第3話:希望の雫、立ち止まらない錬金術
1. 挑戦の始まり、分析の光
工房に戻ったエミリアは、男たちが残していった汚水の入った瓶を、慎重に作業台の上に置いた。ずしりとした重みが、そのまま彼女の双肩にのしかかるようだ。失敗すれば、住民たちの不信感は決定的なものとなり、この煤煙地区で生きていく道は閉ざされるだろう。だが、成功すれば、それは大きな一歩となる。
「…まずは、分析からね」
エミリアは気を引き締め、革鞄から数少ない分析道具を取り出した。数本のガラス製試験管、アルコールランプ、そして何よりも重要な、彼女の知識が詰まった研究ノート。精密な分析機器など望むべくもない状況で、頼れるのは自分の五感と、基礎的な化学反応、そして長年培ってきた知識と経験だけだ。
まず、瓶の中の水を注意深く観察する。色は黄褐色に濁り、粘性はやや高い。鼻を近づけると、腐った卵のような匂い(硫化水素か?)と、アンモニア臭、そして微かに金属的な匂いが混じっている。底には黒っぽい泥状の沈殿物があり、水面には虹色に光る油膜が薄く広がっている。
「見た目と匂いだけでも、相当ひどい汚染ね…生活排水、有機物の腐敗、それに…おそらく上流の工場からの廃液も混じっている可能性があるわ」
エミリアは試験管に少量のサンプルを取り、様々な角度から光にかざして観察する。浮遊している微細な粒子を確認。次に、アルコールランプで慎重に加熱してみる。沸点は水よりもわずかに低く、加熱すると刺激臭が強くなった。揮発性の汚染物質も含まれているようだ。
次に、昨日マリアの店で手に入れた鉱物や、工房で見つけた薬品の残りを使って、簡易的な定性分析を試みる。
焼ミョウバンの溶液を少量加えると、白いゲル状の沈殿物がゆっくりと生成された。これは、水中の懸濁物質や一部の金属イオンと反応している証拠だ。
硫黄の粉末を溶かした溶液(硫化水素水)を微量加えてみると、黒っぽい沈殿がさらに増えた。鉛や銅などの重金属が含まれている可能性が高い。
「やはり…重金属汚染の疑いがあるわね。これは厄介だわ…」
重金属は少量でも人体に有害であり、単純な煮沸では除去できない。住民たちが腹痛や発熱を起こしている原因は、細菌だけでなく、この重金属汚染も関係しているのかもしれない。
エミリアはノートに分析結果を書き込みながら、浄化のプロセスを組み立てていく。
「第一段階:凝集沈殿。ミョウバンのような凝集剤で、泥や有機物、一部の重金属を沈殿させる。
第二段階:吸着。活性炭のような吸着剤で、溶解している有害物質や臭い、色を除去する。特に重金属の吸着が重要ね。
第三段階:濾過。沈殿物や吸着剤を取り除く。
最終段階:煮沸消毒。細菌やウイルスを殺菌する」
問題は、これらのプロセスを、煤煙地区で手に入る安価な材料で、しかも特別な設備なしに実現する方法だ。
凝集剤としては、焼ミョウバンが有効だが、継続的に使うにはコストがかかる。何か代わりになるものは…? 植物性の凝集剤、例えば特定の豆かすなどに含まれるタンパク質が利用できるかもしれない。
吸着剤としては、木炭が最も手軽だ。だが、ただの木炭では吸着能力が低い。表面積を増やし、活性を高めた「活性炭」が必要だ。これは、木炭を特定の条件下で処理すれば作れるはず。
濾過器は、布や砂、小石などを組み合わせれば簡易的なものが作れるだろう。
「鍵は、安価で効果の高い凝集剤と、高性能な活性炭の作成ね…」
エミリアは方針を固めた。必要な材料をリストアップする。
良質な木炭(活性炭の原料)、凝集剤として使えそうな豆かす、そして濾過器の材料となる砂や布。
まずは、これらの材料を調達しなければならない。時間はあまりない。住民たちは、今もあの汚染された水を飲んでいるかもしれないのだから。
2. 黒い外套の情報屋
「さて、どこで手に入れようかしら…」
エミリアは工房の入口に立ち、思案に暮れていた。黒がね市場に行けば、木炭や豆かすくらいは見つかるかもしれない。だが、質はどうだろうか。活性炭に適した硬い木材から作られた木炭が必要だ。それに、市場の商人が素直に適正な価格で売ってくれるとも限らない。昨日、屑鉄を売った時の経験が頭をよぎる。
