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第8話:収穫の喜びと、迫る黒い爪

1. 奇跡の大地、最初の実り


工房『再生の枝』の裏手に広がる小さな空き地は、数週間前までの荒涼とした姿が嘘のように、緑の生命力で満ち溢れていた。エミリアが心血を注いで改良した土壌から、蒔かれた種は見事に芽吹き、力強く成長していたのだ。特に、丸々と太ったカブの白い根が、黒々とした土の間から覗いている様は、煤煙地区の住民たちにとって、まさに「奇跡」と呼ぶにふさわしい光景だった。


「すげぇ…本当にカブができたぞ!」

「見てみなよ、このハーブ! いい匂いだ!」

「こんな痩せた土地で、本当に作物が育つなんて…!」


その日、エミリアと、サラをはじめとする菜園作りに協力してくれた住民たちは、期待と興奮に胸を膨らませながら、共同菜園の前に集まっていた。待ちに待った、最初の収穫の日だ。子供たちも、学校の遠足でもあるかのように、朝からそわそわと落ち着かない様子で、菜園の周りを走り回っている。フィンに至っては、自分が一番乗りでカブを引っこ抜くのだと、息巻いていた。


エミリアは、集まった人々を見渡し、穏やかな笑みを浮かべた。ここに至るまで、決して平坦な道のりではなかった。土壌改良の失敗、ジャック側の陰湿な妨害、住民たちの不安と動揺…。それでも、諦めずに種を蒔き、水をやり、草をむしり、丹精込めて世話を続けた結果が、今、目の前にある。

「皆さん、今日まで本当にありがとうございました」エミリアは、感謝の気持ちを込めて言った。「皆さんの協力がなければ、この畑は生まれませんでした。さあ、私たちの手で育てた、最初の恵みを収穫しましょう!」


「「「おおーっ!!」」」

住民たちから、歓声が上がる。皆、くわやスコップ(これもギブソン親方が古いのを修理してくれたものだ)を手に、畑へと入っていく。

「そーれ、抜くぞー!」

フィンが一番に、立派なカブの葉を掴み、力いっぱい引っ張る。スポン!と小気味よい音を立てて、土の中から現れたのは、子供の頭ほどもある、見事に太ったカブだった。

「やったー! でっけぇのが獲れたぞ!」

フィンは、泥まみれのカブを高々と掲げ、満面の笑みを浮かべた。それを見た他の子供たちも、負けじとカブを引き抜き始める。大人たちも、ハーブを丁寧に摘み取ったり、まだ小さいが育ち始めているジャガイモの様子を確認したりしながら、収穫の喜びに浸っていた。


その光景は、貧しく、常に不安と隣り合わせの煤煙地区の日常の中では、あまりにも眩しく、希望に満ちたものだった。誰もが笑顔で、土に触れ、自分たちの手で育てた作物を手にしている。それは、単なる食料の収穫以上の意味を持っていた。自分たちの力で、この見捨てられた土地からでも、確かな価値を生み出すことができるのだという、自信と誇りの回復。それこそが、エミリアが目指した「再生」の一つの形だった。


収穫作業が一段落すると、サラがパンパンと手を叩いて皆を集めた。

「さあさあ、みんな! せっかくの初収穫だよ! この場で、ささやかな『収穫祭』を開こうじゃないか!」

サラの提案に、皆、大賛成だった。女性たちは、収穫したばかりのカブやハーブを使い、手際よく料理の準備を始める。大きな鍋(これもギブソン親方の工房で作ってもらったものだ)には、カブと、わずかな干し肉、そしてハーブで風味をつけた、シンプルな、しかし滋味あふれるスープが煮立てられる。摘みたてのハーブは、お茶にしたり、あるいは、エミリアが教えた方法で、保存用のオイルやビネガーに漬け込まれたりしていく。


エミリアも、調理を手伝いながら、住民たちの喜びに満ちた表情を見て、胸が熱くなるのを感じていた。アカデミーでの研究は、常に孤独だった。論文や評価という、抽象的な結果を追い求める日々。それに比べて、なんと温かく、確かな手応えのある喜びだろうか。

(私の錬金術は、この笑顔のためにあったんだわ…)


出来上がったカブのスープは、皆で分け合って食べた。熱々で、少し土の香りがする、素朴な味わい。だが、それはどんな豪華な料理よりも、美味しく感じられた。自分たちの汗と、土と、そして希望が詰まった味だったからだ。

