空飛ぶ鯨と踊る山猫
出勤のためにドアを開け廊下に出ると、いつも通り東の方から陰が動いてしばらく薄暗くなる。エレベーターで降りて外に出ると空をクジラが覆っていて、いつも通り背中からイワシを吐き出している。イワシは各戸のネストに産卵し、クジラに帰って行く。目の前をカラスが横切った。
マンションの向かいは一戸建てで、ネストは庭に置いているから、こうしてたまにネストに向かうカラスが目の前を横切ることがある。ペリカンが横切ると一瞬ドキッとして、それは何度でも慣れないが、最近は主流がペリカンからダチョウに代わってきて、ダチョウが横切るともっとギョッとする。最近余り見かけないツバメを見ると良いことがあるなんて今時学校に通っている、つまり街を出歩くお嬢様の女子高生の流行りを思い出した。
会社で新発想のための日常見直しレポート。
上司がアメリカで企画立案のためのアナロジーを学んできて、今日一日をただ見えるままレポートせよ。できる限り主観を廃して五十年後、五十年前の人の頭の中に映像として浮かぶよう記述せよと言われて書いてみた。
日常当たり前と思っていることを振り返り常識を揺さぶって、そのギャップから発想しようというエクササイズだ。確かに十年前、空にクジラは飛んでいなかった。そして十年後、もう飛んでいないだろう。
電波法のように空浮法が出来て、申請した企業に高度と時間帯、地域の割当が認可され、まず物流企業とタクシー業界が動いた。配達サービスが倉庫を空中に浮かせた。毎朝、中央倉庫から腹に配達品を載せた飛行船が出航する。ゆっくりと空中を進む。倉庫はその形からクジラと呼ばれた。やがてボディに上部は黒、下部は白に黒のストライプのクジラの模様が描かれるようになる。最初商品は、下の腹が割れて空中に投下散布され、そのままドローンが起動して運ばれるよう設計されていたが、ドローンの故障で起動しなければ、落下して大事故になる。設計が変更され、背が割れてドローンが自力で飛び立つようになった。ドローンは最初ほんの小物を届けるのみだったが、やがて手のひらに載るほどのものを運ぶようになり、ダンボール箱になり、今は小型コンテナ(ダンボール箱2つ分)が主流となりつつある。最初のがツバメ、次がカラス、そしてペリカン、ダチョウと呼ばれるようになった。ドローンの色は最初黒かったが、黒だと見にくい、という理由で、種別に色が決まった。警察、消防用は黒、通常配達用は黄色と赤。赤は生鮮食品用。しかし、朝クジラの背が割れてドローンが一斉に飛び立つ時、ドローンの色に関係なくキラキラ輝く様がイワシと例えられる。誰も網に入った大漁のイワシなんて知らないだろうに。今、マンションのベランダや一戸建て住宅の庭にドローン用のロッカーが設置されている。ドローンが着陸して荷を切り離すと床は下がり、覆いが包む。それを商品名ネストという。各戸のドローン用ポストだ。十年前にはなかった。そして十年後にはないだろう。その頃には、買った商品はデータが送られ、各家の3Dプリンターがそれを物化するだろうから。細々とこんな説明が書けるのも、こうなる前からの世界を知っているからだ。今の女子校生なら小学校の頃にはもうこんな世界だったろうし、それ以前の記憶なんてあやふやだろうから、今の風景が自然なのだろう。僕には今のこの風景を印象付けた、あるシーンがある。それは今でも鮮明に覚えている。
まずこんなナレーションだ。こんなナレーションが許される事自体信じられないのだが。
『近年、下層階級、貧困層は人口の拡大と共に顕現し、固有の行動様式、独自の倫理が目につくようになった。』
政府広報で、生活情報ライブラリー室新設の案内と協力のお願いのために流されたテレビやネットでのCMだった。クレームがついてすぐに打ち切られたが、それも計算済みだろう。一度流せば誰かが拡散してくれる。一度謝っておけば謝罪したと言いきれるだろう。
