第14話 『死因』の自己分析
side 夜神夕子
それは、『前世』でのこと。
私と『芸術家』を名乗る彼女を引き合わせたのは、他ならぬお母様でしたわ。
当然ながら、同年代の友達を作らせようだなんて話ではなく……その可能性だけは絶対になく。
ただ、私に見習わせたいセンスを持っているからとか、もっと真面目にお稽古を頑張るように競争相手を作りたかったからとか、きっとそんな思惑から。
けれど、私にとって彼女との出会いは人生観を変えてしまうほどに大きなものになりましたわ。
『ニャハハ、どうしてこう動くかニャ? だって、その方が客席から見る人の視点だと綺麗な動きになるからニャ』
母が彼女を私に引き合わせたのは、日本舞踊の教室に踊りを習いにやってきた彼女が並外れた『芸術性』を持っていたから。
当時の私は十三歳、彼女は二つか三つ上の十五、六歳。
長い時間をかけてたくさんの練習をしてきた『大人』が上手く踊れるのは当然、それと同じで歳上であれば歳下の私よりも上手いのはおかしいことではない。
けれど、彼女は日本舞踊についてほとんど素人でありながら物心つく前から稽古をさせられてきた私よりも綺麗に舞っていた。
お手本通りに動いているのは私の方なのに、正しい動きをしているのは私のはずなのに、自分でわかってしまうほど輝きで負けてしまう。
彼女がその場で加えたアレンジ一つで、お母様もお稽古の先生も目を奪われる。
私には、わからなかった。
だから、彼女に質問してみて、返ってきた答えが『この方が綺麗に見える』という言葉だった。
私には、そんな考え方はなかった。
私にとって、日本舞踊というのは『正しく動くこと』を求め続けられるものだった。
それまでずっと、いつもいつもいつも、お母様やお稽古の先生の顔色を見て『正しい動き』を探りながら練習していた。
見えない地雷原の中をおっかなびっくり舞って、地雷を踏んで、怒鳴りつけられて。
そこから、ひたすら同じ地雷を二度と踏まないことを考えながら手足を動かして、どうにか今度は地雷を踏まずにその『振り付け』を通り抜けて。
大人の顔色を見て、奇跡的に通り抜けられたその軌道に地雷がなかったとわかればそれが『正しい動き』なのだと記憶に刻み込む。
十三歳までの私の『日本舞踊』は、ただただそれの繰り返し、本当にただそれだけの反復練習を意味する言葉だった。
舞えと言われれば、私の周りは見えない地雷原に変わる。
それも、地面だけでなく腕だったり袖だったり扇子や傘だったり、指だったり首の角度だったり、表情を動かす筋肉のほんの小さな緊張だったりが突然『起爆装置』に引っかかる立体的な地雷原。
演舞に入れば、その瞬間から世界は『正しい軌跡』以外の全てが座標の見えない地雷に埋め尽くされた恐怖の空間に変わる。
それも、止まっている地雷の隙間を慎重に抜ければ良いなんて易しい話じゃなくて、曲に合わせて『正しいテンポ』で動かなければ地雷の方から私を追ってくる四次元の地雷原。
その中を、怯えで引き攣りそうになる表情筋を抑え込みながら舞って、回って、歩いて。
地雷を踏んで。
踏んで。踏んで。踏んで。
踏んで踏んで踏んで踏んで。
真面目にやりなさいと怒鳴りつけられて。
それでどうにか見えない地雷のない『正しい動き』ができる道筋を見つけて、地面や空中の地雷に指先や裾が触れることがないように、筋肉の一本すら正解と違う動きをさせないように全身に神経を張り巡らせて、少しでも地雷に触れれば怒鳴り声が爆発するただただ恐ろしい動作を繰り返す。
一人で練習させられている時にだって、私の目には見えない地雷の群れが鮮明に色付いて見えていて、それに触れそうになれば頭の中に警告音のように怒声が響いた。
けれど、彼女はそんな地雷なんて見えていないみたいに大胆に振り付けを変えて、『正しい動き』の軌道から堂々と外れた動きをしているのにお母様にもお稽古の先生にも一度も怒鳴られなかった。
その理由が……彼女の選んだそれが『その方が綺麗に見えると思った動き』だったから。
今にして思えば、当たり前の話ではあった。