子供たちは、スープを何杯もおかわりし、満足げにお腹をさすっている。大人たちも、久しぶりに心からの笑顔を見せ、互いの労をねぎらい合っていた。ジャックの影によって重く垂れ込めていた不安の雲が、この瞬間だけは、少しだけ晴れたように見えた。


しかし、喜びの後には、現実的な問題も待っていた。

「なあ、エミリアさん」収穫祭が一段落した頃、ボルグが少し真面目な顔で尋ねてきた。「今日獲れたカブやハーブは、これからどうやって分けるんだ? みんなで頑張ったけど、貢献度もそれぞれ違うだろうし…」

ボルグの言葉に、他の住民たちも頷く。そうだ。この菜園は「共同」なのだ。収穫物をどう分配するかは、避けて通れない問題だった。それに、菜園の維持管理も、これからは当番制など、何らかのルールを決めて行わなければならない。

「それから、この畑のこと…ジャックの奴らが、また何かしてくるかもしれねぇ。どうやって守っていくんだ?」

別の住民からは、そんな不安の声も上がる。収穫の喜びは、同時に、それを失うことへの恐れも生み出していた。


2. 未来への種蒔き ~「再生組合」の萌芽~


「そうですね…それは、とても重要な問題です」

エミリアは、住民たちの声に、真剣な表情で耳を傾けた。これは、単なる分配や管理の問題ではない。煤煙地区の住民たちが、初めて自分たちの手で生み出した「共有財産」を、どう守り、育てていくかという、自治の根本に関わる問題なのだ。

「私一人が決めることではありません」エミリアは言った。「これは、皆さんの畑であり、皆さんの収穫物です。ですから、ルールも、皆さん自身で話し合って決めるべきだと思います」


エミリアの提案に、住民たちは少し戸惑ったようだった。これまで、彼らは常に、誰かに支配されるか、あるいは無秩序の中で、その日暮らしを続けるしかなかった。自分たちでルールを作り、運営していくという経験など、ほとんどなかったのだ。

「話し合って決めるって言ってもなぁ…」

「どうやって決めりゃいいんだ?」

不安げな声が上がる中、サラが再びリーダーシップを発揮した。

「よし、じゃあ、今ここで決めようじゃないか!」彼女は言った。「まずは、今日獲れたものの分け方だ! あたしは思うんだけどさ、一番頑張った人とか、一番困ってる人とか、そういうのを言い出したらキリがない。だから、今回は、この畑作りに関わってくれた人全員で、単純に頭割りで分けるってのはどうだい? 文句はナシだ!」

サラの提案は、シンプルで分かりやすかった。多少の不公平感はあるかもしれないが、最初のルールとしては、それが一番良いだろう。住民たちも、異論はないようだった。


「次に、これからの管理だね」サラは続けた。「水やりや草むしり、それから見張りも必要だろう。これも、当番制にするのが良いんじゃないかな? 誰か一人が負担するんじゃなくて、みんなで分担するんだ」

「それが良いかもしれねぇな」ボルグも賛同した。「当番表を作って、みんなが見えるところに貼っておくか」


次々と、具体的なルールが決まっていく。それは、決して洗練されたものではないかもしれない。だが、住民たちが、自分たちの問題を、自分たちで考え、解決しようとする、確かな一歩だった。エミリアは、その様子を温かく見守りながら、必要に応じて助言を与えた。

(これが…いつか、「再生組合」のような、自治組織に繋がっていくのかもしれないわね…)

エミリアの胸に、新たな希望が芽生える。


さらに、エミリアは、この機会に、自分が持つ知識を、もっと積極的に共有していくことを決めた。

「皆さん、もし興味があれば、私が知っている土壌改良の方法や、堆肥作りのコツ、それから簡単な病気や害虫への対策などを、お教えします。特別な錬金術の知識がなくても、できることはたくさんあります。皆さんが自分たちの手で、この畑をもっと豊かにしていくための、お手伝いができれば嬉しいです」

エミリアの申し出に、住民たちの目が輝いた。

「本当かい!? ぜひ教えてくれ!」

「自分たちでもできることがあるなら、知りたい!」

単に収穫物を得るだけでなく、それを生み出すための「知識」を得られることに、彼らは大きな価値を感じているようだった。


エミリアは、その日から、菜園作業の合間や、青空教室の時間を使って、住民たちへの「農業指導」も始めた。堆肥の切り返し方、土壌の酸性度を簡易的に調べる方法、コンパニオンプランツ(一緒に植えることで互いに良い影響を与える植物)の考え方、ニームオイル(特定の木の実から採れる、天然の殺虫・忌避成分)のような、安価で安全な病虫害対策…。

