どうぞご自由に。――私はもう、貴方の隣にいる理由がありませんので
「婚約破棄だ、リーネ」
夜会の喧騒が、一瞬で凍りついた。
シャンデリアの灯りが、オスヴァルト様の冷たい横顔を照らしている。
「お前のような陰湿な女に、もう用はない」
三年。
三年間、私はこの人に尽くしてきた。社交界での立ち居振る舞いを支え、領地経営の書類を整理し、夜会のたびに隣で微笑んできた。
けれど今、その三年間は何の価値もなかったのだと、この人は告げている。
「聖女エルミナ様を虐めるとは、下劣にも程がある。お前には心というものがないのか」
オスヴァルト様の隣で、銀髪の聖女様が涙を流している。
……私が虐めた?
一度も話したことすらないのに?
「リーネ様は、私の髪を切ろうとなさったのです……」
聖女様の震える声が、夜会場に響く。
周囲からどよめきが起こった。
「なんということ」
「伯爵令嬢ともあろう方が」
「嫉妬は醜いわね」
視線が突き刺さる。
冷たい、蔑みの視線。
けれど、不思議と心は凪いでいた。
――ああ、やっぱり。
私はどこかで、こうなることを知っていたのだと思う。
オスヴァルト様が私を選んだのは、家同士の利害が一致したから。私自身に価値があったからではない。だから、もっと価値のある人が現れれば、当然こうなる。
「リーネ、何か言うことはないのか」
オスヴァルト様が、苛立ったように問う。
弁明を求めているのだろうか。それとも、泣いて縋りつくことを期待しているのだろうか。
どちらにしても、私には無理だ。
「……どうぞご自由に」
静かに、そう答えた。
「私はもう、貴方の隣にいる理由がありませんので」
オスヴァルト様が目を見開く。聖女様も、泣き顔のまま固まっている。
予想と違う反応だったのだろう。
そうだろうな、と思う。
普通なら、ここで取り乱すべきだ。泣いて、叫んで、無実を訴えるべきだ。
けれど私は、自分にそんな価値があるとは思えなかった。
三年間尽くしても、一度の讒言で切り捨てられる程度の女。それが私だ。
だから、静かに去ろう。
傷つく前に。これ以上、惨めになる前に。
踵を返した瞬間だった。
「おい」
低い声が、私を止めた。
振り返る。
夜会場の端に立っていた男が、こちらに歩いてくる。
黒髪に、鋭い眼光。
無骨な体躯を夜会服に包んだその人を、私は知っていた。
ヴェルナー・フォン・アイゼンベルク。
王国北方の辺境伯。武勲で名を上げ、二十八歳にして辺境伯位を継いだ男。社交界では無愛想で有名で、女性たちからは敬遠されている。
なぜ、この人が私を呼び止めるのだろう。
「逃げるな」
「……逃げる、ですか」
「そうだ。逃げようとしている」
違う、と言おうとして、言葉が出なかった。
この人の目が、真っ直ぐに私を見ている。見透かすように。
「逃げてはいない、と?」
「……私は、ただ」
「自分には価値がないから、さっさと消えようとしている。違うか」
息が止まった。
なぜ、この人にはわかるのだろう。
私が三年間、誰にも見せなかったものを。
「黙っているということは、図星だな」
ヴェルナー様が、一歩近づく。
周囲がざわめいている。辺境伯が、婚約破棄されたばかりの令嬢に声をかけている。これは一体どういうことだ、と。
「リーネ・フォン・ヴァルトシュタイン」
「……はい」
「お前、聖女を虐めたか」
直接的な問いだった。
回りくどい言い方をしない人なのだろう。
「いいえ。一度も」
「だろうな」
あっさりと、ヴェルナー様は頷いた。
「お前は虐めをするような人間じゃない」
「……なぜ、そう思われるのですか」
「三年間、見ていた」
心臓が跳ねた。
「お前は婚約者の隣で、いつも控えめに笑っていた。誰かを陥れるような真似は一度もしていない。それどころか、社交界で孤立している令嬢に声をかけ、居場所を作ってやっていた」
知らなかった。
誰かが見ていたなんて。
「おい、辺境伯」
オスヴァルト様が、不快そうに口を挟む。
「口を出さないでいただきたい。これは私とリーネの問題だ。聖女様を虐めた女を庇うなど、貴方の名誉に関わる」
「名誉?」
ヴェルナー様が、冷たく笑った。
「侯爵子息。お前、少し調べが足りないんじゃないか」
「……何を」
「この短剣に見覚えは?」
ヴェルナー様が懐から取り出したのは、細身の短剣だった。
刃には、王家の紋章が刻まれている。
聖女様の顔色が、変わった。
「それは、どこで」
「お前の侍女から預かった。聖女エルミナ、お前が自分の髪を切った時に落としたものだそうだな」
夜会場が、静まり返った。
「自分の髪を……切った?」
オスヴァルト様が、呆然と聖女様を見る。
「リーネ・フォン・ヴァルトシュタインを陥れるために、自作自演をした。侍女の証言もある。お前の部屋で、お前自身が髪を切るのを見た、とな」
