第12話 『友達100人計画』
side 夜神夕子
いつの間にか遠い思い出になってしまっていた、けれど私にとっては未だに鮮やかな記憶。
私がまだ幼稚園児くらいの頃、お母様は私にとっての父方の祖母……つまり、お母様にとっての『姑』にあたる祖母を子供の目から見てもわかるほどに苦手としていたのを憶えている。
私の父は夜神の家の生まれではなく、母との結婚で家に入った婿養子。
普通ならばその母親として一緒に夜神家に入った祖母は外様扱いされてもおかしくない立場だったけれど、祖母は違った。
そもそも、歴史や伝統はあっても時代の流れと共に衰退し続けていた夜神家を立て直したのは、祖母が厳しい時代を生きて一代で築いた資産だったというのもあるのだろうと思う。
父と母の結婚も恋愛結婚ではなく、その資産が目的の縁談からだった……そんな事情を除いても、祖母は時代の荒波に鍛えられた『強い人』で夜神家の中にあっても誰もが無視できない影響力と迫力を持っていた。
……ただ、その祖母の人生における一つの後悔が仕事に夢中で自分の息子に、つまりは私の父にその強さや自分の築いた資産を扱えるだけの器を培う経験をさせて来なかったこと。
私の記憶の中でも『弱そうな人』として印象に残ってしまっている気弱で怖がりな父の姿を思えば、祖母は過保護だったとも言えるのかもしれない。
……まあ、その性格に関して言えばしっかりと遺伝してしまっている私が批判するべきものではないとは思うけれども。
いわゆる女傑の祖母と、その祖母が積み上げたものを自分では受け取りきれず財産目当ての金欠名家の娘に婿入するしかなかった父。
きっと、そんな構図があの空気感の原因。
父をそんなふうに育ててしまった自覚があったからこそ、祖母は自身が健在の間は『姑』として息子の嫁である私の母に睨みを利かせていたようにも今なら思える。
きっと、お母様にとっては『怖い姑』だった。
けれど、私にとっては『優しいおばあちゃん』だった人。
あの頃の私にとっては、『祖母の膝枕』が世界一安心できる場所だった。
厳しい踊りの稽古を迫ってくるお母様から逃げたくなったら、いつも祖母の部屋に駆け込んでいた。
お母様の命令に逆らえない人も、母のヒステリーの標的になるのを恐れて従っていた夜神家の人たちも、祖母の部屋にだけは追ってこられなかった。
私だけが自由に出入りを許された安全地帯。
そこに逃げ込むと、祖母から『苦労をかけるね』とよく言われたけれど何故だかは教えてくれなかったのを憶えている。
……今にして思えば父と母の仲は明らかに円満ではなかったし、普通に物事が運べばどうやっても結婚まで関係を進められるような相性じゃなかった。
おそらく……父には自分の残す財産を扱いきれないと考えた祖母は、歴史とコネクションはあってもお金に困っていた夜神家との縁談を強引に進めさせたのではないかと思う。
そうでなければ、あの父がお母様のような人とも、その後ろにある夜神家とも、自分の意思で繋がるイメージができない。
逆に、祖母や周囲から強引に縁談を迫られれば嫌だと思っても嫌だと言えずにどこまでも流されてしまう姿は容易に想像できてしまうくらいには気弱な人だった。
そして……お母様の側も、そんな強引な縁談が必要な程度には気性難だった。
日本舞踊家としてはそれなりに有名で業界では大きな顔もできるけど、それをそのまま他の人間関係に持ってきても上手く行かない……そんな当たり前の、少し考えればわかりそうなことを一度も考えずに生きてきてしまったような、自分の知ってる世界以外の価値観を否定することを毎日の義務としているような、そういう『気高い人間』であり続けることを自分の存在意義と思い込んで生きてるような人。
家柄を考慮してもなお、お金目当ての男すら寄り付かなかった、そんな人。
そんな人が、自分の過去の失敗の『やり直し』の手段として常に私に意識を向けていた家。
部屋なんていくらでもあったのに十六歳で死ぬまで、一度も私個人の部屋というものを持てなかった家。
そんな空間で、祖母のいるあの部屋は私が唯一心から安心できる場所だった。
けれど……その場所は、ある日、突然に消えた。
……当時の幼い私には病名を聞いても理解できなかったけれど、原因は『ノーソッチュー』……つまり『脳卒中』、だったらしい。
なんの前触れもなく、そうなった。
夜中に騒ぎの気配がした次の日から、祖母が部屋からいなくなった。
そのまた次の日から、日本舞踊のお稽古に休みの曜日がなくなった。
幼い私には、何が起こっているのかほとんど理解できなかった。
ただ、祖母が病気になって入院したと言われて、治るまで帰ってこられないと告げられて……家の中での母の振る舞いが大きく変わって、私が当たり前に持っていたあらゆる『自由』が、母の思いつきのような、上手く行かない人生へのやつあたりのような一言で次々と消えていった。
