第4話:再生の土台と、新たな種
1. 灰色の朝、現実の重み
夜明け。煤煙地区の空は、今日も期待を裏切らない、重たい鉛色だった。工房『再生の枝』の二階、板張りの床に敷かれた藁布団(というより、藁の束に近い)の上で、エミリアはゆっくりと目を開けた。体中の筋肉が、昨日の活動を主張するように軋んでいる。特に腕と腰が痛い。しかし、その痛みは不快なだけではなかった。自分の手で何かを成し遂げた証のような、心地よい疲労感も伴っていた。
(…水、ちゃんと煮沸してくれているかしら)
昨日の出来事が、鮮明に蘇る。住民たちの驚き、そして安堵の表情。差し出された、わずかだが心のこもった報酬。錬金術師として、これほど直接的に感謝されたのは初めてかもしれない。アカデミーでは、論文の評価や教授の覚えが全てだった。だが、ここでは違う。自分の知識が、目の前の人々の困難を、ほんの少しでも和らげることができたのだ。その事実は、エミリアの心に、これまで感じたことのない温かい光を灯していた。
身を起こし、軋む階段を降りて一階の土間へ。昨日よりも幾分か片付いたとはいえ、まだ工房と呼ぶには程遠い空間だ。それでも、ここは自分の城なのだ。エミリアは、小さな達成感を胸に、工房の古びた扉を開けた。
ひんやりとした、煤と湿気の混じった朝の空気が流れ込んでくる。いつもと同じ、淀んだ空気のはずなのに、今日は少しだけ違うように感じられた。気のせいだろうか。
工房の前を通り過ぎる住民たちの様子が、昨日までとは明らかに違っていた。以前は、好奇と侮蔑、あるいは無関心がほとんどだった視線が、今は少しだけ和らいでいる。遠巻きにこちらを見ながら、ひそひそと何かを話している者もいる。まだ警戒心はあるだろうが、あからさまな敵意は感じられなかった。
「よう、エミリアさん」
聞き覚えのある低い声に振り返ると、昨日、浄水を依頼してきたリーダー格の男、ボルグが立っていた。その顔には、昨日見せた険しさはなく、どこか照れたような、ぎこちない笑みが浮かんでいる。
「ボルグさん。おはようございます」
「おう。昨日は、本当に助かった」ボルグは頭を掻きながら言った。「皆、喜んでたぜ。ちゃんと、飲む前には煮沸するように、口酸っぱく言っておいたから、心配いらねぇ」
「そうですか、良かった」エミリアは心から安堵した。浄水剤だけでは不十分だとあれほど言ったのだ。ちゃんと伝わっていて良かった。
「だがな…」ボルグは少し表情を曇らせた。「あの浄化の粉、あれは、また作ってもらえるのか? 昨日ので、もうほとんどなくなっちまったんだが…」
「はい、もちろん。材料さえあれば、いつでも作れます。ただ…」
エミリアは言い淀んだ。材料費も、決してタダではないのだ。
ボルグは、エミリアの様子を察したようだった。
「ああ、分かってる。タダでとは言わねぇ。だが、俺たちも日銭で暮らしてる身だ。一度に大金は払えねぇ。少しずつでも、代金を払うってことで、何とかならねぇか?」
「…分かりました。材料費の実費だけいただければ、それで結構です。利益を乗せるつもりはありませんから」エミリアは頷いた。今は、信頼を得ることの方が重要だ。
「本当か!? ありがてぇ!」ボルグの顔がぱっと明るくなった。「よし、皆にもそう伝えておくぜ! 材料費は、俺が責任持って集める!」
ボルグは、どこか嬉しそうに、仲間たちの元へと戻っていった。
彼らの喜びは、エミリアにとっても嬉しいことだった。だが、同時に、現実は容赦なく彼女にのしかかる。
工房に戻り、朝食の準備をする。といっても、昨日住民からもらった黒パンの残り半分と、水だけだ。昨日屑鉄を売って得た銀貨8枚と銅貨数十枚、そして浄水の報酬としてもらった銅貨数枚。これが、今のエミリアの全財産だ。家賃は前払いしたが、次の支払いまで一ヶ月。それまでに、食費だけでなく、工房の設備投資や研究材料費を稼がなければならない。
(ボルグさんたちから材料費はもらえるとしても、それだけでは…)
黒パンをゆっくりと齧りながら、エミリアはため息をついた。アカデミーにいた頃は、お金の心配などしたこともなかった。必要なものは、申請すれば研究費で購入できたし、実家からの仕送りもあった。だが、今は違う。自分の力だけで、この厳しい現実を生き抜いていかなければならないのだ。
(まずは、工房の環境を整えないと。それから、何か安定した収入に繋がるような…錬金術で、何か作って売ることはできないかしら?)
