金持ち公爵令嬢と貧乏な王子様
「アレッサンドラ・ラート様。お願いします。ライを解放してあげてください」
細くて小さな肩が、私の目の前で小刻みに揺れている。
ふんわりとしたミルクティ色の髪。胸元で組まれた手もとても小さくて桜貝のような宝石みたいな爪が綺麗に並んでいる様はよくできたお人形さんのようだ。
着ている物も派手という訳でもなく、好感の持てる程度に流行を押さえたドレスだった。
生地も上等で、彼女の可憐さを引き立てる素晴らしいデザインだとアレッサンドラはどこか冷静に観察していた。
話が逸れた。
ラート公爵家の一女として視線を浴びるのは常とはいえ、まさか学園内において一番に賑わう昼休みの食堂、その入口でこのような言葉を掛けられるとは思ってもいなかった為、少しだけ思考が明後日の方角に行ってしまったようだ。
先程まで愉しげに騒めいていた食堂が一変し、気まずげな雰囲気で、私達ふたりに注目が集まっている。
そんな周囲も目に入らないのか、目の前に立ちはだかる少女は懸命に訴えかけている。
「お願いします。アクセサリーにして見せびらかしたいだけなら、もう気がお済みになったでしょう?」
なるほど。目の前の可憐な少女のいう”彼”という存在が、ライつまりはライハルト・グリード伯爵令息を指しているならば、確かに彼はアクセサリーとして極上だ。
ライハルト・グリードは、「完璧なパーツを完璧なバランスで配置したらこうなる」というある種芸術家がその神髄を込めて作り上げたような美貌の持ち主だった。
黄金を溶かしこんだような金色の髪とアクアマリンのような透き通った青い瞳を縁取る長い睫毛。優美なラインの眉と唇。それらが完璧な配置でつややかで陶器のような顔に配置されている。
見た目だけではない。文武両道。成績は常に上位を競い、武においても騎士となるべく幼い頃から研鑽を積んできた身体はしなやかな筋肉に包まれており、長い手足を優美に動かす。当然ダンスも得意だ。
そのライハルト・グリード伯爵令息は、私の記憶が確かなら先週わたくしアレッサンドラ・ラートと婚約を結んだばかりである。
なので、目の前の少女がどれほど彼の横に立つに相応しい可憐な少女であったとしても、彼を愛称で呼ぶなど普通ならあり得ないことだ。
「ハジメマシテね、名前も知らないご令嬢? 先程わたくしの名前を呼んでいたけれど、ラート家は国王陛下の名の下に公爵の位を戴いているわ。つまりわたくしはこれでも公爵家の人間なの。王族の方以外から高飛車に何かを要求されることはない筈の身分なのだけれど。わたくしが誰か、理解していての発言なのね?」
一言ひと言、区切りをつけてはっきりと発言する。
勿論これは威嚇だ。まずは名乗りもしない相手と会話を続ける気はないという表明。そして、学園内での連絡ならともかく下位の者から私的な会話や一方的な要求をされても対応するつもりはないという表明でもある。
「っ……。失礼しました。ソニアと申します。でもここは学園内です。貴族としての位は関係なく友好を深める場です。家名を告げる必要も、位を敬う必要もないと存じます」
「詭弁ね。ソニアという名前の令嬢がこの学園に何人いると思いまして? 婚約というのは家と家の契約だわ。貴女がした要求について、その結果は如何としてわたくしは家族へ報告する必要があります。その際に、一体何人のソニア嬢に迷惑を掛けることになると思いますの? 貴女がした行為について貴女が責任を負うのは当然ではなくて? その覚悟もなしにわたくしへ一方的に要求をしますの?」
相手の回答も待たずに、次々に質問をすることで圧し潰す。
実際にはソニアという名前にアレッサンドラには覚えはあったが、家名まで正確に確認してからでなくては会話の内容を深める訳にはいかなかった。
可憐な少女が涙目になっている様に、周囲がハラハラしだしているのは気が付いていた。引き際を間違えると、こちらが迫害した悪とされてしまうことは分かっていたが、かといって相手の一方的で勝手な要求を受け入れるつもりは毛頭ない。
少し違う。一方的で勝手だとは言い難いことは、なによりわたくし自身が知っていた。
