第6話:再生のレシピと、小さな教室
1. 灰色の工房、色づく挑戦
工房『再生の枝』の土間は、以前の閑散とした様子が嘘のように、様々なモノで満たされ始めていた。壁際には、ギブソン親方の指導で作った棚が並び、そこには分別された薬草や鉱物、そして住民たちが持ち寄った様々な種類の廃油が入った容器が整然と(エミリアなりに)並べられている。中央には、補修された簡易錬金釜と、新しく据え付けられたばかりの、手回し式の攪拌装置(これも親方の作品だ)が鎮座している。そして、作業台の上には、実験器具の代用品として加工されたガラス瓶や、自作の簡易天秤、比重計などが並び、エミリアの研究ノートが開かれている。そこには、びっしりと書き込まれた文字や数式、そして試行錯誤の跡が生々しく残っていた。
エミリアは今、そのノートとにらめっこしながら、次の石鹸作りのための配合を練っているところだった。先だって完成した試作品第1号は、住民たちから概ね好評を得たものの、課題も多く残されていた。洗浄力、泡立ち、保湿性、そして香り。すべてにおいて、もっと改善の余地があるはずだ。
(一番の問題は、やはりアルカリ濃度の管理ね…)
木灰から作る灰汁は、どうしても濃度が不安定になる。前回の試作品は、幸い肌への刺激は少なかったが、それはアルカリ濃度がやや低かったせいかもしれない。その分、鹸化が不十分で、洗浄力が少し物足りないという意見もあった。かといって、濃度を上げすぎれば、再び危険な強アルカリ性になってしまう。
「うーん…比重計の目盛りを、もっと細かく刻んでみるべきかしら…でも、温度によって比重も変わるし…」
エミリアは、試作した簡易比重計(特定の木片に目盛りを刻み、灰汁に浮かべて沈み具合を見るもの)を手に取り、眉をひそめる。あるいは、中和剤を使うという手もある。酢のような弱酸を使えば、強すぎるアルカリを中和できるかもしれない。だが、それも正確な量の見極めが難しい。
「姉ちゃん、何悩んでんだ?」
不意に、足元から声がかかった。見ると、フィンが床に座り込み、木の板に炭で何かを書く練習をしながら、こちらを見上げている。最近、彼は工房の「助手」兼「生徒」として、すっかり常連になっていた。
「ああ、フィン。石鹸作りのことで、少し考え事をしていたのよ」
「ふーん。また、あのブクブクするやつか?」
「ええ。もっと良いものを作りたいんだけど、なかなか難しくてね」
「難しいことばっかりだな、錬金術ってのは」フィンは、つまらなそうに言いながらも、エミリアの研究ノートを覗き込んできた。「でも、姉ちゃんなら、きっとできるさ!」
根拠のない、しかし力強いフィンの言葉に、エミリアは思わず苦笑した。だが、その純粋な信頼が、不思議と力になるのも事実だった。
(洗浄力と保湿性の両立も課題ね…)
ノートに視線を戻す。前回の試作品は、比較的状態の良い植物油を主原料にしたため、肌触りは悪くなかったが、洗浄力は動物性油脂を使った方が高くなる傾向がある。かといって、動物性油脂だけだと、石鹸が硬くなりすぎたり、泡立ちが悪くなったりすることも。
(油脂の配合比率…植物油と動物性油脂の最適なバランスを見つける必要があるわね。それと、グリセリン…)
鹸化反応の副産物として生成されるグリセリンは、優れた保湿成分だ。通常の加熱法では、塩析という工程でグリセリンが分離除去されてしまうことが多い(その方が石鹸の純度は上がるのだが)。グリセリンを残したまま石鹸にする「コールドプロセス法」という製法もあるが、それには長い熟成期間が必要となり、温度管理もよりシビアになる。今の設備と環境では、まだ難しいだろう。
(まずは、ホットプロセスの改良に集中しましょう。保湿成分として、何か別のものを添加する…例えば、蜜蝋とか、シアバターのような…でも、そんな高価なものが、この煤煙地区で手に入るわけ…)
考えが堂々巡りになりかけた時、ふと、工房の隅に積まれた、住民から分けてもらった材料の中に、あるものを思い出した。
(そうだわ! ラノリン…羊毛から取れる脂! あれなら、保湿効果が高いし、羊を飼っている家があれば、手に入るかもしれない!)
