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第1話:灰色の街、朱色の決意

1. 黄昏の澱み


肺腑を刺すような、いくつもの異臭が混じり合った空気が鼻腔を満たす。

湿った石炭の燃え殻の匂い。錆びた鉄の匂い。得体の知れない薬品が腐ったような酸っぱい匂い。そして、それら全てを覆い隠すかのように漂う、淀んだ水と生活排水の腐臭。視界は常に、どこか薄ぼんやりとしている。空は本来の色を忘れ、まるで煤けた羊皮紙のように、生気の無い鈍い灰色に塗り込められていた。時折、近くの零細工場から吐き出される黒煙が、その灰色に更に濃い染みを加えていく。


アルビオン王国、首都アヴァロン。その南東部に位置するこの一帯は、「煤煙地区スモッグ・ディストリクト」と呼ばれていた。かつては王国でも有数の工業地帯として栄えた場所。だが、それも今は昔。時代の変化と不況の波に取り残され、多くの工場は主を失い、巨大な鉄とレンガの骸となって打ち捨てられた。今も細々と稼働しているのは、時代遅れの設備で安価な製品を作る、名も無い零細工場ばかり。それらが吐き出す煤煙と、生活基盤の整備から完全に見捨てられた住民たちの生活排水が、この地区の空と大地を、そしてカーライル川の下流を、容赦なく汚染し続けていた。


エミリア・ヴァーミリオンは、その煤けた灰色の街の入口に、呆然と立ち尽くしていた。

数日前までいたアヴァロン中央区の華やかさが、まるで遠い異国の夢物語のように感じられる。白亜の壁が陽光を反射し、磨き上げられた石畳の上を美しいドレスや仕立ての良い服に身を包んだ人々が行き交う、あの洗練された街並み。噴水が煌めき、辻音楽師の陽気な旋律が響いていた世界。そこから僅か数マイルしか離れていないというのに、この煤煙地区はまるで世界の裏側、光の届かない深淵のようだった。


「…本当に、来てしまったのね」


掠れた声が、自分の喉から漏れ出たことに、エミリア自身が少し驚いた。数日間、まともな食事にありつけていないせいか、声に力が入らない。いや、それだけではないだろう。体力も、気力も、そして財布の中身も、もう限界まで削り取られていた。


彼女は、自身が羽織るマントの裾を強く握りしめた。上質なウールで織られたそれは、かつて貴族令嬢としての彼女の身分を示していたものだ。今は泥と煤で汚れ、裾は擦り切れ、見る影もない。だが、これが彼女に残された最後の矜持のような気がした。マントの下には、男性用の丈夫なシャツとズボンを改造したもの。動きやすさだけを考えて選んだ、古着屋で手に入れたものだ。足元は、長距離を歩くために用意した、これも中古の革ブーツ。これもまた、泥に塗れている。


唯一、この灰色の風景の中で鮮やかな色彩を放っているのは、彼女の髪と瞳だった。ヴァーミリオン家の名を冠する、燃えるような朱色の髪。今は無造作な三つ編みにまとめられているが、その艶やかな色は隠しようもない。そして、強い意志と、今は疲労の色が濃いが、本来の輝きを失ってはいないエメラルドグリーンの瞳。


数日前、最後に訪れた中央区の錬金術工房でのやり取りが、苦い記憶として蘇る。恰幅の良い工房主は、エミリアが差し出した王立アカデミーの推薦状(今はもう何の効力もないが)と、彼女がまとめた研究概要を一瞥すると、鼻で笑った。

「ふむ、環境改善? 廃棄物の再利用? 嬢ちゃん、錬金術というのはな、もっと高尚なものなんだよ。卑金属を貴金属に変えたり、万能薬を作り出したり、そういう夢を追う学問だ。ゴミ拾いや掃除の手伝いみたいなことに、貴重な錬金術を使うなど、言語道断!」

「しかし、私の研究は人々の生活を直接的に改善するものです。特に貧しい地域では…」

「貧民に媚びを売るような研究は、錬金術師の恥だ! 君のような考えを持つ者は、そもそもアカデミーに…ああ、そうか。君があのバルテルス教授に睨まれたという…なるほどな。悪いが、うちでは君のような『異端』を雇う余裕はない。帰りたまえ」


