第二夜 隙間
今から一週間前、慶子はこのマンションの屋上から飛び降りた。
最後は、真っ赤なバラのように地面に臓物をぶちまけ死んで行った慶子。そのあまりにも酷い有様に、道行く人間は皆目をそらしていた。だが、俺だけは彼女から目を背けることができなかった。何故なら地面に転がる慶子の首が、血の涙を流しながら俺を恨めしく見つめていたからだ。
「慶子……」
ベッドに横たわりながら、男は静かに目を閉じた。
目を瞑れば脳裏に焼きついた慶子のあの顔が鮮明に蘇る。慶子と付き合った一年と半年。美しい彼女の表情なら他にもたくさんあったはずなのに、思い出すのは恨めしく俺を見つめていたあの時の顔だけだ。
葬式には参加しなかった。慶子を裏切り他の女に走った俺が、どの面下げて彼女の葬式などに出られるものか。それに彼女の両親も俺を恨んでいるだろうし、あの酷い有様では遺体を拝むこともできなかったに違いない。
慶子、お前は俺を恨んでいたのか? お前を捨て、他の女を選んだ俺を許せなかったのか? だから当てつけに俺のマンションから飛び降り自殺なんてしたのか?
ガタガタガタ……。
その時、男の耳に何かが震えるような音が聞こえた。
物音のした方向に目を向けると、かすかに窓が開いているのが見えた。そして、次の瞬間男はギョッとした。その隙間から誰かが覗いているのが見えたのだ。
「だ、誰だ!」
驚いた男は思わず叫んだ。だが、改めて見てみるとそこには誰も居ない。男はベッドから飛び起きると、急いで窓際に歩み寄った。
確かさっき閉めたと思ったんだが……。
かすかに開いていたカーテンと窓を開け、男は首を出すと注意深く外を見渡した。だが、ここは地上から十階の高さにあるマンションの一室。外から覗ける者がいる訳が無い。
そんなことは男にも分かっていた。だがどうも落ち着かない。何故なら、覗いていたあの顔。あの顔に男は見覚えがあったからだ。
男は窓を閉めカーテンを閉じた。そして、ベッドに戻ろうとしたところで、男は再び背中に視線を感じ慌てて振り向いた。見ると、閉じたはずのカーテンがほんの少しだけ開いているのが見えた。
ゾクッと男の背中に悪寒が走る。
さっき閉めたはずなのに、何故開いている? 勢い良く閉めた反動で開いてしまったのか? それとも……。
男はカーテンに近寄ると今度は念入りにゆっくりと閉めた。そして、カーテンを握り締めながら暫しの間立ち尽くす。
……俺は何をやっているんだ? この部屋には俺一人しか居ないだろう。それにここは地上から十階の高さにある部屋だぞ。誰かが覗ける訳が無いじゃないか。それとも何か? 死んだ慶子が覗いていたとでも言うのか? 馬鹿馬鹿しい。あいつはもう死んだんだ。死んだ人間が何かできる訳が無い。気にしすぎなんだよ。
迫り来る恐怖を打ち消そうと、男は自分に言い聞かせた。
……もう寝よう。きっと俺は疲れているんだ。だから、死んだ慶子の幻覚なんか見えたりしたんだ。
そう思い電気を消そうとしたところで、ふと何気なく男は廊下に目をやった。
その奥には、漏れた外の光にうっすらと浮かび上がる玄関のドアが見える。
そう言えば、自分は鍵をかけただろうか?
