第7話:芽吹く大地と、忍び寄る毒
1. 工房の日常、新たな種を探して
工房『再生の枝』は、もはやエミリア一人の城ではなかった。日中の工房には、彼女以外にも、常に数人の人影があった。サラをはじめとする洗濯女たちは、エミリアの指導のもと、すっかり石鹸作りの重要な戦力となっていた。材料の計量、薬草の刻み、型入れ、完成品のカットと包装。彼女たちは、一つ一つの作業を、真剣な、それでいてどこか楽しげな表情でこなしていく。工房には、石鹸の優しい香りと共に、女性たちの賑やかな話し声が響く、活気ある空間へと変わっていた。
エミリアが開発した「再生石鹸」は、その品質と手頃な価格から、煤煙地区の住民たちの間で、すっかり必需品として定着しつつあった。工房の入口に掲げた小さな看板を見て、石鹸を買い求めに来る客足は途絶えることがない。おかげで、工房には僅かながら安定した収入がもたらされるようになり、エミリアはようやく、日々の食費や活動資金の心配から、少しだけ解放されるようになっていた。
だが、エミリアの目は、すでに次なる課題へと向けられていた。工房を訪れる住民たちの顔色、特に子供たちの痩せた体つきを見るたびに、彼女の胸は痛んだ。水の問題は改善され、衛生状態も石鹸の普及によって少しずつ向上している。しかし、根本的な栄養不足の問題は、依然として深刻なままなのだ。
(この街の人々は、いったい普段、何を食べているのかしら…?)
市場で売られているのは、萎びた野菜や、質の悪い穀物ばかり。新鮮な肉や魚など、ほとんど見かけることすらない。日雇い労働で得るわずかな日銭では、栄養のある食事を摂ることなど、夢のまた夢なのだろう。
(清潔な体だけでは、生きていけない…必要なのは、やはり、安全で栄養のある食べ物…)
いつものように、工房の帳簿(といっても、簡単な収支を記録したノートだが)をつけながら、エミリアは思考を巡らせていた。
(自分たちの手で、食べ物を作れないかしら…?)
その考えは、以前から漠然と頭の中にあった。だが、煤煙地区の環境を考えれば、それはあまりにも無謀な挑戦に思えた。痩せこけ、汚染された大地。ここで作物が育つとは、到底思えなかったのだ。
ふと、エミリアの視線が、工房の裏手へと向けられた。そこには、レンガ塀に囲まれた、二十坪ほどの小さな空き地が広がっている。以前は誰かの家の庭だったのかもしれないが、今はゴミが散乱し、雑草すらまばらにしか生えていない、荒れ果てた土地だ。
(あそこなら…もし、あの土地を改良できれば、小さな菜園くらいは作れるかもしれない…)
それは、途方もない挑戦に思えた。だが、錬金術師としての血が騒ぐのを、エミリアは感じていた。不可能に見えることを可能にする。それこそが、錬金術の醍醐味ではないか。
「よし…」エミリアは、決意を固めた。「次は、土壌改良に挑戦してみましょう!」
2. 大地の声を聞く ~分析と再生のレシピ~
決意したものの、何から手をつければいいのか。エミリアはまず、問題の空き地の土壌サンプルを採取することから始めた。スコップ(これもギブソン親方に借りたものだ)で数カ所の土を掘り起こし、ガラス瓶に詰めて工房へ持ち帰る。
見た目だけでも、その土壌の状態の悪さは明らかだった。色は薄茶けてパサパサとしており、栄養分が乏しいことが窺える。所々、ガラスの破片や、錆びた金属片のようなものも混じっている。そして、微かにだが、油のような、あるいは薬品のような、不自然な匂いも感じられた。
エミリアは、工房で簡易的な土壌分析を試みた。