犯罪者の論理や倫理は上層富裕階級のそれとは明らかに矛盾するものであり、支配、統制する階級である彼らは取締を強化した。各層の分裂、多様化故に意見がまとまらず、多数決という決議で裁定されるシステムは機能不全に陥っていたが、管理層はそれを認めず、生活情報ライブラリー室の設置は強行採決にも似た強引さで決定、すぐに実現された。強行採決の光景はもういつものことで、「急を要する」「喫緊の課題」は人を救う法案には使われず、常に誰かを(マイナーな誰かを)縛る法案に使われた。生活情報ライブラリー室は当初、情報管理室の名称だったが、そんな名で通るわけはない。名を長くしてポイントを曖昧にするのは韜晦の常套手段だ。誰もが何をするためのものかわかっていながら、名称を変えると内容も変わったかのように人は思うだろうと議論を打ち切り、与党の賛成多数で可決された。国民の様々な情報を一手に掌握し、プライバシーの漏洩を防ごうとの表立ったスローガンは、最近著しく増加している、しかし実は日本人に比べて著しく低い犯罪率の外国人を監視していますという建前と、実は下層に属する人々の不満と騒乱を早い段階で潰そうという早期発見、捕捉のためのシステムだ。腐った行政が腐った立法を作って司法を腐らせる。もはや自浄能力は政府になく、警察に捕まったら最後、100%有罪になる。だから犯罪はより巧妙になるか、やけっぱちになる。
各地の情報センターには数百から数千(各地の人口、実情に合わせた数)のドローンが配置された。当初、交番、役所、消防署、警察署に配備しようとの案だったが、メンテナンス出来ないということでセンターに一括管理されることとなった。火事やけが人の発見、災害時の現状把握という建前だったが、凶悪犯罪事件の場合、数千のドローンの出動は雲霞のようだった。一斉に飛び立ったドローンは主要道路や許可を得た建物、自前ながら協力を申し出た、あるいは要請されて強制使用された設置カメラと連動し、カバーできていない箇所を埋めるべく飛行した。0.1秒で本人認証できるカメラを搭載し、最大時速80キロで高速移動が可能だ。裏道に入り込みひたすら人間らしい者をあらゆる角度から撮影してはセンターに映像を送る。それがなぜか、個人のSNSにも流れ、リアルタイムで放送される。犯罪データベースやその他のデータと照合してはそれらしい人物を特定し、他のドローンを呼び寄せる。たちまちドローンに囲まれて右往左往し、やみくもにそこらにあった棒きれを振り回している犯罪者の姿がディスプレイの中にある。
最初期の衝撃を思い出しながらなんだか、ディストピアSFのような世界になったななんて考えて、差し当たり関係のない生活を営めているので、早く家に帰って安全の中で楽しもうと考えている。今週末、彼女とメタバースでデートしようと約束してる。彼女が楽しもうと、メタバースチェアとメタバーススーツを新調したらしいのだ。メタバーススーツに全身包まれて、メタバースチェアに座る。チェアと言いながら縦横奥行き1.65メートルだから一部屋潰しちゃったなんて言ってたけど、まあ、メタバースルームと考えるしかない。最近話題のアミューズメントパークで、メタバースチェア、メタバーススーツと繋ぐと今までとはけた違いの体感率らしい。販売店で試してみて、これは買いでしょと、さっそく購入したらしい。チェアが前後左右、各10センチ幅のリングに沿って傾き、揺れ、反転し、前進後退、左右折の感覚はスーツ内に仕込まれたエアバルーンの圧力で疑似体感できるらしい。つまり1・65メートルのスペースで椅子がくるくる動き、座っている者は、それで時速数百キロで走ったり、何十メートルも落下したように感じるわけだ。全身スーツの頭部にはカメラ、レンズ、スクリーンとスピーカがすべて小型化されているので、振り回されても支障ない。腰部に機器類、バッテリーを固定している。器具を小型化させて全身にできるだけ分散して、バランスを取り、スーツの違和感を排除してフィット感を上げている。一方こっちは、スーツなど持ってないから、旧式のヘッドセットとゴーグルでソファに寝そべっている。メタバースに入って入場ゲートに近づくと、山猫をイメージしたアバターが立っていた。彼女のアバターは猫のイメージだと聞いていたから、早速近づく。なぜか表情が驚いているようで一瞬お互い動きが止まる。すると、後ろから、