思考を巡らせながら、エミリアは最後のパンくずを飲み込んだ。感傷に浸っている暇はない。やるべきことは山積みだ。彼女は立ち上がり、仕事用の革エプロンを身に着け、まずはギブソン親方の工房へと向かうことにした。約束通り、仕事を手伝い、道具作りの知恵を借りなければ。
2. 鉄と汗と、頑固者の教え
ギブソン親方の金属加工所は、朝から活気に満ちていた。炉がゴウゴウと音を立てて燃え盛り、親方が巨大な金槌を振り下ろすカン、カンという音が、規則正しく響き渡っている。熱気と、鉄の焼ける匂い、石炭の燃える匂いが工房を満たしていた。
「ちわーす!」
エミリアが入口で声をかけると、下働きらしい二人の少年が、煤けた顔でこちらを見た。親方は、真っ赤に焼けた鉄塊を砧の上で打ち据えるのに集中していて、すぐには気づかない。
「親方! 例の嬢ちゃんが来やしたぜ!」
少年の一人が声を張ると、親方はようやく手を止め、汗の噴き出す額を腕で拭いながら、こちらを睨んだ。
「…おう、来たか。遅ぇじゃねぇか」
「申し訳ありません。少し…考え事をしていました」
「ふん、お貴族様は朝が弱いと見えるな」親方は相変わらずの憎まれ口を叩きながらも、手にした金槌を置いた。「まあいい。突っ立ってねぇで、さっさと手伝え。そこに積んである鉄屑を、種類ごとに分けて向こうの隅に運んどけ。ただし、手を抜いたら承知しねぇぞ」
親方が指差したのは、工房の隅に山と積まれた、錆びたり歪んだりした様々な形状の金属片だった。廃工場から出たものか、あるいは壊れた道具の残骸か。これを種類ごとに分けるだけでも、大変な作業になりそうだ。
「はい!」
エミリアはエプロンの紐を結び直し、革の手袋(これも親方が貸してくれた、古いが丈夫なものだ)をはめ、早速作業に取り掛かった。
鉄、銅、真鍮、鉛…素材によって色も重さも違う。中には、見たことのない合金らしきものもある。エミリアは、アカデミーで学んだ金属学の知識を思い出しながら、一つ一つ手に取り、分類していく。重い鉄塊を持ち上げ、指定された場所まで運ぶ。単純な作業だが、かなりの重労働だ。すぐに息が上がり、額に汗が滲む。
「おい、嬢ちゃん! そいつは鉄じゃねぇ、錫と鉛の合金だ! もっとよく見やがれ!」
「そっちの銅屑は、もっと丁寧に扱え! 傷つけたら価値が下がるだろうが!」
親方の鋭い檄が飛ぶ。彼は自分の作業をしながらも、エミリアの仕事ぶりをしっかりと監視しているようだった。その指摘は厳しく、容赦ないが、的確でもあった。エミリアは、叱咤されながらも、必死で作業を続けた。
午前中の大半を、その鉄屑の分別作業に費やした。作業が終わる頃には、エミリアは汗だくで、腕はパンパンになっていた。それでも、やり遂げたという達成感があった。
「…ふん。まあ、思ったよりは根性があるようだな」親方は、綺麗に分別された鉄屑の山を見て、少しだけ満足そうな顔をした。「よし、昼飯にしろ。ウチで食ってけ」
親方は、工房の奥にある小さなテーブルに、黒パンと、干し肉の入った無骨なスープ、そして水の入った金属製のカップを用意してくれた。下働きの少年たちも、作業を中断してテーブルにつく。
エミリアも、ありがたく相伴にあずかることにした。空腹だったこともあり、質素な食事だったが、涙が出るほど美味しく感じられた。
「…ありがとうございます。ご馳走様です」
「礼なんざいい。働いた分だ」親方はぶっきらぼうに言い、スープを啜った。
食事中、エミリアは思い切って、工房の設備について尋ねてみた。
「あの、親方。私の工房の棚なのですが、いくつか壊れていて…。昨日お借りした道具で直そうと思うのですが、何かコツはありますでしょうか?」
