第30話:深海の激流、因果の代償
第7階層、深海の暗闇。マーマンズブーツを履いた田中 学は、底知れない水圧にも物ともせず、相棒プニと共に静かにその水中迷宮を進んでいた。彼の『魔力感知(微)』は、この広大な空間に満ちる淀んだ魔力の流れ、そしてその奥底に潜む巨大な存在を確かに捉えていた。それは、東京湾岸で感じた不穏な波動と酷似しており、この深海の試練が、単なるダンジョン攻略に留まらない、より大きな「異界からの侵略」の予兆であることを学に再認識させる。
「クラーケン・ロード……ここがお前の縄張りか」
学は、頭の中で幾度となく繰り返した仮想戦闘シミュレーションを呼び起こす。深海の王者、その圧倒的な攻撃パターンと、それに伴う極度の消耗戦が想定される。
突如、目の前の海底洞窟が大きく揺らぎ、巨大な触手が暗闇から飛び出した。伝説の巨大烏賊、クラーケン・ロードの出現だった。
「プニ、行くぞ!」
学は迷わず『倍々サイコロ』を発動、出目を「敏捷」に全振りした。瞬間、全身に奔流する敏捷の強化に、彼の体はまるで水中に溶け込んだかのように、信じられないほどの速度で触手の猛攻を躱していく。強化された『シャドウダガー』が水流を切り裂き、クラーケンの肉へと食い込む。
プニもまた、学の意図に呼応するように躍動する。『液体化』で触手の間をすり抜け、クラーケンの巨大な目に向かって粘着性の体液を浴びせる。その間に、『魔力感知(プニ版)』で敵の魔力の流れを精密に把握し、その情報を学へと伝える。学はプニからの情報を受け、クラーケンの次の動きを予測し、攻撃の起点となる場所に照準を合わせた 。
だが、クラーケン・ロードはそれだけでは終わらない。全身から漆黒の墨を吐き出し、視界を奪う幻惑攻撃を仕掛けてきた。深海の闇がさらに深まり、方向感覚が麻痺する。しかし、学は冷静だった。ギルドでの訓練で習得した『精神集中補助』スキルを使い、意識的に集中力を高める。すると、墨で霞む視界の中に、一瞬だけ進むべき方向が淡く光って見えた。それは、自身の『因果固定』が働き、彼にとって都合の良い「道筋」を示したのだ。
激しい攻防が続く中、学は自身のMPゲージが急速に減少していることに気づいた。特に、クラーケン・ロードの幻惑攻撃を何度も『因果固定』で回避した際、その消費量は顕著だった。
「やはり……この力には、明確な対価がある」
『上限突破』、そして『賢者の腕輪』によるMP回復がなければ、とっくに戦線を維持できていなかったであろう。
そして、最大の危機が訪れる。クラーケン・ロードがその巨体を震わせ、高圧水流ブレスを放った。回避は不可能。致命的な一撃が迫る。
「くそっ……!」
学は、脳裏をよぎる明日香や街の人々の顔を思い浮かべた。ここであきらめるわけにはいかない。彼は全身の意識を一点に集中し、『因果固定』を意図的に、かつ極限まで精密に発動させる。
「クラーケンのブレスの軌道が、海底の微細な地形変動によって、致命的な一撃となる直前で僅かにズレる。そして、その一瞬の隙に、プニの酸と俺のシャドウダガーによる連撃が、最も有効な弱点に集中する!」
世界の理そのものを捻じ曲げようとするような強引な因果固定は、学に激しい頭痛と精神的な疲弊をもたらした。まるで、世界の根源的な法則が、その強引な介入に抵抗しているかのようだ。しかし、彼の強い意志が、その反発を押しとどめる。
轟音と共に水流ブレスが炸裂し、その直後、クラーケン・ロードは断末魔の叫びと共に、その巨体を海底に沈めた。
勝利。だが、学は激しい疲労困憊に陥っていた。これが、因果律に深く干渉した代償か。
クラーケン・ロードの残骸から、特殊な素材と、古びた石板がドロップされた。プニはクラーケン・ロードの魔素を吸収し、その体内で微かな魔力コアが形成され始める兆候を見せた。
「まだ、これは始まりに過ぎない……」
学は深海の暗闇の中で、疲労困憊の体で呟いた。チュートリアルタワーのボスを倒した達成感と、東京湾の異変、そして「異界からの侵略」という真の脅威への不安が入り混じる。この戦いで、彼自身の『運』と『因果固定』の力が、世界の法則と深く結びついていることを改めて実感した。
その時、学のスマートフォンから緊急速報を知らせるアラームがが流れた。
<東京湾岸エリアにおける「空間歪曲現象」、観測史上最大規模に拡大。政府、厳重な警戒を呼びかけ。これまでの『自然現象』説を完全に否定>
それは、学が予感していた「真の戦い」が、いよいよ現実のものとなりつつあることを告げていた。
「俺は、もっと強くならなきゃいけない。一人じゃない、プニと共に……」
学の視線は、遠く、暗闇の海溝の先に広がる、不気味なほど静まり返った都市の闇へと向けられていた。来るべきは、チュートリアルではない。あれは、異界からの……。
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