それは、何度目かの門前払いだった。アカデミーでの一件以来、彼女の研究と思想は「異端」「貴族の沽券に関わる」「錬金術の権威を貶めるもの」として、ことごとく否定され続けてきた。父亡き後、実家であるヴァーミリオン子爵家を継いだ兄は、そんなエミリアを「家の恥」と断じ、わずかな手切れ金と共に彼女を追い出した。その金も、アヴァロンでの宿代と食費、そして仕事探しの日々であっという間に消えていった。


そして今、彼女の財布に残っているのは、銀貨が僅か7枚。銅貨が数十枚。これでどうやって生きていけというのか。雨風をしのげる場所すら、今夜確保できるかどうかも怪しい。

空腹が、胃の腑を抉るように痛む。眩暈がして、足元がおぼつかない。


「…ここで、終わり…?」


弱音が、心の隅から這い出してくる。もう諦めてしまおうか。全てを投げ出して、どこか路地裏で力尽きてしまえば、楽になれるのかもしれない。そんな誘惑が、甘い毒のように思考を侵食しようとする。


だが、エミリアは首を振った。朱色の三つ編みが揺れる。

違う。終わらせない。終わらせるわけにはいかない。

嘲笑され、排斥され、追放されたとしても、自分の信じる錬金術を、ここで終わらせるわけにはいかないのだ。


(私の知識は、誰かを救うためにあるはず…)


アカデミー時代、唯一彼女の研究を評価し、支援してくれた老教授の言葉が蘇る。

『エミリア君、君の錬金術は、地味かもしれん。だが、真に価値あるものは、必ずしも派手なものとは限らんのだ。人々の暮らしに寄り添い、ささやかな困難を取り除く…それこそが、錬金術が本来持つべき姿なのかもしれないぞ』

その老教授も、エミリアを擁護したことでアカデミー内で立場を失い、失意のうちに引退してしまった。その負い目も、エミリアの心を重くしていた。


(先生のためにも、私は諦めない…)


エミリアは、改めて煤煙地区を見据えた。絶望的な灰色の街。だが、同時に、ここは彼女の知識を最も必要としている場所かもしれない。汚染された水、痩せた土地、廃棄物の山、蔓延する病気…。彼女がアカデミーで異端視された「生活改善の錬金術」は、この場所でなら、真価を発揮できるのではないか。


まずは、拠点となる場所を見つけなければ。そして、仕事を得るか、あるいは自ら何かを生み出して、日々の糧を得なければならない。


エミリアは、重い革鞄を持ち直し、一歩、また一歩と、煤けた石畳(ところどころ剥がれて泥が剥き出しになっている)を踏みしめ、灰色の街の奥へと足を踏み入れた。


2. 路地裏の迷宮


煤煙地区の内部は、外から見た印象以上に混沌としていた。

メインストリートらしき「煉瓦通り」は、まだしも道幅があったが、一歩脇道に入ると、そこは迷宮だった。入り組んだ路地は狭く、薄暗く、どこもかしこもゴミと汚泥にまみれている。建物の壁は煤で黒ずみ、窓ガラスは割れているか、板で塞がれているかのどちらかだ。時折、建物の隙間から、病的なまでに痩せた犬や猫が飛び出してきては、すぐに姿を消す。


すれ違う人々の目は、一様に険しく、猜疑心に満ちていた。エミリアのような、明らかに「よそ者」と分かる人間は、好奇と侮蔑、そして「何か奪えるものはないか」という値踏みするような視線に晒される。彼女は俯き加減に、なるべく壁際を歩くようにした。


鼻をつく悪臭は、歩を進めるごとに強くなる。どこかの家畜小屋から漏れ出す糞尿の匂い、腐った生ゴミの匂い、そして、常に漂う淀んだ川の匂い。それらが混じり合い、吐き気を催させる。エミリアは何度も口元をハンカチで覆った。


不意に、背後から素早い気配を感じ、エミリアは咄嗟に身を捩った。すり抜けようとした痩せた男の手が空を切る。男は舌打ちすると、人混みの中に紛れて消えた。スリだ。財布を狙われたのだろう。エミリアは冷や汗を拭い、鞄を胸に抱きしめ直した。ここは、一瞬の油断が命取りになる場所なのだ。


「お嬢ちゃん、何か恵んでくれねぇか…もう三日も何も食べてないんだ…」

路地の隅に座り込んだ、老婆が皺だらけの手を差し出してきた。その目は虚ろで、生気がない。エミリアは心が痛んだが、今の自分には、この老婆に分け与えられるものは何もなかった。

