「優秀すぎて鼻につく」と婚約破棄された公爵令嬢は弟殿下に独占される
「お前が陰で俺を嘲笑っているのはわかっている!」
学園の生徒たちが見守る前で発された言葉に、ソフィアは目を見開いた。
何かの間違いではないかとギルバートを見るが、ギルバートは婚約者であるソフィアをさしおき、別の令嬢――エミリーの腰に手をまわして抱きよせた。
ギルバートはこの国の第一王子であり、王太子。
対してソフィアは、公爵令嬢であり、ギルバートの婚約者。
「知っているぞ。お前は王妃になるために生きてきたのだ。自分の優秀さを鼻にかけ、俺や周囲の者たちを嘲笑いながらな。そんなお前に王妃など似合わない」
声を荒げる王太子の姿に、生徒たちの注目が集まる。
ああ、と悲鳴をあげそうになる口元を押さえ、ソフィアは倒れそうになる身体に力を込めた。
(わたくしの責任だわ)
何度諫めても聞く耳を持たなかったギルバートが、エミリーに溺れつつあるのはわかっていた。けれど、こんな馬鹿な真似はしないと信じてもいた。
ギルバートがなにを言っているのか、以前のソフィアならば理解できなかっただろう。
けれども今のソフィアならわかる。
すべてはこの状況を予見できず、むしろ引き起こしてしまった自分のせい。
ここでソフィアが楯突けば、周囲には王家と公爵家の仲違いが印象付けられてしまう。
そう考えたソフィアは、まずは胸に手を当てて恭順を示した。
「ギルバート殿下の御心は、理解いたしました。わたくしの至らぬ点、まことに申し訳なく思っております。どうか誤解を解いていただきたく……セントフォード王家とファビアス公爵家にて、話しあいたく思います」
「申し開きもしないつもりか。やはりお前は俺のことなどどうでもいいというのだな!」
暗に、ほかの生徒たちやエミリーのいるこの場で深く話をするつもりはないと示したが、それはギルバートの神経を逆撫でするだけだったらしい。
「お前のような偏屈な女は、婚約破棄だ!!」
「……!!」
下された宣言に、しん、とあたりが静まり返る。満足げに笑っているのはギルバートの腕の中のエミリーのみ。
ソフィアもあまりのことに、気が遠くなりそうだった。
だが、くずおれそうになるソフィアを支える腕があった。
「では、ソフィア嬢を俺にください」
「……ルイス殿下……?」
「約束しましたよね、兄上」
ソフィアを腕に抱きとめ、ギルバートに対峙したのは、第二王子であるルイス。
「ああ、これであなたに触れられる」
まわされた腕に力が込められた。
驚くソフィアを見つめ、彼が浮かべるのは、いつものやさしい、穏やかな笑みではなかった。獲物を狙う獰猛な笑み。
「やっと手に入れた、愛しい人」
(どうして、ルイス殿下が……?)