ガチャリと突然ドアが開き、そこから血まみれの慶子が現れる、そんな恐ろしい妄想が男の脳裏をよぎった。
男は足早に玄関に向かうとドアノブを見た。鍵はきちんと施錠されており、鎖のチェーンも降ろされている。続けて男は覗き穴から外を見た。ドアの前には誰も居ない。
だが、どうも気になる。もしかしたら、このドアのすぐ横で慶子が息を潜め隠れているかもしれない。
男は鍵を外すとドアを開け外に出た。ひんやりとした冷たい空気が玄関にに流れ込んでくる。男はブルッと身震いをすると、注意深く辺りを見渡した。だがやはりそこには誰も居なかった。
男は扉を閉めると、鍵をかけチェーンを降ろした。
そして、自室に戻ろうとしたところで、トイレのドアが少しだけ開いているのを見かけた。男は扉を閉めた。ふと何かが気になりその後ろを見ると、今度は浴室へ続く扉が開いている。男はその扉も閉めた。
神経質なのだろうか。
男はそんなことを考えながら、首を振った。
いや、違う。確かに俺は視線を感じる。それも、慶子が死んだあの日からだ。あの日から俺は家中の隙間が気になって仕方が無い。その隙間から、慶子が覗いている気がする。気のせいじゃない。確かに俺は視線を感じるんだ。
部屋に戻り、男は電気を消してベッドに横たわった。
「疲れた……」
ここ最近、毎日この調子だ。寝ても何かが気になりすぐに目が覚めてしまう。寝不足で仕事にも支障が生じているし、このままでは体がもたない。もう寝なくては……。
そんなことを考えている間にも、よほど疲れていたのか男はうとうとし始めていた。やがて睡魔に誘われるまま眠りの世界へと落ち、しばらくすると寝息が聞こえてきた。
それからどのくらい経ったのだろうか。
かすかに聞こえた物音に気がつき、男は目が覚めた。
まどろみの中、男は霞む視界の中でぼんやりと物音のした方を見た。そこには、カタカタと風に当てられ震えている窓が見えた。
「なんだ、風か……」
そう呟いて再び寝ようとした時、男はふと何かがおかしいことに気がついた。
何故、窓が見えたんだ? 俺は確かにさっきカーテンを閉めたはずだ。
男はガバッと起き上がると、改めて窓を見た。カーテンが僅かに開き、そこからガラスの窓が覗いている。
ガタガタガタガタ……。
先程よりも強い音でガラスが揺れた。物静かな男の部屋で、その音だけが不気味に響き渡る。外は相当風が強いらしい。
男は窓から視線をそらすことができなかった。それは、カーテンが開いていたことが気になるからではない。そのカーテンの後ろ、窓の外に黒い人影のようなものが見えているからだ。
あれはなんだ?
荒い息遣いで男は窓を凝視する。その黒い影は、ゆっくりとカーテンから覗く隙間に向かって移動し、やがてその姿を現した。それは逆さまに映る青白い女の顔だった。
「け、慶子!」
驚いた男は思わずベッドから転げ落ちた。そしてすぐさま慌てて起き上がろうとした時、男はベッドと床の間にある隙間に信じられない物を見た。それは、ジッと恨めしい表情でこちらを見つめる慶子の首だった。
「ひ、ひ、ひいいいいぃ!」
虫のように這いずりながら、男はその場を離れようとした。だが、その足を冷たい慶子の手がガッシリと掴んだ。ひんやりとした彼女の手の感触が足から伝わってくる。男は半狂乱になりながら、必死にその手を振り解いた。
「ひぃ! ひぃ! ひぃ!」
男は急いで玄関へと向かった。そして、ドアに体ごとぶつかると、必死で鍵を開けようとした。だが、あまりの恐ろしさに手が震え、鍵を開けることができない。
その間にも、ヒタヒタと廊下を歩いてくる慶子の足音が背後から聞こえてくる。
男は泣きながらやっとの思いで鍵を開けた。そして、急いでドアを開けようとした時、そのドアがガチャリと何かに阻まれた。ドアチェーンだ。慌てていた男は、ドアチェーンの存在を忘れていたのだ。
急いでドアチェーンを外そうと男がその鎖に手をかけた瞬間、ドアの隙間から真っ赤な血に染まった手が現れ男の手を掴んだ。ハッと見ると、ドアの隙間から、恨めしそうに自分を見つめ佇む慶子の姿が見えた。
「け、慶子……。ゆ、許してくれ……」
男の言葉に、慶子は裂けんばかりにニタリと口元を広げた。そして、人とは思えない力で男を引き寄せる。男の体がドアの隙間にぶつかり、ミシミシと軋みを立てた。
「ぎゃあああああ! た、助けてくれ!」
響き渡る絶叫と共に、男の体が僅かに開いているドアの隙間に少しずつ入り込んでいく。
耳障りな骨の砕かれる音、プチプチと血管が切れる音。バシャバシャと真っ赤な鮮血が玄関に撒き散らされ、男の体が、まるでミンチのように磨り潰されていく。
そして……。
潰れた肉塊をズルリと隙間から引きずり出し、慶子はそれを愛しそうに抱き寄せた。
「いつまでも一緒だから」