「…ごめんなさい」

小さな声で謝り、足早にその場を立ち去るしかなかった。背中に、老婆のか細い溜息が突き刺さる。


しばらく歩くと、比較的開けた場所に出た。そこは「黒がね市場」と呼ばれる非公式の市場らしく、地面に汚れた布を広げ、ガラクタ同然の品物や、色が悪く萎びた野菜、怪しげな瓶詰などが並べられていた。売り手も買い手も、皆一様に表情が暗く、活気というものがない。喧噪だけが、虚しく響いている。

エミリアは人混みを避け、再び路地へと入った。市場の近くは、更に治安が悪そうだ。


ふと、ある路地の角から、薬草を煎じるような、独特の青臭い香りが漂ってきた。他の悪臭とは明らかに違う、清浄な香り。その香りに誘われるように角を曲がると、小さな薬草店の看板が見えた。『癒しの葉』。煤けた周囲の建物の中で、その店だけが、不思議と清潔な雰囲気を保っているように見えた。

(薬草店…ここなら、何か錬金術の材料になるものや、情報を得られるかもしれない)

今は立ち寄る余裕がないが、場所だけは覚えておこう、とエミリアは心に刻んだ。


更に奥へ、廃工場が立ち並ぶエリアへと進む。巨大なレンガ造りの建物が、まるで打ち捨てられた巨人たちのように、重々しく空を衝いていた。窓は割れ、壁は蔦に覆われ、屋根の一部は崩落している。時折、稼働しているらしい工場の煙突から、黒々とした煙が吐き出され、低い機械音が唸りのように響いてくる。

その音に混じって、別の音が聞こえた。

カン、カン、カン…!

金属を打つ、規則正しい音。そして、炉の燃えるゴウという音と、熱気。


音のする方へ近づくと、そこには比較的小さな、しかし頑丈そうなレンガ造りの建物があった。扉は開け放たれ、中では上半身裸の、筋骨隆々とした大男が、汗だくになって鉄を鍛えていた。真っ赤に焼けた鉄塊が、ハンマーで打たれるたびに火花を散らす。その真剣な眼差しと、無駄のない力強い動きに、エミリアはしばし見入ってしまった。あれが、職人というものなのだろう。


その隣の建物が、ふと目に留まった。

二階建ての、これもレンガ造り。かつては染物工房だったのだろうか、壁の一部に色褪せた染料のシミが残っている。窓枠は朽ちかけ、扉も古びているが、建物自体はまだしっかりしているように見えた。そして、その古びた扉の横に、一枚の木の札が打ち付けられていた。


『貸家 問合せハ隣ヘ』


エミリアの心臓が、小さく跳ねた。

これだ。ここかもしれない。


3. 頑固な職人と、ひとすじの光


意を決して、エミリアは隣の金属加工所の開け放たれた入口に立った。熱気と、鉄と石炭の匂いがむわりと襲ってくる。

「…あの、ごめんください」

声をかけるが、男は作業に没頭していて気づかない。エミリアはもう一度、少し声を張った。

「ごめんください! 隣の建物の件でお伺いしたいのですが!」


カン!という一際大きな音と共に、男のハンマーが止まった。ゆっくりとこちらを振り返る。

五十代くらいだろうか。がっしりとした体躯。短く刈った白髪混じりの髪と、同じく白髪混じりの無精髭。四角い顔には深い皺が刻まれ、いかにも頑固そうな印象を与える。額には汗が滲み、煤と油で汚れた革のエプロンを着けている。鋭い目が、訝しげにエミリアを捉えた。

「あぁ? なんの用だ、嬢ちゃん。見てわかんねぇか、今、手が離せねぇんだ」

その声は、低く、嗄れていて、不機嫌さを隠そうともしない。


「申し訳ありません、お忙しいところ。ですが、隣の工房をお借りしたいと思いまして…」

エミリアは背筋を伸ばし、できるだけはっきりとした口調で言った。ここで怯んではいけない。

男は、エミリアの頭のてっぺんから爪先までを、値踏みするようにじろりと見た。その視線は、煤煙地区の他の住民たちのものとは少し違う、何かを見極めようとするような厳しさがあった。