「棚だと? あんなもん、釘で打ち付けりゃいいだけだろうが」
「それが、木材が古くなっているせいか、うまく固定できなくて…」
親方は、やれやれという顔で溜息をついた。
「…しゃーねぇな。後で見に行ってやる。それと、他に何か作りてぇモンがあるんじゃなかったのか? 錬金術師様には、色々と特殊な道具が必要なんだろ?」
「はい! あの、もし可能であれば、簡易的な濾過装置と、天秤を作りたいのですが…」
エミリアは、持参した研究ノートの端に描いた、簡単な設計図を見せた。濾過装置は、大きさの違う砂利と砂、そして自作の活性炭を層状に重ね、布でフィルターを作る構造。天秤は、木製の棹の中心を支点で支え、両端に真鍮製の皿を吊るす、古典的な棹秤だ。
親方は、その設計図を、眉間に皺を寄せながら覗き込んだ。
「ふむ…濾過装置の方は、まあ、こんなモンだろう。砂と炭の層の順番と厚さがキモだな。あと、水漏れしないように、器の接合部をしっかり作るこった。問題は、こっちの天秤だ」
親方は、天秤の図面を指差した。
「見た目は単純だが、正確なモンを作るのは難しいぞ。まず、棹の材質だ。軽くて、反りや歪みの少ない木材を選ばねぇと、すぐに狂っちまう。それから、支点だ。ここが滑らかに動かねぇと、微量な重さの違いが分からねぇ。支点の軸受けには、硬くて摩耗しにくい金属か、あるいは…そうだな、磨いた石を使う手もある。一番難しいのは、棹のバランスだ。左右の腕の長さと重さが完全に均等になってねぇと、正確な計量はできねぇ。皿を吊るす糸の長さも、きっちり合わせる必要がある」
親方は、澱みなく注意点を挙げていく。その口調は、まるでアカデミーの厳格な教授のようだった。やはり、彼はただの田舎の鍛冶屋ではない。優れた技術と知識を持っているのだ。
「…そんなに、難しいものなのですね」エミリアは、少し気落ちした。
「当たり前だ。精密な道具ってのは、そういうモンだ」親方は言った。「だがな、まあ、不可能じゃねぇ。幸い、ウチには旋盤の古いのがある。棹の加工くらいなら、それで何とかなるかもしれん。皿にする真鍮の板も、端材があるはずだ。支点の軸受けは…まあ、手持ちの材料で一番マシなモンを探してやる」
「! 本当ですか!?」エミリアの顔が輝いた。
「ただし、タダじゃねぇぞ」親方は、にやりと笑った。「天秤を作る代わりに、お前さんには、俺の仕事をもっと手伝ってもらう。ふいごの操作、炉の管理、道具の手入れ…覚えることは山ほどあるからな。覚悟しとけよ」
「はい! 望むところです!」
エミリアは力強く頷いた。技術を学びながら、必要な道具が手に入る。これほどありがたい話はない。
午後は、親方の指導を受けながら、工房の棚の修理を行った。古い木材の扱い方、釘の打ち方、補強の仕方など、親方の教えは実践的で、エミリアにとって新鮮な知識ばかりだった。不器用な手つきで、何度も失敗しながらも、なんとか棚を修理し終えた時には、日が傾きかけていた。
「ふん、まあ、これなら当分は持つだろう」親方は、修理された棚を見て、珍しく少しだけ褒めるような言葉を口にした。「明日は、あの濾過装置とやらの器を作るぞ。材料は用意しとけ」
「はい! ありがとうございました!」
エミリアは深々と頭を下げ、親方の工房を後にした。体は疲れているはずなのに、心は不思議と軽かった。自分の手で何かを作り上げる喜びと、確かな知識を学べる喜びが、彼女を満たしていた。
3. 小さな影、繋がる心