「ねえ、待ったあ」と猫が近づいてきた。頭の上にプレートがあって彼女のアカウントが私に表示されている。こっちの猫は毛がふさふさとしたペルシャ。浮遊ボードに乗っている。なるほど、全身スーツなら自分の動きが反映される。前に進むには歩かなければならない。部屋で歩いたら三歩で壁にぶつかってしまう。VR内では浮遊ボードに乗って移動するしかない。ペルシャの全身スーツを買ったらそのままのメタバース用アバターが付いてくるのだろう。彼女は同じ格好で部屋の中にいるはずだ。振り返ったら山猫はいなくなっていた。
彼女は絶叫マシーンを満喫した。こっちはヘッドセットとゴーグルなので、ただただ目の前の風景が目まぐるしく変わるだけだ。それだけでも十分迫力はあったが、それ以上に目が回り、疲れた。テーブルに用意していたビールで乾杯する。メタバース内ではレストランに入ったことになっていて、私は当然、ビールを飲んでいる。ただ、メタバース内では缶じゃなくてジョッキに入っている。彼女のアバターは猫の口でサワーカクテルを飲んでいる。たぶん部屋の中では口元を開けて実際の口で缶の飲料を飲んでいるはずだが、メタバース内では修正されている。次は次はと彼女は忙しなく移動するが、それほど興味のないこっちはちょっと疲れる。2時間ほどうろついて、お開きにした。メタバースから退出してヘッドセットとゴーグルを取るとホッとしてそのまましばらく横になった。
翌朝、いつも通り駅に行くと昨日の山猫がホームにいた。彼女はアバターそのままの全身スーツを着て今現実の中に立っている。昨日メタバースで遊んでそのまま寝てしまい、朝になって着たままなのを忘れてそのまま飛び出したのだろうか。思わず彼女に近づき、振り向いて驚いた様子の彼女を見た。全身スーツで頭部は山猫のマスクで全頭部が覆われているのになぜか、彼女の驚いているのが表情に出たような気がした。まったく昨日のままじゃないか。そして彼女自身も昨日の私であることに気づいた気がした。またしても二人はそのままフリーズした。私は彼女にどう声をかけるのか、そもそも声をかける必要や意味があるのか。彼女は私の意図が分からず、どう対処すべきか分からない。電車が来て二人はそのまま何もないように乗車した。
車内で彼女の様子をちらちら眺めてしまう。車内に全身着ぐるみスーツの山猫がいる。さっきから彼女と言っているが、小柄なのでたぶん女性だろう。私のほかにも彼女に目をやっている人は数人いる。ただ誰がどんな格好をしようと自由なので誰も何も言わない。最近この全身スーツを着用する人が増えているらしい。と言っても私自身、見たのは数人だが。
花粉やインフルエンザ、定期的に流行る新しい感染症、pm2・5、黄砂と目や鼻、喉を守る必要から、ゴーグル、マスクが年中手放せない人が多数いる。化粧をしなくていい、人に素顔をさらしたくない人も多くいる。年中、ゴーグルとマスク、イヤホン、ヘッドホンから、顔の前面マスクが売り出されたが、売れ行きは今一つだった。少年漫画のヒーローマスクマンか、ロボットのようでいかつい。変化があったのは自身のアバターとの共鳴。
アレルギーで悩み、ゴーグルとマスクを手放せない女性が自身のアバターそのままを前面マスクに施してみた。かわいいうさぎで、よく遊園地にいたり、ビラ配りをしているような。それをSNSにアップしたら私もやってみたという投稿がいくつか出て、バンドが採用する。SNSに出る時の常識になる。マスクアイドルが現れる。もともと女性に多かったようで、マスクをかわいい系にすることで商品となった。ゴーグルはただ目をカバーするだけでなく、検索画面、ゲーム画面になった。つまりウエアラブル。頭部全面を覆い、服もそれに合わせた全身スーツにする。それによってスマートフォン機能とバッテリーを胸、腰に分散させる。暖かさに加えてファンを取り付け涼しさと空気の対流を作る。服の素材、機器、バッテリーの小型化、軽量化、さらに新しい機能、例えば胸や臀部に接触が一定時間あると恣意的に微弱な電流を流せるとか、アラームを内蔵するなど。これはもちろんセクハラ対策。見えたものを録画する機能もある。それらを操作する指先のセンサーや視線でのクリックなど。