耳元で囁かれる声に、ソフィアは混乱した記憶をたどった――。
***
公爵令嬢ソフィア・ファビアスは完璧な淑女だった。
貴族の子弟たちが通う王立学園で、成績は常に女子生徒のトップ。
物腰は柔らかく、いつでも微笑みをたたえ、生徒同士の諍いも彼女が仲裁に入ればピタリと収まった。学園じゅうの令嬢の憧れを受ける存在。
惜しみなく注がれる彼女への賞賛を、ソフィアは「けれどわたくしなど、ギルバート殿下に比べれば」と視線を伏せて答えた。
「おい、見ろ。先日の試験、またギルバート様が学園で一位だ」
「そして二位はソフィア様ね」
「本当にお似合いのお二人でいらっしゃること」
発表された試験の結果を見上げ、令息令嬢たちは感嘆を込めた囁きを交わし合う。
王太子ギルバート・セントフォードと、その婚約者であるソフィア・ファビアスは、ほかの令息令嬢たちとは一線を画している。
ソフィアは、まさに王妃にふさわしい、〝淑女の鑑〟と呼ばれていた。
けれども、居並ぶ令息令嬢たちは、誰も気づいていなかった。
近ごろ、そんな完璧な二人の生活に、翳りが見え始めていたことを。
周囲に生徒たちのいないことを確かめ、ソフィアは帰り支度をするギルバートを呼び止めた。
「ギルバート殿下……」
「また説教か? もう聞き飽きた。王太子らしくなさいませと、お前の言うことにはうんざりだ」
ソフィアは視線をそらしてうつむいた。
この数か月でギルバートの態度は大きく変わった。これまでソフィアと続けてきた勉強会にも、理由を告げずに姿を見せないことも多くなった。
今はまだいい。けれど、来月の試験の範囲はまだ予習が終わっていない。
「明日もエミリー様とお会いになるおつもりですか」
声が震えそうになるのを押し隠し尋ねるソフィアを、ギルバートは唇を歪めて笑った。
「だとしたらなんだというのだ。行かないでくださいと泣いて縋ってみたらどうだ」
「いいえ、ギルバート様の行動をわたくしが止める権利はありません。ただ、臣下として、王太子らしいふるまいをなさることを願うばかりです」
ソフィアの顔色は青ざめている。けれどもその立ち姿は凛として美しく、揺らぐことはない。
そんなソフィアにギルバートは舌打ちをする。
「お前の優秀さが鼻につくんだよ。エミリーのように可愛げがあればまだいいものを……ただ美しく、賢いだけの、人形のようなお前を、俺が伴侶にしたいと思うのか。心の中では何を考えているか知れたものではない、そんなお前を!」
バン!とけたたましい音を立ててドアを開けると、ギルバートは部屋をあとにした。
粗暴な態度にソフィアは一瞬眉をひそめ、開けっぱなしのドアに近づくと、周囲に人がいないことを確認した。王太子らしからぬギルバートの行為は誰の目にも止まらなかったようだ。
窓から差し込む日差しを浴びて暖かさに目を細めながら、ソフィアは自分の無力を悔いた。
数か月前、ギルバートは入学してきたエミリー・ラヴェンダという男爵令嬢に出会った。身分の差のある彼らが、どんなふうに親しくなったのかソフィアにはわからない。
ギルバートがこうしてソフィアを責めるようになったのはそれからすぐだった。
幼いころから王妃になるのだと期待をかけられ、厳しい妃教育にも、ソフィアは必死に耐えてきた。
淑女としてどうあるべきか、妃教育はソフィアのふるまいや話し方、考え方まで、すべてを規定してしまった。
けれども、今思えばそれは、何かが欠けていたのかもしれない。
こうしてギルバートが自分を責めるとき、どう答えればよいのかを、ソフィアはこれまでの妃教育の積み重ねからは導き出せないでいた。
そんな自分の態度が、ギルバートを苛立たせるのだとわかっていても。
近づいてくる足音に、ソフィアは顔をあげた。
(いけないわ、こんなところを誰かに見られては)
ひとりで、青ざめた顔をして、ぼんやりしているところなど。
自分は常に完璧な淑女でなくてはいけないのだ。
