 その隣で、青年が静かに告げる。


「違う。瘴気魔獣だ」


 髪と布の隙間から覗く皮膚は爛れ、黒い筋が血管のように脈打っている。

 足元からは、漆黒の瘴気が滲み出していた。


「すぐに討伐──」


 青年が踏み込もうとした瞬間。


 瘴気魔獣の腹が、横に裂けた。


「アァァァァァッ!!」


 悲鳴が空間を貫いた。

 耳を裂くような高音。


 空気そのものが震え、音が脳へ直接ねじ込まれてくる。


 青年の表情が、わずかに歪む。


「っ……」


 反射的に左手で耳を押さえた。

 眉間に皺が寄る。


 それでも姿勢は崩れない。

 鋭く細められた目だけが、音の発生源を射抜いていた。


 だが、男は違った。


「ぅ、あ……っ」


 声にならない呻きが漏れる。

 脳を直接揺さぶられるような不快感に、平衡感覚が一気に狂った。


 立っていられない。

 男は膝をつき、片手を床につく。


「な、なんですか……これ……!」


 吐き気を堪えるように息を乱しながら、男が顔を上げる。


 青年は剣を構えた。


 刃に赤い炎が走る。

 熱が一気に膨れ上がり、空気を歪ませた。

 炎は剣へまとわりつくように燃え広がっていく。


 青年が踏み込む。


 横薙ぎ。

 振り抜かれた刃から、灼熱の斬撃が放たれた。


 石畳を焼きながら走る炎。

 だが、その瞬間。


「ァ゛アアアアアーーッ!!」


 再び悲鳴が響いた。


 炎の軌道がぶれる。

 直後、見えない衝撃が真正面から叩きつけられた。


 炎の斬撃が掻き消える。

 四方へ弾けた炎の残滓が、ぱらぱらと零れ落ちた。


「……遠距離攻撃は不可か」

「では、直接叩いてみましょう」


 男は膝をついたまま、ぐっと顔を上げる。

 乱れた呼吸を押し殺しながら、瘴気魔獣を睨み据えた。


 腕を突き出す。

 異様な速度の詠唱が口から滑り出た。


 左の掌を上へ向ける。

 右拳を縦に構え──叩き落とす。


 その瞬間。


 瘴気魔獣の頭上に、巨大な“闇の腕”が現れた。

 闇そのものを塗り固めたような剛腕。


 男の動きに呼応し、拳が叩き落とされる。


 轟音。

 空気が潰れた。


 瘴気魔獣の身体が中央から折れ曲がる。

 長い胴がひしゃげ、石畳へめり込んだ。


 だが。


「硬い……!」


 男の顔に焦りが走る。


 潰し切れない。


「圧(お)し潰すのは無理か……方法を変えるぞ」

「これだから、瘴気魔獣は……!」


 闇の腕が霧散する。


 魔獣の身体が、ぎゅるり、と音を立てた。

 折れた胴が戻る。

 潰れた肩が膨らむ。

 歪んでいた首が、ゆっくりと元へ戻っていく。


 そして再び。


「らら──」


 歌が始まった。


「腹のあれが、口ですかね?」

「おそらく。閉ざせるか?」


 青年の問いかけに、男は不敵に笑う。


「誰に言ってるんですか?」


 またも素早い詠唱。


 石畳に、黒い波紋が複数同時に浮かび上がる。

 波紋の中心から、黒い針が突き出した。


 開いた腹を中心に、四方から瘴気魔獣を貫く。


「これで──」


 魔獣の頭頂部が、縦に開いた。

 裂けたその隙間から、暗い空洞が覗く。


「ら、ら、らァァァァァ!!」


 目に見えない圧力が一気に広がり、闇魔法の針へと叩きつけられる。


 ひびが走る。

 黒い針が次々と崩れ、砕け散った。


「限界です!」


 男が叫ぶ。

 その声を背に、青年は短く息を吐く。


「十分だ」


 踏み出した瞬間、剣に風が絡む。

 風魔法をまとった刃が、押し寄せる衝撃波を正面から断ち切った。


 逸れた圧力が石柱を砕き、壁へと叩きつけられた。


 青年は止まらない。

 石畳を蹴り、一気に間合いを詰める。


 魔獣の懐へ肉薄した刹那、再び剣へ炎魔法をまとわせた。

 刃そのものが赤熱し、金属が焼けるような光を放つ。

 空気が歪む。


 魔獣が再び悲鳴を上げるより早く。


 赤い軌跡だけが視界を裂いた。


 魔獣の首が、遅れて滑り落ちる。

 ずるり、と胴から離れ、崩れ落ちた。


 青年は剣を振り抜いたまま、静かに告げた。


「安らかに、眠れ」


「ら……」


 瘴気魔獣の肉体が灰のように崩れ落ちる。

 そして、石畳に触れる前に軽く舞い上がり、そのまま空気へ溶けるように消えた。


 落ちたはずの場所、石畳に残された瘴気の染み。

 黒が、じわりと広がる。


 その染みを見下ろし、男が眉を寄せた。


「すぐに浄化しなくてはいけないですね」

「ああ。手配しよう」


 青年が剣を納める。

 その隣で、男は大きくため息をついた。


「彼女にも同行してもらえばよかったです。どうしてこんな時に限って、用事が入るんですかね……」

「仕方ないだろう。俺たちは立場上、息子と過ごせる時間もそう多くはない」

「ああ、やはりそうでしたか。これだから子持ちは……。結局、独り身が一番気楽で自由なんですよ」


 青年は男を横目で見た。


 数拍遅れて、わずかに口元が緩む。

 笑ったというより、呆れに近い吐息だった。


「……何も分かっていないな」


 ほとんど独り言のように呟き、青年は視線を前へ戻す。

 その表情は、すぐにいつもの薄さへ戻った。


 男が腰に手を当て、息を吐く。


「さあ、帰りますよ!」


 来た時とは違い、軽い足取りで歩き出す。


「いやあ、よかったです。思った通り、“彷徨える魂”などという、理論では説明のつかない存在はいないんですよ」

「そうだな」


 青年も足を一歩前に出す。

 その時だった。


 ふいに、何かが聞こえた気がした。

 青年は足を止め、振り返る。


「どうかしましたか?」

「いや……」


 青年は眉を寄せた。


 気配はない。

 自分たち以外、何も。


 それなのに。


 ──ら。


 歌が、聞こえた気がした。


 青年はゆっくり男へ視線を向ける。

 男は何も気づいていない様子で、安堵したように首を傾げていた。


 その旋律は。

 男が鼻歌で口ずさんでいた童謡によく似ていた。

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