もちろん、逆に全身スーツでの犯罪も考えられるので、街中の防犯カメラの紫外線だったか赤外線だったには肉眼では見えない製品コードが読み込めるようにしてある。販売の時点で本人確認をし、スーツと本人を紐づけ、何かがあればすぐ本人が確認される。だから盗まれたらすぐ届け出る必要がある。移譲には煩雑な手間がかかる。それでも確実に売り上げは上がっている。特に有名デザイナーのブランドアバターとそれの実体スーツはプレミアが付いたり予約が数か月待ちであったりと社会現象化している。スーツとそのアバターはどちらが主で従かもうわからない。自分の分身のアバターはメタバースで走り回り、そちらこそが本当の自分だと言い切る人も多い。
電車の中の山猫は、私と同じ駅で降り、コンコースを歩いて同じビルに向かっている。目的地が同じ? 会社のゲートを同じく通り、エレベーターで同じ階に降り、上司に紹介された。
「こちらがデザイン会社から来られた……、(メモを見て、)コン・メオさんだ。」
「昨日、お会いしましたよね」
――あのアミューズメントパークの入場門は、私の会社のデザインなんです。先輩の仕事なんだけど、勉強させてもらおうと現地で確認をしていました。
彼女は返答を私のスマホに飛ばしてきた。上司に紹介され、彼女に向かって話しかけたら、いきなりスマホが鳴り、「すみません」と彼女に断って画面を見たら、返答があったわけだ。人工音声が彼女の返答を読み上げる。これから打ち合わせる食品パッケージのデザインで、変更等の連絡で、プライベートの連絡先を知らせておいた方がいいかと、個人情報の名刺を彼女に渡したわけだが、間髪入れず返ってきたメールに、どんな仕組みだと考えこんだ。彼女の目と言うか、マスクのレンズがカメラになっていて、名刺を読み込み、返答をした。初めまして。コン・メオですくらいなら、事前に用意もできるだろうけど、どうやったのだろう? 彼女の手はミトン状になっていて親指に当たる部分とその他で私の名刺を挟み、しばらく眺めているようだったが、顔を上げてこちらに向いた時、メールが届いたわけだ。
続いて、彼女の会社名、所在地、電話番号、メールアドレス等、通り一遍の情報が送られてきた。
「あの、これから仕事は、しばらくかかると思うんです。社運を賭けたなんて大袈裟だけれど、でも新製品っていつも社運を賭けていると思うんです。それでデザインの変更とか、意見とか、いろいろ話すこともあるだろうと、私のアドレスを差し上げたわけですが、コン・メオさんの個人的なアドレスを聞くのは無理でしょうか。というか、コン・メオさんって個人ですか、それともチームなんですか。」
すぐ傍にいながら彼女の体の一部でさえ、窺うことができなかった。マスクをしていても目か、口の辺りで素肌が露呈する。しかし、コン・メオの口は猫の口が覆っている。多分着脱式で、食事など、顔の下部、特に口の辺りを外すのだろう。そして目は作り物の猫の目でその奥にレンズかカメラが仕込まれている。小柄で印象から彼女と言っているが、女性かどうかわからない。中はどうなっている? 例えば、障害を持っていて手や足や目や耳など、不自由な箇所があって、こうしているのか、あるいは、全身麻痺でロボットを操作して本人はどこかのベッドや安楽椅子に腰かけているのか、数人が文楽の人形遣いのように操縦しているのか。第一、これから発売する商品に携わる者がこれでいいのか。彼女で秘密が守れるのか。次第に腹立たしくなってきた。
そんな雰囲気を感じたのだろうか、あるいは、前にも同じような状況があったのだろうか、しかし、彼女は困惑した様子で沈黙するのみだった。
上司がコン・メオさんについては、技術力も高く、信用できる人物だし向こうの会社が責任を持つと言っている。彼女と仕事をするのは上からの指示なのでよろしく頼むよと言った。このまま立ち話もできないので、ミーティングルームに移動しながら、しかしどうやって彼女と仕事をするのだろうと考えていた。彼女、彼女と連発しているが、正体は何もわからないのに。