まず、pH試験紙(これも自作だ。特定の植物の色素を紙に染み込ませたもの)で酸性度を測る。結果は、やや酸性に傾いている。これは、酸性雨や、有機物の不足が原因かもしれない。
次に、少量の土を水に溶かし、その濁り具合や沈殿物の様子を観察する。粘土質は少なく、砂っぽい。保水力が低い土壌だ。
さらに、いくつかの試薬(これも手持ちの薬品で代用したもの)を使って、土壌に含まれる成分を大まかに分析してみる。窒素、リン酸、カリウムといった、植物の生育に不可欠な栄養素は、やはり極端に少ないようだ。そして、懸念していた通り、鉛や銅などの重金属と思われる反応が、微量ながら検出された。おそらく、過去の工場排水や、廃棄物の影響だろう。
「…これは、思った以上に深刻ね」エミリアは、分析結果をノートに書き込みながら、溜息をついた。「栄養不足、保水力不足、酸性化、そして重金属汚染…このままでは、雑草すらまともに育たないはずだわ」
どうすれば、この死んだような大地を、作物が育つ豊かな土壌へと変えることができるだろうか。エミリアは、再びマリアの薬草店『癒しの葉』を訪ね、助言を求めた。
「ほう、土壌改良かい。そりゃまた、大きく出たもんだねぇ」マリアは、エミリアの話を聞き、感心したように言った。「だが、この煤煙地区の土を相手にするのは、並大抵のことじゃないよ。長年、煤と毒に蝕まれてきた土地だからねぇ」
それでも、マリアはこの土地でも比較的育ちやすい作物をいくつか教えてくれた。
「例えば、カブやラディッシュのような根菜類は、多少痩せた土地でも育つことがある。ジャガイモも、生命力が強いからね。ハーブ類なら、ミントやカモミール、それから虫除けになるタンジーなんかも、比較的丈夫だよ」
そして、マリアは伝統的な土壌改良の方法についても語ってくれた。
「一番確実なのは、時間をかけることさね。落ち葉や生ゴミ、家畜の糞なんかを集めて、堆肥を作るんだ。それを土に混ぜ込んで、土の中の小さな生き物(微生物)の力を借りて、ゆっくりと土を豊かにしていく。何年もかかるかもしれないが、それが自然の摂理に沿った、一番確かなやり方だよ」
マリアの言葉は、重みがあった。だが、エミリアには、何年も待っている時間はない。住民たちの栄養状態は、待ったなしなのだ。
(もっと早く、もっと効果的に土壌を改良する方法は…? 錬金術の知識を応用できないかしら?)
工房に戻ったエミリアは、研究ノートを開き、新たな「再生のレシピ」の開発に取り掛かった。それは、「錬金術式・高速発酵堆肥」と名付けられた。
基本的な考え方は、伝統的な堆肥作りと同じだ。有機物を微生物の力で分解し、栄養豊富な腐植土を作り出す。だが、錬金術は、そのプロセスを劇的に加速させ、さらに付加価値を加えることを可能にするはずだ。
材料:
有機物源: 住民から回収した生ゴミ(野菜くず、魚の骨など)、工房周りの落ち葉や雑草、家畜(鶏や豚など、地区内で細々と飼われている)の糞、カーライル川の川底から採取した汚泥(比較的汚染の少ない場所を選定)。
水分調整材: おがくず、藁くずなど。
pH調整材: 木灰、あるいは砕いた貝殻など(アルカリ性)。
錬金術触媒: これが鍵となる。エミリアが考案したのは、複数の物質を組み合わせた複合触媒だ。
発酵促進: 特定の鉱物粉末(ゼオライト様鉱物など、微生物の住処となり、アンモニアなどを吸着する)と、糖蜜(微生物の栄養源)、そして発酵を助ける酵素を含む植物エキス(麹菌に近い働きをするカビを含む発酵食品の搾りかすなど)。
