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第5話:泡立つ希望と、危険な火加減

1. 泥中の宝探し ~廃油と灰汁を求めて~


工房『再生の枝』の土間に、新たな「材料」が集まり始めていた。それは、お世辞にも芳しいとは言えない、様々な色と粘度を持った液体の入った、汚れた瓶や壺の数々。料理で使い古された植物油、肉を焼いた際に出た動物性の脂、中には何の油か判別もつかないような、どす黒く濁ったものまである。これらが、エミリアがこれから挑む「安価石鹸」の主原料、廃油だった。


しかし、その収集は決して容易なものではなかった。カラスが教えてくれた黒がね市場近くの屋台街。そこでは、怪しげな串焼きや揚げ物が、安い値段で売られていた。エミリアは意を決して、その一角、ひときわ油汚れた暖簾を掲げる小さな屋台の店主に声をかけた。

「あの、すみません。料理で使った後の、古い油を分けていただけないでしょうか?」

店主は、ギョロリとした目でエミリアを見た。その目は、値踏みと警戒心で光っている。

「あぁ? 廃油だぁ? なんでそんなモンが欲しいんだい、嬢ちゃん」

「…ある物の材料として、必要なんです。もし、捨てる予定でしたら、少し譲っていただけると…」

「捨てる? へっ、馬鹿言っちゃいけねぇ」店主は鼻で笑った。「この油だって、まだ使い道があるんだぜ。濾して、新しい油に混ぜちまえば…っと、こいつはいけねぇ、商売の秘密だったな」

彼はニヤニヤしながら続けた。「まあ、どうしても欲しいってんなら、分けてやらんでもないが…タダってわけにはいかねぇな。そうだな、銀貨1枚で、そこの壺一杯分、どうだい?」

銀貨1枚。それは、ただの廃油にしては法外な値段だった。エミリアは言葉を失う。

「銀貨1枚は、あまりにも…」

「じゃあ、いらねぇのかい? なら帰りな」店主は、取り付く島もない。


別の屋台でも、似たような反応だった。「そんな汚ねぇモン、何に使うんだ?」と怪訝な顔をされたり、「タダで欲しけりゃ、代わりにウチの裏のドブ掃除でもしていくか?」と厄介な条件を出されたり。中には、エミリアが若い女性であることにつけ込んで、卑猥な言葉を投げかけてくる者さえいた。

(こんなことでは、とても十分な量の廃油を集められないわ…)

エミリアは、打ちのめされた気持ちで、屋台街を後にしようとした。その時だった。


「姉ちゃん! こっちこっち!」

聞き覚えのある、元気な声。路地の物陰から、フィンが手招きをしていた。その手には、油で汚れた小さなブリキ缶を持っている。

「フィン! どうしたの?」

「へへん、見てくれよ!」フィンは得意げにブリキ缶を掲げた。「これ、さっきそこの串焼き屋の裏でゲットしてきたんだぜ! あのオヤジが便所に行ってる隙に、こっそりとな!」

缶の中には、まだ温かい、比較的綺麗な廃油が入っていた。どうやら、店主が交換したばかりの揚げ油のようだ。

「ま、まさか、盗んできたんじゃ…」エミリアは顔を青くした。

「ち、ちげーよ! 盗んだんじゃなくて、えーっと…『借りて』きたんだよ! どうせ捨てるモンなんだろ? ちょっとくらい、いいじゃねーか!」フィンは慌てて言い訳したが、その目は泳いでいる。

エミリアは、フィンの行動を諌めるべきか、しかし目の前の貴重な廃油を前にして、言葉に詰まった。フィンは、エミリアを助けたい一心でやったのだろう。その気持ちは嬉しい。だが、やり方が…。

「…フィン、気持ちは嬉しいけれど、人様の物を勝手に持ってくるのは良くないわ。次からは、ちゃんと断ってからにしましょうね?」

「ちぇっ、姉ちゃんは固いこと言うなぁ」フィンは口を尖らせたが、エミリアの真剣な表情を見て、しぶしぶ頷いた。「…わーったよ。次は気をつける」

「ありがとう。でも、この油は本当に助かるわ。ありがとうね、フィン」

エミリアが礼を言うと、フィンは少し照れたように、「へへ…役に立っただろ?」と笑った。


フィンの「お手柄」(?)のおかげで、いくらかの廃油は手に入ったものの、まだまだ量は足りない。エミリアは、地道に他の屋台や、食料品店などを回り、根気強く交渉を続けた。時には、少額の銅貨を支払ったり、工房の掃除を手伝ったりすることで、少しずつ廃油を集めていった。動物性のラードなども、屠殺場の近くで働くという男から、パンと交換で分けてもらうことができた。