ライハルト・グリード伯爵令息との婚約は、わたくしが彼に一目惚れをしなければ成り立たないものだったのだから。
ファーン王国建国当初から栄えあるグリード伯爵家は、今や名誉と歴史しか持っていなかった。先々代グリード伯爵の放蕩は、豊かであった伯爵領を次代となるライハルトどころかその孫の代まで借金まみれにして余りあるものになろうというほど膨大なものとなっていた。勿論これはそのままの額ではなく、ライハルトの父である現当主の領主としての才覚が劣るものであったことも要因のひとつだ。
先代グリード伯爵により少しずつではあっても借金はその額を減らしていたにも関わらず、それでも後を継いだばかりの伯爵家が背負っていた先々代による借金の額に恐れをなし、無謀としかいえない投資に手を出してしまったことでその額は一気に膨れ上がった。詐欺に掛かったと訴えたとて、すでに犯人たちは国を去ってしまった後ではどうにもできない。国としても他国に対して「自国の古い家柄が詐欺にあって財産を奪われたので犯人を捜す手伝いをして欲しい」などと触れ回れる訳がないのだ。泣き寝入りする以外どうしようもなかった。
果たして、哀れライハルト・グリード伯爵令息は、次代の伯爵である為に、グリード伯爵家を存続させる為に身を売りに出したという訳だ。
この国でも有数の富を持つラート公爵家の長女アレッサンドラに。
勿論、持参金として借金を返しても領地経営を新たにテコ入れできるだけの額を持ってアレッサンドラがグリード伯爵家に嫁入りするのだ。
ラート公爵家にはアレッサンドラより10も下ではあるが嫡男フリードリヒがいる。
先月無事7歳を迎え、後継者教育も始まった。それに伴い、それまで一人娘として婿を取って跡取りになる予定であったアレッサンドラの嫁入り先を急遽探し直すことになったのだ。
それまでアレッサンドラの婚約者であった相手は、アレッサンドラが公爵家を継ぐことを前提として縁組された遠縁にあたる侯爵家の三男だった。このまま婚姻を結んでも継ぐべき爵位はラート公爵家の持つ子爵位となる。伯爵位もあるが、それでは成人してから嫡男が就く爵位が無くなる。公爵位を継ぐ者が子爵を名乗ることは憚られるとして譲ることができる爵位は子爵だと伝えた時点で破談となった。
優秀な侯爵家の三男には、ラート公爵家に嫡男が産まれる前から婿としての誘いを幾つも受けていたそうだ。よって、冷静な話し合いの結果として慰謝料なども発生させずにこの婚約は白紙に戻された。
そうして最後に残ったのが、跡取りではなくなった長女の婚姻という問題だった。
婿を取り公爵家を継ぐ者として厳しい教育を十年以上も受けてきたのだ。その義務と権利をすべて奪い放置する事は、さすがにラート公爵である父ルチアーノの心も痛んだ。
とはいっても、アレッサンドラはすでに17歳。半年もしない内に18歳となり、貴族の子女が通う学園を卒業する。その時期まで婚約者の決まっていないような令息で問題のない相手自体が少ない、というよりそのような瑕疵のない者など残っていない。
女癖が悪かったり、粗暴であったり、賭け事が好きだったり、見目が悪いという以上に品行が悪すぎて問題外とされる者ばかりだ。
「国外への嫁入りも已む無し」と父ルチアーノが考えていた時、母フランチェスカが訴え出た。
「アレッサンドラの婚姻は、娘の好きな相手とさせてやりたい」のだと。
そんな相手がいたのかと驚く父ルチアーノが大騒ぎした結果が、先週の婚約お披露目パーティだ。
「末代まで続きそうな借金がある? 我が公爵家ならそれを返した上でこの邸宅を建て直し、伯爵領のテコ入れがなせるだけの持参金を持たせましょう!」
ライハルト・グリードの身上書と調査書を取り寄せた父ルチアーノが豪語し、その言葉通りに持参金の一部として借金も清算。学園を卒業と同時に結婚する予定となっている。
すでにウェディングドレスの制作も開始されているし、ここ数十年間邸宅の修繕どころではなかった為に酷い雨漏りがするようになっていたグリード伯爵邸は敷地内に新たに建設が始められている。