新たな可能性に、エミリアの目が輝いた。
香りのバリエーションも増やしたい。カミツレの優しい香りも好評だったが、もっと爽やかな香りや、あるいは虫除け効果のある香りなども、住民のニーズに合うかもしれない。
(ミント、レモングラス、それから…ニガヨモギも使えるかしら? 柑橘系の皮も、捨てずに集めれば…)
エミリアは、ノートに次々とアイデアを書き込んでいく。それはまるで、暗闇の中で一つずつ灯りを点していくような、地道だが希望に満ちた作業だった。
2. 頑固者の手、紡がれる師弟の絆?
石鹸の改良には、道具の改良も不可欠だった。特に、油脂とアルカリを均一に、かつ効率よく混ぜ合わせるための攪拌装置と、出来上がった石鹸を均等な大きさに切り分けるための道具が必要だと感じていた。
エミリアは、再びギブソン親方の工房を訪ね、恐る恐る相談してみた。
「あの、親方…またお願いがあるのですが…」
「あぁ? 今度は何だ?」親方は、炉から取り出した真っ赤な鉄の棒を、砧の上で打ちながら、顔だけをこちらに向けた。
エミリアは、手描きの簡単な図面を見せながら説明した。手回し式の、羽根が付いた攪拌棒のようなものと、ワイヤーを使った石鹸カッターのようなもの。
親方は、図面を一瞥すると、鼻で笑った。
「へっ、また妙ちきりんなモンを考えやがって。そんなモンがなけりゃ、石鹸も作れねぇのか、お嬢様は」
「ですが、これがあれば、もっと効率よく、均一な品質のものが作れると思うんです!」
「ふん、理屈だけは一人前だな」親方は毒づきながらも、図面をもう一度注意深く見た。「…まあ、構造は単純だ。作れんこともねぇだろうが…」
彼は、打っていた鉄の棒を水桶にジュッと浸け、作業の手を止めた。
「ただし、俺の時間もタダじゃねぇんだ。こいつを作る代わりに、お前さんには、もっとウチの仕事を手伝ってもらうぞ。ふいごの操作は、だいぶ様になってきたが、まだまだだ。炉の温度管理も、もっと正確にできるようになってもらわねぇと困る。それから、道具の手入れもな。職人にとって、道具は命だ。その扱い方を、徹底的に叩き込んでやる」
「はい! ぜひお願いします!」エミリアは、目を輝かせて答えた。
親方の要求は厳しいが、それは同時に、彼が持つ本物の技術を学ぶ絶好の機会でもあった。エミリアは、単なる「お手伝い」ではなく、一人の「弟子」として扱われ始めているのかもしれない、と密かに感じていた。
数日後、親方は約束通り、エミリアが設計した道具を、文句を言いながらも驚くほど精密に作り上げてくれた。
手回し式の攪拌装置は、木製のハンドルを回すと、釜の中で金属製の羽根が回転し、効率よく液体を混ぜ合わせることができる。石鹸カッターは、木枠に張られた細いピアノ線のようなワイヤーで、固まった石鹸を綺麗に切り分けることができる。
「…すごい! これで作業がずっと楽になります!」エミリアは、完成した道具を手に、感嘆の声を上げた。
「当たり前だ。誰が作ったと思ってやがる」親方は、いつものようにぶっきらぼうに言ったが、その口元には、ほんの僅かに満足げな色が浮かんでいるように見えた。「だがな、道具が良くても、使う人間が未熟じゃ意味がねぇ。しっかり腕を磨くんだな」
「はい!」
エミリアは、親方の不器用な励ましに、改めて感謝の気持ちを抱いた。この頑固な職人との出会いは、煤煙地区に来てからの、大きな幸運の一つだった。
道具の改良と並行して、エミリアはアルカリ濃度の管理についても、一つの解決策を見つけようとしていた。それは、マリアとの会話がきっかけだった。
「マリアさん、灰汁の濃度を正確に測る、何か良い方法はありませんでしょうか? 比重計だけでは、どうも不安定で…」
薬草店を訪れたエミリアが相談すると、マリアは穏やかに微笑みながら答えた。
「ほう、灰汁の塩梅かい。そいつは昔から、石鹸作りや染め物師を悩ませてきた問題だねぇ」
マリアは、カウンターの奥から、古びた木の匙を取り出した。
