第31話:サラリーマン、退職届を出す!
クラーケン・ロードとの死闘から一夜明け、田中 学は、重い疲労感と共に自宅のベッドで目を覚ました。全身の筋肉が軋み、頭の奥には因果固定の強引な発動による微かな頭痛が残っていた。しかし、それ以上に、未知の深海の主を打ち破ったという達成感と、手に残るクラーケンの魔力的な感触が、学の心を満たしていた。
「まさか、ここまでとはな……」
ぼんやりとステータスボードを呼び出す。MPゲージはまだ回復途中だが、HPは全快していた。そして、インベントリに目をやった時、学は改めて自身の「運」がもたらした恩恵の大きさに息を呑んだ。
【クラーケンの魔眼】――その詳細を鑑定すると、高ランクの魔道具の素材となり得ることを示唆している。他にも【深海の秘宝の地図の断片】という、どこに繋がるのかも分からないが、価値がありそうな特殊アイテムも手に入っていた。
学は試しに、いくつかの素材を選び、冒険者支援センターの買取価格をシミュレートしてみた。数字が跳ね上がる。その合計額は、平凡なサラリーマンだった頃の月収を、いや、年収すらも遥かに凌駕する額だった。
「これは……もう、会社に行く必要はないな」
かつては安定した生活の象徴だったサラリーマンという肩書きが、今や自身の成長を阻む足枷のように感じられた。ダンジョンで命を賭して稼ぐ富は、社会の常識を遥かに超えていたのだ。そして、東京湾岸で感じ取った異変、神が語った「いずれ来るであろう高次元の脅威」
――これらを乗り越えるためにはさらにチュートリアルダンジョンの攻略を加速させ、成長する必要があるだろう。
翌朝、学は慣れ親しんだはずの通勤経路を、しかしこれまでとは全く異なる感情で歩いていた。ネクタイを締め、スーツを着ていても、もはや自分は「向こう側」の人間なのだと、奇妙な疎外感を覚える。会社の入り口をくぐると、部署のフロアはいつもと変わらない喧騒に包まれていた。しかし、社員たちの顔には、テレビで報じられるダンジョンの話題や、東京湾の異変に関する不安の影が色濃く差しているように見えた。
「あれ、田中じゃないか。珍しいな、こんな朝早くに」
声をかけてきたのは、かつての同僚である山田太郎だった。彼は心配そうな顔で学を見ている。
「なんだ、お前も有給か? 俺もさ、最近どうにも気が休まらなくてな。この世界、本当にどうなっちまうんだろうな」
学は曖昧に笑い、山田に別れを告げた。彼の求める「平凡な日常」は、もはや戻らない。そして、その日常を守るために、自分は行動しなければならないのだ。
学は足早に上司の元へ向かった。そして、淡々と、しかし毅然とした声で、退職の意を伝えた。上司は驚き、引き止めようとしたが、学の揺るぎない決意の前に、最終的にはその申し出を受け入れるしかなかった。
「……そうですか。学くんが決めたことなら、止めはしません。だが、後悔のないようにな」
会社のビルを出る。東京の空は、いつもと変わらず薄暗く、しかし学の心は驚くほど晴れやかだった。これで、自分は完全に自由だ。本格的に攻略を加速させられる。
自宅に戻ると、プニがプルプルと体を揺らして学を出迎えた 。
「プル!」
学はプニを優しく抱き上げ、リビングのソファに腰を下ろした。そして、妹の明日香に連絡を入れることにした。
「もしもし、明日香か? 今、少し話せるか?」
電話口の向こうから、部活動帰りらしい明日香の明るい声が聞こえる。学は深呼吸し、自分の決意を妹に伝えることにした。
「実はな、会社、辞めることにしたんだ」
明日香は一瞬、言葉を失ったようだった。沈黙の後、彼女の声は不安と心配で震えていた。
「え…お兄ちゃん、本気なの? 」
学は明日香の不安を和らげるように、しかし真剣な声で続けた。
「この世界で生き抜くには、俺の力をもっと本気で磨く必要がある。それに、東京湾の異変も…もう、普通のサラリーマンでいられるような状況じゃないんだ。だから、俺は冒険者として、この世界で生きていく」
明日香はまだ納得いかない様子だったが、学の瞳に宿る決意の光に、やがて何も言えなくなった。
「…わかった。お兄ちゃんが決めたことなら…。でも、無理はしないでね。心配だから」
その声には、兄を案じる気持ちと共に、彼の決意を理解しようとする妹の優しさが滲んでいた。
学は電話を切った後、プニを抱きしめた。これで、本当に後戻りはできない。平凡なサラリーマン・田中 学は死んだ。ここからは、運命と因果を切り開く冒険者「名無し」として、新たな人生を歩むのだ。
「よし、プニ。準備はいいか? 次は、灼熱の階層だ」
プニは小さく「プルル!」と鳴き、学の言葉に力強く応えた。チュートリアルタワー8階層、灼熱の溶岩地帯が、彼らを待ち受けている。
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