日本舞踊は、『美しく舞う』という目的を持った動作を煮詰めて伝統芸能にまで昇華したものなのだから。
『教科書通りの動き』よりも美しいと感じさせる動きができるのなら、それに文句を付けられる人はいない。
けれど、それまで日本舞踊を『させられてきた』だけの私は一度として、彼女の日本舞踊を見るまで、お稽古の先生を見てもお母様を見ても日本舞踊を『美しい』だなんて思ったことはなかったから……踊りを見せられたなら、少しでも怒られないで正しい動きを見つけられるように『見本の動き』を憶えることで頭がいっぱいになってそんなふうに思う余裕なんて本当になかったから。
振り付けの動きにはそうする意味がある。
『正解』にはそれが『正解』として扱われる理由がある。
それは……私にとって、本当に世界観を変えるほど新しい概念だった。
無学な私でも知っているほど有名な例え話で言えば、タイプライターを与えられた猿がめちゃくちゃにキーを打ってシェイクスピアの作品を書き上げるのを期待していたのが、いきなり人間に進化して『シェイクスピア作品のミュージカル』を見ながらキーを打っていいと言われたようなもの。
その世界観の変化はすぐに私の動きにも影響を与えた。
猿がタイプライターで打ったランダムで無意味な文字列を必死に再現しようとする打ち手から、それぞれの単語のスペルくらいは知っている打ち手程度にはマシになった。
そして、それはお母様には大変喜ばしいことだったようで、お母様はアトリさんと私にもっと会話を交わすようにと二人だけの時間を与えましたわ。
そして……私は、彼女を通して手が届かない世界の輝きを知った。
『ワタシは日本舞踊のプロになる気はなくてニャ。芸術家として「人がどんなものを美しいと感じるか」を研究したいと思ってるだけなんニャ。伝統芸能も、料理も、もの作りも、いろいろ齧ってみたらそういう感覚を生み出す技術の芯みたいなものが見えてきた気がしててニャ……夕子ちゃんにも、知ってほしいんニャ。この世界には、美しいものとか綺麗なものがたくさんあるって』
初めてお母様に許された同年代、それも、少しだけ歳上の優しいお姉さんとの穏やかな時間。
それが私にとってどれだけ色鮮やかで、大きくて、眩いものだったか……それは、きっと他の誰にもわからないものなのでしょう。
確実に言えることは、彼女とのその時間がなければ私は十六歳であの日を迎えるまで生きてはいなかっただろうということと……
『アトリさんが、事故で死んだ……そんな、そんなの嘘ですわ……』
再会の約束が実現しなかった時の、命綱を切られて谷底に叩き戻されるような気分と、母から告げられた『彼女が死んだ』という言葉で胸に重くのしかかった絶望。
それらが、私の人生から希望を消し去るに十分だったということ。
私が『転生者』としてこの世界にいる、つまりあの世界では死者となって他界したというのも、それが遠因と呼ぶにはあまりに私の生きる気力を奪い過ぎていたというのは、やはりどうやっても否定できませんわ。
そして、その上で……
「ニャ、ニャハハ……あのー、キラリちゃん? シックスちゃん? これ、なにかのドッキリとかかニャ……?」
「いや、ホントごめんなさい! アトリさん、今日はピークドットの重鎮さんたちとの会議だって聞いてたからすぐに来れば鉢合わせする前に終わるかと思ったんだけど……予定より早く帰って来るのは予想外で……」
店番のエプロンを身に着けながら気まずそうに目を逸らすシックスさん。
あの顔からすると、アトリさんが従業員用の裏口ではなく店の表側から帰ってきたのであれば私と遭遇しないようにしていたのでしょうね。
つまり……
「アトリさん、知っての通りかとは思いますけど……私、ちょっと記憶が抜け落ちていますの」
「そ、そうニャ……」
「だから、もしかしたらアトリさんからしたら二度手間になってしまうかもしれないということを承知で、敢えて言わせてもらいますわ」
この様子だと、記憶が消える前の私とも極力接触を避けていた可能性が高そうですけども。