有害物質分解・吸着: 活性炭(自作)、特定の粘土鉱物(重金属イオンを吸着)、そして硫黄化合物(一部の重金属を不溶性の硫化物に変える)。
工程:
有機物源と水分調整材、pH調整材を適切な比率で混合する。
錬金術触媒を均一に混ぜ込む。
適切な水分量(手で握って、水が滴らない程度)に調整する。
木枠などで囲った堆肥場に積み上げ、通気性を確保しつつ、保温のために麻布などで覆う。
発酵熱(高温になる)を利用して、有機物を急速に分解させると同時に、病原菌や雑草の種子を死滅させる。エミリアは、マナ/エーテル感応を使い、発酵プロセスを最適化しようと試みる。
定期的に切り返し(攪拌)を行い、酸素を供給し、発酵を均一に進める。
数週間(伝統的な方法なら数ヶ月~数年かかるところ)で、黒々として栄養価が高く、有害物質が分解・無害化された良質な堆肥を完成させる。
理論は完璧に思えた。だが、実践は困難を極めた。
最初の試みでは、水分量が多すぎたのか、あるいは通気性が悪かったのか、堆肥は発酵せずに腐敗し始め、強烈な悪臭を放った。慌てて材料を掻き出し、やり直す羽目に。
次の試みでは、発酵促進触媒が効きすぎたのか、堆肥の温度が異常に上昇し、内部から煙が上がり始めた。危うく発火するところだった。エミリアは、親方に借りたスコップで必死に堆肥を掻き出し、水をかけて鎮火させた。
またある時は、材料の配合が悪かったのか、全く発酵が進まず、ただのゴミの山が出来上がっただけだった。
「くっ…! なかなか上手くいかない…!」
エミリアは、汗と泥にまみれながら、何度も失敗を繰り返した。そのたびに、貴重な材料と時間を浪費し、心が折れそうになる。だが、諦めるわけにはいかなかった。これは、煤煙地区の未来がかかった挑戦なのだ。
彼女は、失敗の原因を冷静に分析し、ノートに記録し、配合や工程を微調整していく。その姿は、まさに「立ち止まらない錬金術師」そのものだった。
3. 青空教室の賑わいと、忍び寄る影
エミリアのもう一つの活動、工房前の青空教室は、すっかり煤煙地区の日常風景の一部となっていた。午後になると、どこからともなく子供たちが集まってきて、エミリアが用意した再生紙や木の板に、覚えたての文字を書いたり、簡単な計算問題に挑戦したりしている。
フィンは、今やエミリアの頼れる助教だ。自分より小さい子たちに、得意げに文字の書き方を教えたり、騒がしい子を注意したりしている。読み書きができるようになったことで、フィンは以前よりも自信を持ち、表情も明るくなったように見えた。
青空教室の効果は、子供たちだけに留まらなかった。
「エミリアさん、うちの子がね、この前、市場でのお釣りをちゃんと計算できたんだよ! あんたのおかげだよ、ありがとう!」
「うちの娘はね、寝る前に、あんたが読んでくれたお話を、自分で読もうと頑張ってるんだ。あんなに本に興味を持つなんて、思ってもみなかったよ」
子供たちの親たちから、そんな感謝の声が寄せられることも増えてきた。文字を読めること、計算ができること。それは、この貧しい地区で生きる人々にとって、ささやかだが確かな希望の光となりつつあったのだ。読み聞かせの時間には、子供たちだけでなく、文字を読めない大人たちが、遠巻きに聞き耳を立てている姿も見られるようになった。
だが、光が強くなれば、影もまた濃くなる。
青空教室の賑わいが、快く思わない者たちの注意を引き始めていた。特に、黒爪ジャックの配下と思われるチンピラたちが、教室の周りをうろつき、嫌がらせをするようになったのだ。