四六時中と言うか常時口に入れるプロテインスナックが今回の新商品だ。気が向いたら口に入れるクッキー状の菓子。仕事中も、歩きながらでも、栄養補給食でなく、プロテイン。試合中のインターバルに口に入れてもいい。どんな容器が良くて、どんなデザインが最適か。プロテインのイメージがあって、そんなパッケージデザインが流通してるから、それを踏襲するのか、全く新規を考えるのか。容器は、ハードでプラスチック素材。クッキー状なので、砕ける可能性があり、開発部は強く推しているが、今プラスチックは使いたくない。しかし厚紙ではジムに持っていってベンチなどに置いておいた時、誰かが誤って座ったりしたら粉末になる。安く上げたいなら袋状。問題は山積して、デザイン担当からも意見を聞きたいし、それが決まらないとデザインができない。そんな相談相手が壁の向こうではお話にならない。不機嫌になるのも当然ではないか。
ミーティングルームで対峙して、出してもらったペットボトルのお茶に手を付けず、黙っている彼女にペットボトルは持って帰って貰って結構です。バッグにおしまい下さいと、つまらない当てこすりを言った。彼女は、出された資料を手にしていたが、
打ち合わせは、下記のメタバースでしませんかとメールしてきた。パソコンをスクリーンに繋いで、メタバースに入る。ここと何も違わないミーティングルームだ。
新商品を興味深く拝見したしました。いつでもどこでもプロテインということで、容器とそのデザインと言うことですが、クッキー状のため、一つ一つが包装されています。となると、食べる前には当然その包装を剥す必要があります。手間がかかるし、ごみも出る。とてもいつでもどこでもではない。まず、製品の形を工夫して……とスクリーン内の彼女は製品片手に語り始めた。見ると、彼女の顔の下が小さく動いている気がする。話しているのか? 声は合成のような気がする。年齢その他が分からない女性の声。以前、とてもスタイリッシュな女性を見かけた。銀髪で細い足とそれを強調する白いGパン。上はどうだったかよく覚えてないが、その下の装いに見合うような服装だった。立ち止まっていたので追い越して振り向くと、高齢の方だった。銀髪は地毛だった。てっきり妙齢の方と思っていたが、それをはるかに上回っていた。そういえば彼女自身は何歳なんだろう。彼女の言っていることは妥当で聞くべき意見だし、提案も理に適っているが、雑念で耳に入らない。
「ちょっと早いですけど、休憩しませんか。すみません。」とブレイクを提案した。再開は15分後。トイレに行き、足すべき用もないまま便器に向かい、手を洗った。
「すみません。提案してくださった案件を各部署に流します。その返答を持ってまた話し合いませんか。期限は2日後。包装の件は変更が可能かどうかくらいでしょうが、先に進めるためにも、議案に載せておかないと。そのうえでまた話し合いたいと思っています。メタバースでしたら、ご足労を頂かなくてもけっこうかと。メールで連絡し、二人の都合がつく時間が調整できればまたメタバースで話しましょう。会社のメールに送ればよろしいでしょうか。」
つまらない皮肉を言いながら早々にミーティングルームを退席しようとした。「はい、私宛にして下さったら自動で振り分け、こちらに届きますから。」と彼女は言い、礼をして退出した。握手などはなかった。
プロテインを固めてクッキー状にしてお菓子感覚で補給するのではなく、例えばチョコレートでコーティングし、ドロップ状にして箱を振れば数粒出てくる。それをカリッと砕いて嚥下するなんてどうだろう。噛み砕く、嚥下に問題はありそうだが、新しい問題点は前進の証拠だろう。時間が経って、他のことをしているうちに、冷静になってきた。彼女に対する嫌悪と怒りの正体は、これから同じ問題に立ち向かっていく集団として、正体不明でいいのかということだと考えた。解決すべき問題を前にして、チームワークとしての親密さを拒否した彼女の姿勢に対して催した感覚だろう。感情なしでも問題は解決できるだろう。しかし、仲間意識とか、相手に対する信頼は解決の速度や洗練さで意味を持ってくるはずだ。彼女に聞いてみてもいいかもしれない。