つまるところ解放もなにもラート公爵家が肩代わりした借金を、再びどころか賠償によって倍増させるつもりがなければ、ライハルト・グリードがアレッサンドラのアクセサリーになる人生から逃れることはできない現状である。
それらを理解した上で、この少女は要求しているのだろうかとアレッサンドラは悩んだ。
多分、そういった現実は何も見えていないし、考えたこともないのだろう。
涙でいっぱいの瞳には、義憤というより彼女自身の恋心が揺らめいている。
見合いの席で、ライハルトは現在恋人はいない・好きな女性もいないと申告していた。だから恋のライバルだとしても彼女の片思いだ。
ライハルトが嘘を吐いていなければ、だが。
「わ、私の家が子爵家だって分かってるんですね? だから……爵位が下だから返事をする必要もないと?!」
いつの間にこんなに近くまで近づいてきていたのか、すぐ目の前で大きな声を上げられて、アレッサンドラはようやく少女の訴えがまだ続いていたことに気が付いた。
それにしても少女の決めつけが酷すぎる。アレッサンドラは頭が痛くなってきた。
家名を名乗ろうとしなかったのは自分なのに、一度も同じクラスになったことのない相手の顔と名前が一致するとでも思ったのだろうか。それほど自分が愛らしく特別な存在だとでも言いたいのだろうか。
なにより、顔を真っ赤に染めて自身の言葉の正当性と怒りを訴えてくる少女に、眉を顰める。唾が飛ぶほどの顔の距離。思わず手にしていた扇で顔を隠した。
これほど理不尽に自身の正当性を主張して激高している相手に対して、世の理を諭してやるほどの優しさを持ち合わせていないアレッサンドラは完全に無視して彼女の前から立ち去ることにした。
淑女らしくないと思いつつも扇の陰で唇から出ていくため息を隠し、これ以上は付き合い切れないと視線を少女から移してまっすぐ歩き出す。
丸く遠巻きにしていた生徒たちが、アレッサンドラの足が動いたことに応じて目の前でさぁっと開けた。
「そうやって下に見た相手を無視して馬鹿にして。グリード伯爵家の借金程度の肩代わりなら、幼馴染みである私の家でだってできるんですからね!」
幼馴染み。その言葉に、一瞬だけアレッサンドラの思考が奪われる。
確固とした足取りが乱れ足の動きが止まったアレッサンドラの後ろから突然、ソニアがその腕を掴もうとした。
瞬間、するりと身体を翻したアレッサンドラがソニアの腕を捻り上げた。
公爵家の跡取りとして、アレッサンドラは武芸に関しても幼い頃より仕込まれている。第二次性徴が来るまでは貴族の子弟が通う訓練所に放り込まれて男子に混ざって基礎からみっちりと教え込まれたのだ。暴漢に襲われてめそめそ泣いているようでは強大な力を持つ公爵家を背負って立つ人間にはなれないのだ。
「い、いたいです! 暴力を揮うなんてひどい。痛いです、放してください!!」
目からぽろぽろと大粒の涙を流して身を捩るソニアに、アレッサンドラは再びため息を吐いた。
高位となる令嬢に対して後ろから掴み掛かるような無礼な行いをしたのだから、これ位の報復は当然だろうとアレッサンドラは判断を下したのが、周囲からはやり過ぎだという視線を浴びてしまっていた。
可憐な少女が愛を掲げて金で少女の恋人を買うような真似をした高位貴族へ反旗を翻すという、恋愛小説さながらのやり取りを興味本位で見ていた観客としては、可憐な少女の応援をしたくなるものなのかもしれない。
そこについては、アレッサンドラの計算が間違っていたというしかない。
観衆の目には、高慢で嫌な令嬢が力で捻じ伏せているという、ただ目の前にある事象それが全てなのだろう。
ならば、その目を覚まさせる為に、アレッサンドラとしては自らが正当であると主張するしかない。
「暴力を揮おうと後ろから襲い掛かってきたのは貴女でしょう?」
パッと手を離すと、ソニアは「きゃっ」と小さく声を上げ大袈裟に手を押さえて後ろによろめいた。
その背中を、支えた人物の顔を見上げたソニアが、安心した様子で破顔した。
「……ラ、ライぃ」
そうして安心しきったように、笑顔のまま泣き出した。