だが、現れた人影を見て、ソフィアは思わずほっと息をついた。
「ルイス殿下」
「ソフィア嬢」
穏やかな微笑みを浮かべて立っていたのはルイス・セントフォード。ギルバートの弟であり、第二王子である彼のことは、ギルバートと婚約したころからの知り合いだ。
二つ年下の彼もまた、今年学園へ入学してきた。
ルイスはソフィアの側に立つと、心配そうに顔を覗き込んだ。
「大丈夫かい? 顔色が悪い。また兄上が何か言ったのか」
「いいえ」
首を振るソフィアに、ルイスは苦笑を浮かべる。
「兄上を庇わなくていいんだよ。……それに、そういうところが兄上を怒らせるんだと思うけどね」
「聞こえていたのですか?」
驚くソフィアに、ルイスは肩をすくめた。
「いや、カマかけてみただけだよ。兄上の放蕩はまだ直らないのか」
笑うルイスにソフィアは口をつぐんだ。ルイスの前では、ソフィアはいつもの完璧な態度を保つことが難しい。
ほかの貴族たちが相手なら、はぐらかし、話題を変えることもできるのに。
ルイスには不思議な空気があった。宮殿に通い妃教育を受けていたソフィアがつらかったとき。今日のように、ギルバートを止められず、心が落ち込んだとき。
まるで見計らったかのようにルイスはソフィアの前に現れ、ソフィアを慰めてくれた。
きっとルイスには、すべてがわかっているのだと思う。
沈黙が柔らかな陽だまりに落ちた。
春の陽光は窓から入り込み、ソフィアとルイスの足元を暖かく照らしている。
「……わたくしのなにが悪いのか、教えてくださいませ」
呟いたソフィアの言葉に、ルイスは目を細めた。その琥珀色の瞳の奥によぎった色は、ソフィアには気づかれなかった。
「兄上のために、自分を変えようと思うの?」
「はい。未熟ならば、正さねばなりません」
「そう。放っておけばいいと思うけどね」
「そんなことはできません」
ふたたび力強く意思を持ち始めたソフィアの瞳に、ルイスはほほえむ。
「兄上はね、自分自身を見てほしいんだよ」
ゆっくりと、迷子になった子どもに話しかけるように優しく、ルイスはソフィアに言い聞かせた。
「ギルバート王太子殿下じゃなくてね。だけど、それがどういうことなのか、自分自身でもご存じじゃないんだ」
ソフィアはルイスの言葉を聞き、自分の中で繰り返し、……それから肩を落として、首を振った。
「申し訳ありませんが……わたくしにも、理解しかねます」
ルイスの言葉は謎かけのようだとソフィアは思う。
ギルバートは王太子だ。ソフィアが公爵令嬢であるように。その立場をないがしろにすることはできない。
わからないと言ったきり黙り込んでしまったソフィアに、ルイスは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ヒントをあげようか」
「ヒント?」
不思議そうに繰り返すソフィアの目の前に突然一輪の花が差し出された。
驚いて見つめれば、透き通るような花びらを持つそれは、本物の花ではなく精巧に作られた飴細工だとわかる。
「食べてごらん。がぶっとひと口で食べられる」
ルイスに言われ、ソフィアは躊躇した。
ここは食堂ではないし、テーブルもなければ、ナプキンもない。これまでソフィアが受けてきた教育に基づけば、食べるべきではないのだ。
けれどもこの飴細工の花をさしだしているのは、ルイスだ。
「今だけ、〝次期王太子妃〟じゃなくなってみたら?」
おそるおそる花を手にとり、ソフィアは小さな花びらを見つめた。
職人の手によって薄く形作られた飴は赤みを帯びていて、日差しの中でキラキラと輝いた。
(綺麗だわ……)
繊細な飴細工はきっと口の中でほろほろと溶けて甘い味を残してくれるだろう。
そう思えば、はしたない、という気持ちよりも、味わってみたい、という気持ちが勝った。
覚悟を決めて、えいっと齧りついてみる。