廃油と並行して、もう一つの重要な材料、アルカリ源となる「灰汁あく」の準備も進めなければならない。

エミリアは、ギブソン親方の工房の炉や、近所の住民から分けてもらった木灰を集めた。これを水に溶かし、しばらく放置して不純物を沈殿させ、その上澄み液を取る。これが、水酸化カリウムや炭酸カリウムを主成分とする、天然のアルカリ溶液、灰汁だ。

しかし、この灰汁作りも、一筋縄ではいかなかった。使う木灰の種類や燃え方によって、アルカリの濃度が大きく変わってしまうのだ。濃度が薄すぎれば、油と反応して石鹸になる「鹸化けんか」がうまく進まない。逆に濃すぎれば、出来上がった石鹸が強アルカリ性になり、肌をひどく刺激してしまう。最悪の場合、濃いアルカリ液が皮膚に触れると、火傷のような酷い炎症を引き起こす危険もあった。


エミリアは、アカデミーで習った知識を頼りに、簡易的な方法で濃度を測ろうとした。例えば、灰汁に鳥の羽を浮かべてみて、その溶け具合で濃度を判断したり、あるいは、特定の植物の汁(酸性やアルカリ性で色が変わるもの)を指示薬として使ってみたり。

だが、いずれも正確性に欠け、勘に頼る部分が大きい。

「これでは、安定した品質の石鹸を作るのは難しいわ…」

最初の試みで作った灰汁は、濃度が強すぎたのか、試しに革手袋の上から少量垂らしてみただけで、手袋の表面が僅かに変質し、ヒリヒリとした刺激を感じた。

(危ない…! 素手で触っていたら…)

エミリアは、アルカリを扱うことの危険性を改めて認識し、身震いした。安全な作業のためにも、より正確に濃度を管理する方法を見つけなければならない。比重計のようなものがあれば良いのだが、そんな精密な器具は、今の工房にはない。自作するしかないのだろうか…?

課題は、山積みだった。


2. 炎と泡との格闘 ~最初の鹸化反応~


材料がある程度揃い、灰汁の濃度も(まだ不確実ながら)何度か調整を試みた後、エミリアはいよいよ、最初の石鹸作りに挑戦することにした。選んだのは、フィンが「借りて」きた、比較的状態の良い植物性の廃油と、何度か作り直した灰汁。そして、マリアから分けてもらった、乾燥カミツレを少量。


場所は、工房の土間。ギブソン親方が補修してくれた、耐火粘土製の簡易錬金釜(蓋付きの壺に近い)を使う。まずは、廃油を釜に入れ、ゆっくりと加熱する。不純物を取り除くためと、鹸化反応を促進するためだ。油が温まってきたところで、調整した灰汁を、少しずつ、慎重に加えながら、木製の長い攪拌棒で絶えずかき混ぜ続ける。


理論上は、これで油脂が加水分解され、脂肪酸とグリセリンに分かれ、脂肪酸がアルカリと反応して石鹸(脂肪酸カリウム)になるはずだ。単純な化学反応。アカデミーの実験室では、何度も成功させてきた手順だ。

だが、現実は、教科書通りにはいかなかった。


「…うーん、なんだか反応が鈍いわね…」

エミリアは、釜の中のドロドロとした液体をかき混ぜながら、眉をひそめた。廃油に含まれる不純物が、反応を阻害しているのかもしれない。あるいは、灰汁のアルカリ濃度が、まだ足りないのか?

もう少し加熱してみようか。エミリアは、釜の下の石炭の火力を少し強めた。


その時だった。

ゴポゴポッ!と、釜の中の液体が、突然、激しく泡立ち始めたのだ。そして、次の瞬間、バシャッ!と音を立てて、熱い油とアルカリの混じった液体が、釜から噴き出した!