マリアも、これに協力し、薬草栽培の知識や、伝統的な農法について、住民たちに語って聞かせた。

知識は、水や石鹸と同じように、人々の生活を豊かにし、自立を促す力がある。エミリアは、そのことを改めて実感していた。


3. 教室の抵抗、小さな勇気


一方、青空教室を取り巻く状況は、依然として厳しかった。ジャックの手下と思われるチンピラたちの嫌がらせは、収穫祭の後も、むしろ執拗さを増していた。彼らは、エミリアや子供たちが大切にしている手作りの教材を狙うようになったのだ。

ある日の午後、教室が終わった後、エミリアが工房で作業をしていると、外から子供たちの悲鳴が聞こえた。慌てて飛び出すと、チンピラ数人が、子供たちが使っていた再生紙のノートを取り上げ、破り捨てようとしているところだった。

「やめろーっ!」

一番に飛び出していったのは、フィンだった。彼は、自分よりずっと体の大きいチンピラに、果敢に掴みかかろうとする。

「なんだ、このクソガキ!」チンピラは、フィンを乱暴に突き飛ばした。フィンは地面に尻餅をつく。

「フィン!」エミリアが駆け寄ろうとした時、他の子供たちが、フィンを守るようにチンピラの前に立ちはだかった。

「僕たちのノートを返せ!」

「先生が一生懸命作ってくれたんだぞ!」

子供たちは、震えながらも、必死に抗議の声を上げる。数はチンピラたちより多い。その剣幕に、チンピラたちも一瞬たじろいだようだった。


「へっ、ガキどもが粋がりやがって…」

リーダー格のチンピラが、忌々しげに言い、破りかけたノートを地面に叩きつけた。

「まあいい。今日のところは、これくらいにしといてやる。だがな、次、この生意気な『先生』に逆らったら、どうなるか分かってるんだろうな?」

捨て台詞を残し、チンピラたちは去っていった。


残された子供たちは、悔しさと恐怖で、泣き出しそうになっている子もいた。フィンは、唇を噛み締め、地面に散らばったノートの残骸を拾い集めている。

「…ごめん、姉ちゃん。守れなかった…」

「ううん、フィンは悪くないわ」エミリアは、フィンの頭を撫でた。「それより、皆、よく頑張ったわね。怖かったでしょうに、とても勇気があったわ」

エミリアは、子供たち一人一人を労い、破れたノートを拾い集めるのを手伝った。

(このままではいけない…子供たちを危険な目に遭わせるわけには…)


その夜、エミリアはフィンや、教室に来ている年長の子供たちと話し合った。

「これからは、教材をもっと安全な場所に隠しましょう。それに、教室の時間も、少し短くするか、あるいは、もっと人目のある場所でやるようにした方がいいかもしれないわね」

「そんなの嫌だ!」フィンが反論した。「あいつらにビビって、俺たちの勉強時間を減らすなんて、絶対嫌だ!」

他の子供たちも、フィンの言葉に頷く。

「そうだ! あいつらなんかに負けたくない!」

「俺たち、見張りを立てるよ! 怪しい奴が来たら、すぐに大人に知らせるんだ!」

子供たちの瞳には、恐怖よりも、むしろ強い抵抗の意志が宿っていた。彼らは、奪われそうになっている「学ぶ権利」を、自分たちの手で守ろうとしているのだ。

エミリアは、子供たちの成長と勇気に胸を打たれた。

「…分かったわ。皆の気持ちはよく分かった。でも、決して無理はしないで。危険だと思ったら、すぐに逃げるのよ。約束できる?」

「「「うん!!」」」

子供たちは、力強く頷いた。


その翌日から、子供たちは自主的に、教室の時間に見張りを立てたり、教材を工房の隠し棚(エミリアが新たに作った)に運んだりするようになった。それは、ささやかな抵抗だったが、子供たちの間に、強い連帯感と、困難に立ち向かう勇気を育んでいた。


ある日の夕暮れ時、フィンが一人で工房の周りを見回っていると、路地の角で、黒い外套の男、カラスが壁に寄りかかっているのを見つけた。フィンは、カラスに対して、警戒心と同時に、どこか得体の知れない畏敬の念も抱いていた。