彼らは、直接的な暴力を振るうわけではない。だが、勉強している子供たちを大声でからかったり、わざと近くで騒いだり、あるいは、子供たちが書いた文字を足で踏みにじったり。陰湿で、卑劣なやり方で、教室の雰囲気を壊そうとするのだ。
子供たちは怯え、中には教室に来なくなってしまう子も現れた。親たちも、「ジャックの手下に睨まれたら大変だ」「勉強なんかより、家の手伝いをさせろ」と、子供たちを教室に行かせたがらないケースが出始めた。
エミリアは、心を痛めた。せっかく芽生えた学びの場が、理不尽な暴力によって脅かされている。何とかしなければ。だが、相手はジャックの手下だ。下手に逆らえば、何をされるか分からない。
一度、エミリアがチンピラたちに「子供たちの邪魔をしないでください」と勇気を出して抗議したことがあった。だが、彼らはせせら笑うだけで、「へっ、先生ごっこか? 気に入らねぇな」「この辺りはジャック様の縄張りだぜ? あんたみてぇなよそ者が、でかい顔してんじゃねぇよ」と脅し文句を並べ立てるだけだった。
(どうすれば…)
エミリアは、無力感に苛まれた。錬金術は、こういう時に何の役にも立たないのだろうか。
4. 頑固者の優しさ、見守る瞳
そんなエミリアの苦悩を、黙って見守る人物がいた。ギブソン親方だ。
彼は、相変わらず青空教室には無関心を装い、自分の工房で黙々と作業を続けている。だが、エミリアがチンピラたちに絡まれているのを見た時や、子供たちが怯えているのを感じた時、彼の打ち鳴らす金槌の音が、いつもより一際大きく、そして威圧的に響くことがあった。それは、言葉には出さない、彼なりの牽制なのかもしれない。
ある日の午後、教室で使っていた粗末な木の長椅子が、重さに耐えかねて壊れてしまった。子供たちががっかりしていると、どこからともなくギブソン親方が現れ、「ちっ、邪魔くせぇな!」と悪態をつきながらも、手際よく金槌と釘で長椅子を修理し始めた。その手つきは、普段の荒々しい鍛冶仕事とは違い、どこか優しさが感じられた。
修理が終わると、親方は「これで少しはマシになっただろう。だが、あんまり大勢で乗るんじゃねぇぞ!」とだけ言い残し、さっさと自分の工房へ戻っていった。
子供たちは、あっけにとられていたが、すぐに歓声を上げて、新しく(?)なった長椅子に集まった。
またある時には、エミリアが教材用の木炭を使い果たして困っていると、親方が「おい、嬢ちゃん。工房の掃除しといたら、こんなモンが出てきたぞ。いらねぇなら捨てるが」と、ちょうど良い大きさの木炭の欠片が詰まった袋を、無愛想に差し出してくれたこともあった。
「ありがとうございます、親方! 助かります!」
「勘違いするな。ただの廃材だ。たまたま、お前さんが使いそうだと思っただけだ」
親方は、決して素直に好意を示すことはない。だが、その不器用な行動の裏にある温かさを、エミリアは確かに感じ取っていた。彼は、口では何と言おうと、エミリアと子供たちのことを、気にかけてくれているのだ。そして、それは、チンピラたちの嫌がらせに対する、小さな、しかし心強い支えとなっていた。
5. 毒は密やかに ~巧妙化する妨害~
青空教室への嫌がらせと並行して、エミリアのもう一つの主要な活動である堆肥作りに対しても、ジャック側の妨害は、より巧妙かつ陰湿な形で始まっていた。
その兆候は、堆肥の発酵具合に現れた。順調に進んでいたはずの発酵が、ある日を境に、急に鈍くなったり、あるいは、部分的に腐敗臭がしたりするようになったのだ。
(おかしいわ…何かが混入している…?)