その日は出勤日ではなかったので、ネットで直接彼女に連絡し、時間を指定するとそれで構わないと言うことだった。こちらの都合で4時からとなり、もしかしたら時間超過になるかもと思ったが、やはり構わないと言うことだった。新製品の根本的な見直しとそれに伴うイメージの変更を打診した。あらかじめ資料は送っておいたので問題はなかったが、説明その他でやはり、5時は過ぎそうだった。このまま続けても構いませんかと言う問いに結構ですと返答。今は自宅ですか、それとも会社? と尋ねると沈黙が来た。別に今から会社などに押し掛けるつもりはありませんから、返答は必要ありませんが、もう少し、個人情報の開示ハードルを下げてもらえると助かりますと言ってみた。沈黙が来たので、例えば、今扱っているのは新商品です。様々なアイデアに加えてそれを支える技術などもあります。それをどこのだれか分からない人と共有するのは、ストレスなんですと言うと、私の身元、身分は会社が保証しています。万一私が秘密を漏洩した場合は会社が損害を支払いますという返答だった。
弁償してもらえればいいと言う問題ではないのです。何年もかかって考え形にした商品なので愛着があるし、日の目を見せたいのです。あなたを疑っているわけではない、ただ気持ちよく仕事がしたいだけです。私も付き合いがいいわけではないけれど、少なくとも顔を晒している以上、今日出社した私と明日出社する私は同一人物だと担保できる。あなたは前回のあなたなのか、確信が持てないのです。
私の全身スーツはあなたの会社のカメラに登録しましたので、機械が私の同一性を保証しています。中身が変わっていたら、現法の下では犯罪です。
はい、僕の言っているのは感情論、感覚論です。でもそれだけに、どうしようもなく感じ、思ってしまうことなんです。
美容整形がこれほど簡単になり、普及もしてる現代、今日の朝と今では顔が違うと言うことなど十分ありうることです。自ら進んでセクシー女優をしてらっしゃる方もいらっしゃるけど、借金その他でやむを得ずされている方もいらっしゃるそうです。でも昔と違って、あなたの言う、ハードルは随分低くなったそうです。借金完済の折には全身整形で昨日までの自分とはさっさとおさらばできるからだそうです。さっきまで本屋にいたのですが、気が付いたら車椅子を使っている方がずいぶんいらっしゃいました。誰もが自分を規制する、そんなハードルが低くなるのはとてもいいことだと思います。もし、歩行に問題がないのに車椅子を使っていたら。それも自由でしょう。私が全身スーツを着用しているわけは、それが絶対必要だからか、ただの趣味かは、述べたくありません。
ええ、そうですね。是が非でも聞くとか、強要するとかはおかしいですね。でも私の中の不信感は理屈では拭えないのです。
例えばトラブルがあってカスタマーサービスに電話した。メールを送った。チャットした時、相手が人間なのかAIなのか。人である必要があるのか? 問題が解決すればそれでいいわけだし。目の前の着ぐるみが人なのかロボットなのか、リアルアバターで人が遠隔コントロールしているのか、リアルアバターあるいはロボットが自走して誰かが遠隔サポートしているのか。着ぐるみの中の人が、下半身に障害があってサポート器具を使っているのか、その上、手にも内臓にも皮膚にも目にも耳にも、身体の98%に障害があったら。サポート器具があったら人は人ではないのか。じゃあ、脳があれば、脳だけがなかったら。整形は? その人は整形前の人と同じなのか、本人が整形前の自分を否定したら。性を替えたら。着ぐるみに人が入っていてその人が自分は人でないと言ったら。チューリングテストは有効なのか。つまり、私が着ぐるみを人と認識したら人なのか。私はだれを相手にして誰と話しているのか。これは私だけの問題なのか。
しばらくの沈黙の後、「今度、私の眼の中に入りませんか? 」という提案があった。
「メ? 」という疑問に、
「私がレンズを通して見ている世界を共有しませんか? あなたのVRソフトに、私のカメラレンズが構成した世界を送りますから。」と言ってきた。何と答えていいか分からず、今度はこちらが沈黙した。
全身スーツを脱いだら、何が出てくるのか。全身傷だらけ? 障害がある体? 精巧な機械が滑らかに動いている? あるいは男性。老人。外国人。でもそんな外見と私はイコールなんですか。
では、内面は?