「…カラスの兄ちゃん、何してんだ?」

「ん? ああ、小僧か」カラスは、気怠そうにフィンを見た。「別に、ただの散歩だ」

「ふーん…」フィンは、カラスに近づき、声を潜めた。「なあ、兄ちゃん。最近、変な奴らがうろついてるんだ。俺たちの勉強の邪魔したり、エミリア姉ちゃんを困らせたりしてる」

「…知ってるさ」カラスは短く答えた。

「どうにかならねぇのか? 兄ちゃんなら、あんな奴ら、やっつけられるんだろ?」フィンは、期待を込めてカラスを見上げた。

カラスは、ふっと息をつき、フィンの頭をくしゃりと撫でた。

「…まあな。だが、俺が手を出すと、話がややこしくなる。今は、まだその時じゃない」

カラスは、何かを言いかけて、やめた。代わりに、「だが、まあ…あまりしつこいようだったら、少し『お灸を据えてやる』くらいは、考えてやらんでもない」と、意味深な言葉を残した。その時、カラスの黒い瞳の奥に、一瞬だけ、冷たい光が宿ったのを、フィンは見逃さなかった。


4. 嵐の前の静けさ、悪意の集中


カラスの予感は、的中した。ジャック側の妨害は、青空教室への嫌がらせ程度では収まらなかった。エミリアたちの活動が、石鹸作りの安定化、そして共同菜園の成功によって、ますます住民たちの支持を集め、地区内で無視できない存在になりつつあることに、ジャックは強い苛立ちと危機感を覚えていたのだ。

彼は、グレイブスに対し、より直接的で、決定的な打撃を与えるよう、新たな指示を出した。


その最初の標的となったのは、住民たちの希望の象徴となりつつあった、共同菜園だった。収穫祭から数日後の、月のない暗い夜。何者かが、菜園に忍び込み、残っていたカブやハーブを根こそぎ引き抜き、畑をめちゃくちゃに踏み荒らしたのだ。それだけではない。畑の土には、動物の糞尿や、得体の知れない汚物が撒き散らされ、見るも無残な状態にされていた。

翌朝、その惨状を発見した住民たちは、言葉を失った。せっかく育てた作物が、自分たちの希望が、一夜にして踏みにじられたのだ。怒り、悲しみ、そして深い絶望感が、彼らを襲った。

「ひでぇ…なんてことをしやがるんだ…!」

「これじゃあ、もう何も育てられねぇじゃねぇか…!」

「やっぱり、ジャック様に逆らうから…」

疑心暗鬼と恐怖が、再び住民たちの間に急速に広がっていく。犯人は分からない。だが、誰もが、これがジャック側の仕業であると確信していた。


さらに、追い打ちをかけるように、石鹸や堆肥の保管場所として使っていた、工房近くの古い倉庫(ギブソン親方に頼んで借りていたものだ)で、不審火騒ぎが起きた。幸い、夜警代わりに倉庫を見回っていたボルグが、早期に煙に気づき、仲間たちと協力して消し止めたため、大きな被害には至らなかった。だが、倉庫の一部は焼け焦げ、保管していた石鹸や堆肥の一部も、煤と水浸しで使い物にならなくなってしまった。

「…放火だ。間違いねぇ」ボルグは、焼け跡を調べながら、苦々しげに言った。「誰かが、わざと火をつけたんだ」


立て続けに起こる陰湿な事件に、住民たちの動揺はピークに達した。

「もう限界だ! これ以上、エミリアさんに関わっていたら、俺たちの命まで危なくなる!」

「エミリアさんのせいだ! あの人が来てから、ろくなことがない!」

「ジャック様に謝りに行くべきだ! そうすれば、許してもらえるかもしれない…」

これまで協力的だった住民の中からも、公然とエミリアを非難する声が上がり始めた。サラは、必死に仲間たちを宥め、結束を呼びかけたが、恐怖に支配された人々の心を繋ぎ止めるのは、容易ではなかった。エミリアが築き上げてきた信頼の輪は、崩壊寸前にまで追い込まれていた。


5. 苦悩の果て、譲れない決意


相次ぐ惨事と、住民たちの動揺を目の当たりにし、エミリアは深い苦悩の淵に沈んでいた。自分の活動が、結果的に人々を危険に晒し、対立と分断を生んでしまったのではないか。自分のやっていることは、独りよがりの正義で、この街に更なる混乱をもたらしているだけなのではないか。