一度目だろうが二度目だろうが構わないので、どうしても言いたいことがありますわ。
「私の発表会の会場で『花火の絵』を見ましたわ……あれ、あなたの作品ですわよね。作者の名前は伏せてありましたけど」
「…………ニャ」
「……生きてましたのね。あの日、待ち合わせに来なかったどころか、その後何年待てども連絡一つなかったのに」
「………………ニャ……」
冷や汗をダラダラと流しながら目を逸らすアトリさん。
これを、見苦しい言い訳はせず、事実を事実として認める……という態度だと認めてあげるとして。
「アトリさん…………死にましたのね」
「…………ニャ?」
「この世界に来てしまっているということは、私と同じように死んだということでしょう? それくらいわかりますわ」
「ま、まあニャぁ……」
「あの海で相まみえてから気になっていましたの……アトリさん、あなたの『死因』はなんでしたの?」
「…………ニャ?」
「……『死因』、ですわ。死んだ原因ですわ。答えないということは死んだ理由も言えないくらい、何もわからないくらいにいきなり死んだとかそういうことですの?」
「いや……別に、そういうわけじゃなくてニャ……」
「なら言えるでしょう? ちなみに私自身の死因は、最初は心臓病かと思っていたけれど、最近過労死だったんじゃないかと思い始めていますの。はい、私は自分の死因を言いましたわよ。アトリさんは言えませんの?」
「……病死、『白血病』でニャ」
「……『白血病』、ですの? 随分と有名で……随分と重い病気でしたのね。私と会った頃にはそんな様子なかったと思いますけど」
「えっと、それに関しては……ワタシの家の仕事が、いわゆる家業みたいなものっていうのは変かもしれないけど、それがちょっと放射線系のやつとか扱うタイプのやつでニャ……恥ずかしい話、ちょっと実験中にドジって被爆しちゃってニャ……」
「………………」
「い、いや! そうじゃなくて! 夕子ちゃんに何の連絡も取らなかったのは、病気とかは全く関係なくて……本当は……ちょっと、事情があって……」
口籠りながら私の方を見るアトリさん。
その様子だけでわかりましたわ……まあ、あの絵でアトリさんが生きていたとわかってからそうだろうと思ってはいましたけども。
「夜神家からの、お母様からの圧力ですわね?」
「ニャ!? いや、ちが、わないけど……ワタシは、夕子ちゃんを見捨てたことで、『プロの芸術家』として……」
「私に連絡を取らない代わりに有名な画商や芸術の専門家に口利きでもされたんですの? それで、買収されたみたいで気まずくてこっちでも私を避けてたとか、そういう話?」
「…………知ってたニャ?」
「知りませんわよ。けれど、あの人ならそれくらいはやるでしょうし、そんなご褒美がどうの以前に圧力は圧力で酷いものだったのでしょう?」
「…………ニャ……」
……ああ、表情でわかりますわ。
私がこの人に関わったことでどれだけ迷惑をかけてしまったのか。
アトリさんは私にお母様の悪辣な所業を語ることを躊躇っているようですけど。
私にしてみれば『自分の母がそんなことをするとは思えない』とか『責任逃れに酷いことを言うな』とか、そんな反応をすることなんてあり得ませんわ。
だって……
「…………はぁぁ、よかったぁ……」
「ニャ……?」
「私、てっきりアトリさんは母に殺されてしまったのではないかと……ずっと、そう思ってましたのよ……でも、脅されてただけで、生きていましたのねぇ……」
だって、アトリさんは殺されたと本気で思っていたのだから。
それが、脅迫されて、つき返せないような貸しを押し付けられて連絡を取れなかっただけだとわかれば、母は思ったよりも良識的だったという感想しかありませんわ。
「えっ、夕子ちゃん……もしかして、お母さんがワタシのこと殺しちゃったと思ってたニャ? 何年も?」
「…………」
感極まりすぎてちょっと言葉を発する余裕がなくて首肯だけで答えると、アトリさんは目を丸くして尋ねてきましたわ。