泣きたかった。
泣きたいほど辛かったし、苦しかったし、怖かった。
けれど……一度そうやって泣いた時、お母様から『泣くこと』を禁止されて、その日から泣けなくなった……その日から、涙が出なくなった。
泣くな、笑うな、休むな、間違うな。
私の肉体は、人生は、お母様が一言怒鳴ればその通りに歪むのだと知った。
私にとって当たり前に許されていた一人の人間としての権利がいつ消えるかわからなくて、もしかしたら明日からは睡眠すら許されなくなるかもしれないと思いながら先の見えない未来に怯えて眠る日々だった。
それでも……いつか祖母があの部屋に帰ってきたら助けてくれると信じて。
きっと、それまでのガマンだと思って、それを希望にずっとずっと、耐えて、耐えて。
毎日のように父に祖母はいつ帰ってくるのかと問いかけて。
まだもう少しという言葉を何度も、何度も、何度も聞いて。
いつしか私は小学生になっていて。
そこから、さらにいくつか季節が過ぎていて。
ある日、私は『親戚の誰か』の葬儀に参列した。
何故か、父は見たことがないくらい大泣きしていて、私も棺の中を見せられて……私が初めて見るくらい、迫力も威厳もない『弱りきった親戚のおばあさん』に、何がなんだかわからないまま、『お別れの挨拶』をさせられて。
その日の夜。
父に『いつもと同じ質問』をしたら、泣きながら抱きしめられた。
その次の日。
母の命令で祖母の部屋が片付けられているのを見てから、何故だか私は父に質問するのをやめていた。
そして……その次の日から、十六歳で死んだあの日まで。
私は、毎日ガマンしながら母に言われるままにお稽古を続けた。
祖母が帰ってくるまでのガマン。
もう少し、もう少しだけガマンすれば、おばあちゃんが来て、助けてくれる。
もう少し、もう少し。
もう少しだけ頑張っていれば、また元気になって帰ってきてくれたおばあちゃんがお母様を叱りつけてくれて、またお休みの日も戻ってきて、自由も戻ってきて。
それまで頑張ったことを話せばきっと、ずっと頑張って偉いねって褒めてくれて、学校の話をすれば喜んでくれて。
またあの部屋で、あの膝枕に頭を預けて……もう、何も怖がらずに眠ることができるようになれて。
だから……早く帰ってきて、おばあちゃん。
「変な話ですけど……ほんのつい先程まで、あの葬儀で棺の中にいた人と祖母が私の中で繋がっていなかったんですの。あの『強い人』と、目の前の棺に収まった死に至るほど衰弱しきった人物が繋がっていなかった……あの人が死んでしまうなんて、考えたくもなかったかもしれませんけど」
訥々と、ポツポツと。
花も咲かない、面白みも共感も教訓もない昔話。
ある種の言い訳じみた、自分自身の歪みの根本を辿るだけの独白。
最初は泣きながらでお話にならないような言葉から始まったそれを根気強く黙って聞いてくれたのは、ねねさんに連れてこられた私を迎えて静かに話を促してくれた社長サマ。
その忍耐に甘えて、いつの間にか子供の姿から元の年齢に戻っていた私はどうにか年相応に落ち着いた口調まで回復した言葉で言い訳を、回顧を続けている。
「私の中では……前世で死んだ時に祖母は存命だったかと問われれば、きっと『最近は会っていなかったけどそのはずですわ』と答えていたと思います。けれど、今思えば、心のどこかではわかっていたのだと思いますわ。祖母がもう帰ってこないことは」
「…………」
「希望、だったんだと思います。もう少し、あと少しだけガマンすればいい、だから今日は頑張る、今日だけはなんとか頑張ってみて、おばあちゃんに辛くてもずっと頑張ってきたんだって本当のこととして言えるように、もしかしたら帰ってくるのは明日かもしれないんだから……そう思わないと、耐え続けることができなかった。けれど、心のどこかで祖母がもう帰ってこないことはわかっていたから……」
「……希望を抱いていたことすら、忘れたのですね」
「ええ……そうなのでしょうね。絶望した……というよりも、はっきりと絶望を認識することから逃げて、そんな日々を自分にとっての当たり前だと思い込もうとしたのですわね。そうして、だんだんといつか来る苦しい日々の終わりまでのガマンだと思って頑張っていたことも忘れて、いつまでガマンしていればいいかも何のために耐えていたのかもわからなくなって、自分がずっとガマンしていることすら認識できなくなって……そのまま死んだのですわね、私」
大人として、戦英プロのまとめ役としての仕事がある社長サマが忙しいだろうというのはわかってる。
そうでなくても、こんな個人的で山もオチもない暗いだけの話をする相手として相応しいのかはわからないけれど、彼女は私の相手という仕事を他人に回すことなく目の前に居座って、すべてを受け止めてくれた。
そして……やっと私が気持ちを吐き出しきって、冷静に話せるくらいに落ち着いた今。