翌日から、エミリアの日常は規則正しいものになった。午前中はギブソン親方の工房で仕事を手伝い、金属加工や道具作りの基礎を学ぶ。午後は自分の工房に戻り、設備の整備や、錬金術の研究、そして住民からの依頼(浄水剤の作成など)に応える。食事は相変わらず質素だが、親方の工房で昼食をご馳走になったり、住民から報酬として野菜やパンをもらったりすることで、なんとか食いつなぐことができた。
そんな日々の中で、エミリアの工房に小さな常連客ができた。フィンだ。
最初の数日は、工房の入口から遠巻きに様子を窺っているだけだったが、エミリアが作業に集中していると、いつの間にか工房の中に入り込み、隅の方で黙って彼女の仕事ぶりを眺めているようになった。
エミリアは、フィンを邪険に扱わなかった。むしろ、彼がいることに気づくと、にこやかに声をかけ、作業の合間に話しかけるようにした。
「フィン、今日は何してたの?」
「別に…川沿いをうろついてただけだ」
「何か面白いものでも見つけた?」
「さあな…ガラクタばっかりだ」
会話はぎこちなく、フィンは相変わらずぶっきらぼうだったが、以前のような刺々しさは消え、少しずつエミリアに心を開き始めているようだった。
ある日の午後、エミリアが自作の濾過装置(ギブソン親方の指導で作った、木製の箱に砂利、砂、活性炭を詰めたもの)の調整に苦労していると、フィンがおずおずと近づいてきた。
「…姉ちゃん、なんか困ってんのか?」
「ええ、この濾過器、水の流れがどうも悪くて…砂の層が詰まっているのかもしれないわ」
「ふーん…ちょっと見せてみろよ」
フィンは、意外にも興味を示し、濾過装置を覗き込んだ。彼は煤煙地区の地理や、物の仕組みについて、子供ながらに鋭い観察眼を持っていることがあった。
「あー、ここの砂、粒が細かすぎんじゃねぇか? これじゃすぐに詰まるだろ。もう少し粗い砂と混ぜてみたらどうだ?」
「なるほど…確かにそうかもしれないわね」エミリアはフィンの指摘に感心した。「ありがとう、フィン。試してみるわ」
フィンは、自分の意見が役に立ったことが嬉しいのか、少し得意げな顔をした。
「…なあ、姉ちゃん。俺にも何か手伝えることないか?」
突然の申し出に、エミリアは驚いた。
「手伝ってくれるの?」
「おう! 見てるだけじゃつまんねぇし」フィンは少し照れたように言った。「その代わり…なんか、うまいモン食わせてくれよ!」
やはり、報酬目当てではあったが、その申し出はエミリアにとって嬉しいものだった。
「ふふ、分かったわ。じゃあ、この材料を棚まで運ぶのを手伝ってくれる?」
エミリアは、昨日手に入れた薬草の束を指差した。
「へっ、そんなの楽勝だぜ!」
フィンは、軽い足取りで薬草を運び始めた。だが、調子に乗って走り出したため、足元のガラクタに躓き、派手に転んで薬草を床にぶちまけてしまった。
「あいたたた…」
「大丈夫!?」エミリアは慌てて駆け寄った。幸い、フィンに怪我はなかったが、散らばった薬草を見て、彼はしょんぼりと俯いた。
「…ごめん、姉ちゃん」
「いいのよ、怪我がなくて良かったわ」エミリアは優しく言った。「ほら、一緒に拾いましょう」
二人で黙々と薬草を拾い集める。フィンは、失敗したことが相当悔しいのか、唇を噛み締めている。
「…俺、やっぱり役立たずだな」
ぽつりと、フィンが呟いた。
「そんなことないわ」エミリアは、フィンの頭を優しく撫でた。「誰だって、最初は失敗するものよ。大切なのは、失敗から学んで、次に活かすこと。それに、あなたはさっき、濾過器の良いアイデアを教えてくれたじゃない。とても助かったわ」
エミリアの言葉に、フィンは少しだけ顔を上げた。その大きな瞳には、戸惑いと、そして微かな喜びの色が浮かんでいた。