「昔ながらの知恵だけれどね…こうやって、灰汁を匙に少量取って、そこに卵の白身を少し垂らしてみるのさ。白身がすぐに固まって、白い塊になるようなら、アルカリが強すぎる証拠。逆に、なかなか固まらないようなら、まだ薄いということさね」
「卵の白身…! タンパク質がアルカリで変性する原理ですね!」エミリアは合点がいった。「なるほど、それなら特別な器具がなくても、ある程度の目安はつけられますね!」
「そうさね。もちろん、経験と勘も必要だけれどね」マリアは付け加えた。「それから、もう一つ。もしアルカリが強すぎた場合は、無理に水で薄めるよりも、古い酢を少しずつ加えて、ゆっくり中和してやる方が、失敗が少ないかもしれないよ。ただし、入れすぎると酸性になって、今度は鹸化しなくなるから、加減が大事だけれどね」
マリアの老婆の知恵は、アカデミーの教科書には載っていない、実践的で貴重な知識だった。エミリアは、丁寧に礼を述べ、新たな知識を胸に工房へと戻った。
3. 広がる輪、共に紡ぐ再生のレシピ
改良版石鹸の開発が進むにつれ、エミリアは一つの考えに至っていた。それは、石鹸作りのプロセスの一部を、サラたち協力してくれる住民にも担ってもらえないか、ということだった。いつまでも自分一人で作り続けるわけにはいかないし、住民たちが自らの手で生活必需品を作り出せるようになれば、それは真の「再生」に繋がるはずだ。
エミリアは、サラにその考えを打ち明けてみた。
「サラさん。もしよろしければ、石鹸作りの工程の一部を、皆さんにも手伝っていただけないでしょうか? もちろん、危険な作業は私が担当しますが…」
サラは、目を丸くしてエミリアを見た。
「あたしたちに、石鹸作りを手伝えって? そんなこと、できるのかい?」
「ええ、もちろんです。例えば、材料を正確に計ったり、薬草を刻んでオイルに混ぜ込んだり、出来上がった石鹸を型から外して切り分けたり、包装したり…そういった作業なら、安全ですし、皆さんの力が必要です」
サラは、しばらく考え込んでいたが、やがて、ぱっと顔を輝かせた。
「…いいねぇ、それ! 面白そうだ! いつまでも、エミリアさん一人に頼りっきりじゃ、こっちも気が引けるしね。それに、自分たちの手で、あの綺麗な石鹸が作れるなんて、考えただけでワクワクするよ!」
サラは、すぐに洗濯仲間たちに声をかけ、エミリアの提案を伝えた。最初は、「あたしたちにできるのかねぇ」「失敗したらどうするんだい」と不安がる声も上がったが、サラの持ち前の明るさとリーダーシップ、そして「自分たちの手で生活を良くする」という希望が、彼女たちを後押しした。
数日後、工房『再生の枝』では、初めての「石鹸作り共同作業」が行われることになった。エミリアは、先生役として、集まったサラたち数人の女性に、作業の手順を丁寧に説明していく。
「まず、これが今日使う廃油です。皆さんが綺麗に分別してくれたおかげで、とても状態が良いですよ。これを、この天秤で正確に計ってください。次に、こちらの薬草(カミツレと、新しく試すミント)を、細かく刻んで、温めたオイルに混ぜ込みます。香りが移るように、ゆっくりと…」
エミリアは、アカデミーでの実験助手の経験を思い出しながら、分かりやすい言葉を選んで説明する。女性たちは、最初は緊張した面持ちで、おっかなびっくり作業を進めていたが、エミリアの丁寧な指導と、サラの励ましもあって、次第に慣れていった。
「あら、サラさん、計り方が上手ね!」
「こっちのミントの匂い、すごく良い匂いだわ!」
「こうやって、自分たちで使うものを作るのって、なんだか楽しいねぇ!」
工房には、女性たちの明るい声と、薬草の良い香りが満ちていた。
危険なアルカリの扱いや、加熱・攪拌の工程は、これまで通りエミリアが担当した。だが、その前後の準備や仕上げの工程を、住民たちが担ってくれるだけで、作業効率は格段に上がり、エミリアの負担も大きく軽減された。
そして何より、住民たちが、自分たちの手で「再生」のプロセスに参加しているという実感と喜びが、工房全体を温かい雰囲気で包んでいた。それは、エミリアが目指す、持続可能な生活改善システムの、確かな第一歩のように思えた。
