第九夜 助けて
俺の住む部屋の壁は薄い。隣の住人の声がダダ漏れだ。
「助けて!」
いつものように、今日も隣からガシャガシャと食器の割れるような音と共に、女性の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。隣の住人の夫はどうやら暴力癖があるようで、日常的に奥さんに暴力を振るっているのだ。
この間、早朝のゴミ出しに出かけた時、偶然隣の奥さんと出会った。
彼女の目には眼帯がしてあり、腕や首筋には包帯が巻かれている。また、長袖の服を着て誤魔化してはいるが、手首や足など至る所に青あざがあり見ていて痛々しい。
互いに目があったので軽い会釈をする。
うっすらと微笑む奥さんは幸が薄そうだが非常に綺麗な人だった。
一度、余りにも酷い叫び声が聞こえたので、彼女を救う意味を込めて壁を叩いたことがあった。
すると、その直後にうちのドアがガンガンガンと蹴られ、
「文句あるなら出てこいやコラァ! しばき倒すぞワレェッ!」
まるでヤクザかと思うくらいのドスの聞いた声と共に、ガチャガチャと壊れるくらいドアノブが捻られた。たまたまその日は、鍵をかけていたので男が部屋に押し入ってくるような事は無かったが、もしあの時、鍵をかけていなかったかと思うとゾッとする。
それ以来、すっかり萎縮してしまった俺は、隣にあまり関わらないように生活をしていた。
その後も、夜中だろうが朝方だろうが、周りのことなどお構いなしに夫の暴力は繰り返され、罵声と泣き叫ぶ声に眠れない日々が続いた。そんな時、俺に長期出張の話が来たのは、きっと天の助けだったに違いない。
そして、2週間の長期出張が終わり、久しぶりの我が家。
暗い部屋の奥では、バタバタとはためく白いカーテンが見える。どうやら、ベランダの鍵をかけ忘れて出てしまったらしい。
ドアを閉めても、壁の向こうからは夫の怒声と奥さんの泣き叫ぶ声が聞こえてくる。その声を聞いて、俺は家に帰ってきたんだなと実感した。
また眠れない日々が続くのか……。
Yシャツのボタンを外しながら、俺は深い溜息をついた、その時だった。
「た、助けてくれ!」
隣の部屋から、いつもとは毛色の違う声が聞こえてきた。この声は奥さんのものでは無い。夫の声だ。
「や、やめろ! お、俺が悪かった! 許してく、ぐわああああっ!」
まるで目の前で叫んでいるかのような臨場感ある叫び声が部屋中に響き渡る。
「たたた、助け、ぎゃあああっ!」
その後も、一定の間隔で「ギャッ! ギャッ!」と言う声が聞こえてきた。その声は段々と弱々しくなっていき、やがて何も聞こえなくなった。
シンと静まり返る中、ザクッ、ザクッと何かを突き刺す音だけが聞こえてくる。そして、
「あなたが悪いのよ、あなたが……」
と、聞こえるか聞こえないかぐらいの小さいつぶやきが聞こえた。
額から冷たい汗が流れ落ち、ポタリと床に落ちる。俺はゴクリと唾を飲み込んだ。
これは、ただごとじゃない……。
すぐに部屋を飛び出した俺は、1Fの管理人室へ慌ただしく飛び込んだ。
「す、すいません! 405号室の者ですが、隣の、隣の住人が殺されたかもしれないんです!」
部屋に入るやいなや、俺はのんきに茶をすすっている管理人の親父に向かって叫んだ。すると、親父は訝しげな表情で、
「はぁ? 何を言っているんだ、今更」
と、言った。
俺は一瞬、親父が何を言っているのか理解出来なかった。
困惑する俺に、親父は「ああ、そうか」と言いながらポンと手を叩いた。
「そういやあんた、ここ最近見かけなかったね。何処かへでかけていたのかい? あんたが居ない間に、大変な事件が起きたんだよ」
茶をすすりながら、親父は話を続ける。
親父が言うには、俺が居ない間に、隣の住人の奥さんが自分の夫を刺し、そのまま行方不明になったそうだ。警察は行方を追っているが、1週間経った今でも足取りは掴めていない。
俺の隣の部屋で殺人事件。しかも、犯人はあの奥さん……。
あまりにも唐突な話に、俺は呆然とその場に立ち尽くす。
それに、一つ引っかかる事がある。
殺人が起きたのは1周間前。であるならば、さっき俺が聞いたあの声は一体何なんだ?
――助けてくれ!
男の断末魔の声が頭でリフレインし、俺の背中にゾクリと冷たいものが走る。
まさか……な。
一抹の不安を胸に抱きながら、俺は部屋へと戻った。
部屋に戻ると、バタバタとカーテンが風に揺らめいていた。
さっき閉めたかと思ったが、気のせいだったか。
ゆっくりとドアを閉め、俺はソファに腰掛けた。
ぼんやりと天井を眺めながら、タバコに火をつける。
隣の奥さんは行方不明。いったい、今頃どこで何をしているのか。
宙にゆらめく煙を眺めながら、俺は真っ赤な血に染まる彼女の姿を想像した。
――助けて。
想像の中で、彼女は恨めしい目をしながら俺に助けを求めている。
確かに俺は奥さんを助けてあげることが出来なかった。だが、俺はあんたとは赤の他人だ。俺に一体何が出来る? そんな目で俺を見るのはやめてくれ。
「助けて」
妙にリアルな彼女の声が、背後から聞こえてきたような、そんな気がした。