それから、フィンは毎日午後に工房へやって来て、エミリアの「助手」として、簡単な作業を手伝うようになった。材料運び、道具の整理、工房の掃除。相変わらず失敗も多かったが、彼は少しずつ作業に慣れ、エミリアにとっても頼りになる存在になりつつあった。エミリアは、その報酬として、わずかだが銅貨を渡したり、自分の食事を分け与えたりした。
ある日、エミリアが研究ノートに何かを書き込んでいると、フィンが隣に座り込み、興味深そうにそのノートを覗き込んだ。ノートには、錬金術の記号や数式、そしてびっしりと書き込まれた文字が並んでいる。
「…姉ちゃん、それ、何て書いてあんだ?」
「これはね、錬金術の研究ノートよ。新しい薬や道具の作り方を考えたり、実験の結果を記録したりするの」
「へぇ…」フィンは感心したように言った。「俺、文字とか読めねぇから、何が書いてあるか全然わかんねぇや」
その言葉に、エミリアははっとした。煤煙地区では識字率が低いと聞いていたが、フィンも例外ではなかったのだ。
「…そう。もし、あなたが興味があるなら、私が少しずつ教えてあげましょうか? 文字や、簡単な計算を」
「えっ、本当か!?」フィンの目が輝いた。「でも、俺、頭悪いし…」
「そんなことはないわ。あなたはとても賢い子よ。それに、知りたいと思う気持ちがあれば、誰だって学べるわ」エミリアは微笑んだ。「時間はかかるかもしれないけれど、一緒に頑張ってみない?」
「…うん! やる!」
フィンは力強く頷いた。その日から、工房での作業の合間に、エミリアがフィンに文字を教える時間が始まった。エミリアは、工房で見つけた木の板の切れ端に炭で文字を書き、フィンはその形を真似て、何度も何度も練習する。最初は簡単な自分の名前から。フィンは、初めて自分の名前を書けた時、照れくさそうに、しかし満面の笑みを浮かべた。
その笑顔を見て、エミリアの心も温かくなった。知識は、誰かの可能性を広げる力がある。そのことを、改めて実感した瞬間だった。
4. 痒みと汚れ、新たな挑戦の予感
浄水剤の評判は、口コミで少しずつ煤煙地区に広がっていった。エミリアの工房には、浄水剤を求める住民が、ぽつぽつと訪れるようになった。彼らは、以前のような敵意や疑念ではなく、困惑と、そしてかすかな期待を持ってエミリアに接してきた。エミリアは、その都度、丁寧に対応し、浄水剤と共に「必ず煮沸すること」を繰り返し伝えた。
そんなある日、工房に一人の若い母親が、幼い子供の手を引いて訪ねてきた。彼女は、浄水剤のお礼を述べた後、困惑した表情で切り出した。
「あの、エミリアさん…水は本当に綺麗になって助かってるんですが…実は、うちの子、このところずっと体を痒がっていて…見てください、こんなに赤くなってしまって」
母親は、子供の腕まくりをして見せた。そこには、掻きむしったような赤い発疹が痛々しく広がっている。
「この子だけじゃないんです。近所の子供たちも、同じように肌を痒がっていて…。水が原因じゃないとしたら、一体何なんでしょう?」
母親の言葉に、エミリアは考え込んだ。確かに、水が綺麗になっても、他の衛生環境が変わらなければ、肌のトラブルは起こりうる。
「…おそらく、汚れや汗がきちんと落ちていないのかもしれません。それに、この地区の空気は、肌に良くない物質も含まれていますから…」
その時、別の女性も会話に加わってきた。彼女は、日雇いの洗濯女をしているらしく、日に焼けた逞しい腕をしていた。
「そうなんだよ! 洗濯しても、服の汚れがなかなか落ちなくてねぇ。特に、工場の油汚れなんかは最悪さ。ゴシゴシ洗うから、手も荒れちまうし…」
彼女は、ひび割れて赤くなった自分の手を見せた。