廃油の回収と分別、木灰の提供も、サラたちの呼びかけによって、より組織的に行われるようになっていた。「廃油回収当番」や「木灰集積所」のようなものが、自然発生的に生まれつつあった。それは、押し付けられたものではなく、住民たちが自らの必要性を感じて始めた、小さな自治の萌芽だったのかもしれない。
4. 路地裏の教室、未来への種蒔き
エミリアのもう一つの挑戦、フィンへの文字教育も、着実に進んでいた。フィンは、驚くほどの集中力と飲み込みの速さを見せ、ひらがなのような基本的な文字(アルビオン王国独自の文字体系を想定)なら、ほとんど読めるようになっていた。簡単な単語なら、書くこともできる。
「姉ちゃん、見てくれ! これ、『パン』って書いたんだぜ!」
フィンが、木の板に書いた文字を、誇らしげに見せてくる。その達成感に満ちた笑顔を見るたびに、エミリアの心も満たされた。
そして、その変化は、他の子供たちの目にも明らかだった。フィンが工房で「勉強」しているのを見た、彼の遊び仲間や、近所の孤児たちが、次々と工房を覗きに来るようになったのだ。
「フィンだけずるいぞ! 俺にも教えろ!」
「あたしも、自分の名前、書けるようになりたい!」
子供たちの、知識への渇望は、エミリアが想像していた以上に強かった。この煤煙地区では、学校へ行くなど夢のまた夢。文字を読める大人は少なく、子供たちが学ぶ機会は、ほとんど皆無に等しいのだ。
「…分かったわ。フィンだけじゃなく、みんなにも教えるわね」
エミリアは、子供たちの熱意に応えることを決めた。だが、工房の中は狭いし、錬金術の道具や薬品もあるため、大勢の子供たちを入れるのは危険だ。
そこで、エミリアは、工房の前の、少しだけ広くなっている路地を「教室」にすることにした。天気の良い日の午後に、そこに子供たちを集めて、文字や簡単な計算を教える、「青空教室」だ。
教材も、工夫が必要だった。紙やインクは高価で、子供たちの練習用に使うにはもったいない。そこで、エミリアは、以前から構想していた「再生紙」作りに着手した。工房の隅に溜まっていた古紙や、住民から分けてもらった藁くずなどを、灰汁で煮込んで繊維を溶かし、自作の木枠(これもギブソン親方に手伝ってもらった)で漉いて、圧搾・乾燥させる。出来上がった再生紙は、ゴワゴワしていて、色もくすんでいたが、文字を書くには十分だった。
インクも、手作りだ。煤を水と、膠の代わりになるような植物性の粘着液(特定の木の樹液など)で練り合わせた簡易的な黒インクや、特定のベリー類を潰して作った色インク。ペンは、鳥の羽根や、削った木切れを使った。
青空教室が始まると、子供たちは目を輝かせて集まってきた。最初は、ただ騒いでいるだけの子や、すぐに飽きてしまう子もいたが、エミリアは根気強く、一人一人のペースに合わせて教えた。文字の形を歌にして覚えさせたり、計算をゲームにしたり。
フィンは、すっかり「先輩」として、他の子供たちに文字を教えたり、エミリアの手伝いをしたりと、張り切っている。その姿は、以前の擦れた孤児の面影はなく、頼もしい小さな先生のようだった。
そんな青空教室に、時折、穏やかな笑顔で見守る人物がいた。マリアだ。彼女は、子供たちのために、滋養のある薬草を使ったクッキーや、甘いハーブティーなどを差し入れてくれることがあった。
「みんな、頑張っているねぇ。偉い、偉い」
マリアは、子供たちの頭を優しく撫でながら、エミリアの隣に腰を下ろした。そして、エミリアが文字を教える様子を、静かに見守っている。
ある時、エミリアが少し手の離せない用事で席を外した際、マリアがごく自然に、子供たちに文字の書き方を教えている場面があった。その教え方は、非常に手慣れており、子供たちの興味を引きつけながら、的確にポイントを伝えている。まるで、長年、子供たちの教育に携わってきたかのようだ。
(マリアさん…もしかして、昔、どこかで先生のようなことを…?)