いつものように、これだけ暗い話をされた直後としてはむしろ場違いというか空気が読めないようにも思えてしまうような変わらぬ笑みのまま、私の言葉の終わりを見定めて『会話』を始める。
「クックッ、それで小野倉さんを『おばあちゃん』と。小野倉さんにはCクラスでのトラブルの気配があったら一応の安全のために変身してから近付くように言ってありましたからね。夕子さんの目から一番『好印象』に映るのが『おばあちゃんを思い出させる雰囲気』だったということでしょうか」
……言うまでもなく、ろくに会話もできない状態だった私が話を受け止めてくれる相手と見込んで社長サマを選んだわけではありませんわ。
私に縋りつかれて慌てたねねさんが社長サマに相談して、そこからの流れで話すことになった……それだけの話。
私にとって、話す相手は誰でも良かった……話したことが、言葉にしたことが重要だった。
「…………我ながら、かなりお馬鹿なお話だと思いますわ。気付こうと思えば、理解しようと思えば、それこそいくらでも機会なんてあったはずなのに……あれから、今日まで。何年もあったはずなのに……」
それこそ、母が自分と世間の価値観の違いに対して『そう』であったように。
少し考えればわかるはずのことを、少しも考えずに生きてきて……その結果、何年もその歪みを前提に間違いを重ね続けて、取り返しのつかない結果に至ってしまった。
けれど、それを自覚できたということは、私はお母様よりも……それが自分自身への甘過ぎる評価だとしても、どうにか少しは先に進めたのかもしれないと今この瞬間は思えていますの。
こんなふうに前向きになれているような気分なのはきっと……ほんの一瞬の幻覚のようなものだとしても、『祖母との再会』を想わせてくれたねねさんのおかげなのでしょうね。
「社長サマには関係のないことなのに、時間をいただいてしまって申し訳ないと思いますわ……けれど、本当に余計なことをたくさん話したと思いますけど、私も誰かに話すことで頭の中を整理したかった……私自身、そうしなければ祖母の死という現実を十年経った今でもちゃんと認識できていなかったのですもの」
「余計なことなんて、一つもなかったと思いますよ。夕子さんが喋りたいと思ったこと……夕子さんが、打ち明けたいと思ってくれたことなら、全てが『必要』だった。私はそう思います」
「……まだ話し足りないと言っても?」
「ええ、むしろ十年の想いが今ので全てだとは思えないので、夕子さんがお疲れでなければもっとお聞かせください。私は夕子さんのことを知れて嬉しく思っていますから」
そこまでグイグイ来られると、こっちがちょっと身を引きたくなってしまいますけど。
けれど……ええ、ずっと誰かに言ってみたかったこと、聞いてほしかったこと、答えがほしかったことはありますわ。
この際だから……この人になら、言ってもいいかもしれないと思えてしまったから。
きっと、ここを逃したらもう二度と誰にも言えない気がしたから、勢いに任せて言ってしまうのだけれど……
「社長サマは……日本に生きていた頃、『日本舞踊』というものを、その発表会や公演を見たことはありますの? その道のプロと呼ばれる個人を、誰か一人でもご存じですの?」
「うーん……残念ながら、記憶にありませんねぇ。私自身、そういう芸術分野への興味が薄かったもので……稀に、テレビのチャンネルを変えるときに一瞬だけそれらしき画面を通過するくらいでしたかね」
「正直な人ですこと……けれど、ええ、それが『普通』ですわ。現代日本人で『日本舞踊』というものを真面目に正視しているのなんて、その道の関係者くらい。何をやっても身内事……たとえ、その狭い業界で『天才』と呼ばれようと、普通の人にとっては知らぬ世界の有名人という程度の話ですわ」
「…………ああ、なるほど。『一度きりの登竜門』ですか」
「……心を読まないでくださる? 話を端折りすぎですわ」
「あら、違いましたか? てっきり『そういう話』かと思ったのですが」
今の私の話だけで『そういう話』と思うというのはちょっと怖いのですけれど。
けれど、これなら話は早いですわね。
「社長サマ、貴女の考えている通り……日本舞踊には、日本舞踊家には業界で一流と認められるための『登竜門』となる発表会がありますの。日本舞踊というものをよく知らない人間にも認知され得る……いえ、『堂々と威張ることができる』という地位を確立するには、その発表会で実力を示すしかない……それも、芸能界に通じるような話題性のある『若き天才』としてプロの世界にエントリーするつもりなら、その発表会で歳上を追い抜いて優勝する必要がある。その『若き天才』と呼ばれる年齢を越えてから優勝しても話題にはならない……だって、大人が上手なのは当然ですもの」