「お困りのようだね、錬金術師さん」
不意に、背後から低い声がかかった。驚いて振り返ると、そこには黒い古びた外套をまとった長身痩躯の男が、音もなく立っていた。昨日、エミリアに錆び落としの材料(塩化アンモニウム)のありかを教えた男、ギブソン親方が「面倒見はいいが胡散臭い」と評していた情報屋のカラスだ。
彼は、煤煙地区の影に溶け込むような黒い瞳で、エミリアを値踏みするように見ている。その表情は読めず、何を考えているのか全く分からない。
「…カラス、さん」エミリアは警戒しながらも、相手の名前を呼んだ。
「おや、覚えていてくれたとは光栄だ」カラスは皮肉めいた笑みを浮かべた。「で? 今度は何を探してるんだい? その顔を見るに、また厄介事に首を突っ込んだようだが」
彼の言葉には、どこか面白がっているような響きがあった。
「…少し、材料を探しているんです。良質な木炭と、豆かす、それから綺麗な砂か小石を…」エミリアは正直に答えることにした。この男は、この地区の情報に精通している。彼の助けを借りるのが、一番の近道かもしれない。
「ほう、木炭に豆かすねぇ…」カラスは顎に手を当て、少し考えるそぶりを見せた。「木炭なら、黒がね市場の奥で炭焼きの爺さんが売ってるが、質は保証できん。硬い樫の木から作った上等な炭が欲しいなら、廃工場街の…そうだな、第三廃炉の近くに、元家具職人の爺さんが隠れ住んでる。腕は確かだが、偏屈でな。交渉次第だが、分けてくれるかもしれん。豆かすなら、煉瓦通りの豆腐屋の裏にでも行けば、タダ同然で手に入るだろう。ただし、新鮮かどうかは知らんがな。砂や小石は…川沿いのバラック区に行けばいくらでも拾えるが、汚染されてない保証はない。比較的綺麗なものが欲しいなら、少し遠いが、地区の外れにある忘れられた墓地の近くの沢まで行く必要があるな」
カラスは、澱みなく情報を並べ立てた。まるで、煤煙地区の全てが彼の頭の中に入っているかのようだ。
「…詳しいのですね」エミリアは感嘆した。
「それが俺の商売なんでね」カラスは肩をすくめた。「で、この情報はいくらにする? まあ、あんたは金欠だろうから、今回はサービスで…と言いたいところだが、俺は慈善事業家じゃないんでね」
彼は人差し指と親指で、金のサインを作ってみせた。
「銅貨10枚、といったところかな。貴重な情報だ、安いもんだろ?」
銅貨10枚。今のエミリアにとっては決して安い額ではない。だが、時間をかけて探し回る手間とリスクを考えれば、払う価値はあるだろう。
「…分かりました。お願いします」
エミリアは、なけなしの銅貨の中から10枚を選び出し、カラスに手渡した。
カラスは銅貨を受け取ると、指先で数え、満足げに懐にしまった。
「毎度あり。…それにしても、あんた、面白いね」カラスは、エミリアの目をじっと見つめた。「アカデミー出のお嬢様が、わざわざこんな掃き溜めで、汚ねぇ水のために奔走するとはな。一体、何が目的なんだい?」
その問いには、純粋な好奇心と、そして深い疑念が混じっているように聞こえた。
「…目的、ですか」エミリアは少し考えた。「強いて言うなら、自分の知識が、誰かの役に立つところを見たい、ということでしょうか。それだけです」
「ふーん、『役に立つ』ねぇ…」カラスは意味ありげに呟き、踵を返した。「まあ、せいぜい頑張ることだね。だが、気をつけなよ。この街では、善意が悪意に変わることも、希望が絶望に変わることも、日常茶飯事だからな」
そう言い残し、カラスは黒い外套を翻し、まるで影が溶けるように、路地の雑踏の中へと消えていった。
エミリアは、その場に立ち尽くし、カラスの最後の言葉を反芻していた。
3. 泥中の材料、期待と疑念の目
カラスの情報を頼りに、エミリアは材料調達へと向かった。まずは、煉瓦通りの豆腐屋へ。店の裏手には、豆腐を作る際に出るおから(豆かす)が、木箱の中に山積みになっていた。店主の老婆に声をかけると、「ああ、そんなモンでよければ、好きなだけ持っていきな」と、快く分けてくれた。ただし、少し酸っぱい匂いがする。鮮度はあまり良くないかもしれないが、凝集剤の成分としては問題ないだろう。