エミリアは、堆肥のサンプルを採取し、注意深く分析した。すると、堆肥の中に、微量ながら、石鹸作りには適さない有害な鉱物油や、植物の生育を著しく阻害する、除草剤のような成分が検出されたのだ。それは、明らかに、誰かが意図的に混入させたとしか考えられなかった。
「なんてことを…!」
エミリアは、怒りと共に、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。これは、単なる嫌がらせではない。エミリアの努力を根本から破壊しようとする、悪意に満ちた攻撃だ。しかも、いつ、誰が混入させたのか、全く見当がつかない。夜陰に紛れて、こっそりと行われたのだろう。
さらに、被害は堆肥だけにとどまらなかった。石鹸作りや堆肥作りに、特に熱心に協力してくれていたサラや、他の数人の住民の家の扉や壁に、ある朝突然、気味の悪い落書きがされているのが発見されたのだ。それは、黒い爪で引っ掻いたような、禍々しいマーク。ジャックのシンボルだ。
それだけではない。サラが仕事で使う大切な洗濯板が、いつの間にか盗まれていたり、他の協力者の家の家畜(鶏)が、理由もなく死んでいたりする事件も起きた。
直接的な暴力こそないものの、これらの陰湿な嫌がらせは、住民たちの間に、確実に恐怖と不安を広げていった。
「やっぱり、エミリアさんに関わると、ろくなことがないんじゃないか…」
「ジャック様に逆らったら、何をされるか分からない…」
「石鹸や堆肥はありがたいけど、命あっての物種だよ…」
そんな声が、囁かれるようになった。昨日まで協力的だった住民が、急によそよそしくなったり、廃油や生ゴミの提供をためらったりするケースが出始めた。サラは気丈に振る舞っていたが、彼女の仲間たちの中にも、明らかに怯え、協力を渋る者が出始めていた。
エミリアが築き上げてきた信頼と協力の輪に、見えない毒が注入され、亀裂が入り始めている。エミリアは、焦りと苦悩を感じながらも、どうすることもできないでいた。
6. 影との対峙、苦渋の取引
「…やはり、奴らが動き出したようだな」
エミリアから一連の妨害工作について報告を受けたカラスは、忌々しげに呟いた。彼の黒い瞳には、珍しく険しい光が宿っている。
「これらの嫌がらせが、ジャックの指示であることは、ほぼ間違いないでしょう。ですが、証拠が…」
「だろうな」カラスは頷いた。「おそらく、実行犯はグレイブスだ。あの男は、影のように動き、決して尻尾を掴ませない。ジャックへの忠誠心も異常に高い。命令とあらば、どんな汚い手も使うだろう」
「どうすれば…このままでは、協力してくれている皆さんが危険に晒されてしまう…!」エミリアは、焦りを滲ませた。
「だから言ったはずだ。直接的な衝突は避けろ、と」カラスは冷静に言った。「今、あんたが下手に騒いだり、犯人捜しをしたりすれば、相手はさらにエスカレートする可能性がある。最悪の場合、見せしめに誰かが…」
カラスの言葉に、エミリアは息を呑んだ。それは、考えたくもない最悪のシナリオだった。
「ですが、このまま黙って耐えているだけでは…!」
「耐えるしかない時もある」カラスは、エミリアの目を真っ直ぐに見据えた。「だが、ただ耐えるんじゃない。相手の手の内を探り、反撃の機会を窺うんだ。そのためには、情報が必要だ。ジャックとグレイブスの動き、奴らの弱点、そして、この地区で奴らを快く思っていない他の勢力…」
カラスは、再び取引を持ちかけてきた。
「俺が、奴らの情報を集めてやる。ただし、タダじゃない。あんたが作る石鹸、それから、これから作るであろう『お役立ちグッズ』の独占販売権の一部を、俺に譲渡すること。そして、あんたが得るであろう、住民からの『信頼』という名の情報網を、俺にも利用させること。それが条件だ」
それは、エミリアにとって、非常に重い要求だった。自分の活動の成果を、この得体の知れない情報屋に明け渡すことになるかもしれないのだから。だが、他に選択肢はなかった。住民たちの安全を守り、この状況を打開するためには、カラスの持つ情報力と裏社会へのコネクションが必要不可欠だった。