だれも私を助けてくれなかった。母は父から私を守ってくれなかったし、父は母から、同級生は教師から、教師は同級生から。両親は世の中すべてから、世の中は、私を攻撃する理不尽から。実際に何があったかなんて言っても仕方ない。それはよく小説などで取り上げられる虐待やいじめかもしれないし、実際は何もなくてただ私の被害者意識かもしれない。本人にとっては大事件でも、傍から見れば陳腐なことかもしれない。私はこの世界が嫌いだけど、世界も私が嫌いかもしれない。だったら、互いに距離を置いて生きればいい。必要があったら、私は自分の世界から出て、この世と接触する。ただその時はカーテン越しにやり取りをしたい。それだけです。
彼女の申し出を断る理由もなかったから、承諾したものの、実際どうすればいいのか問い合わせた。
私の朝の出勤風景を送ります。この前、駅でご一緒して後は会社まで同行という結果になりましたが、あの時、私がどんな世界を見ていたかを送ります。これを私の自己紹介ということで、今後は、仕事以外での接触は辞退したいのです。よろしいでしょうか。もちろん、仕事については全力で取り組むつもりですが。
承諾すると添付ファイルが送られてきた。ゴーグルをつけてVRに入場した。
それが駅の風景だと分かったのは、数秒経ってからだ。
僕はガレ場に立っている。洞窟が崩落して、僕の上には石のアーチが掛かっているが、それほどの距離でもなく前と後ろには日が入っていて暗いわけではない。周囲に石柱というか、石筍というかが、どんどん立っていて、たまに黒い影が周囲で動く。覆っている石のブリッジが駅の屋根で、石柱、石筍が立ち止まっている人々、黒い影は追い越す人、横切る人なんだろう。前に川が流れていて、畳半畳ほどの板が流れ着いた。彼女はそれに乗ると流れだす。これが線路と列車なのか。
これが君の生きている世界?
ええ、海の中でラッシュ時の人を鮪の群れでとか表現したんですが、ぴったり来なくて、ダンジョン、迷宮でも試してみました。これはゲームを借用すれば簡単でしたが、やっぱり、迷宮内の石造とか、人工的なものは嫌で、荒涼としたガレ場がぴったりでした。
音はどうしてるの?
遮断してます。危ないから、風の音に似せたものを、迫ってくる大きな音には合わせています。
駅に着く前からこの景色なんだね。
ええ、住宅を出た所からこの景色ですが、プライベートな部分は切りました。
目的地に着いて駅を出て、会社に向かって歩く。人が減ったので石柱は減り、周囲のビルは聳え立つ岩盤になっている。彼女の横の黒い霧のような影はきっと僕なのだろう。
くりぬかれた岩盤に入ると前に斜面があって、これが階段。なんとなく彼女の世界が理解できた。ここで映像が終わる。彼女の前に立つ僕はどんな映像なのだろう。石柱かな? 会話はどうなのだろう? でも聞くのはやめた。聞く気も失せた。彼女が全身を覆ってパラダイスというのでないのは分かった。虐待があったのか、苛めか、それとも自閉的な傾向が強いのか、感覚過敏なのか、外的な原因か内的なものか、そもそもそんなことはどうでもいいのだろう。多分、彼女にとっては今、僕たちと生きていることは辛いことなのだ。そのおどけた、アニメチックな外見とは裏腹な内側。
君の世界では、生き物は死に絶えてるの?