大粒の涙が、可憐な少女の頬をぽろぽろと滑り落ちていく。
周囲からはもらい泣きする洟をすする音がそこかしこから聞こえてきて、アレッサンドラは眉を顰めた。そのまま、自らの婚約者に向けて強い視線を送る。
アレッサンドラの目には、今、婚約者は、よろけた少女を支えただけでなく、その胸に少女を抱え込んでいるようにしか見えなかった。
その親しい様子に、本当にこの少女はライハルトに関する調査書にあった幼馴染みソニア・ハーバル子爵令嬢なのだと理解した。
領地を隣接する同い年の二人は幼い頃より親しくあり、お互いのデビュタントの際にはパートナーを務め合ったという噂だった。
けれども、ふたりの間で婚約が結ばれることはなかったし、恋人であったことは無いとライハルト自身が証言したこともあって、問題は無いと判断したのだ。
あれ自体がこの婚約における一番最初の判断ミスだったのかもしれない。
調査書にも恋人関係であるという報告はなかったし、ライハルト個人も嘘を吐くような人間ではないとされていたのでそれ以上追及することなく、安心して受け入れてしまった。
けれど、見合いの席で、もっと落ち着いてよく観察していれば、なにか不自然さを見つけることができたのかもしれない。
「なにやら面白いことになっていると私を呼びに来てくれた友人がいてね。申し訳ない。出てくるのが遅くなってしまった」
その言葉に、アレッサンドラが信じたかった婚約者となった青年は、自身の不実こそがアレッサンドラが不快な思いをしている原因であると知りながらアレッサンドラの窮地を面白がって群がる観客《生徒》たちに混ざってこの見世物を楽しんでいたのだと理解した。
幼馴染みが泣き出し転びそうになったから支えに出てくるなど不実極まりない。
そして、それまでは高みの見物を決め込まれたというその事実にアレッサンドラの心の中で不快さが募っていった。
すでにソニアは体勢を崩してもいない。なのにライハルトは婚約を結んだばかりの自分の前で、己に気があるとアピールしている女性を後ろから支えているままだ。
目の前で広げられているその茶番は、周囲の冷たい視線よりも、ずっとアレッサンドラの心を傷つけた。
「ライっ! 私、わたしっ、こわっ怖くてぇ」
うわぁんと体勢を向き合う形に入れ替えて、しがみ付こうとしたソニアの手を、ライハルト・グリードはそっと、けれど断固とした意志を感じる手つきで自身から離した。
そうしてソニアとしっかり視線を合わせて伝えた。
「ソニア・ハーバル子爵令嬢。幼馴染みでもある貴女に、それほど高く私を買ってくれるつもりがあるとは知りませんでした。でしたら、もっと早い段階で購入手続きを取って下されば良かったのに。借金の額以下まで値下げすることはできませんが、グリード伯爵家の屋敷を建て替える資金を修繕費用程度まで抑えることくらいはできたのに」
3年前の台風以前であったなら、建て替えではなく修繕で済んだかもしれないのにとライハルトが説明を加える。
「ライ?」
「現在はラート公爵家に持参金の一部を融通して頂いて借金は全額清算して頂きました。それを覆してラート公爵家に返金をするとなると、婚約破棄の慰謝料や伯爵邸の建て替えに着手した資金の弁済などが加算されるので、借金の倍、いえそれ以上の金額を用意して頂くことになるのですが」
「ら、らい。何を、言っているの? ライは、自身の婚姻を本当に売り物にする気なの? 未来をお金に変えようなんて……そんなの、ライに、似合わないよ」
「でも、先ほど貴女が口にされたんですよね? ”リード伯爵家の借金程度の肩代わりなら、私の家でだってできる”と。その算段を付けた上で、ラート公爵家とグリード伯爵家の間で締結した婚約を破棄しろ、とアレッサンドラ様に突きつけたのでしょう? なら、貴女は私を幾らで買うつもりだったのかくらい教えてくれてもいいんじゃないですか?」
「わ、たしは。私はお金でライを買ったり、しないわ」
「買えるお金はあるのに?」