「…隣の工房? あのオンボロをか?」男は鼻を鳴らした。「物好きな奴もいたもんだ。あんたみてぇな、場違いな格好した嬢ちゃんが、あんなところで何をするってんだ?」

「錬金術の工房を開きたいのです」エミリアはきっぱりと答えた。

「錬金術だとぉ?」男は声を上げて笑った。その笑い声は、鍛冶場の騒音の中でもよく響いた。「ハッ! 聞いたか、小僧ども! この嬢ちゃん、こんな肥溜めで錬金術師様になるんだとよ!」

工房の奥で、下働きらしい少年たちが二人、くすくすと笑う気配がした。エミリアの顔に、カッと血が上る。


「…お言葉ですが、私の錬金術は、決して遊びではありません」エミリアは拳を握りしめ、反論した。「私は、この知識で、ここで生きていく覚悟です」

「生きていく、だと?」男の表情から笑みが消え、再び厳しいものになった。「甘く見るんじゃねぇぞ、嬢ちゃん。ここは煤煙地区だ。お貴族様のお遊びや、夢見がちな若造が『生きていける』ほど、甘っちょろい場所じゃねぇんだよ」

男の言葉は、容赦なく現実を突きつけてくる。だが、エミリアは引かなかった。

「承知しています。だからこそ、ここを選びました。私の知識が、少しでもこの場所の役に立てるのなら…そう信じています」

「役に立つ、ねぇ…」男は腕組みをし、エミリアを睨み据えた。「錬金術ってのは、貴族や金持ちのためのモンじゃなかったのか? 金銀を作り出すとか、不老不死の薬だとか、そういう胡散臭ぇ話しか聞いたことがねぇが」

「それは錬金術の一面に過ぎません!」エミリアは思わず声を荒げた。「錬金術の本来の目的は、物質の理を解き明かし、それを応用して世界をより良くすることです! 汚れた水を浄化したり、痩せた土壌を豊かにしたり、捨てられたものから新たな価値を生み出したり…そういった、人々の生活に密着した技術こそが、真の錬金術だと、私は信じています!」


一瞬の沈黙。男は、エミリアの熱のこもった言葉と、その真っ直ぐな瞳を、ただじっと見つめていた。鍛冶場の炉の音だけが、ゴウゴウと響いている。

やがて、男はふう、と大きな溜息をついた。

「…まあ、いい。あんたが本気だろうが、ただの世間知らずだろうが、俺の知ったこっちゃねぇ。だが、あの工房は『曰く付き』だぞ。それでもいいのか?」

「曰く付き、ですか?」

「ああ」男は忌々しげに言った。「前に借りてた奴も、あんたみたいに威勢のいい若造だった。しがない絵描きだったがな。『この街の真実を描く』とか何とか言って、薄気味悪い絵ばかり描いてやがった。だが、結局、絵は売れず、借金だけが膨らんで…最後は、カーライル川に浮かんだのよ。それ以来、借り手がいなくてな。夜中に、すすり泣く声が聞こえるなんて噂もある」

男は、脅すような口調で続けた。「それでも借りるってんなら、止めはしねぇが…家賃は月10ギルだ。前金で払えるんだろうな?」


月10ギル。エミリアの手持ちは、全部で7ギルと数十センしかない。到底足りない。顔が青ざめるのが自分でも分かった。

「…そ、そんな大金、今すぐには…」

「払えねぇのか。じゃあ話は終わりだ。さっさと帰りな」男は冷たく言い放ち、再び炉に向き直ろうとした。

「待ってください!」エミリアは必死に声を上げた。「お願いします! 必ず払います! 何とか…なりませんか? 例えば、家賃の代わりに、何かお手伝いをするとか…」

「手伝い? ハッ、嬢ちゃんに何ができる? 足手まといになるのが関の山だ」

「錬金術が使えます! 金属の分析や、錆び落とし、あるいは…特殊な研磨剤の調合なども可能です! きっと、お役に立てることがあるはずです!」

食い下がるエミリアに、男は呆れたような、それでいて少しだけ面白がるような表情を浮かべた。

「…へっ、威勢だけはいいな。そこまで言うなら、見せてもらおうじゃねぇか。お嬢様の『お役立ち』の錬金術とやらをよ」

男は、作業台の隅に転がっていた、ひどく錆び付いた鉄の塊を指差した。

「こいつの錆びを、綺麗に落としてみろ。もし、俺が納得できるやり方で、ちゃんと落とせたら…家賃、まけてやる。月5ギルでどうだ?」

「5ギル…!」それは、まだエミリアの手持ちでギリギリ払える額だった。

「ただし、条件がある」男は指を立てた。「使うのは、あんたが今持ってる道具と、この工房にあるガラクタだけだ。金のかかる薬品なんざ、使わせねぇぞ。それと、時間は…そうだな、日が暮れるまでだ」