女性たちの訴えを聞きながら、エミリアは確信した。この地区には、効果的で、かつ安全な洗浄剤が圧倒的に不足しているのだ。人々は、汚れた水だけでなく、不衛生な環境そのものに苦しめられている。
(石鹸…安価で、洗浄力があって、しかも肌に優しい石鹸を作ることができれば…)
それは、錬金術の知識、特に有機化学と油脂化学の知識があれば、決して不可能なことではないはずだ。廃油と、木灰から作る灰汁を反応させれば、基本的な石鹸は作れる。問題は、洗浄力を高めつつ、肌への刺激を抑えるための工夫と、安定した品質で量産する方法だ。
「…分かりました。少し、考えてみます」エミリアは女性たちに言った。「もしかしたら、皆さんの役に立てるような、新しい洗浄剤を作れるかもしれません」
「本当かい!?」女性たちの顔が、期待に輝いた。「もしそんなものができたら、どんなに助かるか…!」
女性たちが帰った後、エミリアは早速、石鹸作りのための情報収集を始めた。まずは、マリアの薬草店『癒しの葉』へ向かう。
「こんにちは、マリアさん」
「おや、エミリアさん。いらっしゃい」マリアは、いつもの穏やかな笑顔で迎えてくれた。「今日は、どんなご用かな?」
「あの、石鹸を作ろうと考えているのですが…」エミリアは切り出した。「肌荒れを防ぐような薬草と、石鹸の材料について、教えていただけませんか?」
「石鹸作りかい?」マリアは、少し驚いたように目を見開いたが、すぐに納得したように頷いた。「なるほどねぇ…水の次は、清潔さ、というわけだね。良い心がけだよ」
マリアは、棚からいくつかの薬草を取り出した。
「肌荒れに良い薬草なら、カミツレやトウキンセンカはどうだい? 炎症を抑えて、肌を穏やかにする働きがある。これらをオイルに浸して、成分を抽出してから石鹸に混ぜ込むと良いだろうね」
「カミツレとトウキンセンカ…ありがとうございます!」
「それから、石鹸の材料だが…アルカリ源としては、木灰から取る灰汁が一番手軽だろうね。ただし、濃度を間違えると、肌を焼くほど強いアルカリになってしまうから、扱いには細心の注意が必要だよ。油脂は、どうするんだい? この辺りじゃ、新しい油は貴重品だが…」
「廃油を使おうと思っています。料理で使った後の油や、動物性の脂などを集められないかと…」
「廃油ねぇ…」マリアは少し考え込んだ。「確かに、それなら手に入りやすいだろうね。ただ、不純物が多いから、そのまま使うと質の悪い石鹸になってしまうかもしれない。精製するか、あるいは…香りの強い薬草で、嫌な匂いを隠す必要があるだろうね」
マリアの助言は、いつもながら的確で、エミリアの研究意欲を刺激した。
「ありがとうございます、マリアさん。とても参考になります」
「どういたしまして。だがね、エミリアさん」マリアは、エミリアの目をじっと見つめた。「石鹸作りも、錬金術の一つ。火と、強い薬品を使うことになるだろう。決して、油断してはいけないよ。失敗すれば、大火傷をしたり、工房を火事にしてしまうことだってあり得るんだからね」
「…はい。肝に銘じます」
マリアの言葉の重みを受け止め、エミリアは薬草店を後にした。
帰り道、エミリアは、洗濯女の女性が言っていた言葉を思い出していた。
(サラさん…だったかしら。彼女のような人たちが、一番石鹸を必要としているのかもしれないわね…)
いつか、彼女たちとも協力して、何かできるかもしれない。そんな予感が、エミリアの胸に芽生えていた。
5. 黒い外套の警告、影との取引
工房に戻り、研究ノートにマリアから得た情報や石鹸作りのアイデアを書き込んでいると、背後にふっと人の気配を感じた。驚いて振り返る間もなく、低い、皮肉めいた声が響く。
「熱心なこったね、錬金術師さん。今度は、石鹸作りかい?」