ハーバル子爵家も裕福な貴族家ではある。数代前に裕福な商家から婿を迎え入れ、そのまま家業としたからだ。領と領を跨いで商いをする大商会であり、確かにハーバル子爵家の資産を以てすれば、グリード伯爵家の借金を肩代わりすることもできるだろう。
ハーバル子爵に子爵家の身代を傾かせる気があれば、だが。
商会の資産というものは数え上げれば凄まじい額になり得るが、それを動かしてしまうと商売が成り立たなくなってしまうものがほとんどだ。
店舗を売る訳にもいかないし、商品を仕入れる為に手持ちの資金も必要で、取引先の売掛金が回収できるのは数カ月先ということもよくあることだ。また、仕入れできるのはその時その瞬間に躊躇ったら二度と手に入らないこともよくあることだ。
つまりはハーバル子爵家の資産がどれほど大きかろうとも、商売をしていく上で無駄遣いに値するものに金を注ぎこむようなことは絶対にしないということだ。
特に、当代ハーバル子爵は金銭面に関してとてもシビアであり、借金を肩代わりなどするつもりは毛頭ないに違いなかった。
それも、跡取りですらない二女の嫁入り先の為に危ない橋を渡るような真似など絶対にしない。
商売を手広くする為の爵位なら子爵家程度が丁度いいのだ。
高位貴族と言われる伯爵家になどなってしまったら旨味より義務という名の奉仕を今以上に要求されるようになる。子爵家なら侯爵家の夜会に招かれることはないが、伯爵家には招待状が届けられる。招待状が届いた夜会をお断りすることはできないし、要求されれば貢物も渋ることは難しくなる。下位貴族の上位である子爵の方が、上位貴族の下位である伯爵よりずっと仕事はやり易いのだ。
だからこそ、これまで幼馴染みの家はグリード伯爵家に借金を肩代わりするような申し出をすることは一切なかったのだ。
「だって。だって結婚は、愛があってするものでしょう?! わたし、私はずっとライのことが、ライのお嫁さんになることが夢で」
「夢は夢のまま、自分のベッドの中でだけ見ていてください。夢でお腹は膨れないし、借金が膨れ上がるばかりだ」
笑顔で切り捨てたライハルトに、周囲の学生たちもドン引きしている。
それは聴衆だけではない。当事者としていきなり舞台に上げられたアレッサンドラもだった。
アレッサンドラは、金で婚約者を買ったと言われて否定できない自分がやるせなかった。けれど実際に持参金による借金の清算を申し出ずにこの婚約が成立したとも思えない。
金貨の山で、頷かせたことは、否定できない。
そして、ライハルトの背中越しに見えるソニアの華奢で可憐な姿がアレッサンドラの胸に痛かった。
アレッサンドラとて公爵家の跡取り娘として礼儀作法のみならず見た目についても威信をかけて磨き上げられてきている。
だからそれなりに美しくはあるだろうが、目の前でライハルトに愛を告げている少女のような、男性が守ってあげたいと思うような庇護欲に関してはまったく持ち合わせていない自覚があった。どちらかといえば「守って欲しい」と縋られる存在である。公爵家の跡取り娘として教育されてきたのだから当然なのだが。
真っ黒でまっすぐな黒髪といい、黒にも見える濃い緑色の瞳といい。毎朝、鏡を見る度に、強そうな自分に目を背けたくなる。
訓練所で行っていたほどではないが、ずっと鍛錬を続けてきた身体は今更それをするなといわれても、毎朝同じ時間に目が覚めてしまい身体を動かさずにはいられない。
服に隠れるとも二の腕や足についた筋肉を恥じる気持ちはないが、それでも華奢という言葉とは縁のない鏡の中の自分に落胆する気持ちがあることは間違いない。
そうして今、ライハルトはアレッサンドラより金貨を積み上げられるならと、ソニアに申し出ている。
借金の清算が為されるならば、アレッサンドラが相手でなくとも構わない。むしろ愛らしい幼馴染みが相手なら喜んでその手を取ろうというのだろう。
先程の計算違いでアレッサンドラは周囲から冷たい視線をたっぷりと浴びたばかりだ。
これ以上、この場で恥を晒してラート公爵家の名を貶める訳にはアレッサンドラにはいかなかった。
せめて誇り高く。後ろ指で嗤われたり石をもって追い払われる前に、この場を立ち去るのみだ。