次に、廃工場街の奥、カラスが言っていた第三廃炉の近くを目指した。道はさらに悪くなり、人気も少なくなる。崩れかけた工場の壁や、錆びた鉄骨が、不気味な影を落としている。本当にこんな場所に人が住んでいるのだろうか。
不安になりながらも進んでいくと、やがて、小さな明かりが灯る、比較的しっかりとした作りの小屋を見つけた。戸口には、手作りの粗末な木製の椅子が置かれている。
エミリアが声をかけると、中から痩せた老人が現れた。鋭い目つきで、エミリアを警戒している。
「…何の用だね? ここは、あんたのような人が来るところじゃない」
「あの、カラスさんという方に紹介されて…硬い樫の木で作られた、良質な木炭を分けていただけないかと…」
老人は「カラス」という名を聞いて、少しだけ表情を和らげた。
「ほう、あのカラスがか…あいつの頼みなら、無下にはできんが…しかし、儂の炭は安くはないぞ。何に使うんだね?」
エミリアは、正直に事情を話した。汚染された井戸水を浄化するために、高性能な活性炭を作りたいのだと。
老人は、黙ってエミリアの話を聞いていたが、やがて、深く頷いた。
「…なるほどな。あの忌々しい井戸水か。儂も、若い頃はよくあの水を飲んだもんじゃが…最近は酷くなる一方だと聞く。よかろう。少しなら、分けてやろう。ただし、代金はきっちりもらうぞ」
老人は、小屋の中から、黒々として硬く、叩くとキンと金属のような音がする、上質な樫の木炭をいくつか持ってきてくれた。値段は決して安くはなかったが、エミリアは感謝して代金を支払い、木炭を受け取った。
最後に、比較的綺麗な砂と小石を求めて、地区の外れにある忘れられた墓地を目指した。墓地自体は荒れ放題で、不気味な雰囲気が漂っていたが、その近くを流れる小さな沢の水は、驚くほど澄んでいた。エミリアは持参した麻袋に、沢底の綺麗な砂と小石を選んで詰めた。
工房への帰り道、エミリアは気づいていた。道すがら、多くの住民たちが、遠巻きに、あるいは物陰から、自分の様子を窺っていることに。彼らの目には、期待と疑念、そして好奇心が入り混じっていた。昨日、井戸水をどうにかしてくれと詰め寄ってきた男たちの仲間だろうか。あるいは、噂を聞きつけた他の住民たちか。
(見られている…)
それは、プレッシャーでもあったが、同時に、エミリアの決意を強くさせるものでもあった。彼らの期待に、応えなければならない。
4. 錬金釜の火、再生の触媒
工房に戻ったエミリアは、買ってきた材料と、ギブソン親方から借りた道具、そして自作の簡易器具を使って、浄水剤の作成に取り掛かった。
まずは、樫の木炭を活性炭にする作業だ。乳鉢で木炭をできるだけ細かく砕き、少量の水と、工房で見つけたアルカリ性の灰汁を混ぜて練り合わせる。これを、ギブソン親方が補修してくれた、中古の耐火粘土製の錬金釜(というより、ただの蓋付きの壺に近いが)に入れる。そして、釜に蓋をして隙間を粘土で密閉し、外から石炭を燃やして高温で蒸し焼きにする。温度管理が重要だ。温度が高すぎると炭が燃え尽きてしまい、低すぎると活性化が進まない。
エミリアは、釜の色や、漏れ出る煙の匂いに集中し、火力を調整する。額には汗が滲み、煤で顔が汚れるのも構わない。
この時、彼女は無意識のうちに、大気中に存在する微弱なエネルギー(マナ/エーテル)を感じ取り、それを釜の中の反応を安定させるために使っていた。集中力が高まり、周囲の音が遠のくような感覚。だが、それは同時に精神力を激しく消耗する行為でもあった。作業が終わる頃には、軽い眩暈と疲労感を覚えていた。
(…これが、私の持つ、もう一つの力…まだ、うまく制御できないけれど…)
蒸し焼きが終わった木炭は、多孔質で、吸着能力が格段に向上した「活性炭」になっているはずだ。冷ましてから取り出し、再び乳鉢で細かく粉砕する。
次に、凝集剤の準備。豆腐屋で手に入れた豆かすを乾燥させ、これも粉末状にする。
