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第2話:路地裏の出会いと、最初の依頼

1. 再生の始まり、現実の壁


夜明け。煤煙地区に朝の光が訪れることは稀だ。空は相変わらずの鉛色で、東の空がわずかに白む程度。工房『再生の枝』の中も、まだ薄暗く、ひんやりとした空気が漂っていた。

エミリアは、二階の板張りの床の上で、藁布団の残骸を寄せ集めた粗末な寝床から身を起こした。体中が痛い。昨日の工房の掃除と錆落としの作業で、普段使わない筋肉が悲鳴を上げている。貴族令嬢としての生活では、こんな肉体労働は経験したことがなかった。だが、不思議と気分は悪くなかった。確かな疲労感と共に、自分の手で何かを成し遂げたというささやかな達成感が、心の奥底を温めていた。


「…さて、今日も始めないと」


エミリアは気合を入れ直し、軋む階段を降りて一階の土間へ向かった。まずは、この工房を本当に「工房」として機能させなければならない。昨日は応急処置のような掃除しかできなかったが、今日はもっと本格的に片付ける必要があった。


ギブソン親方に借りた(というより、半ば押し付けられた)古い箒と、穴の開きかけたバケツを手に、エミリアは再び掃除に取り掛かった。床に散乱したガラクタを分別し、燃やせる木屑や布切れは燃料用にまとめ、金属片や割れた陶器は種類ごとに分けて隅に積み上げる。埃を払い、蜘蛛の巣を取り除き、バケツに汲んだ水(これも濁っているが、掃除に使う分には問題ないだろう)で床を拭く。


作業を進めるうちに、この工房の構造がより詳しく分かってきた。土間の一角には、頑丈な石造りの台座があり、おそらくここに以前の染物用の大きな釜が設置されていたのだろう。その隣には、煙を外に逃がすための太い煙突が壁を貫いている。これは錬金釜を設置するのに都合が良い。壁際の棚も、埃を拭えばまだ十分に使える強度がありそうだ。


「ここに錬金釜を置いて、作業台はこっちに…薬品棚は壁際に設置して、材料置き場は…」

エミリアは頭の中で、理想の工房のレイアウトを思い描く。それは、アカデミーの研究室とは比べ物にならないほど粗末なものだが、それでも自分の手で作り上げる、自分だけの城だ。胸が小さく高鳴る。


だが、その高揚感は、すぐに現実の壁にぶつかった。

錬金術を行うには、最低限の設備と道具が必要不可欠だ。

まず、錬金術の心臓部とも言える「錬金釜」。耐熱性と密閉性が重要で、素材や大きさによって値段はピンキリだが、まともなものを買おうとすれば数十ギルは下らないだろう。

次に、物質の正確な計量のための「精密天秤」。これも、安物では実験の精度に関わる。

そして、様々な化学反応や蒸留、抽出に使う「ガラス器具」。フラスコ、ビーカー、メスシリンダー、冷却管…。これらは消耗品であり、特に煤煙地区のような場所では破損のリスクも高い。アカデミーでは当たり前のように使っていたが、いざ自分で揃えるとなると、その高価さを思い知らされる。

その他にも、加熱用の小型炉、材料を粉砕するための粉砕機、濾過器、保護用の眼鏡や手袋…。


エミリアは持参した研究ノートの端に、必要最低限と思われる道具をリストアップしていった。そして、それぞれの凡その価格を書き込んでいく。中央区での相場を思い出し、そこから割り引いて考えたとしても、合計金額は軽く100ギルを超えてしまった。


「ひゃく…ギル…」

エミリアは眩暈を覚えた。今の自分の全財産は、銀貨2枚と銅貨数十枚。昨日ギブソン親方からもらった屑鉄を売ったとしても、数ギル、多くても10ギル程度にしかならないだろう。まさに、桁が違う。

途方もない金額に、目の前が暗くなるようだった。工房を手に入れた喜びも、束の間で吹き飛んでしまった。


(どうしよう…これでは、錬金術どころか、日々の食事にも困ってしまう…)