(私が、ここを去れば…もしかしたら、全てが元通りになるのかもしれない…)

そんな考えが、何度も頭をよぎった。アカデミーを追われた時のように、ここからも去るべきなのかもしれない。それが、皆のためになるのかもしれない、と。


憔悴しきったエミリアは、マリアの元を訪れた。

「マリアさん…私、どうすればいいのでしょうか…」涙ながらに訴えるエミリアに、マリアは静かにお茶を差し出し、ゆっくりと語りかけた。

「…エミリアさん。あんたがやっていることは、暗闇に灯りを点すようなものだよ。灯りが点けば、それまで見えなかったものが見えてくる。隠れていた汚れも、潜んでいた悪意もね。そして、その光を疎ましく思う者も、必ず現れるのさ」

マリアは、エミリアの手を優しく握った。

「どんな良いことにも、必ず影は差すものだよ。嵐が吹くこともある。だがね、大事なのは、そこで灯りを消してしまうことじゃない。嵐の中でも、その灯りを守り、さらに強くする方法を考えることさ。…あんたには、それができるはずだよ。立ち止まらない錬金術師さん、なんだろう?」

マリアの言葉は、静かだが、エミリアの心の奥深くに響いた。


次に、エミリアはギブソン親方の元を訪ねた。親方は、エミリアのやつれた顔を見ると、すぐに事情を察したようだった。

「…なんだ、その腑抜けたいツラは」親方は、いつものように悪態をついた。「まさか、この程度で、尻尾を巻いて逃げ出すつもりじゃあるまいな?」

「…でも、私のせいで、皆さんが…」

「うるせぇ!」親方は、エミリアの言葉を遮るように怒鳴った。「てめぇが始めたことだろうが! てめぇが、この掃き溜めに希望なんぞ持ち込んだんだろうが! それを、途中で投げ出すなんざ、絶対に許さねぇぞ!」

親方の瞳は、怒りに燃えていた。それは、エミリアに対する怒りというよりも、理不尽な暴力に対する、そして諦めようとしているエミリアの弱さに対する、強い怒りだった。

「…いいか、嬢ちゃん。世の中にはな、どんなに汚ぇ手を使っても、自分の欲望を満たそうとする奴らがいる。そいつらに屈したら、終わりなんだよ。てめぇが信じるモンがあるなら、たとえ泥水を啜ってでも、歯を食いしばってでも、貫き通せ! それが、ここで生きていくってことだろうが!」

親方の不器用な、しかし魂のこもった叱咤激励に、エミリアはハッとさせられた。そうだ。逃げるわけにはいかない。ここで諦めたら、それこそジャックの思う壺だ。そして、自分を信じてくれた人々を裏切ることになる。


工房に戻ったエミリアの目に、フィンが、仲間たちと一生懸命、荒らされた菜園の後片付けをしている姿が飛び込んできた。そして、サラが、動揺する住民たちを、必死に説得している声も聞こえてくる。まだ、希望を捨てていない人々がいる。自分を信じ、共に戦おうとしてくれる仲間がいる。

(私は、一人じゃない…!)

エミリアの胸の奥で、消えかかっていた決意の炎が、再び強く燃え上がった。

「逃げない。私は、ここで戦う。私のやり方で…!」


6. 反撃の狼煙、届けられた告発状


エミリアは、もはや受け身でいるだけでは状況は打開できないと悟った。ジャックの支配と暴力に、何らかの形で対抗しなければならない。だが、正面からぶつかれば、犠牲が出るだけだ。もっと、賢明な方法はないだろうか。

彼女は、カラスからもたらされた情報を整理し、これまでの妨害工作の記録を詳細にまとめ直した。そして、ある一つの事実に注目した。それは、菜園を荒らした犯人が、現場に落としていったと思われる、奇妙な形状をした小さな金属製の道具。ギブソン親方に鑑定してもらったところ、それは、ジャックの手下たちが使う、特殊な鍵開け道具(あるいは武器?)の一部である可能性が高いことが判明した。決定的な証拠とは言えないかもしれないが、状況証拠としては強い。


(これを使えるかもしれない…!)