それは、無茶な要求に思えた。手持ちの道具は僅かしかない。この工房にあるガラクタと言っても、何が使えるか分からない。だが、これはチャンスだ。ここで自分の価値を示すことができれば、道が開けるかもしれない。

「…分かりました。やらせてください!」

エミリアは、男の挑戦的な視線を真っ直ぐに受け止めて答えた。


男は、ギブソンと名乗った。ギブソン親方は、エミリアを隣の空き工房へと案内した。


4. 再生の枝、芽吹く場所


ギシ、と音を立てて、古びた木製の扉が開かれた。途端に、埃とカビ、そして微かに残る染料の酸っぱい匂いが、むわりと鼻をついた。

工房の中は、予想以上に荒れていた。一階は土間になっており、部屋の隅には、壊れて使えなくなったらしい、大きな染色用の釜が放置されている。壁際には、古い木製の棚がいくつかあるが、どれも埃を被り、蜘蛛の巣が張っている。床には、割れた陶器の破片や、用途不明の金属片、布切れなどが散乱していた。壁のあちこちに、様々な色の染料が飛び散ったようなシミが残っており、ここがかつて染物工房であったことを物語っている。

「ひでぇ有様だろ?」ギブソン親方は、腕組みをして言った。「前の住人が夜逃げ…いや、川に浮かんでから、誰も手を入れてねぇからな」

その言葉に、エミリアは少しだけ背筋が寒くなるのを感じた。曰く付き、という言葉が重くのしかかる。


それでも、エミリアはこの場所に可能性を感じていた。土間は、錬金釜を設置するには十分な広さがある。頑丈なレンガの壁は、ある程度の熱や衝撃にも耐えられそうだ。窓はいくつかあり、割れているものもあるが、修理すれば光を取り込めるだろう。そして、何より、この場所には「再生」の余地があるように思えたのだ。


「…いえ、問題ありません。掃除をすれば、きっと良い工房になります」エミリアは、自分に言い聞かせるように言った。

「ふん、威勢だけはいいな」ギブソン親方は、まだ疑いの目を向けている。「で、さっきの錆びた鉄塊だが…どうするつもりだ? まさか、歯で齧って落とすわけじゃあるまいし」

エミリアは、持参した革鞄から、いくつかの小さな道具を取り出した。石製の乳鉢と乳棒、数本のガラス製の試験管(幸い割れていなかった)、アルコールランプ、そして羊皮紙に書かれた研究ノート。

「少し、時間をいただけますか? まずは、この工房の中にあるものを調べさせてください。使えるものがあるかもしれません」

「好きにしな。だが、日が暮れるまでだからな。忘れるなよ」

ギブソン親方はそう言い残し、自分の工房へと戻っていった。


エミリアは、まず工房の中を見て回った。散乱したガラクタの中に、何か利用できるものはないか。

隅に積まれた木材の切れ端。これは燃料になるかもしれない。錆びた釘や金属片。これは…今の目的には使えないか。割れた陶器の壺。これを砕けば、研磨剤の代わりになるかもしれない。

壁際の棚には、古い薬品の瓶がいくつか残っていた。ラベルは剥がれかかっているが、鼻を近づけて匂いを嗅ぎ、微量を指先にとって観察する。

(これは…酢酸系の液体? 染色の媒染剤か何かに使っていたのかしら。酸は錆落としに使えるけれど、この濃度では効果が薄いし、量も少ない…)

(これは…アルカリ性の粉末? 灰汁のようなものかしら。これも洗浄には使えるけれど、頑固な錆には…)


諦めかけたその時、床に転がっていた小さな麻袋に気づいた。中には、ザラザラとした粗い塩のような結晶が入っている。匂いを嗅ぎ、少しだけ舐めてみる(危険な行為だが、今は手段を選んでいられない)。

(…塩化アンモニウム? なぜこんなものが? 染色の助剤か、あるいは金属加工に使っていた…?)