焦りと不安が、再び心を支配し始める。せっかく掴んだ希望の糸が、あまりにも細く、脆いものに思えた。


「…おい、嬢ちゃん。死んだ魚みてぇな目をして、どうした?」

不意に、背後から不機嫌そうな声がした。ギブソン親方が、工房の入口に腕組みをして立っていた。いつからそこにいたのだろう。

「ギ、ギブソン親方…」エミリアは慌ててノートを隠した。

「なに隠してやがる。見りゃわかるわ。金がねぇんだろ?」親方は、エミリアのリストを一瞥しただけで、全てを察したようだった。「まあ、そうだろうな。錬金術師様ってのは、金のかかる商売らしいからな」

「…はい。必要な道具を揃えるのに、思った以上にお金がかかるようで…」エミリアは正直に認めた。

親方は、ふん、と鼻を鳴らした。

「当たり前だ。ここは煤煙地区だぞ。ぴかぴかの新品なんざ、どこにもありゃしねぇ。だがな、工夫すりゃ、何とかなるモンもある」

そう言うと、親方は工房の隅に積み上げられていたガラクタの山を指差した。

「例えば、そこの壊れた釜だ。耐火粘土で補修すりゃ、簡易的な錬金釜として使えんこともねぇかもしれん。ガラス器具なんざ、そこらの廃墟から拾ってきたガラス瓶を加工すりゃ、代用品くらい作れるだろ。天秤だって、そこらの木材と真鍮の皿でも使いモンになるものは作れる」

「…! 作れる、のですか?」エミリアは驚いて聞き返した。アカデミーでは、常に完成された器具を使うのが当たり前だった。

「ったりめえだ。ねぇモンは作る。壊れたモンは直す。それが、ここの連中のやり方だ。もっとも、あんたみてぇなお嬢様にできるかどうかしらねぇがな」

親方は挑戦的な目をエミリアに向けた。

「…できます! やってみせます!」エミリアは、親方の言葉に新たな希望を見出し、力強く答えた。「教えていただけますか? 道具の作り方や、修理の仕方を」

「へっ、威勢だけは相変わらずだな」親方は少しだけ口元を緩めたように見えた。「まあ、手が空いてる時なら、見てやらんでもない。ただし、タダじゃねぇぞ。ウチの仕事を手伝え。鉄屑の整理とか、炉の掃除とか、嬢ちゃんでもできることはあるだろ」

「はい! 喜んで!」

それは、エミリアにとって願ってもない申し出だった。技術を学びながら、わずかでも収入(あるいは現物支給)を得られるかもしれない。


「それと、こいつを貸しといてやる」

親方は、自分の工房から、古いがまだ使えそうな金槌とノコギリ、ヤスリのセットを持ってきた。

「工房の棚とか、壊れた窓枠とか、自分で直せるもんは直しとけ。少しは見栄えが良くなるだろ」

「ありがとうございます!」

ぶっきらぼうな言葉とは裏腹の、不器用な優しさが伝わってくる。この頑固な職人は、口は悪いが、根は悪い人ではないのかもしれない。エミリアは、心からの感謝を込めて頭を下げた。


まずは、昨日もらった屑鉄を売って、当面の食費と、最低限の修理材料を手に入れなければ。エミリアは鉄塊を抱え、ギブソン親方にお礼を言って、工房を出た。


2. 小さな影と、干しパン半分


煉瓦通りを目指して歩いていると、ふと、視線を感じた。路地の角、ゴミが積み上げられた陰から、小さな影がこちらを窺っている。昨日、工房を覗き込んでいた少年、フィンだ。