くしゅりと音を立てながら、飴細工は口の中に溶け、想像以上の甘さと果物の爽やかな酸っぱさを残してくれた。
「苺……ですか?」
「そう。この花も、苺の花をモチーフにしているんだって。本当は真っ白な花なんだけどね」
「かわいい。それに、おいしいです」
気を抜けば欠片が床に落ちてしまいそうで、行儀の悪さにまだドキドキとする部分もあるのだけれど。
「楽しいですね……こんなお菓子があったなんて」
「ふふ、笑ったね」
「え?」
ルイスに言われ、ソフィアは口元に手をやった。
ずっとこわばっていた頬が、たしかにゆるんでいる。
笑わなければならない場面だから笑ったのではない、心から楽しいと思って笑ったのだ。
(そういえば、こんな気持ち、すっかり忘れていたわ……)
〝次期王太子妃〟ではなくなってみたらというルイスの言葉がよみがえる。
「ギルバート様の笑顔を、最近は見ておりませんでした……」
唇を歪め、嘲笑うような表情しか覚えがない。楽しい気持ちを引き出せないのだから、ソフィアと一緒にいたくないのは当然だ。
王太子と公爵令嬢という互いの立場上、ソフィアはギルバートに、常に王太子に対しての最大の礼節をもって接していた。
そんなソフィアの考え方は、ギルバートを苦しめていたのかもしれない。
ルイスはそれを伝えてくれたのだ。
「ありがとうございます、ルイス殿下」
「いや、役に立てたなら何よりだよ」
「わたくし、ギルバート殿下ともう一度話し合ってみます。ごきげんよう」
清々しい顔つきになったソフィアは、優雅な礼をすると、
「ありがとうございます」
再度礼を述べ、廊下を去っていった。
ルイスは笑顔でソフィアを見送った。――が。
「……うん、まあ兄上も、同情の余地はあるんだけど」
ソフィアの姿が完全に見えなくなった途端、ぼそりと呟いたルイスの表情は、先ほどとは打って変わって冷淡なもの。
琥珀色の瞳に、昏い輝きが戻る。
「それをソフィア嬢にぶつけるようなら、彼女には相応しくない男ってことになるよね。遠慮なく利用させてもらおう」
くすくすと漏れる忍び笑いを、聞いた者は誰もいなかった。
***
ギルバートにしなだれかかり、エミリーは媚びた笑みを浮かべた。
「ソフィア様はギルバート様のことをないがしろにしていらっしゃるのね。本当に、いやな方」
「そう言ってくれるのは君だけだよ、エミリー」
ギルバートは、エミリーの肩を抱き、蠱惑的な紫の瞳を覗き込んだ。そこに映る自分は、エミリーの言うとおり、つらそうな顔をしている、と思う。
「王太子殿下なら、王太子殿下ならとそればかりで、俺の身体をいたわりもしない。やれ勉強をしろ、貴族たちの規範になれと……」
――自らが手本を示さねば、貴族たちはついてきてはくれません。
ソフィアの言葉が耳によみがえり、ギルバートはそれを振り払うように首を振った。
「ソフィアはわからないんだ。俺がどんなにつらいのか。ソフィアがああだから、父上も聞いてくださらない。侍従たちもソフィアの肩を持つ」
「お可哀想なギルバート様。ソフィア様が見ていらっしゃるのはギルバート様の肩書きだけ。きっと王妃の椅子が目当てなのですわ。あたしは違います。ギルバート様ご自身を愛していますもの」
「そうだとも、エミリー。君が俺に真実の愛を教えてくれたんだ」
「ねえ、ソフィア様に、あたしたちの愛を見せつけてさしあげませんか?」
問えば、ギルバートは一瞬言葉に詰まった。
けれどもすぐに表情には冷酷な笑みが戻ってくる。
「そうだ。もう遅いのだということを思い知らせてやろう」
うっとりと自分を見つめるギルバートに、エミリーもまた蕩けるような視線を返した。
ただし、その心の中では別のことを考えている。
(あたしと会っているときにもソフィアソフィアと……名前を聞かされすぎて、こっちが腹が立ってきたわよ。けれどもうこれでギルバート様はあたしのものだわ)