塩化アンモニウムは、加熱すると分解して塩化水素(強酸)とアンモニア(アルカリ)を発生する。これなら、頑固な錆にも効果があるかもしれない。しかし、有毒なガスが発生するリスクもある。換気を十分にしなければならない。


次に、エミリアはギブソン親方から渡された錆びた鉄塊を観察した。表面は赤黒い錆で覆われているが、形状からして、何かの機械部品の一部だったようだ。

(この錆は、酸化鉄…Fe2O3と、水和酸化鉄Fe2O3・nH2Oが主成分ね。これを還元するか、酸で溶かすか…)


エミリアは方針を決めた。

まず、割れた陶器の破片を乳鉢で細かく砕き、粗い研磨剤を作る。

次に、見つけた塩化アンモニウムを少量の水に溶かし、ペースト状にする。

そして、鉄塊の錆びた部分にそのペーストを塗り、アルコールランプで注意深く加熱する。発生するガスを吸わないよう、入口の扉を開け放ち、風上に立つ。加熱により発生した塩化水素が錆と反応し、塩化鉄(III)となって溶解するはずだ。

反応がある程度進んだら、加熱をやめ、砕いた陶器の粉末と、工房で見つけたボロ布を使って、浮き上がった錆を物理的に擦り落とす。

最後に、水でよく洗い流し、乾燥させる。


作業は困難を極めた。アルコールランプの火力は弱く、鉄塊全体を均一に加熱するのが難しい。発生する刺激臭のあるガスに、何度も咳き込みそうになる。砕いた陶器の粉末は目が粗く、なかなか思うように錆が落ちない。手の指はすぐに真っ黒になり、爪の間には鉄錆と陶器の粉が入り込んだ。額からは汗が流れ落ち、息が上がる。


(こんなことで、へこたれてどうするの…!)

エミリアは自分を叱咤した。これは、単なる錆落としではない。煤煙地区で生きていくための、最初の試練なのだ。ここで諦めたら、本当に全てが終わってしまう。


集中し、手順を繰り返し、根気よく作業を続ける。

アカデミー時代の記憶が蘇る。恵まれた設備、豊富な材料、安全な実験室。それに比べて、今はなんと心許ない状況だろう。だが、あの頃にはなかったものが、今の自分にはある。それは、「絶対にここで成し遂げる」という、切羽詰まった覚悟だった。


どれくらいの時間が経っただろうか。西日が、工房の汚れた窓から斜めに差し込み、床に長い影を作り始めていた。

エミリアは、最後の仕上げに、鉄塊を水で洗い流した。

赤黒い錆はほとんど姿を消し、鈍い銀色の鉄の地肌が現れていた。完璧とは言えないまでも、明らかに錆は落ちている。

「…できた」

安堵と達成感で、膝ががくりと震えた。


ちょうどその時、ギブソン親方が工房の入口に姿を現した。腕組みをして、エミリアの仕事ぶりを黙って見ていたようだ。

「…終わったのか?」

「はい。ご覧ください」

エミリアは、綺麗になった鉄塊を差し出した。ギブソン親方はそれを受け取り、眉間に皺を寄せながら、様々な角度から検分している。

「…ふん。まあ、及第点、と言ったところか。で、どんな『魔法』を使ったんだ?」

「魔法ではありません。錬金術の基礎的な知識の応用です」エミリアは、使った材料と手順を簡潔に説明した。「この工房にあった塩化アンモニウムを加熱し、発生した酸で錆を溶かし、陶器の破片で磨いただけです」

「塩化アンモニウムだと? あんなモンが役に立つとはな…」ギブソン親方は、少しだけ感心したような、それでいてまだ腑に落ちないような顔をしている。「…まあいい。約束は約束だ。家賃は月5ギルで貸してやる」

「! ありがとうございます!」エミリアの顔が、ぱっと明るくなった。

「ただし、前金だ」ギブソン親方は釘を刺す。「今すぐ払え」

エミリアは頷き、震える手で財布を取り出した。中から、なけなしの銀貨5枚を取り出し、ギブソン親方に差し出す。これで、残りは銀貨2枚と銅貨数十枚。明日の食費すら心許ない。だが、それでも、この場所を手に入れたのだ。