最後に、活性炭の粉末と、豆かすの粉末、そして昨日マリアからもらった焼ミョウバンの粉末を、研究ノートに記した最適な比率で、慎重に混合する。均一に混ざるように、何度も何度も攪拌する。
全ての工程が終わる頃には、日は既に高く昇っていた。エミリアの手のひらには、黒っぽい、サラサラとした粉末の入った革袋があった。これが、彼女が作り出した「簡易浄水剤」だ。見た目は地味だが、ここには彼女の知識と、工夫と、そして煤煙地区の人々への想いが詰まっている。
「…よし、できたわ」
エミリアは、額の汗を手の甲で拭い、満足げに頷いた。あとは、これを住民たちの前で実演するだけだ。
5. 希望の雫、驚嘆と安堵
エミリアが浄水剤の入った革袋を手に工房の外に出ると、既に昨日と同じ男たちを中心に、十数人の住民が集まっていた。彼らは、固唾を飲んでエミリアを待っていたようだ。その中には、心配そうにこちらを見る、フィンの姿もあった。
「…できたのか?」リーダー格の傷跡の男が、低い声で尋ねた。その声には、まだ疑いの色が濃い。
「はい。試してみましょう」エミリアは頷き、住民たちに共同の古井戸まで案内するように頼んだ。
古井戸は、煉瓦通りの少し奥まった広場にあった。石造りの井戸枠は古びて苔むし、滑車も錆び付いている。井戸から汲み上げられた水は、昨日見たものと同じように、ひどく濁り、悪臭を放っていた。住民たちが使うための大きな木製の桶にも、その濁った水が溜められている。
「さあ、見せてもらおうじゃねぇか。あんたの『錬金術』とやらをよ」傷跡の男が、腕組みをして言った。周りの住民たちも、皆、厳しい目でエミニアの動きを見守っている。
エミリアは、桶の前に立ち、深呼吸を一つした。そして、革袋から、自作の浄水剤を適量取り出し、桶の中へと振り入れた。
「…これで、何が変わるってんだ?」住民の一人が、嘲るように言った。
「静かに。そして、ゆっくりとかき混ぜてください」エミリアは、近くにあった木の棒を拾い、傷跡の男に手渡した。
男は、まだ半信半疑のまま、言われた通りに桶の中の水をゆっくりとかき混ぜ始めた。
最初は、何も変わらないように見えた。ただ、黒っぽい粉が水に混ざっていくだけだ。住民たちの中から、失望のため息や、嘲笑が漏れ始める。
「やっぱり、口先だけだったか…」
「貴族のお遊びに付き合わされただけだ…」
だが、数分後。変化は、ゆっくりと、しかし確実に現れ始めた。
水の中に漂っていた泥や有機物の粒子が、互いにくっつき合い、小さな塊を形成し始めたのだ。そして、その塊は、活性炭の粒子と共に、重力に引かれてゆっくりと桶の底へと沈んでいく。
上澄みの水が、みるみるうちに透明度を増していく。さっきまでの黄褐色が嘘のように、澄んだ水の色が現れ始めたのだ。
「…おい、見ろよ…」
「水が…綺麗になっていく…!」
「嘘だろ…?」
住民たちは、目の前で起こっている光景に、息を呑んだ。ざわめきが広がり、それはやがて、驚嘆の声へと変わっていった。
「すげぇ…! 本当に綺麗になりやがった!」
「臭いも…さっきよりマシになってるぞ!」
傷跡の男も、かき混ぜる手を止め、呆然と桶の中を見つめている。その険しい表情が、驚きと、そして信じられないというような感情に変わっていく。
フィンは、目を輝かせながら、エミリアの袖を引っ張った。
「エミリア姉ちゃん、すげー! 魔法みたいだ!」
「魔法じゃないわ。錬金術よ」エミリアは微笑み、フィンの頭を撫でた。
やがて、桶の中の水は、底に黒い沈殿物が溜まっているものの、上澄みは驚くほど透明になっていた。
エミリアは、集まった住民たちに向かって、はっきりとした声で言った。
「これで、水の中の濁りや、有害な物質の多くは取り除かれたはずです。ですが、注意してください。これは、見た目を綺麗にしただけです。病気の原因となる細菌やウイルスは、まだ残っている可能性があります」
彼女は、桶の水を指差しながら、力強く続けた。
「ですから、この水を飲む前には、必ず! 必ず煮沸してください! 沸騰させて、しばらく煮立てるのです。そうすれば、安全に飲むことができます。いいですね!?」