「きゃっ!」

エミリアは咄嗟に後ろへ飛びのき、顔を腕で庇った。幸い、飛沫は足元にかかっただけで、直接浴びることはなかったが、床に飛び散った液体が、ジュウ、と音を立てて白く変色しているのを見て、血の気が引いた。もし、あれを浴びていたら…。

「な、何が起こったの…!?」

突沸とっぷつだ。急激な加熱により、液体内部で発生した蒸気が、一気に噴出したのだ。廃油の粘度が高かったことと、不純物が核となって沸騰を誘発したことが原因だろう。


「この馬鹿たれが! 何やってやがる!!」

突然の怒声に、エミリアはびくりと肩を震わせた。いつの間にか、ギブソン親方が、鬼のような形相で工房の入口に立っていた。どうやら、釜から液体が噴き出す音を聞きつけて、飛んできたらしい。

「ぼ、棒立ちになってんじゃねぇ! さっさと火を弱めろ! それから換気だ! 変なガスを吸い込むぞ!」

親方は、エミリアを怒鳴りつけながらも、素早く行動した。釜の下の石炭を掻き出し、扉と窓を開け放つ。工房内に充満していた、油とアルカリの混じった、むせ返るような匂いが、外の(これも汚れた)空気と入れ替わっていく。


エミリアは、親方の剣幕に怯えながらも、言われた通りに後始末を手伝った。床に飛び散った危険な液体を、砂で覆って吸着させる。

「…申し訳ありません、親方。私の不注意で…」

作業が一段落したところで、エミリアは消え入りそうな声で謝った。

「ふん、謝って済むか! 下手をすりゃ、大火傷だぞ! 最悪、火事になって、この工房ごと吹っ飛んでたかもしれん!」親方の怒りは収まらない。「そもそも、そんな粗末な釜で、得体の知れねぇ油なんぞを煮て、石鹸を作ろうなんざ、無謀なんだよ!」

「ですが、他に方法が…」

「方法ならあるだろうが!」親方は、エミリアが使っていた木製の攪拌棒を掴み取った。「まず、この棒だ! こんな太くて不恰好なモンでかき混ぜてたら、均一に混ざるわけがねぇだろうが! もっと細くて、しなりのある材質のモンを使え! それから、加熱だ! 一気に火力を上げるんじゃねぇ! 弱い火で、じっくり、時間をかけて温度を上げていくんだ! 焦りは禁物だ!」

親方は、普段のぶっきらぼうな口調とは違い、まるで職人が弟子に教えるように、具体的な問題点を指摘していく。

「それから、釜の中の対流だ。底の方ばかり熱くなって、上が冷たいままじゃ、反応にムラが出る。釜の形状も悪いが…まあ、それは今更どうしようもねぇ。せめて、かき混ぜ方を工夫しろ。底から掬い上げるように、ゆっくり、大きく混ぜるんだ。そうすりゃ、多少はマシになるだろう」

金属加工の知識が、意外な形で化学反応の制御に応用されている。エミリアは、親方の言葉に目から鱗が落ちる思いだった。アカデミーの知識だけでは見えてこなかった、実践的な知恵がそこにはあった。


「…ありがとうございます、親方。勉強になります」エミリアは素直に頭を下げた。

「へっ、口先だけなら何とでも言えるわ」親方は、まだ不機嫌そうだったが、その表情は少し和らいでいた。「…まあ、どうしてもやるってんなら、見ててやる。ただし、次はヘマするんじゃねぇぞ」

そう言うと、親方は工房の隅にどかりと腰を下ろし、腕組みをして、エミリアの作業を監視し始めた。その存在は、プレッシャーでもあったが、同時に心強いものでもあった。


親方の厳しい(しかし的確な)指導のもと、エミリアは再び石鹸作りに挑んだ。火加減を慎重に調整し、攪拌の方法を工夫する。時間はかかったが、今度は突沸を起こすこともなく、釜の中の液体は、ゆっくりと、しかし確実に変化していった。油と灰汁が混ざり合い、粘度が増し、やがて、白濁した、クリーム状の物質へと変わっていった。鹸化反応が進んでいる証拠だ。

「…よし、こんなもんか」

親方の許可が出て、エミリアはようやく火から釜を下ろした。中には、まだ熱い、ドロリとした石鹸の「素」ができあがっていた。これに、砕いたカミツレの乾燥花を混ぜ込み、型(工房で見つけた古い木箱を再利用したもの)に流し込む。