カラスだった。いつの間に現れたのか、黒い外套を翻し、壁に寄りかかるようにして立っている。その黒い瞳は、エミリアのノートに書かれた内容を正確に読み取っているようだった。
「カラスさん…! どうしてそれを…」
「情報屋を舐めないでほしいね」カラスは肩をすくめた。「あんたの工房からは、いつも何かしら面白い匂いが漂ってくるんでね。薬草と…これは、アルカリの匂いか? それに、あんたの周りでは、最近『石鹸』の噂が囁かれ始めてる」
彼の情報網は、エミリアの想像以上に広範囲に及んでいるようだ。
「…ええ、その通りです。住民の方から相談を受けて、安価で安全な石鹸を作れないかと考えています」エミリアは警戒しながらも、事実を認めた。
「ふーん、感心だねぇ。水の次は、清潔さか。まるで、この煤けた街を丸ごと洗濯しようって勢いだ」カラスは面白そうに言ったが、その目は笑っていなかった。「だがね、エミリアさん。あんたのその『善意』が、命取りになるかもしれないぜ?」
「…どういう意味ですか?」
「あんたがやった浄水の件、もう『黒爪のジャック』の耳にもしっかり入ってる」カラスの声が、わずかに低くなった。「ジャックはな、この地区の流通を牛耳ってる。それには、『汚い水』の販売も含まれてるんだ。もちろん、表向きは普通の水を売ってるテイだがな。出所の怪しい水や、ろくに消毒もしてない川の水を、貧乏人に高値で売りつけてるのさ。あんたが井戸水を綺麗にしちまったおかげで、ジャックの『お得意様』が減るかもしれん。それは、奴にとって面白くないことだ」
エミリアは息を呑んだ。そんな裏があったとは、思いもしなかった。
「それだけじゃない」カラスは続けた。「ジャックはこの地区の『王様』だ。住民が、役人でも、教会の人間でもない、どこの馬の骨とも知れん女錬金術師に感謝し、頼りにし始める…それ自体が、ジャックの支配を脅かす可能性がある。奴は、自分の縄張りで、自分以外の誰かが力を持つことを、極端に嫌う男だ」
カラスは、壁から体を離し、一歩エミリアに近づいた。その黒い瞳が、鋭くエミリアを射抜く。
「あんたのやっていることは、正しいのかもしれない。だが、この煤煙地区では、正しさだけでは生き残れない。下手をすれば、あんたはジャックに目をつけられ、潰されるぞ。そうなったら、あんたが助けようとしている住民たちも、どうなるか分からん」
その言葉は、冷たい刃のようにエミリアの胸に突き刺さった。恐怖が、じわりと背筋を這い上がってくる。
「…では、私はどうすれば…? やめるべきだと…?」
「さあね」カラスは肩をすくめた。「俺は、あんたにどうしろと指図する立場じゃない。ただ、事実を伝えただけだ。忠告料は、銅貨20枚、と言いたいところだが…」
カラスは、再び金のサインを作った。
「今回は、別の形でもらおうかな。あんたが次に作る、その『お役立ち石鹸』とやらの情報を、完成したら一番に俺に寄越すこと。それと、石鹸の材料に必要な『廃油』を、安く、しかも安定して手に入れられる場所の情報も、ついでに教えてやる。これでどうだい?」
それは、脅しであり、同時に取引の提案でもあった。カラスは、エミリアの活動を危険視しながらも、そこに何らかの価値(あるいは利用価値)を見出しているようだった。
エミリアは、しばらくの間、カラスの真意を測るように、その黒い瞳を見つめ返した。彼の言う通り、ジャックの存在は無視できない脅威だ。だが、だからといって、ここで諦めるわけにはいかない。それに、廃油の入手先は、石鹸作りにとって不可欠な情報だ。
「…分かりました。その取引、受けます」エミリアは、意を決して答えた。