「未熟で然るべき年齢であるからこその将来性への期待値測定……つまりは、『天性の才能』の証明儀式、というわけですね。発表会の規則としての年齢制限ではなく、それに対してさらに厳しい『若き天才』としてのデビューを果たすための実質的な年齢制限……夕子さんは、その年齢でその発表会における最高のパフォーマンスをするための教育を受けてきたと」
本当に話が早い。
だからこそ……話すのが、聞くのが怖いけれど。
この人なら、私が直視できなかった答えを、その核心をそのまま捉えてくれると信じて話を続ける。
「……母は、その『若き天才』になるはずだったそうですわ。生まれつきの才能と夜神家の教育が合わさって、そうなって当然の実力があって、本人もその未来を疑っていなかったと。けれど……上手く行かなかった原因は『季節外れのインフルエンザ』だったそうで」
「……ああ、なるほど。発表会の当日にいきなりと。それで『やり直し』ですか」
「ええ、お察しの通り。母はずっと思い描いていていた最高のデビューの筋書きを、頭の中にあった理想の人生計画の滑り出しを初めの一歩で踏み外し、『凡庸な日本舞踊家』として扱われて来たことに耐えられなかった。若い頃は圧倒的な才能の差で見下していたはずの同世代や業界外の部外者から、日本舞踊の世界では負けなしの『若き天才』だったはずのお母様からすれば敵にもならないはずの凡人たちから『同列』として扱われる日々に耐えきれなかった……『あの時の失敗さえなければ』と、何か嫌なことがある度に過去を変えたいと呪ったのでしょうね」
日本舞踊の発表会というのは基本的に一年に一度の定期開催。
どんなにその年の参加者のレベルが低かろうと、『優勝者』は毎年出る。
けれど、それでは目新しい話題にはならない……それで世間に知られる有名人になれるのなら、それこそオリンピック競技のように毎回その道の『英雄』がニュースになるのでしょう。
けれど、『日本舞踊家』はそうではないから。
日本舞踊の世界を知らない人にすら『特別な人間』として認められたければ、単なる優勝ではなくそこに付加価値が必要だった。
世間に注目されながらの連続優勝……その滑り出しを決める歳上を追い抜いての若年優勝、門外漢にも凄さが伝わる最年少記録の更新。
幼い頃から『天才』として夜神家の、そして日本舞踊の知名度向上を望む業界人たちの期待を受けてきた母の芸能界デビューを賭けた大作戦。
私と同じ年齢だった頃のお母様の人生の全てであったかもしれない未来の青写真。
それは、ただ『運が悪かった』としか言えない出来事でご破産になり、その後には『才能への自負心』と『承認への執着』を抱えた『元・天才』だけが残った。
「……まあ、私に言わせれば『若き天才』として晴れ晴れしくデビューしたところで所詮は伝統芸能の一派。登竜門の大会に最年少で優勝して話題になったところで、その後の人生全てが思いのままになったとは思いませんけども……母にとっては逃した『もしもの未来』はそれだけ眩しかったのでしょうね。悪いことがあれば、その全てを『あの失敗さえなければ』と思ってしまう程度には。だから、どうにかそれを取り戻そうとした……娘の私が『自分とは違う人間』なのだという、当たり前の事実すら認めようとせずに」
私が厳しく日本舞踊の稽古を受けてきたというのを知られると、よく勘違いされてしまうけれど。
私の場合に限って言えば、この手の物語によくある『才能があったからこそ、それを世に出さないわけにはいかないと厳しくした』なんて話じゃなかった。
母は本当は世間からも認められるべき天才だったとしても、私はそうじゃなかった……そんな都合よく才能が受け継がれるなんてことはない。
けれど、お母様は私を自分の『やり直し』としてしか見ていなくて、『自分にはできること』が私にはできないという場面を見るたびに、その現実を理解できないみたいにヒステリックに喚いて、怒鳴って、私にもっと真面目にやれと脅しつけて。
現実と自分の中の世界の不整合をどうにかしようとして、天才でもなんでもない私を『天才』に仕立て上げようとして、私を稽古漬けにした。
そうすれば、自分の囚われている『失敗した人生』という悪夢から目覚められると信じるみたいに。
けれど……
「それは……」
「……遠慮なく、言ってくださいまし。あなたなら、その『答え』を言葉にしてくれると思ったから話したのですわよ?」
「……『お受験ママ』ですね。それも、度が過ぎて子供を過労死させるレベルの」
「……ええ、それが聞きたかった……他人から見ても同じ答えが出ることを確かめたかったんですの」
そう……『度が過ぎたお受験ママ』。
それが、直視するのが怖かった私の苦しみの核心。
こんな言葉にしてしまえば陳腐でありふれている問題だとわかってしまうからこそ、『そんなもの』に人生を台無しにされたと認めざるを得なかったからこそ自分では言えなかった。