あとは、これが冷えて固まり、乾燥・熟成するのを待つだけだ。

しかし、出来上がった「素」の状態を見れば、これが成功とは言い難いことは明らかだった。色はくすんだ灰色で、廃油の嫌な匂いがまだ残っている。それに、均一に混ざりきらなかったのか、油分が少し分離している部分もある。

(…やっぱり、簡単じゃないわね)

エミリアは、溜息をつきたい気持ちを抑えた。それでも、これは失敗ではない。次へのステップなのだ。今日の経験と、親方の助言を活かせば、次はもっと良いものが作れるはずだ。


「…まあ、初めてにしちゃ、こんなモンだろう」親方は、エミリアの心中を察したのか、慰めるように(もちろん、口調はぶっきらぼうだが)言った。「すぐに上手くいくと思うなよ。どんな仕事も、最初は失敗の連続だ。大事なのは、そこから何を学ぶかだ」

そう言い残し、親方は自分の工房へと戻っていった。

エミリアは、親方の言葉を噛み締めながら、まだ温かい石鹸の型を、工房の棚へと運んだ。


3. 頼もしき姉御肌 ~サラ、登場~


数日が過ぎた。エミリアが作った最初の石鹸(?)は、なんとか固まったものの、やはり見た目も匂いも悪く、とても人様に渡せるような代物ではなかった。試しに少し削って水に溶かしてみたが、泡立ちは悪く、洗浄力も低い。おまけに、使った後、少し手がヒリヒリするような気もする。アルカリがまだ強すぎるのかもしれない。

(廃油の精製が必要ね…それと、灰汁の濃度管理をもっと正確にしないと…)

エミリアは、研究ノートに改善点を書き込みながら、新たな課題に頭を悩ませていた。


そんな時、工房の扉が勢いよく開けられた。

「よお! あんたが噂の錬金術師のエミリアさんかい?」

現れたのは、日に焼けた健康的な顔立ちの、快活そうな女性だった。歳はエミリアより少し上、20代前半だろうか。茶色の髪をポニーテールにし、動きやすそうな、しかし清潔な衣服を身に着けている。その隣には、同じように洗濯女風の女性が二人、少し緊張した面持ちで立っていた。

「はい、私がエミリアですが…あなたは?」

「あたしはサラだよ!」女性は、ニカッと歯を見せて笑った。「ここの洗濯女たちの、まあ、まとめ役みたいなことをやってるのさ」

サラ。先日、マリアの店で話を聞いた、あの洗濯女だ。

「サラさん! あの時はどうも」

「ああ、あんた、マリアさんの店にいたね!」サラは合点がいったように手を打った。「やっぱり、あんただったんだね! あの後、あんたが石鹸を作ってるって噂を聞いてさ、こりゃあ直接話をしなきゃと思って、仲間と来てみたのさ」


サラは、工房の中を興味深そうに見回し、棚の上に置かれたエミリアの試作品の石鹸に目を留めた。

「へぇ、これが噂の石鹸かい? どれどれ…」

彼女は、躊躇なく石鹸の塊を手に取り、匂いを嗅ぎ、指で表面を擦ってみた。

「…ふーん。まあ、見た目はアレだけど…」サラは、顔をしかめる仲間たちを尻目に、あっけらかんと言った。「でも、匂いは思ったほど悪くないね。薬草の匂いがする。それに、触った感じも、そこまでザラザラしてるわけじゃない」

彼女は、エミリアに向き直った。

「で? これ、使えるのかい?」

「…いえ、残念ながら、まだ試作品で…洗浄力も低いですし、少し肌への刺激もあって…」エミリアは正直に答えた。

「なーんだ、そうなのかい」サラは、少しがっかりしたような顔をしたが、すぐに気を取り直して笑った。「まあ、そりゃそうだよね! そんな簡単に、良い石鹸が作れるわけないか!」

彼女のカラッとした態度に、エミリアは少し拍子抜けした。もっと幻滅されるかと思っていたのだ。

「でもさ」サラは、エミリアの肩をポンと叩いた。「あんたが、あたしたちのために、本気で石鹸を作ろうとしてくれてるってことは、よーく分かったよ! だからさ、あたしたちも協力するぜ!」

「えっ、協力…?」

「おうよ!」サラは力強く頷いた。「だって、一番石鹸を必要としてるのは、毎日、油と泥と汗にまみれた洗濯物と格闘してる、あたしたちだからね! どんな石鹸が欲しいか、一番よく分かってるのも、あたしたちさ!」