エミリアは、マリアの秘められた過去に、また一つ思いを巡らせた。
この路地裏の小さな教室は、子供たちに知識を与えるだけでなく、彼らに「学ぶ」という喜びと、規律、そして未来への希望を与え始めていた。それは、煤煙地区の荒んだ雰囲気に、確実に、ささやかな変化をもたらし始めていた。
5. 忍び寄る影、届かぬ声
エミリアたちの活動が活発になるにつれて、煤煙地区の内部だけでなく、外部からも、その動きに注目する視線が現れ始めていた。
【首都アヴァロン・都市管理局】
レオン・オーブライトは、執務室で一つの古い書類に見入っていた。それは、彼が非公式なルートを使って入手した、数年前の王立アカデミーの内部資料の一部だった。そこには、「エミリア・ヴァーミリオン」という名前と共に、彼女が発表した研究内容(安価な肥料開発、土壌改良技術など)と、それに対するバルテルス教授を中心とした保守派からの批判、そして最終的な研究予算打ち切りと、事実上の追放に至る経緯が、淡々と記されていた。
「…やはり、噂は本当だったのか」レオンは息を呑んだ。「これほどの才能を持ちながら、旧態依然とした権威主義によって…許せない」
彼は、エミリアという人物への強い関心と、アカデミーの体質への静かな怒り、そして、彼女が今、煤煙地区で行っている活動への大きな期待を感じていた。貧困と汚染に喘ぐあの場所で、彼女の知識は、まさに希望の光となるかもしれない。
(だが、彼女は孤立している…アカデミーからも、おそらく実家からも見放され、あの危険な場所でたった一人で…)
何か、自分にできることはないだろうか。公式に支援することは、今の自分の立場では難しい。下手に動けば、彼女を更に危険な立場に追いやってしまうかもしれない。
レオンは考え抜いた末、一つの行動を起こすことにした。彼は、煤煙地区の現状と、そこで行われている住民による自発的な生活改善の試み(エミリアの名前は伏せつつ)について、詳細なレポートを作成した。そして、そのレポートを、匿名で、しかし彼が信頼できると考える、比較的リベラルで影響力のある数名の貴族や、改革派の官僚へと送付したのだ。すぐに何かが変わるとは思えない。だが、まずは現状を知ってもらうこと、問題意識を共有することが重要だと考えたのだ。それは、レオンなりの、ささやかな抵抗であり、未来への布石だった。
【煤煙地区・黒爪ジャックの事務所】
薄暗い事務所の中、黒爪ジャックは、テーブルに置かれた一つの粗末な石鹸を、忌々しげに睨みつけていた。それは、腹心の一人が、市場で「エミリアの石鹸」と噂されているものを手に入れてきたものだった。
「…チッ、くだらねぇモンを作りやがって」ジャックは、石鹸を指で弾き飛ばした。「だが、これが思った以上に、下の連中の間で評判になってるらしいじゃねぇか」
報告によれば、エミリアの活動は、もはや単なるお嬢様の道楽ではない。洗濯女のサラのような、地区内でも顔の利く連中を巻き込み、住民たちの支持を着実に集め始めている。それは、ジャックにとって、看過できない状況だった。
「あの女、調子に乗りすぎだ…俺の縄張りを、好き勝手に荒らしやがって」ジャックは、テーブルを拳で叩いた。「グレイブス!」
彼の呼びかけに、部屋の隅の影の中から、音もなく痩身の男、グレイブスが現れた。その目は、相変わらず感情を映さず、冷たく光っている。
「あの錬金術師の女…エミリアとか言ったな。奴の素性と、弱みを徹底的に調べ上げろ」ジャックは、低い声で命令した。「それから、少し『脅し』をかけてやれ。派手にやるなよ。奴がこの地区から逃げ出すか、あるいは、俺たちの言うことを聞くように、ジワジワと追い詰めるんだ。…殺すな。まだ、あの知識には使い道があるかもしれんからな」
「…承知しました」