夜神家が日本舞踊の名家だから。
家には歴史があって、踊りの稽古は伝統を引き継ぐために必要なことだから。
そのための束縛や教育が厳しくても、それは家の事情が絡んでいて他人が口を出せることじゃないから。
そうやって、みんなが目を逸らした。
そうやって、誰もが匙を投げて逃げた。
そうやって、子供を守ってくれるはずの大人たちが揃いも揃って思考停止した。
夜神家の事情、お金持ちの家に生まれた代償、伝統芸能の担い手としての義務や責務、努力すべき立場。
……違う。全然違う。
そんな話をしてほしかったわけじゃない。
そんな話じゃなくて、そんな事情とか責任の話じゃなくて、恵まれた生まれの人間の贅沢な悩みじゃなくて。
私の人生は無駄に使い潰された。
文字通り、死ぬほど過剰に酷使されて、当然のように死んだ。
問題の本質はそこだけで……本当にただ、それだけの話だった。
普通の人ならきっと、高校とか大学とかの受験の話だったのが、日本舞踊の発表会だったというだけで。
野球の甲子園やオリンピック選手みたいに、途中の段階で世間に認められる機会がない分野だから、『競技人口』が少ないから、わかりやすく筋を痛めたり骨を折ったりするような激しい運動じゃなかったから。
どれだけ努力するのが適量で、どれだけやり過ぎたら人が死ぬのか誰も知らない分野だったから、母を止めてくれる前例がなかったから。
母は、ゲームをやり続けていれば画面の中のキャラクターのレベルが上がっていくみたいに子供にさせる日本舞踊の練習も『やらせればやらせるほど上手くなるはずだ』と単純に考えていたけれど、現実はそんな母の頭の外側にあったというだけで。
世界のことが全部わかっているような顔をして全てを仕切っていた母が、夜神家のブランドありきで日本舞踊の講師までしていた母が、実は単に自分が踊るのは上手いだけの天才で他人を育てる才能は全くなくて、ただ『自分と全く同じように動くように厳しく言いつける』というやり方しかわからなかったというだけで。
母親が日本舞踊以外の分野だと常識的なことすら知らない人だったというだけ……殊更『子育て』については素人以下だったというだけで。
順当に、当たり前に、疲労を蓄積した私の心身は倒壊死した……倒れて、壊れて、死んだ。
『大人に比べて傷の治りが速い』とよく言われる子供でも、車に轢かれて五体が四散すれば千切れ飛んだ肉片からの自己再生なんてできないように。
決して激しい肉体労働ではないキーボードを叩くだけの仕事でだって、長く続いたデスクワークの末に糸が切れたように過労死する大人もいるように。
間違いなく健康な肉体に生まれても、ボールを投げ続けただけで肩が一生上がらなくなる高校球児もいるように。
現実の人体に、都合の良いファンタジーはない。
性質上『見栄え』が良いというだけで……例えば、甲子園の選手なら肩の痛みに耐えながら顔を顰めながらボールを投げることも許されるけれど、日本舞踊はそうでないというだけで。
人前で見苦しい苦痛の表情を浮かべたりすることもできないだけで。
『舞踊』の世界でだって、『芸能』の分野でだって、無理を続ければ人は死ぬ。
これは、本当にただそれだけのお話。
母の失敗した年齢で一発合格することだけを考えて教育を限界まで詰め込んだ結果、私の心身がそれに耐えられなくて『過労死』したというだけの単純なお話。
これが、日本舞踊の話ではなかったら、他の誰でも経験するようなスポーツや単なる受験の話だったなら。
きっと、誰かが見かねて止めてくれていた……『そんなことにそこまでする価値はない』と言ってくれた。
そうしたらきっと、『度が過ぎたお受験ママ』なんて問題は世の中にありふれているから、相談できる場所もあった。
ただ、その方向性が『受験』から『日本舞踊』にすり替わっただけで、周りの人々が『伝統芸能っていうのはそういう世界なのか』と感心して、知ったかぶって、見逃して、こうなった。
周りの誰もが『住む世界が違うのだろう』という所で思考を止めてしまって、もっと単純な『どんなに住む世界が違おうと人間の身体はみんな同じように疲れるし、無理なことを続ければ壊れる』という事実を考えてくれなかった。
「……あんまりですわ……私が、何をしたっていうんですの……『日本舞踊』でさえなければ、『夜神家』でさえなければ、きっと……きっと……」
あるいは、もっと早くに気付いて、言葉にできていれば。
問題の核心がそういうことだと、『それだけの話』だということを直視するのが、それを自分の言葉で他人に説明できていればきっと私の人生は違っていたと認めることが怖かった。
「……夕子さん」
「…………なんですの……?」
「お疲れ様でした」
唐突に、そう言われた。
脈絡なく、ありふれた言葉で労われた。
ここまで話したことに? それとも、別の何かに?