息を整え、背筋を伸ばす。
表情は、ラート公爵家の跡取りに相応しい微笑みの仮面を被り、アレッサンドラはこの茶番にケリをつけるべく口を開いた。
「これ以上、この話をここで続けるというのは野暮というもの。お二人の間で話が着きましたら、お二人でラート公爵家に説明にいらして下さい。契約を破棄するにせよ、動く金額が大きすぎて学生である私たちの一存ではどうにもなりませんから」
上品な笑顔を貼り付けて告げれば、周囲からどよめきが上がった。
これは、事実上の敗北宣言だ。
慰謝料を大幅に上乗せしろとは言うつもりはないが、さすがに借金の清算金として使い込んだ分に関しては返金して貰わねばラート公爵家としても立場が無くなる。慈善事業ではないのだ。馬鹿にされたらオシマイな部分が大きい貴族社会で、お人好しは誉め言葉ではない。
「愛もお金もある結婚生活が送れるようになると、いいですわね」
お金で壊れる愛というものもあると聞く。
貧すれば鈍するという言葉もある。金銭面での貧しさに、お互いへの労りがすり減っていくのは想像に難くない。自分こそが頑張っているのだから、優しくして欲しいと強請るばかりになっていく関係が優しいものになる訳がないのだ。
そうは思っても、その言葉を口にした途端、それが単なる売り言葉、憎まれ口でしかないと恥じたアレッサンドラは幾分早足になりながら、食堂を後にした。
いや。しようとした。
「確かに、愛もお金もある結婚生活を、私は送るつもりなのだが。ねぇ、アレッサンドラ。貴女はそうではないのですか?」
カッとなったアレッサンドラが、反射的に振り返って手を振り上げようとした。
けれど。今度こそ、不意を突かれた状態でアレッサンドラは振り上げようとしたその腕を掴まれ強引に引き寄せられた。
ぽすん。
広い胸板に、抱きすくめられる。
頬に、固いけれどほどよい弾力のある温かいなにかを感じる。
「え?」
更に力強い腕にしっかりと閉じ込められていた。
「ねぇ、あまりにあんまりじゃないですか? 私たちが婚約を交わしたのはつい先週です。それなのに、もう私の手を離そうというのですか。本気で?」
そうして耳元で小さな声であろうとも、しっかりと囁かれた言葉を告げたのは、間違いなくアレッサンドラの婚約者だ。
「……私たちの間に、愛ある生活など」
アレッサンドラは、悔しかった。
見透かされていたのだ。己の恋心を。だからといって、これほどの辱めを他人の前で行うなど、公開処刑さながらではないか。
「でも、貴女は私のコトがお好きでしょう?」
アレッサンドロという隠す気ゼロの偽名で参加していた訓練所で、よく一緒に組打ちをしていたライハルトのことを、この歳になるまで忘れられなかったアレッサンドラが悪いというのか。
同じ学園に在籍していながら婚約の話が上るまで、一度たりとも視線が合わずに来た。それがライハルトの中の自分だと、アレッサンドラは知っている。
幼き日の初恋を、金でモノにしようとしたのが悪だというなら、甘んじて受け入れよう。
けれど、それをただ同じ学園に通っているというだけの名前も知らない不特定多数の人間の前で晒し者にされるとは。
「そして、私も初恋の訓練所の君と婚約できるという奇跡に感謝しているのに」
「……くんれんじょ、のキミ?」
言葉の意味がわからない様子のアレッサンドラに、ライハルトは笑みを深めるとよりいっそう耳元に近づきそっと囁いた。
「アレッサンドロが女性で、本当によかったです」
「バレてた?!」
真っ青になって震えあがったアレッサンドラのその様子に、笑ったのはライハルトだけではなかった。
むしろ何故アレッサンドラがバレていないと思っていたのか。
同じ訓練所に通っていた生徒たちは皆、「アレッサンドロって、アレッサンドラ様だよな?」という会話を交わしていたのだから。
アレッサンドロはアレッサンドラの男性形の名前なだけだ。偽名というには雑すぎて、正体を隠すつもりはあるのかと年長の者たちの中には当時からラート公爵家の一女であると知っていた者もいるほどなのだ。
同じ髪色同じ瞳の色の、美しいその顔に面影を残す令嬢が同学年にいて疑問を持たない訳がない。