サラの言葉に、隣にいた仲間たちも頷いている。

「それに、材料の廃油だって、あたしたち洗濯仲間で声をかければ、もっとたくさん、しかも質の良いやつを集められるはずさ! みんな、どうせ捨てる油の処分に困ってるんだからね!」

サラは、持ち前の行動力とリーダーシップを発揮し始めた。

「よし、決まりだ! あんたは、もっと良い石鹸を作るための研究に専念してくれ! 材料集めや、どんな石鹸が欲しいかの要望出しは、あたしたちに任せときな!」


それは、エミリアにとって、願ってもない申し出だった。一人で抱え込んでいた問題が、一気に解決へと向かうような気がした。

「…ありがとうございます、サラさん! 皆さん! とても助かります!」

「いいってことよ! その代わり、できたら、あたしたちに一番に試させておくれよ?」サラは悪戯っぽく笑った。

「はい! もちろんです!」


サラたちは、嵐のようにやって来て、嵐のように去っていった。だが、彼女たちの残していったエネルギーと協力の申し出は、エミリアの心に大きな希望を与えた。一人ではない。この街には、一緒に問題に立ち向かってくれる仲間がいるのだ。


4. 「再生」の輪、広がる協力


サラの呼びかけは、すぐに効果を発揮した。翌日から、工房『再生の枝』には、様々な住民が、大小さまざまな容器に入った廃油を持って訪れるようになったのだ。その多くは、サラと同じ洗濯女たちだったが、中には、近所の食堂の主人や、子沢山の母親、あるいは「どうせ捨てるものなら、何かの役に立つなら」と、善意で協力してくれる一般の住民もいた。


「エミリアさん、これ、うちで天ぷらを揚げた時の油だけど、まだ綺麗だから使えるかい?」

「これは、肉を焼いた時の脂だよ。匂いが強いけど、大丈夫かね?」

「うちの亭主が工場の機械油を持って帰ってきたんだけど、こんなんでも使えるのかい?」


工房の土間は、あっという間に、多種多様な廃油で埋め尽くされていった。エミリアは、協力への感謝を述べながら、集まった廃油を一つ一つ確認し、種類ごとに分別していく作業に追われた。

(これは植物油、これは動物性油脂、これは…鉱物油? これは石鹸には使えないわね…)

廃油の種類によって、出来上がる石鹸の性質(硬さ、泡立ち、洗浄力など)は大きく変わる。それに、不純物の種類や量も様々だ。

エミリアは、簡単な見分け方(色、粘度、匂い、低温での固まり方など)を考え出し、サラたち協力してくれる住民に伝えた。

「できるだけ、油の種類ごとに分けて持ってきてもらえると助かります。特に、鉱物油(機械油など)は絶対に混ぜないでください。それと、酷く焦げ付いていたり、異物がたくさん混じっていたりする油は、石鹸には使いにくいので…」

最初は戸惑っていた住民たちも、エミリアの説明を聞き、自分たちの協力がより良い石鹸作りに繋がることを理解すると、積極的に分別に協力してくれるようになった。それは、単なる施しではなく、自分たちも「再生」のプロセスに参加しているのだという、ささやかな誇りを彼らに与えたようだった。


そんな中、フィンも独自の活動(?)を開始していた。彼は、近所の孤児仲間数人を集めて、「廃油回収隊」なるものを勝手に結成したのだ。

「いいか、お前ら! この街から、汚ねぇ油を一掃するんだ! 見つけ次第、回収して、エミリア姉ちゃんのところに届けるぞ! たくさん集めた奴には、姉ちゃんから特別ボーナスが出る(かもしれない)からな!」

フィンは、隊長気取りで仲間たちに檄を飛ばし、子供たちはゲーム感覚で、路地裏やゴミ捨て場から、捨てられた廃油(が入っているかもしれない容器)を探し回った。もちろん、中には本当にただのゴミや、危険な薬品が入っていることもあり、エミリアはフィンたちに、見つけたものを直接触らず、必ず大人エミリアやサラに報告するように、厳しく言い聞かせなければならなかったが。