「……もしかして、私、クビにでもされますの? こんな馬鹿な転生者なんて抱えていられないと見限られましたの?」
「クックッ。出来の悪い子ほど可愛いとも言いますが……確かに、夕子さんについての認識は修正の必要性を感じています。夕子さんを『いつもちゃんと頑張れる子』として頼るのは危う過ぎるらしい……けれど、それはそれとして夕子さんは戦英プロの一員です。クビになんてしないしさせませんよ」
「ならば……なんの『お疲れ様』ですの?」
「ここまで歩いて来たこと、そのくたびれた足や酷く染み付いた渇き、そして今にも落ちそうな重い瞼に」
「……意味がわかりませんわ」
「『戦後英雄プロダクションへようこそ。ここが、あなたの旅の宿です。ゆっくりこれまでの旅の疲れを癒やしてください』……そういう意味です」
まるで、旅館の出迎えのように胸に手を当てて恭しく頭を下げる社長サマ。
その言葉を聞いた途端に……どっ、と全身が重くなって、ずっと前から座っていたはずのソファーに自分の体重が『落ちる』のを感じましたわ。
それに、なんだか目頭が熱くなる感覚がして……
「……えっ、あれ……は……? なに、しましたの……?」
「特別なことはなにも。ただ、改めて確認しただけです……ここは、もう夜神家も、あなたの母親も、誰も追ってこられない遠い旅路の先にある場所なのだと。あなたは、どんな道筋であれ自分の足でここまでやってきたのだと」
「なんですの……それ……そんなこと、今更……わかっていた、はずなのに……もう、お母様に何かを取られることも、なにもないことくらい……わかってた、はずなのに……なんで、今になって……」
まるで、日本にあるあの家からここまでずっと走って逃げて来たような、ありえない感情。
砂漠の中を何回も何回も振り返って、いるはずもないお母様の姿がいつ背後に立っているかわからないと怯えながらひた走って来たかのような心身の疲労感。
そして……その先で、オアシスに建つ館に暖かく迎え入れてもらえたかのような奇跡の眩しさ。
一度に感じ取るには大きすぎるそれに、潰れそうな心地だった。
少し違うかもしれないけれど……『満たされ過ぎて死にそうな気分』だなんて、そんな感覚を自分が知ることになるだなんて、思ってなくて。
「…………しばらくは、さっきの言葉、絶対に使わないでくださいまし……いま、二発目が来たら、私は胸が潰れて死にます」
「あ、はい……この感じだと、夕子さんは認知できる安心感の許容量を少しずつ広げていくことから始めて行ったほうがいいかもしれませんね……」
ああ、全身が濡れきった着物を何枚も何枚も重ねられているみたいに重い。
それも、今着せられたのではなくて、何年も着せられ続けていたものに今になって気付かされたみたいに重みが全身に馴染みきってしまっていて、貼り付いて、絡みきってしまっていて、簡単には脱げそうにない。
一瞬で、こんな言葉一つで潰れて死にそうになるなんて、まるで呪いみたい。
でもきっと……『お疲れ様』なんて普通の人なら聞き流してしまうようなありふれた言葉で、それでこんな反応をしてしまう私の方がおかしい。
この感覚自体がその証明。
私が潰れかけているのも、そうならないように治していかなければいけないこと……私が無自覚に背負っていた余計な重荷を降ろしていかなければいけないのでしょう。
けれど……その重さを認識できるようになったことをどこか心地良くも感じながら、息を整えて言葉を紡ぐ。
「私は……歪んだ育てられ方を、歪んだ育ち方をしてしまった人間だと思いますわ」
「…………」
金属だって、樹木だって。
長い間、あまりに重いものを背負わされていれば、歪んでしまう。
その重荷を後から退けたとしても、歪みはそう簡単に元に戻らない。
人間だって、人生だって、きっとそうなのだろうと私は思ってしまう。
けれど……
「けれど……私の記憶にはないけれど、蓬さんたちはみんな、私のことを『友達』として扱ってくれていますの。そうしてくれる関係が確かに感じられますの」
「…………ええ、そうですね」
「……昨日、ロバートさんのお墓参りに行きましたわ。ロバートさんのお墓はレイモンドさんという方のお墓と一緒にあって、レイモンドさんはトマルさんにとっては父親のような存在で、シックスさんにとっては友達だったそうですわ」
これも独白のようなもの。
脈絡が不十分なのは自覚した上で、また自分の頭を整理するために言葉を声にする。