エミリアは、一つの賭けに出ることを決意した。それは、都市管理局の若き官僚、レオン・オーブライトに、この情報を託すことだった。カラスからの情報によれば、レオンは煤煙地区の問題に関心を持ち、正義感の強い人物だという。彼ならば、この情報を無視せず、何らかの形でジャックを追い詰めるために動いてくれるかもしれない。


エミリアは、夜遅くまでかかって、一通の手紙を書き上げた。それは、煤煙地区におけるジャックの支配の実態、彼の組織が行ってきた数々の不法行為(汚染水の販売、賭博、恐喝、そしてエミリアたちへの妨害工作など)を告発する内容だった。そして、その証拠として、例の金属製の道具の精密なスケッチと、グレイブスが関与したとされる薬品購入に関する情報(カラスが得たもの)、そして住民たちからの証言(匿名)などを同封した。

手紙の差出人は、もちろん匿名。「煤煙地区の現状を憂う一市民」とした。自分の名前を出せば、レオンを危険に晒すだけでなく、ジャックに情報源を特定される恐れがあるからだ。

エミリアは、書き上げた手紙を、カラスに託した。

「…これを、確実に、そして安全に、レオン・オーブライト氏の元へ届けてほしいのです。報酬は、約束通り…」

カラスは、手紙を受け取り、中身を検めることなく懐にしまった。

「…分かった。引き受けよう」彼の表情は、いつもより少しだけ真剣に見えた。「だが、これが何を意味するか、分かっているんだろうな? あんたは、虎の尾を踏んだんだ。もう、後戻りはできないぞ」

「覚悟の上です」エミリアは、きっぱりと答えた。


数日後、都市管理局のレオン・オーブライトの執務室に、差出人不明の一通の分厚い封筒が届けられた。訝しみながら封を開けたレオンは、その内容に衝撃を受け、息を呑んだ。煤煙地区の腐敗の実態、ジャックの悪行、そして添えられた証拠の数々…。それは、彼がこれまで漠然と抱いていた疑惑を、確信へと変えるのに十分すぎる内容だった。

(…やはり、彼女なのか…? なんという勇気だ…そして、なんという非道な行いだ、ジャックという男は…!)

レオンの心に、告発者おそらくエミリアだろうへの敬意と、ジャックへの燃えるような怒りが込み上げてきた。彼は、すぐには動けないかもしれない。相手は、行政内部にも影響力を持つ可能性のある、危険な存在だ。だが、この情報を決して無駄にはしない。彼は、この告発状を武器に、法と正義の名の下に、ジャックを追い詰めるための戦いを、水面下で開始することを固く決意した。


7. 収穫の後の嵐、対決の時迫る


エミリアが放った匿名の告発状。その存在は、まだジャックには知られていない。だが、エミリアたちが掴んだ証拠(特に、落とし物の道具)の噂は、カラスが意図的に流したのか、あるいは子供たちの口から漏れたのか、ジャックの耳にも届き始めていた。

「…あの女、何か嗅ぎつけやがったようだな…」

ジャックは、苛立ちを隠せない様子で、グレイブスに命じた。

「もう、悠長なことは言ってられん。あの錬金術師の女を、さっさと始末しろ。ただし、殺すな。生け捕りにして、あの知識を根こそぎ吐かせるんだ。工房ごと、奴の活動の痕跡も消し去れ。…いいな?」

「御意」

グレイブスの冷たい声が、薄暗い事務所に響いた。彼の背後には、ジャックの命令を実行するための、屈強な手下たちが数人、静かに控えている。


煤煙地区には、嵐の前の、不気味な静けさが漂っていた。最初の収穫という喜びの後、住民たちの心には、ジャックへの恐怖と、エミリアへの期待と不安が、複雑に交錯している。

エミリアは、工房で、仲間たちと共に、来るべき脅威に備えていた。バリケード代わりにできるものを工房の入口に積み上げ、簡単な警報装置(糸と鐘)を仕掛け直し、いざという時のための脱出経路を確認する。武器らしい武器は何もない。あるのは、錬金術の知識と、仲間たちとの絆、そして、決して屈しないという強い意志だけだ。


夕暮れ時、再生されたばかりの小さな菜園に、エミリアは一人立っていた。土の中の種は、まだ芽を出していない。だが、確かに生命は息づいている。この希望の芽を、守り抜かなければならない。

迫り来る黒い爪の脅威を肌で感じながら、エミリアは、静かに、しかし固く、決意を固めていた。対決の時は、もう目前に迫っている。

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