それでも話題にならなかったのは、同じ訓練所に通っていた仲間意識があっただけでなく、「アレッサンドロが令嬢で良かった」とホッとした令息が多かったからに他ならない。
アレッサンドロは、ストイックなまでに清廉で真面目を絵に描いたような存在だった。周囲の背がどんどん伸びていく中で、ひとり入団当初から見れば背は幾分伸びたものの筋肉らしきものはほとんどつかなかった。
第二次性徴前とはいえ、令嬢教育もされながらの訓練だったこともあり、所作が洗練されていてどこか艶めいていたアレッサンドロに少女特有の色を感じていた者は多かったのだ。
あれが初恋だということが認められずにいた幼い恋を肯定できてホッとしたともいう。
その初恋の相手が公表していないことを勝手に噂として流すような無粋な真似は騎士道に反すると、仲間内でこっそり確認した後は皆黙っていることにしていた。
「ただ、借金まみれの貧乏伯爵家の跡取りとして高く買って貰えるように自分磨きに勤しんで来た身としては、自身をより高く買ってくれる人がいるというならば、どの程度高く買って貰えるのかを確認する必要があるかと思っただけです。グリード伯爵家に残る金は金貨一枚でも多い方がいいですから。あぁでも、この場に着くのが遅れたことは謝ります。友人が呼びに来てくれなかったら、知るのももっと遅れたかも。もっとお傍に侍るべきでした。申し訳ありません」
ライハルトは整った眉を下げて、申し訳なさそうにふわりと笑った。
では。あれは観察していたという謝罪ではなく、単に遅れたという謝罪だったのかとアレッサンドラは身体から力が抜けていくのを感じていた。
自身への自信の無さから疑心暗鬼になっていただけなのだ。
「うーん。でもやっぱり私の初恋を壊すなら、金貨百枚、いや一千枚は多く……参りましたね。叶ってしまった今となっては、それでも埋め合わせになどならない気がしてしまいます」
甘い。蕩けるような甘い表情のライハルトの瞳に映っているのは、本当に自分なのだろうかとアレッサンドラは不思議な気持ちでそれを見上げていた。
真っ赤になって、ちょっと震えていて。しかもポカンと口を開けているのだ。
公爵家の一女として、あまりにも相応しくないその間抜け顔を、もっと締まりのあるものにしないとと頭で考えるものの、アレッサンドラの顔は緩んだままだ。
「初恋の君のおひめさまが、貧乏で身売りしようとした王子を金貨の詰まった袋を掲げて迎えに来てくれるなんてロマンチックですよね」
「ご自分のことを王子と言ってしまうのですね?」
すこしだけ。
負けっ放しは性に合わないのだと、アレッサンドラが混ぜっ返した。
「おひめさまの相手は、王子と相場が決まってますから」
けれども王子は軽くそう言い切って、腕の中に閉じ込めたおひめさまを、ぎゅっと抱き締めた。
*******************
※ おまけ ※
前日譚、のようなライハルト視点のお話
さらさらさらさら
微かに聞こえる、どこかで聞いたことのある音。
その音が、どこから聞こえているのか分からずライハルトは辺りを見回した。
いつものように、寮の朝食から失敬してきたパンでの昼食をこっそりすませようとやってきた学園の裏庭のベンチ。
そこに、黒髪の令嬢が座っていた。
その長い髪が、風を受けてサラサラとちいさな音を立てていた。
「……寝てる?」
ベンチに座って本を読んでいるウチに眠ってしまったのだろう。
その膝の上には開いたままの本が乗っていた。
整い過ぎてどこか冷たく見える美貌が、眠っている今はどこか幼く、ライハルトの記憶にある少年のものとよく似て見えた。
入学式で、この美しい人の名前を知って驚いた日が懐かしい。
『……この学園の生徒として日々研鑽を重ね、共に栄えあるファーン王国を支える人材となるべく努めて参りましょう。新入生代表アレッサンドラ・ラート』
隣に座っていた訓練所の仲間と馬鹿面晒して顔を見合わせた。
誰もが見惚れる美しい公爵令嬢が、まさか男性形の名前に変えて男に混じって鍛錬をしていたとは誰が思うだろう。