住民たちは、エミリアの言葉を、真剣な表情で聞いていた。さっきまでの疑いや嘲笑は、もうどこにもない。彼らの目には、驚きと共に、かすかな希望の色が浮かんでいた。それは、この灰色の街で、長い間忘れられていた光の色だった。
6. 小さな報酬、確かな一歩
「…あんた、すげぇな」
最初にエミリアに詰め寄ってきた傷跡の男が、感嘆の声を漏らした。その顔には、もう敵意はない。代わりに、尊敬に近いような感情が浮かんでいた。
「いや…本当に助かった。これで、子供たちにも少しはマシな水を飲ませてやれる…」
他の住民たちも、口々に感謝の言葉を述べ始めた。
「ありがとうよ、錬金術師さん!」
「まさか、本当にできるなんて思わなかったぜ!」
傷跡の男は、懐から汚れた革袋を取り出し、中から銅貨を数枚掴み出すと、エミリアに差し出した。
「約束の報酬だ。いや、これじゃ足りねぇかもしれんが…今はこれしかねぇんだ。受け取ってくれ」
それは、エミリアがカラスに支払った情報料よりも少ない額だった。だが、その銅貨には、彼らの心からの感謝が込められているように感じられた。
他の住民たちも、次々にエミリアに何かを差し出してきた。黒パンのかけら、萎びた野菜、中には、どこかで拾ってきたらしい、奇妙な形の金属片を差し出す子供もいた。
「ありがとう…ございます」
エミリアは、胸がいっぱいになりながら、それらを一つ一つ丁寧に受け取った。お金よりも、食料よりも、彼らの気持ちが嬉しかった。自分の知識と技術が、確かに誰かの役に立ったのだ。その実感が、温かい波のように心に広がっていく。
「なあ、錬金術師さん」傷跡の男が、少し改まった口調で言った。「あんた、名前は?」
「エミリア、と申します」
「エミリア…か。俺はボルグだ。この辺りで、日雇いのまとめ役みてぇなことをやってる。…もし、また何かあったら、あんたを頼ってもいいか?」
「はい、もちろんです」エミリアは力強く頷いた。「私にできることがあれば、いつでも」
ボルグは、満足そうに頷いた。周りの住民たちの表情も、明らかに和らいでいる。彼らはまだ、エミリアを完全には信用していないかもしれない。だが、少なくとも、「よそ者のお嬢様」ではなく、「自分たちの問題を解決してくれるかもしれない、頼りになる錬金術師」として、認識し始めたようだ。
工房に戻るエミリアの足取りは、軽かった。手にしたわずかな報酬と、住民たちの変化。それは、この煤煙地区で生きていくための、小さく、しかし確かな一歩だった。
(立ち止まっている暇はないわ)
エミリアは、改めて心に誓った。この一歩を、次の一歩へ。そして、いつか、この街全体を変えるような、大きな流れへと繋げていくのだ。
エピローグ:広がる波紋
その頃、黒がね市場の奥にある薄暗い事務所では、煤煙地区の一部を牛耳る顔役、「黒爪のジャック」が、手下からの報告を聞いていた。
「…例の新顔の女錬金術師ですが、どうやら本当に古井戸の水を綺麗にしちまったようですぜ。住民どもは、大喜びで…」
ジャックは、指に嵌めた派手な指輪を弄びながら、面白くなさそうに口元を歪めた。
「へぇ…錬金術師、ねぇ…思ったよりは、使える小娘なのかもしれんな。だが、俺の商売の邪魔をするようなら…」
その目は、冷たく光っていた。
一方、首都アヴァロンの中心部、壮麗な石造りの建物が並ぶ一角にある、都市管理局。その一室で、若き官僚レオン・オーブライトは、山積みになった書類に目を通していた。その中の一枚、煤煙地区の衛生状況に関する最新の報告書に、彼の眉間の皺が深くなる。
「…汚染された井戸水による健康被害が拡大…対策予算は削減される一方…一体どうすれば…」
彼は、無力感に苛まれながら、窓の外の豊かな首都の風景を見つめた。その視線の先、遠く霞む南東の空の下で、一人の錬金術師が小さな奇跡を起こしたことなど、知る由もなかった。
エミリア・ヴァーミリオン。彼女の起こした小さな波紋は、煤煙地区の淀んだ水面に、静かに、しかし確実に広がり始めていた。それは、希望の波紋か、それとも新たな混乱の始まりか。まだ、誰にも分からなかった。