今日は何かを盗もうという雰囲気ではない。ただ、好奇心に満ちた大きな茶色の瞳で、エミリアのことを見ている。


エミリアは立ち止まり、少年に向かって声をかけた。

「こんにちは。昨日ぶりね」

フィンはびくりと肩を震わせ、隠れようとしたが、すぐに思い直したように、その場に留まった。警戒心はまだ解けていないが、昨日ほどの怯えはないようだ。

「…あんた、本当にここに住むのか?」フィンは、ぶっきらぼうな口調で尋ねてきた。

「ええ、そのつもりよ。昨日、あそこの工房を借りたの」エミリアは工房の方を指差した。

「ふーん…」フィンはエミリアが抱えている鉄塊に目を留めた。「それ、どうすんだ?」

「これを売って、少しお金にしようと思って」

「屑鉄屋なら、黒がね市場の手前の角にあるぜ。でも、足元見られないように気をつけな。あのオヤジ、がめついから」

意外にも、フィンは親切に教えてくれた。煤煙地区の子供たちは、生き抜くための知恵を持っている。

「ありがとう、助かるわ」エミリアは微笑んだ。「そうだ、あなた、お腹は空いていない?」

エミリアは懐から、昨日フィンのために取っておいた、干しパンの残りの半分を取り出した。少し硬くなっているが、まだ食べられるはずだ。

「これをあげるわ」

フィンは、差し出された干しパンと、エミリアの顔を交互に見た。その瞳には、まだ疑いの色が残っている。この地区で、見返りなしに食べ物をくれる大人など、ほとんどいないのだ。

だが、空腹には勝てなかったのだろう。フィンは素早く干しパンを受け取ると、またしてもあっという間にそれを口の中に放り込んだ。そして、もごもごと口を動かしながら、小さな声で「…サンキュ」と言うと、くるりと背を向けて、路地の奥へと駆け去っていった。


エミリアは、その後ろ姿を見送りながら、小さく息をついた。

(まだ、警戒されているわね…でも、少しは打ち解けられた、かしら?)

あの少年のように、この街には親もなく、今日を生きるだけで精一杯の子供たちがたくさんいるのだろう。自分の錬金術が、いつか、あの子たちの助けにもなれるだろうか。そんな思いが、エミリアの胸をよぎった。


フィンの教えてくれた通り、黒がね市場の手前に、古びた看板を掲げた屑鉄屋があった。店主は、いかにも胡散臭そうな、目の細い小男だった。案の定、エミリアがよそ者で、しかも女性であることを見ると、かなり安い値段を提示してきた。

しかし、エミリアは怯まなかった。ギブソン親方から屑鉄を受け取った際に、凡その相場(この地区での)を聞いていたのだ。

「この鉄塊は、質の良い鋳鉄です。表面の錆は落としてありますし、重量もこれだけあります。その値段では、あまりにも不当ではありませんか?」

エミリアは、アカデミーで培った知識(本来はこんな場面で使うものではないが)を総動員し、冷静に反論した。小男は、エミリアがただの世間知らずの娘ではないと悟り、渋々ながらも少しだけ値段を上げた。それでも相場よりは安かったが、今のエミリアにとっては貴重な収入だ。銀貨8枚と銅貨数十枚。これで、なんとか数日は食いつなげるだろう。


3. 癒しの葉と、賢者の眼差し


屑鉄を売って得たわずかな金で、エミリアはまず最低限の食料を調達することにした。煉瓦通りにある、小さな食料品店(というより、ほとんどガラクタ置き場のような店だが)で、黒パンと、干し肉の切れ端、そして少し萎びた野菜をいくつか買った。どれも質は悪く、値段も決して安くはない。これが、煤煙地区の現実なのだ。


次に、彼女は昨日見かけた薬草店『癒しの葉』へと向かった。錬金術の基礎となる材料の中には、薬草や安価な鉱物が欠かせない。特に、消毒薬や簡単な傷薬、滋養強壮剤などは、この衛生状態の悪い地区では需要があるかもしれない。


店の扉を開けると、昨日と同じ、清涼感のある薬草の香りが鼻をくすぐった。店内は狭いが、壁一面に並べられた棚には、乾燥させた様々な種類の薬草や、鉱物の粉末が入った小さな瓶が、整然と並べられている。外の煤けた風景とは対照的に、店内は塵一つなく清潔に保たれていた。

カウンターの奥に、店主のマリアが静かに座っていた。昨日と同じ、穏やかな表情。だが、その皺深い顔にある瞳は、全てを見通すかのように澄んでいる。

「いらっしゃい。何かお探しかな?」マリアは、静かな声で尋ねた。

「こんにちは。昨日も少しお伺いしたのですが…」エミリアは会釈した。「あの、消毒や傷の治療に使えるような、安価な薬草や鉱物はありますでしょうか? それと、疲労回復に効くようなものも…」