突然、挨拶もなく辞めてしまった仲間を皆で悲しんだ。
けれど、こうしてその仲間の正体を知ってしまえば、突然辞めてしまった理由を推測するのは簡単だ。
――元気で良かった。
誰が言い出したのか『突然辞めてしまったのは、不治の病に罹っていたんじゃ』そんな噂が流れて皆でお見舞いを贈った。
貧乏過ぎて、周りの皆が盛大な見舞いの贈り物をしている中、自分だけが庶民のような贈り物をした。
もう枯れてしまって捨てられているだろう。
その時、風がそれまでより強く吹いた。
パラパラパラ。
膝の上に乗せていた本のページが風に揺れて、そこに挟みこまれていた栞が地面へと落ちた。
そっと近寄って拾い上げる。
「……四葉の、」
金のないライハルトが、『幸運のお守りです』と書いて、見舞いの手紙に入れたのは四葉のクローバーだった。
伯爵家とは名ばかりとなっていたライハルトが、病気で辞めていった仲間へ贈れたのは、庭で見つけたそれだけだった。
押し花というものにしなくてはいけないのは分かっていたけれど、時間もないしやり方もよくわからないままひと晩だけ辞書に挟んで贈ってしまった。
今でも、グリード伯爵家にあるその辞書には四葉のクローバーの形をした染みが残っていて、目にする度に苦笑していた。
それが今も、彼女の手元にある。その意味。
美しい紗に包まれた栞を、そっと彼女の本へと差し込むと、ライハルトは足早にその場を後にした。
顔が熱い。
胸の高鳴りが抑えられない。
苦しい。
彼女には侯爵家の三男だという婚約者がいるとライハルトは知っている。
借財だらけの伯爵家の嫡男などお呼びではないのは分かっている。
あの栞にあった四葉のクローバーが、ライハルトの贈った物と同じ物だとは限らない。
同じクローバーだったとしても、そこに幼い頃の訓練所の仲間との思い出以外の意味などないかもしれない。
これは、都合のいい妄想だと知ってる。
わかっている。
だから。
だから、決めた。これから先、あの美しい人を、視界に入れないことにする。
――あの方に心惹かれてしまうのは、裏切りになる。いつか自分を迎えに来てくれる、夢の女性への裏切りとなる。
心の中でだけだろうと裏切りは裏切り。
元々、気軽な学生時代の恋もするつもりはなかった。
自分の身も心も、夢の女性に捧げると決めたのは、ライハルト自身なのだから。
自分には、自分自身ただそれだけしか相手に返せない。
それなのに、心すら捧げられなくてどうする?
心の真ん中に他の女性を住まわせたままでは、グリード家の莫大な借財に見合うだけの返礼になると思えない。
さすがに、そこまでライハルトという一個人に価値があるとは思い込むことは、ライハルト自身には出来なかった。
だから。
ライハルトは、泣きたくなるようなこの気持ちの、名前を知りたくなどなかった。
(2021.09.30改稿および加筆)
※本編、ライハルトは最初からいて観察していた訳ではなく遅刻してきたのだという描写が薄く伝わりにくいと指摘がありましたので加筆修正しました。
※ちなみに、本編で騒動に遅れてきたのも、貧乏が身についていたので寮から持ってきたパンを隠れて齧っていてその場にいなかったからです。仲間が探しに来てくれたので参戦できました。
少しでも楽しかったと思って頂ければ幸いですv
***********************
(2021.10.20)
ライハルト視点長編『借金まみれの伯爵令息は、金貨袋を掲げたお姫様を夢見る』完結しました。
彼が生まれる前からのお話になっております。やりすぎ感満載です。よろしくお願いしますー
***********
(2023.04.17)
ギルバート@小説垢様(@Gillbert1914)より、アレッサンドラ様のイメージイラストを戴きました!
どんなゴージャスなドレスでも着こなせそうな迫力美人さん♡ 素敵すぎる(ウットリ
そして絶対に強い(確信
ソニアちゃんが敵う相手じゃないですね。格の違いが明らかですよね☆
いつもありがとうございますー♡
***********
お付き合いありがとうございましたv