男爵令嬢という、貴族としてはあまり高くない地位のエミリーには、将来が約束されたギルバートのなよなよとした愚痴は、ただの甘えに見えた。
だがその愚痴に付き合い、ソフィアへの文句を一緒になって繰り返せば、ギルバートは暗示にかかったかのようにソフィアと疎遠になった。
(ギルバート様をオトすほうが簡単だなんて、最初に聞いたときは信じられなかったけど……あの方の教えてくれたとおりだったわね)
***
翌日、ソフィアはギルバートをさがしていた。
ルイスに励まされ、これまでとは違った形でギルバートと話がしたいと思った。王太子と公爵令嬢ではない二人の関係がどんなものなのかはまだわからなかったが――話をしなければ、一歩も前には進めない。
けれども、ようやく見つけたギルバートの隣には、エミリーがいた。
そして、
「二人だけで内密なお話を」
と申し出たソフィアにギルバートが投げつけたのは、手ひどい婚約破棄の宣言だった。
「もう婚約破棄の取消はできませんよ、兄上。ここにいる人々が証人です」
ソフィアをかばい笑みを浮かべるルイスに、ギルバートは顔を青ざめさせてこぶしを震わせている。
「まさか、お前……お前の仕業か? 最初からこのつもりで……」
「忘れたんですか? 十年前、言ったでしょう。ソフィア嬢と兄上の婚約が決まったときに」
ギルバートの脳裏に当時の記憶がよみがえった。
二つ下の弟ルイスがソフィアに恋心を持っていると知ったギルバートは、弟への優越感から、こう言ったのだ。
――もし俺がソフィアを捨てることがあれば、お前にやるよ。
と。
ソフィアを物のように言うギルバートに、ルイスは静かな怒りを滾らせた。
だが同時に、ギルバートの本心を察してもいた。
(兄上も、ソフィア嬢に恋をしていらっしゃったのですよね)
学園へ入学してからのソフィアは、決まった日に宮殿を訪れ、ギルバートと勉強会をしていた。
だがそれは表向きの話だ。
実際には、ソフィアがギルバートの家庭教師役となり、試験対策を教えてやっていたのである。
そして、ギルバートの実力を十分に理解しているソフィアは、すべての教科で彼よりもわずかに低い点を取り続けた。
それがギルバートのプライドを著しく傷つけているとは理解せずに。
〝次期王太子妃〟の肩書に縛られ続けたソフィアは、ギルバートのことも〝王太子〟の肩書で見てしまった。
ソフィアにそのことに気づかせてくれたのは、ルイスだ。
「……申し訳ありませんでした、ギルバート殿下」
深々と頭をさげるソフィアに、ギルバートは唇を噛みしめる。
ルイスが現れた瞬間に、ギルバートも背後にあったものを悟った。もはや発してしまった言葉は取り消せない。
「あなたが謝る必要はない、ソフィア嬢。ただ努力を怠らなければいいだけ、あなたのやさしさに甘えず、あなたに相応しい男になろうとすればいいだけのことだった」
ソフィアを腕の中に引き戻し、ルイスは告げる。
己の不甲斐なさを、ギルバートはソフィアにぶつけた。
ソフィア以上の男になれない苦しみを、ソフィアの価値を下げることで晴らそうとした。そして、愚かなことに、ソフィアが血相を変えて縋ってくれればいいと期待していたのだ。
(そんな男にソフィア嬢は渡せませんよ)
心の中でルイスは呟く。
ルイスからしてみれば、それがどういった形であれ――恋情ではなく、ただ立場からくる敬愛の念だったとしても、ソフィアの一番はいつでもギルバートで、自分ではなかった。
ルイスはまずソフィアの心の中に己の居場所を作るところから始めなければならなかったのだ。
ギルバートのために宮殿に通うソフィアをどうにかして引き留め。
同じ学園に入学できるときを今か今かと待ちわびて。
そうしてようやく手に入れたソフィアの笑顔だった。
「さあ、いつまでもこんなところで突っ立ってるわけにはいきません。そろそろ教師たちも来るでしょう」
ルイスの言葉に、かたずを吞んで見守っていた周囲の令息令嬢たちもはっとしたように動き始める。