「…分かりました。その取引、受けます」エミリアは、苦渋の表情で頷いた。
「賢明な判断だ」カラスは、満足げとも、あるいは同情的とも取れる、複雑な表情を浮かべた。「…安心しろ。俺は、あんたを破滅させようとは思っていない。むしろ、あんたのような存在は、この淀んだ街に変化をもたらすかもしれんからな。利用させてもらうが、同時に、守ってやる義理もできるというものだ」
カラスの言葉の真意は、まだ測りかねる。だが、エミリアは、彼の言葉を信じるしかなかった。
カラスは、約束通り、数日後にいくつかの情報をもたらした。妨害工作にグレイブスが関与していることを裏付ける、いくつかの状況証拠(怪しい薬品の購入履歴や、チンピラへの指示を目撃したという噂など)。そして、ジャックが最近、都市管理局の一部の役人と裏で接触しているという不穏な情報。決定的な証拠や、即効性のある対策には繋がらなかったが、それでも、相手の動きの一端を知ることはできた。
「今は、守りを固めることだ」カラスは助言した。「堆肥場や工房の見回りを強化し、協力者たちにも警戒を怠らないように伝えるんだ。そして、何よりも、あんた自身の活動を止めないことだ。それが、奴らに対する一番の抵抗になる」
7. 逆境の中の芽吹き、譲れない希望
度重なる妨害と、広がる不安。エミリアの心は、重く沈んでいた。だが、彼女はカラスの言葉通り、決して活動を止めなかった。むしろ、より一層、堆肥作りと菜園計画に力を注いだ。それは、ジャックの脅威に対する、彼女なりの答えであり、抵抗だった。
幸い、最初に作った堆肥は、異物混入の被害を受ける前に、ほぼ完成の状態に達していた。エミリアは、残ってくれた数少ない協力者たち(サラや、ギブソン親方、そしてフィンや一部の子供たち)と共に、工房裏の空き地を再生させる作業に取り掛かった。
まず、空き地に散乱していたゴミを徹底的に片付ける。ガラス片や金属片を丁寧に取り除き、汚染されている可能性のある表土を、数インチほど剥ぎ取る。そして、そこに、浄化作用を持つとされるゼオライト様鉱物の粉末(これもエミリアが錬金術で精製したものだ)を混ぜ込み、土壌の中和と重金属の吸着を試みる。
最後に、完成したばかりの、黒々とした栄養満点の「錬金術式堆肥」を、たっぷりと鋤き込んだ。それは、埃っぽく、固く、死んでいた大地が、まるで呼吸を取り戻すかのように、ふかふかと柔らかく、生命力を感じさせる土壌へと生まれ変わっていく、感動的な光景だった。
作業は、困難を極めた。人手は足りず、妨害への警戒も怠れない。協力してくれている住民たちも、不安を隠せない様子だった。それでも、彼らは黙々と作業を続けた。自分たちの手で、未来の食料を生み出す大地を、一から作り上げているのだという、確かな実感と希望が、彼らを支えていた。
そして、ついに、小さな菜園が形になった。広さはわずかだが、そこは紛れもなく、煤煙地区に生まれた、奇跡のような「再生された大地」だった。
エミリアたちは、そこに、マリアから譲り受けた種を蒔いた。厳しい環境にも比較的強いとされる、カブと、数種類のハーブの種。小さな、小さな種が、この新しい土壌に根付き、芽吹き、やがて豊かな実りをもたらしてくれることを、誰もが心から祈った。
種蒔きが終わった畑は、まだ土が剥き出しの、頼りない風景だった。だが、それは、この見捨てられた街における、「自給自足」と「環境再生」への、大きな、大きな第一歩だった。そして、暴力と恐怖で支配しようとする者たちに対する、最も雄弁な反論でもあった。
夕暮れ時、エミリアは、完成したばかりの小さな菜園の前に一人佇んでいた。土の匂い、堆肥の匂い、そして未来への希望の匂いが、混じり合って鼻腔をくすぐる。
妨害はあるだろう。危険も、これからさらに増していくに違いない。協力者たちの心が、恐怖によって離れていってしまうかもしれない。それでも、エミリアは、この小さな芽を守り、育てていかなければならないと、強く決意していた。
再生への道を阻む、いかなる「毒」にも、決して屈するわけにはいかないのだ。
彼女の足元の大地には、目には見えない無数の種が、力強い生命力を内に秘め、静かに芽吹きの時を待っていた。