ギブソン親方は銀貨を受け取ると、懐から古びた鍵を取り出し、エミリアに投げ渡した。

「工房の鍵だ。なくすんじゃねぇぞ。それと、こいつはサービスだ」

彼は、先ほどエミリアが綺麗にした鉄塊を、彼女に押し付けた。

「元はウチで使う部品だったが、もう使わねぇ。屑鉄として売れば、いくらかの足しにはなるだろう」

それは、彼なりの不器用な配慮なのかもしれない。

「…ありがとうございます、ギブソン親方」エミリアは、鉄塊を抱きしめるように受け取った。ずしりと重い。

「勘違いするな。同情じゃねぇぞ。あんたの腕前への、まあ、投資みてぇなもんだ」ギブソン親方はぶっきらぼうに言い、踵を返した。「あと、忠告しといてやる。この地区で錬金術師なんて名乗れば、厄介事が寄ってくるかもしれねぇ。特に、『黒爪のジャック』の縄張りじゃ、目立つ真似はしないこった」

そう言い残し、彼は自分の工房へと戻っていった。


5. 灰色の空の下、朱色の誓い


一人残された工房で、エミリアはしばし呆然としていた。

全身が泥と汗と錆で汚れ、疲労困憊している。お腹も空いている。財布の中身は、絶望的に少ない。これからどうやって生活していくのか、不安は大きい。

だが、彼女の手の中には、この工房の鍵と、屑鉄とはいえ確かな価値を持つ鉄塊がある。そして何より、自分の知識と技術で、最初の困難を乗り越えたという事実があった。


エミリアは、ゆっくりと工房の中を見回した。埃とガラクタに満ちた、薄暗い空間。だが、今はもう、ただの廃墟には見えなかった。ここは、彼女がゼロから再出発するための場所。彼女の錬金術を、本当に必要とされる場所で実践するための、大切な拠点なのだ。


二階へ上がる、軋む階段を上ってみる。そこは板張りの部屋になっており、おそらく前の住人が寝起きしていたのだろう、粗末な藁布団の残骸や、壊れた木の椅子などが散乱していた。窓は小さく、隣の廃墟の壁しか見えない。それでも、雨風をしのげる屋根があるだけありがたい。


エミリアは、窓際に寄りかかり、外を見た。空は、いつの間にか夕暮れの色を帯び始めていたが、煤煙地区特有の灰色のフィルターがかかり、美しい茜色とは程遠い、濁ったオレンジ色に見えた。眼下には、迷路のような路地と、黒ずんだ建物がどこまでも続いている。人々の話し声や、遠くの工場の音、時折聞こえる怒鳴り声や赤ん坊の泣き声。これが、これから自分が生きていく世界の音なのだ。


不意に、アカデミーでの屈辱的な記憶が、鮮明な映像として脳裏を過った。

バルテルス教授の冷たい目。周囲の貴族子弟たちの嘲笑。

『ヴァーミリオン家の娘ともあろう者が、なんと浅ましい研究を! 肥料作りだと? 下賤な民に媚びるような行為は、錬金術への冒涜だ! その朱色の髪も、家の恥を知れと言っているようだ!』

あの時感じた、絶望と無力感。自分の信じるものが、権威と偏見によって踏みにじられる理不尽さ。


だが、エミリアはもう、あの頃の無力な少女ではなかった。

打ちのめされ、全てを失いかけ、それでも立ち上がった。この煤煙地区の現実は、アカデミーの象牙の塔よりも遥かに厳しく、残酷だ。しかし、ここには、彼女の知識を、技術を、本当に必要としている人々がいるはずだ。


(私の錬金術は、誰かを貶めるためでも、自己満足のためでもない)

エミリアは、自分の手を見つめた。薬品や作業で荒れ、爪にはまだ汚れが残っている。貴族令嬢の手ではない。働く者の手だ。

(私の錬金術は、再生のための力。見捨てられたものに、再び価値を与えるための力。そして、希望を生み出すための力…!)


彼女は革鞄から、大切にしている研究ノートを取り出した。そして、震える手で、新しいページを開く。そこに、インクで丁寧に、工房の名前を記した。


『再生の枝』


枯れてしまったように見える枝にも、春になれば新しい芽が吹く。生命の力は、どんな過酷な環境にあっても、再生への道を模索する。この工房が、この煤煙地区にとって、そんな希望の芽吹く場所になれるように。そして、自分自身も、ここで再生できるように。


「ここが私の工房、『再生の枝』…」

エミリアは、今度は確かな声で呟いた。

「立ち止まっている暇はない。ここから、私の錬金術を始めるんだ」


灰色の空の下、工房の窓に、決意を秘めた朱色の髪と、エメラルドグリーンの瞳が、夕暮れの鈍い光を受けて、静かに輝いていた。

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