グレイブスは、感情のない声で短く答えると、再び影の中へと姿を消した。ジャックの事務所には、彼の不機嫌な唸り声だけが残された。
その日から、エミリアの工房の周りに、不穏な影が見え隠れするようになった。物陰からじっと工房を監視する視線。フィンや、サラたち協力者の後をつける怪しい人影。直接的な暴力こそないものの、それは明らかに、エミリアたちへの警告であり、圧力だった。
フィンは、「最近、変な奴がうろついてる」とエミリアに報告し、サラも、「洗濯仲間の一人が、帰り道に見知らぬ男に絡まれたらしい」と、不安げに語った。
エミリアは、カラスの警告と、ギブソン親方の忠告を思い出し、背筋に冷たいものを感じていた。ジャックの組織が、本格的に動き出したのかもしれない。だが、相手は影のように巧妙で、尻尾を掴ませない。エミリアにできることは、より一層の警戒と、そして自分の活動を止めることなく、むしろ加速させることだけだった。ここで怯んでは、相手の思う壺だ。
6. 改良版、誕生! 新たな波紋、新たな価値
度重なる試行錯誤と、住民たちの協力、そしてギブソン親方やマリアの助言。それら全てが結実し、ついに、エミリアは改良版の石鹸を完成させた。
それは、試作品第1号とは比べ物にならないほど、品質が向上していた。
アルカリ濃度は、卵白を使ったチェックと、酢による微調整で、肌に優しい弱アルカリ性に安定させることができた。油脂の配合も見直し、洗浄力を保ちつつ、ラノリン(羊毛脂)を少量加えることで、保湿性も向上させた。香りも、カミツレ、ミント、そしてレモンの皮から抽出した爽やかな香りの3種類を用意した。形も、親方が作ってくれたカッターのおかげで、均一な大きさに切り分けられている。
「…できたわ! これなら、きっと皆さんに喜んでもらえるはず!」
エミリアは、完成したばかりの石鹸を手に、達成感に満ちた笑顔を浮かべた。サラたち協力者も、自分たちが関わった石鹸の出来栄えに、歓声を上げて喜んだ。
完成した改良版石鹸は、まず、これまで協力してくれた住民たちに、感謝の印として配られた。その評判は、瞬く間に地区内に広まった。
「この石鹸、前のよりずっと良いよ! 泡がクリーミーで、洗い上がりがしっとりする!」
「ミントの香り、すっきりして気持ちいいねぇ! 汗臭さも取れる気がするよ」
「子供の肌にも優しいみたいだ。痒がらなくなったよ!」
絶賛の声が、エミリアの元に次々と届いた。そして、それと共に、「この石鹸を、ぜひ売ってほしい」という要望が、日増しに高まっていったのだ。
エミリアは、少し迷った。自分の目的は、金儲けではない。だが、工房を維持し、研究を続け、さらに多くの人々を助けるためには、やはり活動資金が必要だ。それに、住民たちも、ただ施しを受けるのではなく、正当な対価を払って良いものを手に入れたい、という気持ちがあるのかもしれない。
エミリアは、サラやギブソン親方にも相談した。
「あたしは、売るべきだと思うよ」サラは言った。「こんな良いものを、タダで配り続けるわけにもいかないだろう? それに、ちゃんと値段をつけることで、あんたの仕事の価値も認められるってもんさ」
「ふん、好きにしやがれ」親方はぶっきらぼうに言った。「だが、値段設定は考えろよ。安すぎれば、あんたが潰れる。高すぎれば、誰も買えねぇ。それに、下手に儲けすぎると、また厄介な連中が寄ってくるぞ」
エミリアは、熟慮の末、石鹸を有料で頒布することを決めた。ただし、その価格は、材料費と、工房の維持に必要な最低限の経費、そして協力してくれた住民へのわずかな手間賃のみを上乗せした、極めて良心的なものに設定した。1個あたり、銅貨数枚程度。それでも、黒がね市場で売られている粗悪な石鹸よりは少し高かったが、その品質を考えれば、破格の安さだった。