誰も言葉を発しないまま、生徒たちは静かにひきあげていった。
ここから先は、最初にソフィアの言ったとおり、王家と公爵家の問題である。
「あらためて王家から使者を出すよう手配します。ソフィア嬢、今日は戻って、ゆっくり休むといい」
ルイスに促され、ソフィアもその場をあとにしようとする。
「ちょ、ちょっと待ってよ……あたしはどうなるの?」
声をあげたのはエミリーだった。
ギルバートやルイスの背後にあったものをエミリーは知らない。すべてはうまく行っていると思っていたのに、この状況はそうではないらしい。
呆然としたままのギルバートを置いて、エミリーはルイスに縋ろうとした。
「ねえ、ルイス様――」
「触れるな」
じろりと睨みつけられ、エミリーはのばしていた手をびくりと引いた。
ルイスの視線にはなにもない。透き通るように冷酷な視線は、エミリーが余計なことを言えば破滅を呼ぶだろうことをはっきりと感じさせた。
魂の抜けたようにくずおれるエミリーを残し、ルイスはソフィアの手を引いて立ち去った。
***
学園の騒動から三か月後。
ソフィアは、ルイスとともに、隣国にいた。
名目は留学。
だが、実際のところは、これもルイスの手配によるものだった。
「兄上と寄りを戻されたらたまったものじゃないからね」
ソフィアを抱きしめ、拗ねたように言うルイスに、なんと返事をしたらよいのかわからなくなる。
あのあと、セントフォード王家とファビアス公爵家の話し合いにより、ギルバートは王太子の座を追われ、ギルバートとソフィアの婚約は正式に解消された。
理由は、ギルバートがソフィアに対し無礼を働いたからであり、ファビアス公爵家の不利になるような取り決めは一切行われなかった。
留学で学園を離れたソフィアとルイスとは違って、ギルバートは、今でも学園に通い続けているらしい。
王太子という立場を失ったギルバートは、あの日の騒動に立ち会った令息令嬢からは白い目で見られ、トップの成績を保ってくれていたソフィアの存在もない。その中で生き続ける姿をさらすことが、彼なりのけじめのつけ方なのだ。
そういったことを、ギルバートは自ら手紙に綴ってよこした。
――ソフィアのせいではない。
手紙の最後には、そう添えられていた。
ギルバートよりも早く姿をくらましたエミリーの行方を知る者はない。
「まあ、それに、十年も待ったんだから、少しくらい貴女を独占してもいいでしょう」
ほほえみを浮かべ、ルイスはソフィアの髪を撫でる。恥ずかしさのあまり縮こまってしまうソフィアに、目を細めた。
「今の貴女は〝次期王太子妃〟ではありませんからね」
「ルイス様……」
「寝坊をしても、鼻歌を歌っても、誰にも咎められない。明日は川へ行きますか? それとも馬に乗りますか? ここには煩いマナーの講師もいませんよ」
妃教育のため宮殿へ通うソフィアへ、どうにかして話しかける時間をとろうとしていたルイスは知っている。
幼いころのソフィアは、お転婆で、声をあげて笑うような少女だった。
それが、厳しい妃教育に耐え、何度も涙を流すうちに、〝淑女の鑑〟に相応しいふるまいを身につけていったのだ。
あれはいけない、これは相応しくないと言われ続け、ギルバートよりもずっとつらい目に、ソフィアは遭ってきた。
それでもソフィアは公爵令嬢として、いずれ〝次期王太子妃〟に返り咲く。
国王がギルバートから王太子の座をとりあげたのはそのためだ。
そしてそのとき隣には――。
「俺は完璧な貴女も、完璧でない貴女も知っている。全部の貴女を愛していますよ」
ルイスの言葉に、ソフィアは涙が滲んでくるのを抑えられなかった。
(変ね……涙が出るのに、顔が勝手に笑ってしまうの)
涙は悲しいときに出るものだと思っていた。
なのに、ぽろぽろと涙のつたう頬は、ルイスの笑顔につられるかのようにゆるみっぱなしで。
こんな感情は知らなかった、とソフィアは思った。