「私、泣けませんでした……シックスさんやトマルさんのようには、何かを感じられなかった。あそこには確かに『何か』の繋がりが絡み合うほど満ちていて、抱きしめられすらしたのに……私の心は、その絡み合った何かの外側にいた」
自分がそこにいることが場違いにしか思えなかった。
泣けなかった、どうしても『他人のお墓』としか思えなかった。
きっと、私の中では『友達』になれなかった人たちだから。
「今の私もきっと、死んだら誰にも泣いてもらえないと思いますわ」
「…………かも、しれませんね」
「……『そんなことはない』、とは言わないんですのね?」
「言ってほしいなら言いますが?」
「いいえ……そうですわね。『夜神夕子』はきっと、泣いてもらえると思いますの。けれど、それは私ではなく記憶喪失になる前の、皆さんと友達になれた私ですの……きっと、今の私はただ『最後に少し記憶を失っていて、少しおかしくなっていて、自分たちのこともわからなくなってしまっていた可哀想な時期があった』と思われるだけ。『本当の夜神夕子』を取り戻せずそのまま失ったという涙が混ざるだけ。それは……きっと、『私』が友達になったというのとは違う意味での涙ですわ」
「…………」
「社長サマ、私……今の私は、どうやったら友達が作れるかわかりませんの」
「……そうですか」
「けれど……やっぱり、皆さんが私を友達だと思ってくれているように私も皆さんとちゃんと友達になりたい。きっと、私はそうすることでようやく前世とは違う生き方ができるように……本当に『生まれ変わる』ことができる気がしますの。忘れてしまったとしても、一度できたのなら、それならできるはずだと信じて少し頑張れる気がしますの」
「…………そうですか」
淡白な返事。
私の決意を待つようなその反応に、呼吸を整える。
唾を飲み込み、空気を深く吸って、言葉を発する。
「友達を作りたい……けれど、私には知恵も経験もありません。だから、私がどうしたらいいか、教えてください」
懇願、嘆願、あるいは相談なのだろうか。
自分でも正確な表現はわからない。
これで社長サマが当たり障りのないアドバイスを返してきたら失望したり絶望したりするかもしれないし、あるいは思春期の子供から大人へのSOSへの返事なんてそんなものかと納得してしまうかもしれない。
自分自身、私の放った『願いの重み』がどのくらいかわからないまま投げている自覚がある。
これはきっと、無茶振りの類いだ。
目の前の相手なら、目茶苦茶なキラーパスかデッドボールかもしれないこれをちゃんとキャッチしてくれるかもしれない、そんな淡い期待と無責任なワガママを、大人の懐の深さを妄信して思いきって投げつけている。
それに対して、社長サマは……余裕を見せるように、小さく笑ってみせた。
「クックッ……役得、なんですかね、こういう重みを受け止めさせてもらえるのは」
「…………」
「ちなみに、お聞きしても? どうして私ならそういった相談に応えられると?」
「……生前、ロバートさんが言っていましたから」
「おや、あの人からの紹介ですか。それはまた……ちなみに、ロバートさんは具体的にはなんと?」
「……『第二の人生を希望に溢れた素晴らしいものにしたいと願うのなら、彼と言葉を交わしてみるのもよいかもしれませんぞ』と」
「……クックッ、なるほどなるほど。そう言っておけば無気力な絶望に耽溺していたい夕子さんは私と言葉を交わすのを避けて問答無用で応戦してくれるだろうと。それと同時に……いやはや、なんだかんだで夕子さんのことは孫娘のように見ていたというのは本当だったのかもしれませんね。こんなふうに仕事を投げられては応えないわけにもいきません」
そう言うと、髪の毛を腕のように伸ばして机の引き出しから一冊のノートを手にする社長サマ。
彼女はノートをパラパラと捲って、それがまだ何も書かれていない新品だと確認してからペンを手に取りました。
「ざっと100ページくらいはありますかね……ゼットさん、これから書く文章を『夕子さん用』に直して全てのページへ転写してください。それと、表紙のタイトルを……そうですね、こうしましょうか」
まるで、機械のように精密に動き始める社長サマの手。
私の『後遺症』で読みづらくなるはずの文字をその症状の影響も込みで読みやすくなるように修正してくれた文章。
その表紙のタイトルは……『友達100人計画』。
それぞれのページには、大きく間の行を空けて四つの質問が書かれていた。
『①その人の名前は?