マリアは黙ってエミリアの顔を見た。そして、彼女の手の荒れ具合、服装、そして言葉遣いの端々に残る育ちの良さに、改めて注意を向けているようだった。

「…ふむ。例えば、ヨモギは止血と殺菌に良いし、ドクダミは化膿止めになる。鉱物なら、焼いたミョウバンは収斂作用があるし、硫黄の粉末も皮膚病に効くことがあるね。疲労回復なら、甘草や、鉄分の多い赤土なんかもいいかもしれない」

マリアは、澱みなく答えた。その知識の深さは、ただの町の薬草屋のレベルを超えているように思えた。そして、彼女が挙げた材料は、エミリアがアカデミーで学んだ基礎薬金術の知識とも一致していた。


「詳しいのですね」エミリアは感心して言った。「その、焼ミョウバンと硫黄の粉末、それからヨモギを少し分けていただけますか?」

「あいよ」マリアは頷き、棚から手際よく薬草と鉱物を取り出し、小さな紙袋に分けていく。「…あんたさん、薬草や鉱物に詳しいようだね。どこかで学んだのかい?」

マリアの質問は、何気ない口調だったが、エミリアはどきりとした。自分の素性を探られているのだろうか。

「…ええ、まあ、少しだけ。本で読んだ知識です」エミリアは曖昧に答えた。

「ほう、本でねぇ…」マリアは意味深長な笑みを浮かべた。「この辺りじゃ、文字を読める人間は少ないからねぇ。ましてや、専門的な知識を持っているお嬢さんとなると、珍しい」

エミリアは冷や汗をかいた。やはり、この老婆は何か感づいている。もしかしたら、元貴族であることまで見抜かれているのかもしれない。

「…私は、ただの錬金術師です。この街で、自分の知識を役立てたいと思っているだけで…」

「錬金術師、かい」マリアは、その言葉をゆっくりと反芻した。「なるほどねぇ…あの工房で、何やら新しい風を起こそうとしているんだね」

マリアは、エミリアが工房を借りたことまで知っているようだった。この地区の情報網は、エミリアが思うよりもずっと張り巡らされているのかもしれない。


「…お代は、これでいいよ」マリアは、薬草と鉱物の入った包みを差し出しながら、相場よりも明らかに安い金額を告げた。

「えっ、でも、それでは…」

「いいんだよ。これからこの街でやっていくんだろう? 最初は何かと物入りだろうからね。それに、あんたさんのやろうとしていることは、悪いことじゃなさそうだ」

マリアは、穏やかな目でエミリアを見つめた。その瞳の奥には、深い知恵と、そして何かを知る者の静かな覚悟のようなものが感じられた。

「もし、何か困ったことがあったら、いつでもここへ来なさい。薬草のことなら、少しは知恵を貸せるだろうからね。ただし…」マリアは少し声を潜めた。「錬金術というのは、使い方を間違えれば、身を滅ぼす力にもなる。特に、この街ではな。そのことを、ゆめゆめ忘れるんじゃないよ」

その言葉は、単なる忠告以上の重みを持っていた。エミリアは、背筋が伸びるのを感じながら、深く頭を下げた。

「…肝に銘じます。ありがとうございます、マリアさん」

「気をつけてお帰り」

マリアに見送られ、エミリアは薬草店を後にした。手にした薬草の包みが、ずしりと重く感じられた。


4. 灰色の水、試される錬金術師


工房に戻ったエミリアは、買ってきた食料と薬草を棚に整理し、一息ついた。ギブソン親方の助言と、マリアの支援のおかげで、少しだけ未来に光が見えてきた気がする。まずは、工房の設備を最低限整え、それから、何か住民の役に立てるようなものを錬金術で作ってみよう。例えば、安価な石鹸や、簡単な消毒薬、あるいは…


その時、工房の外が急に騒がしくなった。複数の男たちの怒鳴り声や、荒々しい足音が近づいてくる。

(…なにかしら?)