しばらく考えていた彼女は、そういえば、一つだけ、私の世界で生きているものがあります。あの空を行く鯨です。
ああ、あれは毎朝、君の世界の中で空を泳いでいるんだ。
ええ、どうしてでしょうね。でもあれは嫌じゃない。特に好きってわけでもないんだけど。
今度、君があの鯨をどう見てるか、見せてくれないか。
それでは、今晩送っておきます。
夜、寝る前にメールをチェックすると添付ファイルが届いていた。クリックすると、勇壮に空を舞う鯨がいた。現物はただ真っ直ぐ空を進んでいくだけ。このビデオのように全身をくねらせ、上下に激しく動くわけではない。まるで竜のように空を行く、彼女の鯨を見て、何かを感じた。そう、神だ。昔、熊や狼が神であったように、白鯨のモビーディックが魔そのものであったように、配送用の鯨は彼女にとって、何か特別な存在らしい。たった一頭、毎朝、舞うように空を行く鯨は彼女を鼓舞しているのかもしれない。勇壮な鯨を見て彼女は荒れ狂う、荒涼とした地を行く勇気を奮い立たせているのかもしれない。空を舞う鯨が画面にあるということは、毎朝彼女は空を見上げているんだろう。周囲を岩壁で閉ざされている彼女はその上の空を見ている。空さえ狭いと思わせる舞うように泳ぐ鯨を見て笑みをこぼす彼女はそれからやっと、一歩を踏み出せるのだろう。
独居老人と同居老人では、後者の方が自殺率が高いらしい。逆じゃないのと思うのだが、そうらしい。理由は病気を苦にというのが一番らしいが、死ぬ理由を聞かれたら、強いて言えば病気かなとなるわけで、たぶん孤独感じゃないかとレポートを発表した医師は言っていた。独居老人は孤独だ。しかし、同居老人は孤立らしい。同じ家の中に家族がいても別に話すことはない。話が合わない。あてがわれた場所で漫然とテレビを見る。家の者からは、趣味を持て、友人を作れと言われる。今更どんな趣味が作れる? どうやって友人を見つける。外に出ろという。どこに行く? 周囲に家族はいても、街の雑踏の中、佇むこととどう違う? なまじ家族と暮らしているばかりに、独居老人じゃなくてよかったねと言われる。同居してくれる家族に周囲から感謝を求められる。広場の孤独でないけれど、同居だからこその孤立もある。じゃあ、独居するのか?
それができるならば、それが解決かもしれない。もし、孤独が辛いなら、いっそ、誰もいない世界なら、それは孤独が消滅した世界ではないか。
片親で育ったら、生活のため、親は働かなくてはならない。子供は誰とも出会わず暮らす。公園に行けば同世代が遊んでいる。そんな時代じゃない。あえて探すなら深夜のコンビニの前か。本人に障害があって、そのケアに疲れて父が去り、母は一人で頑張っている。障害は肉体的、精神的? 学校に行っても勉強は遅れる。誰も彼、彼女に勉強の方法など教えてくれない。親が倒れたら子供がケアする。学校にも行けない。親のケアに疲れて子供が家を出る。残されたその子の幼い子が祖父母の世話をする。誰も手を差し伸べない狭い社会の中で、周りに人は行き交いながら、誰も声をかけず、そこにいる子供たちの存在が見えない社会では、いっそ一面の荒野の方が諦めも着くだろう。彼女がそうなのか、どうなのか。彼女が来ている山猫の全身スーツは機能が充実している。高価だろう。親が買ったのか、成人して彼女の才能が優れていてその対価として買えたのか。なけなしの金を注ぎ込んだのか。
せめて、彼女が山猫になった理由があればまだ救いになるんだろうな。VRの中で鯨のように華麗に舞い踊る山猫を想像して、ちょっと笑った。