「そんな、嘘です! マリア、あなた、なぜ……!」
聖女様が叫ぶ。
けれどその叫びは、周囲の冷たい視線に晒されている。
「聖女様が、嘘を?」
「なんということ……」
「伯爵令嬢に罪を着せるなんて」
空気が、完全に変わっていた。
先ほどまで私を蔑んでいた人々が、今は聖女様を見ている。
「エルミナ、これは本当なのか」
オスヴァルト様の声が、震えている。
「違います、オスヴァルト様。私は、私は……」
「お前の侍女が証言している」
ヴェルナー様が、冷たく遮った。
「侍女マリアは、お前の行いに耐えかねて、俺の元に来た。『聖女様は以前から、邪魔な令嬢を陥れてきた。今度の標的はリーネ様だ』とな」
聖女様の顔から、血の気が引いていく。
「そして侯爵子息。お前はそれを知っていたな?」
「な、何を……」
「聖女の嘘に気づいていながら、それを利用した。婚約者を切り捨て、聖女を手に入れるために」
オスヴァルト様が、言葉を失う。
図星だったのだろう。その顔を見れば、わかる。
「リーネ」
ヴェルナー様が、私を見た。
「お前は無実だ。この場の全員が、今それを知った」
「……はい」
わかっていた。私は何もしていない。
けれど、弁明する気力がなかった。どうせ信じてもらえないと思っていたから。
「なぜ、自分で言わなかった」
「……言っても、無駄だと思いました」
「無駄?」
「私の言葉には、価値がありませんから」
ヴェルナー様の眉が、微かに動いた。
「誰がそう言った」
「誰も。ただ、私がそう思っているだけです」
三年間、尽くしても切り捨てられる程度の女。
それが私の価値だ。
「……馬鹿か、お前は」
ヴェルナー様の声が、低く響いた。
「三年間、俺はお前を見ていた。社交界の端で、お前がどう振る舞っているか。誰に声をかけ、誰を助けているか」
「ヴェルナー、様……?」
「去年の夜会で、居場所のない子爵令嬢に声をかけていただろう。あの娘は今、友人もでき、婚約者も決まった。お前のおかげだ」
知らなかった。
ただ、一人で立っている女の子が気になっただけ。
「その前の年には、新参の男爵令嬢を守っていた。古参の令嬢たちに囲まれて、泣きそうになっていたあの娘を」
それも、ただ見過ごせなかっただけ。
「お前は、自分の価値がわかっていない」
ヴェルナー様が、一歩近づいた。
「だから俺が教えてやる」
大きな手が、私の手を取った。
温かい。武人の手なのに、驚くほど優しく握られている。
「お前を見ていた。三年間、ずっと」
心臓が、痛いほど鳴っている。
「他の男の婚約者に手を出すわけにはいかなかった。だが、今は違う」
ヴェルナー様が、私の手を持ち上げた。
夜会場の全員が、私たちを見ている。
「リーネ・フォン・ヴァルトシュタイン」
「は、はい」
「俺の妻になれ」
息が、止まった。
「……え?」
「聞こえなかったか。俺の妻になれと言っている」
「で、ですが、私は、今し方婚約破棄されたばかりで……」
「だから何だ」
ヴェルナー様の目が、真っ直ぐに私を見ている。
「お前の価値は、あの男に決められるものじゃない。お前自身が決めるものだ。そして俺は、お前に価値があると知っている」
「私に、価値が……」
「ある。お前は、俺が三年間探していた女だ」
手を握る力が、少しだけ強くなった。
「辺境は厳しい土地だ。社交界のような華やかさはない。だが、お前ならやっていける。いや、お前でなければ駄目だ」
「ヴェルナー様……」
「返事は」
「あ、あの、こんな、急に言われても……」
「待っていた。三年間。これ以上待つ気はない」
強引だ。
強引すぎる。
けれど、その強引さが、今は嬉しかった。
私を必要としてくれている人がいる。私に価値があると言ってくれる人がいる。
「……私で、いいのですか」
「お前がいい」
その言葉に、涙が零れた。
「お前がいい」と、この人は言った。
「お前しかいない」ではなく、「お前がいい」と。
消去法ではない。私自身を選んでくれている。
「……はい」
声が震えた。
「はい、私で、よければ」
ヴェルナー様の口元が、微かに緩んだ。
無愛想な人だと思っていた。けれど今、この人は確かに笑っている。
「よく言った」
そう言って、ヴェルナー様は私の手に口づけた。
夜会場がどよめく。辺境伯が、衆人環視の中で求婚し、それが受け入れられた。
「待て、辺境伯!」
オスヴァルト様が、慌てて声を上げた。
「リーネは、私の婚約者だ!」
「お前が破棄しただろう」
「それは、その、聖女に騙されていただけで……」
「だから何だ」
ヴェルナー様の目が、冷たく光った。
「三年間、お前の隣にいた女だ。その女が虐めをするかどうか、本当にわからなかったのか」