エミリアが警戒して入口の扉に近づくと、ドンドン!と乱暴に扉が叩かれた。

「おい! 開けろ! 新顔の錬金術師ってのは、あんたか!」

低い、ドスの効いた声。エミリアは息を呑んだ。ギブソン親方が言っていた「厄介事」が、もうやってきたのだろうか。


震える手で、扉の閂を外す。扉を開けると、そこにはむさ苦しい身なりの男たちが5、6人立っていた。皆、日雇い労働者風の服装だが、その目つきは荒く、敵意が剥き出しになっている。先頭に立つのは、ひときわ体格が良く、顔に古い傷跡のある男だ。

「…何の御用でしょうか?」エミリアは、平静を装って尋ねた。

「へっ、女じゃねぇか」傷跡の男は、エミリアを頭から爪先まで舐めるように見て、唾を吐いた。「ギブソンの爺ぃから聞いたぜ。アカデミー出の、お偉い錬金術師様が、こんな掃き溜めに工房を開いたってな」

その言葉には、明らかに侮蔑と敵意が込められていた。

「錬金術師であることは確かですが、お偉いなどと…私は、ここで皆さんの役に立ちたいと思っているだけです」エミリアは、相手を刺激しないよう、慎重に言葉を選んだ。

「役に立つ、だと?」男は嘲るように笑った。「だったら、証明してみせろや!」

男は、仲間の一人が持っていた、汚れたブリキのバケツをひったくり、エミリアの足元に叩きつけた。バチャリ、と音を立てて、濁った、悪臭を放つ液体が飛び散る。

「こいつを見てみろ! この辺りで共同で使ってる古井戸の水だ! 最近、これが原因で腹を壊す奴が続出してんだ! ガキどもは熱を出して寝込んでるし、働きたくても働けねぇ奴もいる! 医者にかかる金なんざ、俺たちにはねぇんだよ!」

男は、エミリアの胸ぐらを掴まんばかりの勢いで迫る。

「あんたが本当に『役に立つ』錬金術師様なら、このクソみてぇな水を、どうにかできるんだろうなぁ!? ああ!?」


男たちの目は、怒りと、絶望と、そしてわずかな…藁にもすがるような期待の色がない交ぜになって、エミリアに注がれていた。彼らは、エミリアを試しているのだ。アカデミー出の知識が、この過酷な現実の前で、本当に通用するのかどうかを。そして、このよそ者の女が、自分たちの苦しみを理解し、手を差し伸べる気があるのかどうかを。


エミリアは、足元に飛び散った汚水を見つめた。それは、ただの水ではない。この街の人々の苦しみ、病、そして絶望が溶け込んでいるように見えた。

ここで怯んではいけない。ここで背を向ければ、二度とこの街で受け入れられることはないだろう。そして何より、自分の信じる錬金術が、本当に人々の役に立つことを証明する、最初の機会なのだ。


エミリアは、男の荒々しい視線を真っ直ぐに受け止め、静かに、しかしはっきりとした声で言った。

「…分かりました。その水、調べてみましょう」

彼女は、バケツに残った濁った水を指差した。「少し、サンプルをいただけますか?」


男たちは、エミリアの予想外に落ち着いた態度に、一瞬、虚を突かれたようだった。リーダー格の男は、まだ疑いの目を向けながらも、近くに転がっていた空き瓶(これも汚れているが)に、バケツの水を汲み、乱暴にエミリアに突き出した。

「…いいだろう。だが、もしこれが口先だけのお遊びだったら…どうなるか、分かってるんだろうな?」

脅しの言葉を残し、男たちはひとまず引き上げていった。


工房の中に、再び静寂が戻る。エミリアは、手に持った濁った水の入った瓶を、じっと見つめた。瓶の底には、泥のようなものが沈殿し、水面には油のようなものが浮いている。そして、鼻を近づけなくても分かるほどの、腐敗臭。

これが、煤煙地区での、錬金術師としての最初の本当の仕事。

失敗は許されない。


(やってみせる…!)


エミリアの胸の中に、再び熱い決意の炎が灯った。彼女は瓶をしっかりと握りしめ、工房の奥にある、まだ何もない作業台へと向かった。灰色の空の下、立ち止まらない錬金術師の挑戦が、今、始まろうとしていた。

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