エミリアは、工房の入口に小さな看板を出し、「再生石鹸」と名付けた製品の販売を開始した。それは、彼女にとって、初めて自分の錬金術の成果を「商品」として世に出す瞬間であり、工房『再生の枝』が、単なる研究施設ではなく、地域に貢献する「事業」としての第一歩を踏み出した瞬間でもあった。
「再生石鹸」の評判は、煤煙地区の境界を越えて、少しずつ外部にも漏れ伝わり始めていた。黒がね市場の商人たちは、その安さと品質に注目し、「ウチでも扱わせてくれ」と交渉に来る者も現れた。中には、中央区からわざわざ買いに来る、物好きな(あるいは、エミリアの噂を聞きつけた)客も、ごく稀にだが現れるようになった。
それは、エミリアの活動が、新たな可能性を広げている証拠だった。だが、同時に、目立てば目立つほど、風当たりも強くなる。新たな協力者が現れる一方で、彼女の成功を妬み、あるいは利用しようとする者たちからの、見えざる圧力や妨害も、これから本格化していくのかもしれない。
7. 夕暮れの教室、未来へのレシピ
夕暮れ時。煤煙地区の空が、一日の終わりを告げる、鈍いオレンジ色に染まっている。工房『再生の枝』の前では、エミリアが開いた青空教室が終わったばかりで、子供たちが、地面に覚えたての文字を書き殴ったり、フィンを中心に何やら騒いだりしている。彼らの無邪気な笑い声が、灰色の路地に響いていた。
工房の中では、エミリアとサラ、そして数人の洗濯女たちが、今日出来上がったばかりの「再生石鹸」を、エミリアがデザインした再生紙の素朴なラベルで、一つ一つ丁寧に包装していた。石鹸の優しい香りと、女性たちの穏やかな話し声が、工房を満たしている。作業台の上には、改良を重ねた石鹸のレシピが記された、エミリアの研究ノートが開かれている。そこには、もはや彼女一人の知識だけでなく、住民たちの声や、仲間たちの協力の跡が、確かに刻み込まれていた。
エミリアは、窓から外の子供たちの様子を眺めながら、胸の中に広がる温かい感情を噛み締めていた。絶望的な状況の中で、見つけた自分の居場所。知識を分かち合い、共に汗を流し、少しずつ未来を変えていこうとする仲間たちの存在。それは、アカデミーでも、貴族社会でも、決して得ることのできなかった、かけがえのない宝物だった。
だが、同時に、彼女は忘れてはいなかった。カラスの警告。時折感じる、背後からの不穏な視線(おそらく、グレイブスのものだろう)。この穏やかな日常が、いつ脅かされるか分からないという、常に隣り合わせの危険。
(再生への道は、まだ始まったばかり…)
喜びも、困難も、全てを受け止めて、前に進むしかない。エミリアは、心の中で強く誓った。
「よし、今日の作業はこれくらいにしようかね!」サラが、明るい声で言った。「みんな、お疲れさん! また明日、頼むよ!」
女性たちは、互いに労いの言葉をかけ合いながら、家路についていく。フィンも、「姉ちゃん、また明日な!」と手を振って、仲間たちと駆けていった。
一人になった工房で、エミリアは、包装された石鹸の山を見つめた。それは、単なる洗浄剤ではない。廃油という「見捨てられたもの」から生まれた、「再生」の象徴。そして、多くの人々の想いが込められた、未来への希望の欠片なのだ。
(私の錬金術は、やっぱり、このためにあるんだわ)
エミリアは、研究ノートを手に取り、新たなページを開いた。そこには、次なる目標が記されている。「土壌改良堆肥の開発」「共同菜園の計画」「簡易的な栄養補助食品の試作」…。やるべきことは、無限にある。
立ち止まっている暇はない。
煤煙地区の夜の帳が下り始める中、工房『再生の枝』の窓には、ランプの灯りが、まるで小さな星のように、いつまでも温かく輝いていた。