「いや、さすがにいくらなんでも普通は一般人のお母さんが人を殺したなんてそうそう考えないと思うんだけどニャ。なんでそう思ったんニャ?」
「なんでって、お母様が……」
お母様が『アトリさんは死んだ』と言ったから。
母が『■■■■■■は死んだ』と言った時には、本当に……
「……お母様が……『おばあちゃんは死んだ』と、言った、時には……本当に……本当に……」
「夕子ちゃん……」
「だから、アトリさんも、お母様が殺したんだと……おばあちゃんの時と、同じように……あれ? それで、おそろしくて、私が頼った大事な人は、お母様に殺されてしまうから、友達なんて作っちゃいけないし誰にも頼ったり大事に思ったりしちゃいけないって……だから、だから私、ずっと、ずっと一人で生きるしかないって……ずっと……だからって……でも、おばあちゃんは『脳卒中』で……」
喋っている内に、頭の奥にバラバラに押し込まれていたものが整理され始めて、胸の奥から言葉にできないものが溢れてくる。
ちょっと考えれば疑問に思えたはずのことを、もっと早く考えていれば人生が変わっていたかもしれないことを、今の今まで一瞬たりとも考えてこなかったという残酷な事実が浮かび上がってくる。
これ以上は考えたくないのに、もう止まらない。
認めたくない、愚かしい、酷い、悔しい、時間を戻したい、捨ててきたものを返してほしい、死にたい、なんで私ばっかりこんな思いをしなきゃいけないの、辛い、寂しい。
感情に溺れる。
水面の向こう側の光が見えてしまったことで、自分がずっと沈んでいたことに不意に気付いてしまって、苦しみが一気に襲ってくる。
そうだ……私はずっと無意識で、心の奥で、『お母様がおばあちゃんを殺した』と思っていたんだ。
小学生の時の私には、『脳卒中』なんて難しい病名の意味なんてわからなくて、元気だった祖母がいきなり病気で倒れたなんて信じられなくて。
父がきっと帰ってくると言っていたから、祖母は必ず良くなると、『脳卒中』なんてそんな風邪みたいなものなのだと、死ぬことは絶対ない病気なのだと信じていた。
そして、祖母が死んだと、心が認められないまま、無意識だけでそれを理解したまま、お母様が私の逃げ込む場所だった祖母の部屋を片付けさせながら横顔に笑みを浮かべている姿を見て、お稽古から逃げたがる私に祖母がもういないことを突き付けてきて私は現実への理解を拒んだ。
それからも年に一度か二度、お母様が『祖母が如何に自分にだけ厳しくて意地悪だったか』を滾々と語る事がある度に……まるで自分が嫌っている相手は娘の私も同じように嫌うべきだと思っているのか、あるいは『おばあちゃん』が大好きだった私の心と『姑』が大嫌いだった自分の心の区別がついていないみたいに語られる話を……私には『犯行の動機』にしか聞こえないそれを聞く度に、私の心の奥の確信は深まっていって、私は自分の母親が祖母を殺した人殺しであるという認識から目を逸らすために、祖母の死そのものを認識することから逃げ続けた。
「お母様が、おばあちゃんを殺したと思ったから……アトリさんも同じように殺されてしまったと信じて……それで、私が友達なんて作ったらまたお母様に殺されてしまうと思ったから、誰とも仲良くなれなくて……それで、それで……ずっと、一人で生きるしかないって、それが、寂しくて、辛くて……だから、死んだ方が楽になれると思って、あの日まで、自分の身体が生きるのをやめてくれるように休まないで踊り続けて……それで……心臓を……誰にも、『助けて』って言えなかったから……そんなことをしたら、その人がお母様に殺されると思ってたから……」
ああ……あの時に感じた虚しさが痛みに変わる。
私は、祖母の死を心で理解しようとしなかった。
いつか帰ってきてくれると信じていたくて、誰から何を言われても『祖母はまだ生きてる』と無理やり自分を騙し続けて。
……そうでなければ、小学生だったあの頃から多少は大きくなって知識や常識が増えてから一度でも考えれば、きっとこうも考えられたはずなのに。