それでも、子供たちの純粋なエネルギーは、廃油回収に大きく貢献し、工房にはますます多くの「資源」が集まるようになった。


エミリアは、集まった廃油を前に、新たな課題に取り組んでいた。それは、廃油の「精製」だ。不純物や嫌な匂いを取り除き、より質の高い石鹸を作るために。

彼女は、活性炭(自作のもの)を使って廃油を濾過したり、水蒸気蒸留のような原理で匂い成分を除去したりする方法を試みた。あるいは、特定の植物(消臭効果のあるハーブなど)を油に浸け込んで、匂いを和らげる方法も考えた。

どれも、限られた設備と材料の中で行うのは困難だったが、エミリアは諦めなかった。試行錯誤を繰り返し、少しずつ、より良い精製方法を見つけ出していく。


協力の輪は、廃油回収だけにとどまらなかった。灰汁を作るための木灰も、住民たちが積極的に持ってきてくれるようになった。中には、「うちの庭に生えてるカミツレだけど、使うかい?」と、薬草を提供してくれる人まで現れた。

工房『再生の枝』は、もはやエミリア一人の場所ではなく、煤煙地区の住民たちが、自分たちの手で生活を改善しようとする、小さな希望の拠点となりつつあったのだ。


5. 泡立つ希望 ~試作品第1号の誕生~


住民たちの協力と、自身の試行錯誤の末、エミリアは再び石鹸作りに挑む準備を整えた。前回よりも質の良い廃油を選別し、自作の活性炭フィルターで簡単な精製を施す。灰汁も、簡易的な比重計(目盛りを付けた木片を浮かべるもの)を自作し、前回よりも慎重に濃度を調整した。そして、マリアから教わった通り、カミツレの花をオイルに浸して抽出したエキスを用意した。


「よし、今度こそ…!」

エミリアは、気合を入れ直し、簡易錬金釜に火を入れた。隣では、ギブソン親方が(相変わらず腕組みをして)厳しい目で見守り、フィンは「助手」として、材料を運んだり、火の番をしたりと、甲斐甲斐しく動き回っている。サラも、洗濯仲間数人と共に、興味津々で作業の様子を見学に来ていた。


前回の失敗と、親方の助言を活かし、エミリアは慎重に作業を進めた。ゆっくりとした加熱、丁寧な攪拌、温度変化への注意。釜の中の液体は、前回よりもスムーズに反応が進み、均一で滑らかな、クリーム色の「石鹸の素」へと変化していった。仕上げに、カミツレのエキスを加えると、ふわりと優しい香りが漂う。

「…よし、今度は上手くいったようだな」

親方の、珍しく肯定的な言葉に、エミリアはほっと胸を撫で下ろした。


石鹸の素を型に流し込み、数日間、乾燥と熟成の時間を置く。その間、エミリアも、協力してくれた住民たちも、固唾を飲んで完成を待った。

そして、ついに、試作品第1号が完成した。

形はまだ少し不揃いで、色も市販の石鹸のような白さはない、素朴なクリーム色だ。だが、前回の失敗作とは比べ物にならないほど、しっかりとした固さがあり、泡立ちも悪くない。何より、廃油の嫌な匂いはほとんど消え、代わりにカミツレの優しい香りがする。そして、試しに使ってみても、前回のような肌への刺激は感じられなかった。


「できた…! できました!」

エミリアは、完成した石鹸を手に、思わず歓声を上げた。フィンも、サラたちも、そしてギブソン親方(彼は相変わらず無表情を装っていたが、目元は少しだけ和んでいた)も、その完成を喜んだ。


エミリアは、早速、完成した試作品の石鹸を、サラをはじめ、廃油回収や灰集めに協力してくれた住民たちに配り、実際に使ってもらうことにした。

「まだ試作品なので、完璧ではありませんが…ぜひ、使ってみて、感想を聞かせてください。皆さんの声が、もっと良い石鹸を作るためのヒントになりますから」


数日後、工房には、石鹸を使った住民たちからのフィードバックが続々と集まってきた。

「エミリアさん、あの石鹸、すごく良かったよ! 泡立ちもいいし、汚れも前よりずっと落ちる!」

「カミツレの香り、優しい匂いで癒やされるねぇ」

「前みたいに手が荒れなくなったのが、一番嬉しいよ!」

肯定的な意見が多く、エミリアは心から安堵した。だが、中には厳しい意見や、改善の要望もあった。

「確かに良いんだけど、やっぱり泥汚れみたいな頑固な汚れは、まだ落ちにくいかなぁ…」

「もう少し、泡が長持ちすると嬉しいね」

「使った後、やっぱり少し肌が乾燥する感じがするんだよね。もっとしっとりすると最高なんだけど」

「他の香りも試してみたいわ! 例えば、バラとか…」(これは、少し贅沢な要望かもしれないが)


エミリアは、寄せられた意見の一つ一つを、真剣な表情で研究ノートに書き留めていった。喜びの声は励みになり、改善の要望は次なる目標となる。住民たちの生の声こそが、何よりの道標なのだ。

(洗浄力、泡持ち、保湿力、香り…まだまだ改良すべき点はたくさんあるわね。でも、方向性は間違っていないはず!)