②一緒に何をしたことがある人?
③他人の時は知らなかったことは?
④その人と交換したものは?』
「よっと……ページ数はぴったりでしたか。ありがとうございます、ゼットさん。さて、お待たせしました、夕子さん。これで100ページあるはずです。そのノートを埋めてみることから始めてみるのはどうでしょうか?」
「このノートを……この四つの質問を埋めていけば、その人と『友達』になれるということですの? 『友達になる』というのは、そういうことなんですの?」
私の縋るような質問に対して、社長サマは微笑みながら首を横に振って、こう答えた。
「いいえ、それはあなた次第……そも、『友達』に厳密な定義はありませんよ。その上で、これは私の持論ではありますが……私は、それぞれの人の中に『この人のためならこれくらいのことまではできる』という線引きがあるのだと思っています。そして、それができる相手を『友達』と呼ぶ、そのラインを各々が自己定義している。だから人によって定義が違うんです」
「……ごめんなさい、言っている意味がよくわかりませんわ」
「そうですねぇ……たとえば、夕子さんのさっきの話なら『この人が死んだら自分は泣くだろう』みたいな線引きですかね。ちなみに私の場合は、そうですねぇ……『彼、あるいは彼女の人生を救えるかどうかの瀬戸際なら、寿命五年くらいは使っても仕方ないと思える』くらいですかね」
「寿命五年……それが『友達』の定義だとするとちょっと重すぎる気がしますわ」
「クックッ、そう感じるならもう少し軽い所に線を引けばいいだけの話です。まあ、要するに『友達』が『一定以上深い仲』に対して使う表現なのであれば、仲を深める努力とその線引きになる閾値を定義すればなんとでもなるでしょう」
「それで、このノートですの?」
「ええ、『相手を個人として認識する』『その人と自分の中の歴史に関連性を持たせる』『相手について自分の描いた虚像との差異を見つけて実像を知る』『相互作用を自覚する』。とりあえず、この四つだけでも埋めてみれば『赤の他人』とは思えなくなるでしょう?」
そう言って、社長サマは少し考えてから、悪戯っぽく微笑んでみせた。
「そうですね……せっかくですから、最初のページを開いてください。あ、このペンをどうぞ」
言われた通りにページを開いてペンを握る。
すると、社長サマはペンを渡した流れでそのまま私の耳元に唇を近付けて……
「私、実は夕子さんのこと、とっても美味しそうで食べたいって思っちゃってたりしてます。今、この時も……さっきの表情なんか、とっても唆られちゃいました」
ドキリとした。
その動揺と硬直で動けない私の額に、『チュッ』と軽いキスの音がした。
「クックッ、ノートのお返しは今の味見の一口ということにしておきましょうかね」
「あ、えっ……?」
「チュートリアルというやつです。あ、今のは別にキスの『チュー』とかけたわけではありませんが」
「え、あの、私のこと、食べたいって、美味しそうって、え?」
「クックッ、安心してください。大事なお友達をそうそう簡単に食べちゃうなんて、もったいないことしませんから。それとも、夕子さんって私のお友達じゃないんでしょうか? ノートにも書いてくれないみたいですし。それなら……」
「か、書きますわ! 今すぐ書きますわ!」
口元を隠してクスクスと笑う社長サマの目の前で、最初のページをめくって埋める。
慌ただしく始まった、私の新しい人生の第一歩として。
『①その人の名前は?
▷社長サマ(狂信者さん)。
②一緒に何をしたことがある人?
▷私が『友達を作りたい』という相談をした相手。
③他人の時は知らなかったことは?
▷実は私のことを『美味しそう』と思っているらしい。
④その人と交換したものは?
▷「味見のキス」と「友達100人計画のノート」』
……夕子さんのお母さんのモチベーションにどうしても共感できないという方は、『若き天才日本舞踊家』の部分を『トップアイドル』に置き換えるとピンと来るやも。
お母さんの方もお母さんの方でテレビ画面の向こうのキラキラに憧れながら『本当にやりたいこと』をさせてもらえなくて日本舞踊してた人ですので。
(まあ、それでいろいろ過ぎた後で周りの大人達が自分達のしてた事に気付いて『これからはできるだけ好きに生きさせてあげよう』し過ぎた結果が夕子さんのお母様なわけですが)