『高齢だった祖母が脳卒中でいきなり倒れて、そのまま回復せずに死んだのも、別に不思議なことではない』。
理性的に、ちゃんと意識的に祖母の死について考えることができていれば、アトリさんが言ったみたいに『いくらなんでも一般人のお母様が人を殺したなんて考えるのは普通じゃない』と思えたはずなのに。
私は一度もそうしなかったから、アトリさんもお母様が殺したのだと自然に信じてしまった。
だから、『お母様は私がお稽古の邪魔になる誰かと仲良くなったらその人を殺す』というルールが私の中に刻まれてしまって……私は、自分が死ぬまで孤独に生きなければいけないと確信して、絶望して、寂しすぎて、お母様の命令通りに舞わされ続けた先の過労死というこれ以上なく消極的な破滅を選んだ。
小学生の頃から無意識に続いていた幼稚な勘違い。
どこかで改めてやり直せるかもしれなかった人生の歪み。
それに、本当に冗談でも何でもなく、『死んでしまった後』の今になって気付いてしまった。
「うっ……ううっ……」
「夕子ちゃん……?」
「本当は……死にたくなんて……もっと、ちゃんと生きて……友達も、欲しくって……誰かに、助けてってずっと言いたかったのに、そうしたら、その人が殺されちゃうと思って、言えなかったのに……学校の先生にも、おまわりさんにも、お医者さんにも……助けてって、胸が苦しいって、お母様が怖くて、お稽古が辛くて、いつも疲れすぎて何も食べられなくて、ご飯もトイレでほとんど吐いちゃってて、本当に死にそうなんだって言えなくて……」
「…………本当に、ごめんね。手を離しちゃって、ずっと後悔してた」
ぎゅっと、優しく抱きしめられる。
その相手が誰かなんて、言うまでもない。
「夕子ちゃん……夕子ちゃんが本当に死ぬほど辛かったことなんて、ワタシたちみんな、疑ったりしないからね……なんたって、同じ『転生者』だから」
「ううっ……」
「転生者じゃなくても、今の夕子ちゃんの周りに『友達になっちゃいけない人』も、『助けてって言っちゃいけない人』も、一人だっていない。すぐには難しいかもしれないし、通り過ぎた『もしも』は拾い直せないかもしれないけど……これからは、違うからニャ。なにもかも、前の人生とは違っていいからニャ」
「……本当に……? また、前と同じように……」
ああ……怖い。
言葉にできないほど、想像もしたくないほど、怖くてたまらない。
今すぐに死んでしまいたいくらいに、心臓を止めてしまいたいくらいに、先のわからない人生という新しい道へ足を前へ進めるのが怖い。
けれど……
「夕子ちゃんの人生はもうとっくに、前と同じものなんかじゃなくなってるニャ……なんたって『転生者』なんだからニャ。『生まれ変わる』っていうのは、そういうことニャ」
今度は、私の心臓が止まることはなかった。
ドクンドクンと人生を怖がりながらも鼓動が全身の血管を震わせる。
あの日、あの舞台の上で頑張るのを諦めてしまった心臓の代わりに神様からもらった『新しい心臓』は、私が確かに生まれ変わったことを証明するように左胸の奥で強く脈打ち続けていた。
ちなみに、夕子さんのお婆さんは別に夕子さんだけに甘くて嫁には『嫌な姑ムーブ』をする意地悪婆さんだったというわけではなく、夕子さんのお母さんに『そろそろ大人としての自覚をちゃんと持て』と言い続けてくれる周囲で唯一の大人だったのですが、残念ながら夕子さんのお母さんはそういう態度を取ってくる人間がそれまでの人生にいなかったため、それを単なる『意地悪』だと認識していました。
しかし、それでもさすがに嫌ってはいても殺してまではいないので『お母様がおばあちゃんを殺した』というのは本当に夕子さんの思い込みです。
……まあ、だからといって『脳卒中』が『普通にそのまま死ぬ可能性がある病気』だと認識していなかった夕子さんの主観確率としては、『ほぼ100%の確信』で『そういうこと』だろうと思いながらそこから十年余りの日々を生活していたというのは変わりませんが。
ある意味、これも一つのモンティ・ホール問題みたいな話かもしれませんね。