オスヴァルト様が、言葉に詰まる。
「わかっていた。けれど、聖女が欲しかったから目を瞑った。違うか」
「それは……」
「お前には、この女の価値がわからなかった。俺にはわかる。それだけだ」
ヴェルナー様が、私の手を引いた。
「行くぞ、リーネ」
「あ、は、はい」
「お前の家に挨拶に行く。両親に話をつける」
「今夜、ですか?」
「三年待った。これ以上は待てん」
強引だ。
本当に、強引だ。
けれど私は、その手を振りほどく気にはなれなかった。
夜会場を出る直前、私は一度だけ振り返った。
オスヴァルト様が、呆然と立ち尽くしている。
聖女様は、周囲の冷たい視線に晒されて、青ざめた顔をしている。
三年間、私が守りたかったもの。
けれど今、それはもう、私のものではない。
「リーネ」
ヴェルナー様が、私の名を呼ぶ。
「振り返るな」
「……はい」
「お前の居場所は、もうあそこにはない」
「わかっています」
「俺の隣だ」
心臓が、また跳ねた。
「お前の居場所は、俺の隣だ。覚えておけ」
「……はい」
私の手を握る、大きな手。
無骨で、温かくて、絶対に離さないとでも言うように、しっかりと握られている。
三年間、誰も見ていないと思っていた。
私の価値など、誰にもわからないと思っていた。
けれどこの人は、見ていてくれた。
私が気づかないところで、ずっと。
「ヴェルナー様」
「なんだ」
「……ありがとう、ございます」
「礼はいらん」
ヴェルナー様が、少しだけ歩調を緩めた。
私の足に合わせてくれている。
「お前が俺の妻になる。それだけで十分だ」
「でも、私、辺境のことは何も……」
「教える」
「社交界のようなことしか、できません」
「それでいい。お前のやり方で、辺境を変えてくれ」
「私の、やり方……」
「孤立している者に声をかけ、居場所を作る。お前はそれが得意だろう」
また、涙が滲んだ。
この人は、本当に見ていてくれたのだ。
私が何をしてきたか。私が何を大切にしてきたか。
「リーネ」
「は、はい」
「泣くな」
「すみま、せん……」
「泣くなと言っている」
ヴェルナー様の手が、私の頬に触れた。
涙を拭う仕草は、見た目に反して、驚くほど優しかった。
「お前はもう、泣く必要がない」
「……はい」
「俺がいる」
短い言葉だった。
けれどその言葉には、三年分の重みがあった。
「俺がいるから、もう泣くな」
「……はい」
私は頷いた。
そして、この人の手を、握り返した。
初めて、自分から。
ヴェルナー様が、少しだけ目を見開いた。
そしてすぐに、口元を緩めた。
「いい返事だ」
「あ、あの、これは……」
「黙ってろ。そのままでいい」
手を繋いだまま、私たちは夜の王都を歩いた。
三年間、私は自分に価値がないと思っていた。
どうせいつか捨てられると、諦めていた。
けれど今、隣にいるこの人は、私を選んでくれた。
消去法ではなく、私自身を。
「ヴェルナー様」
「なんだ」
「……これから、よろしくお願いします」
「ああ」
ヴェルナー様の手が、私の手を強く握った。
「こちらこそ、よろしく頼む。俺の妻」
夜空に、星が瞬いている。
三年前にはなかった場所へ、私は今、歩き出している。
この人の隣で。
この人に選ばれた女として。
「……ヴェルナー様」
「また何だ」
「辺境は、寒いのですか」
「ああ。死ぬほど寒い」
「大変ですね」
「お前がいれば、問題ない」
「……どういう意味ですか」
「温めてやる」
顔が、熱くなった。
「な、何を……!」
「文句があるなら、今のうちに言え。婚姻届けを出したら、もう逃がさん」
「逃げません!」
声が裏返った。
ヴェルナー様が、声を立てずに笑う。
「いい返事だ」
「もう、からかわないでください……」
「からかっていない。本気だ」
その目が、真剣だった。
この人はいつも、本気なのだ。
「三年間、待った。これからは、一生お前の隣にいる」
「……はい」
私は頷いた。
そして、この人の腕に、そっと身を寄せた。
「私も、一生、お隣にいます」
「当然だ」
ヴェルナー様の腕が、私を包む。
強くて、温かくて、絶対に離さないとでも言うように。
――三年間、私は待っていた。
誰かが私を見つけてくれるのを。
私に価値があると言ってくれるのを。
そしてこの人が、見つけてくれた。
もう、逃げなくていい。
もう、諦めなくていい。
この人の隣で、私は生きていく。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
自己肯定感の低い主人公と、三年間ずっと見守っていた辺境伯の物語でした。
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