確かな手応えを感じながら、エミリアは次なる改良への意欲を燃やしていた。


6. 黒い影の再来、そして行政の視線


住民たちのフィードバックをまとめ、石鹸の改良案を練っているエミリアの工房に、予告なく、あの男が再び姿を現した。情報屋カラスだ。彼は、いつものように音もなく現れ、壁に寄りかかってエミリアの様子を窺っていた。

「…盛況じゃないか、錬金術師さん。どうやら、例の『お役立ちグッズ』は、上手くいったようだな」

カラスは、テーブルの上に置かれた試作品の石鹸と、住民たちの感想が書かれたメモに目を留めた。

「カラスさん…」エミリアは、彼の出現に内心で身構えながらも、冷静に対応した。「ええ、おかげさまで、なんとか形にはなりました。これが、試作品の石鹸です」

エミリアは、小さな石鹸のかけらをカラスに差し出した。取引の履行だ。

カラスは、石鹸を受け取り、指先で弄びながら、匂いを嗅ぎ、品定めするように観察した。

「ふーん…廃油から作ったにしちゃ、上出来じゃないか。匂いも悪くない。これなら、確かに欲しがる奴はいるだろうな」

彼は、石鹸そのものよりも、むしろ、エミリアの周りで起きている変化に関心があるようだった。

「それより、驚いたね。あんたの周りに、思ったより早く人が集まり始めた。特に、あのサラとかいう洗濯女…ああいう手合いは、一度信用すると厄介だぜ。良くも悪くもな」

カラスの黒い瞳が、どこか面白がるように細められる。

「あんた、自分が何をやっているか、本当に分かってるのかい? ただの石鹸作りじゃない。あんたは、この煤煙地区の淀んだ水に、波紋を広げすぎている。ジャックがこれを知ったら、どう思うかねぇ…?」

その言葉には、前回よりもさらに明確な、不穏な響きが込められていた。まるで、嵐の前の静けさを告げるかのように。

「…忠告、感謝します」エミリアは、努めて平静に答えた。「ですが、私は、私のやるべきことを続けるだけです」

「へぇ…威勢がいいね」カラスは、ふっと息を漏らすように笑った。「まあ、せいぜい足元を掬われないように気をつけるんだな。あんたのその『再生の枝』が、あっけなくへし折られるところは、あまり見たくないんでね」

それだけ言うと、カラスはまたしても影のように姿を消した。彼の残した不気味な余韻が、工房の空気を重くする。エミリアは、改めてジャックという存在の脅威と、自分の活動が持つ危険性を認識し、気を引き締めた。


【首都アヴァロン・都市管理局】


若き官僚レオン・オーブライトは、執務室で膨大な書類の山と格闘していた。彼の担当する環境衛生課(貧困対策担当部署)には、首都の暗部とも言える煤煙地区からの報告が、日々、山のように届けられる。そのほとんどが、改善の見られない汚染状況や、蔓延する病気、そして絶望的な貧困に関する、暗い内容ばかりだった。

レオンは、正義感と理想に燃えて官僚になったが、現実はあまりにも厳しく、予算不足と上層部の無理解、そして貴族たちの利権が絡み合った巨大な壁に、無力感を募らせる日々だった。


その日も、彼は煤煙地区の定例報告書に目を通していた。衛生状況、治安、住民の動向…どれも代わり映えのしない、憂鬱な報告ばかり。諦めにも似た溜息をつきかけた、その時だった。報告書の末尾にある「特記事項」の欄に、彼の目が釘付けになった。


『特記事項:

地区内在住の「錬金術師」を名乗る女性(氏名不詳、推定年齢20代前半)による活動、依然活発。先般報告の井戸水浄化事案に加え、最近は地区内の廃油を収集し、「石鹸」の製造に着手。製造プロセスには、一部住民(主に洗濯婦グループ、リーダー格:サラと名乗る女性)が協力しており、コミュニティ内で一定の関心と支持を集めつつある模様。現時点において、治安上の大きな問題は発生していないが、今後の動向、特に既存の地区内勢力("黒爪"のジャック等)との関係性を注視する必要あり。』


「…錬金術師が、石鹸製造…? 住民を巻き込んで…?」

レオンは、思わず呟いていた。煤煙地区のような場所で、そんな活動をしている人間がいるとは、にわかには信じがたい。しかも、錬金術師だという。アカデミーに所属するような、エリート階級のはずの錬金術師が、なぜ、あんな場所で…?

(まさか、あの時の…?)

レオンの脳裏に、数年前、まだ彼が官僚になる前、苦学していた時代に偶然耳にした、ある噂が蘇った。王立アカデミーで、貴族の令嬢でありながら、貧民救済に繋がるような「異端」の錬金術研究を推し進め、保守的な教授たちに睨まれて排斥されたという、一人の女子学生の話。たしか、その名前は…

レオンは、報告書の余白に、ペンで走り書きをした。


『エミリア・ヴァーミリオン?』


もし、あの噂が真実で、その女性が今、煤煙地区にいるのだとしたら…?

それは、この膠着した状況を打ち破る、何か新しい可能性になるかもしれない。あるいは、更なる混乱の火種となるのか…?

レオンは、報告書を手に、窓の外に広がる首都の街並みを見つめた。その視線は、遠く、灰色の空が広がる南東の方角へと向けられていた。


7. 泡立つ希望、次なるステップへ


工房に戻ってきたエミリアは、カラスの警告による不安を振り払うように、住民たちから集まったフィードバックが書かれたメモを、改めて丁寧に整理していた。

洗浄力、泡立ち、保湿性、香り…改善すべき点は、明確だ。

(洗浄力を上げるには、鹸化率をもっと高める必要があるわね。それには、やはりアルカリ濃度の正確な管理が不可欠…簡易比重計の精度を上げるか、あるいは…別の方法を考えないと)

(泡持ちを良くするには、使う油脂の種類を変えるか、あるいは…何か泡立ちを助ける天然の添加物を探す?)

(保湿性を高めるには、グリセリンを分離させずに残す製法(コールドプロセス法など)を試すか、あるいは、シアバターや蜜蝋のような、保湿効果の高い油脂を加える? でも、そんな高価な材料、煤煙地区で手に入るかしら…)

(香りも、カミツレだけじゃなく、もっと種類を増やせたら、使う人も楽しいかもしれないわね。ミントや、柑橘系の皮からなら、香りを抽出できるかもしれない…)


次から次へと、アイデアと課題が浮かんでは消えていく。それは、困難な道のりではあるが、エミリアにとっては、知的好奇心を刺激される、充実した時間でもあった。

彼女は、研究ノートに、新たな改良案を次々と書き込んでいく。数式、化学式、実験手順、材料の候補…。その表情は、真剣そのものだが、瞳の奥には、確かな情熱の光が揺らめいていた。


ふと、窓の外を見ると、フィンが仲間たちと、工房の前で何かを熱心に話し込んでいる。どうやら、「廃油回収隊」の次の作戦会議でもしているようだ。その傍らでは、サラが他の洗濯女たちと、エミリアが作った試作品の石鹸について、感想を交換し合っている。遠くからは、ギブソン親方の工房の、規則正しい金槌の音が聞こえてくる。

ここは、煤煙地区。見捨てられた、灰色の街。だが、今、この場所で、確かに何かが動き始めている。再生への、小さな、しかし確かな鼓動が。


エミリアは、テーブルの上に置かれた、試作品の石鹸を手に取った。不格好で、素朴な石鹸。だが、ここには、多くの人々の協力と、期待と、そして未来への希望が詰まっている。

(もっと良いものを…もっと安全で、皆が安心して、笑顔で使えるものを…!)

その想いを胸に、エミリアは再びペンを手に取った。立ち止まっている暇はない。彼女の錬金術は、まだ始まったばかりなのだから。


工房の窓から差し込む、煤煙地区の鈍い、しかし決して絶望的ではない光の中で、小さな石鹸が、まるで未来への希望を囁くかのように、ささやかな泡を立てているように見えた。

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