「賢明な判断だ」カラスは、満足げに頷いた。「廃油なら、黒がね市場の近くで、怪しげな揚げ物を売ってる屋台がいくつかある。そこの連中は、古い油を捨てる場所に困ってるはずだ。うまく交渉すりゃ、タダ同然で譲ってくれるかもしれん。ただし、質は最悪だろうがな。あとは…そうだな、川沿いの屠殺場の裏にも、動物性の脂が捨てられてることがある。これもタダだが、取りに行くには度胸がいるだろうな」
「ありがとうございます…」
「礼には及ばんよ。これは取引だからな」カラスは言い、再び黒い外套のフードを目深にかぶった。「じゃあ、せいぜい気をつけるんだな、錬金術師さん。あんたの『再生の枝』が、へし折られないことを祈ってるよ」
皮肉な言葉を残し、カラスはまたしても音もなく、工房から姿を消していた。
6. 再び、立ち止まらない決意
カラスが去った後、工房には重苦しい沈黙が残った。ジャックの脅威。それは、エミリアが考えていた以上に、具体的で、現実的なものだった。自分の行動が、意図せずして危険な人物の怒りを買い、自分だけでなく、関わってくれる人々をも危険に晒す可能性がある。その事実に、エミリアは強い不安と恐怖を感じていた。
(私は、間違っているのだろうか…? この街で錬金術を使うことは、やはり危険なだけなの…?)
弱気が、またしても鎌首をもたげる。アカデミーで排斥された時のように、またしても自分の信じる道が、周囲との軋轢を生んでしまうのか。
俯きかけたエミリアの脳裏に、ふと、子供の腕に広がっていた痛々しい発疹と、それを心配する母親の顔が浮かんだ。洗濯で荒れてしまった洗濯女の手。そして、初めて自分の名前を書けた時の、フィンの嬉しそうな笑顔。
そうだ。この街には、助けを必要としている人々がいる。自分の知識と技術を、待っていてくれる人々がいる。
(ここで立ち止まったら、何のために私はここに来たの…?)
恐怖はある。危険もあるだろう。だが、それ以上に、やり遂げたいことがある。自分の錬金術で、この見捨てられた街に、少しでも希望の光を灯したい。その想いは、揺るがなかった。
エミリアは、ぎゅっと拳を握りしめた。
(やるしかない。慎重に、でも、確実に。私のやり方で)
彼女は、研究ノートを手に取り、新しいページを開いた。そこには、マリアから聞いた薬草の名前、カラスから得た廃油の情報、そして石鹸作りのための化学式や手順が、力強い筆跡で書き込まれていく。
『再生のレシピ No.2:安価石鹸(仮称)』
目的: 煤煙地区住民のための、安価で安全な洗浄剤の提供。衛生環境の改善。
主な材料: 廃油(植物性/動物性)、木灰由来の灰汁(水酸化カリウム/水酸化ナトリウム)、塩、薬草抽出油(カミツレ、トウキンセンカ等)、香料(任意)。
工程概要:
廃油の精製(不純物除去、脱臭)。
灰汁の濃度調整(重要!)。
油脂とアルカリ液の鹸化反応(加熱・攪拌)。
塩析(グリセリン分離、任意)。
薬効成分・香料の添加。
型入れ、冷却、乾燥、熟成。
課題: 廃油の品質安定化、アルカリ濃度の精密な管理、コスト削減、肌への安全性確保…。
やるべきことは多い。解決すべき課題も山積みだ。だが、エミリアの瞳には、もう迷いはなかった。エメラルドグリーンの瞳の奥に、再び強い決意の光が宿る。
工房の片隅では、エミリアがギブソン親方の指導で作った、まだ新しい濾過装置や、これから組み立てる予定の天秤の部品が、静かに出番を待っている。そして、補修された簡易錬金釜は、次なる「再生」の炎が灯される時を、今か今かと待ちわびているようだった。
立ち止まらない錬金術師、エミリア・ヴァーミリオンの新たな挑戦が、今、始まろうとしていた。