THANK YOU FOR KEEPING CLEAN.
危機が迫っている。
警察官に化けたテロリストが、ホテルを占拠。明日にも行動を開始する……偽情報の確率が63%。アルフレッドが潜入した時には、74%にまで跳ね上がっていた。おろし立ての紺のスーツの下に、薄っぺらい防弾チョッキを着込んで、彼は急いでホテルへと足を踏み入れた。
目的地は海岸沿いの、23階建ての高級ホテルだった。この島で一番高いホテルだ。毎年バカンスの時期には大勢の観光客で賑わい、街は夜が明けるまで活気付いていた。
すでに日没の時間は過ぎていた。
引き連れて来た部下に目配せし、屋上から見回っていくよう、無言で指示を出す。自身は階段で2階へと上がった。ロビーは水着姿の若者で溢れかえっていて、皆酒瓶片手に手を叩き合い、笑顔を弾けさせている。まるでクリスマスと復活祭がいっぺんにやって来たかのような騒ぎだった。だが、場違いなのはアルフレッドたちの方で、今この瞬間に限っては、彼らの方が多数派であった。
踊り場までやってきたところで、アルフレッドはふと足を止めて考えた。果たして明日この場所で、テロが起きると忠告したところで、一体何人がそれを聞き入れてくれるだろうか? 人混みの中で、誰かがシャンパンを開けた瞬間、歓声がロビーを包み、彼の疑問は泡のように弾けて消えた。
踊り場ごとに備え付けられた、柔らかな蝋燭の灯りが、彼の体を撫で回すように照らしていく。壁際にかけられた名も知らぬ高尚な芸術家の絵画たちが、世界はこんなにも美しいのだと、頼んでもいないのに自己主張をし続ける。そこに描かれている花の名前すら、アルフレッドは知らなかった。教養よりも鉛玉……テストの点数なんかより、夜な夜な街を飛び交う銃弾が、薄い壁を貫通して自分の頭に命中しやしないか。それが彼の、最優先の関心ごとだった。銃撃戦の音が子守唄代わりだったのだ。おかげでこの歳になっても、まともな職にもつけず、非正規の清掃係など、割に合わない事ばかりやっている。
やっていることはテロリストと同じだ。
アルフレッドは内心苦々しく思っていた。武器を片手に現場に急行し、私利私欲と麻薬にまみれた警察官が見て見ぬ振りを決め込んでいるのを横目に、上層部から指示された”敵”を排除する。もちろんアルフレッドたちは無差別に無抵抗の者を襲ったりはしない。だがやっている行動だけを見れば……殴る。蹴る。刺す。撃つ。できるだけ多く。それはテロリストと何が違うのか? そう問われれば、アルフレッドはこう答えるしかなかった。『我々は正義のために戦っている』……と。皮肉なことに、それはテロリストたちが毎回出している崇高なる声明と、一字一句違うことはなかった。
いざとなったら、上層部は自分たちを見放すだろう。それは確信があった。民間テロ対策組織。自警団といえば聞こえはいいが、その運営に、多額の金が動いているのは容易に想像が着く。それに、一体どこから大量の武器が流れてくるのか……「止まれ!」
考えている途中で、アルフレッドは叫んでいた。
203号室の前に立っていたのは、20代ほどの若いホテルマンだった。清潔そうな白に身を包み、料理を乗せた巨大なカートを押している。それは良かった。問題だったのは、彼の顔……その顔に見覚えがあった。端末に送られて来た、今回の標的。この国に潜伏・不法滞在している約16名のテロリスト集団の一人。
すでにホテルマンの中に、紛れ込んでいるのだ。
若い白装束が、銀色のボウルの中から銃を抜き取るのと、アルフレッドが彼の心臓を撃ち抜くのと、ほぼ同時だった。うっ、と小さい呻き声がして、ホテルマンの胸が赤く染まって行く。彼が驚いて動きを止めている間に、アルフレッドは標的の眉間にもう一発、撃ち込んだ。一つは確実に仕留めるため。もう一つは、前のめりに倒れられて、カートが派手に音を立てられては困るため、だ。
4秒経った。
ゴトッ……っと鈍い音がして、ゆっくりと背中側に、さっきまで人間だったものが床に崩れ落ちた。素早く前後を確認する。長い廊下には、幸い誰の姿もない。アルフレッドは死体を引きずり、一番近くのトイレへと連れて行った。『いつも清潔に保っていただきありがとうございます』。標語の下に、死体を無造作に投げ捨てる。
『発見。繰り返す、発見ー……』
彼が報告する前に、イヤホンの奥から部下の声が飛んできた。雑音に混じって、小刻みに発砲音が聞こえてくる。
「待て……」
客の中に紛れられたら大惨事になりかねない。出来るだけ慎重に……それ以上、言葉を紡げなかった。角を曲がった瞬間、再び別のホテルマンと鉢合わせた。その顔にも見覚えがあった。前日の夜まで頭に叩き込んだ顔だ。ホテルマンはすでに職務などかなぐり捨てて、両手にマシンガンを構え、アルフレッドに銃口を向けていた……。
……それにしては、やけに簡単に見つかりすぎじゃないか?
叫び声がした。眩い閃光と、耳をつんざく弾の音の中で、アルフレッドはつかの間そんなことを思った。そんなことを延々と考えていては、到底生き残れないので、彼は早々指先に力を込める作業に集中した。床が、壁が、抉られて宙に舞った。血飛沫が、硝煙が、廊下を埋め尽くすまでにさほど時間はかからなかった。天井のシャンデリアが跳弾で砕けて落ちてきた。咆哮が、悲鳴が、前後左右から彼を揺さぶった。何もかもが麻痺したような時間の中、彼はまるで子守唄を聞いているような、穏やかな気持ちになって行くのを感じていた……。
「ホテルの方は、どうやら少数による陽動だったようだね」
数週間後。
アルフレッドはビーチにいた。
ビーチは大勢の人で賑わっていた。先日、隣の島のホテルで襲撃事件が遭ったことなど、誰も忘れているようだった。
「その間に幹部を国外へと逃すつもりだったらしい」
アルフレッドの前で、エリックがほほ笑んだ。らしい、と言うのは、つまり、襲撃事件の数日後に、島の東部で大規模な山火事が起きたからだ。犠牲者は数百人にも登り、火は未だに燃え続けている。遺体は損傷が激しく、身元が割れないものも多数存在する……という話だった。
「それで次の案件なんだが……」
「……待ってください」
エリックがトランクを渡す前に、アルフレッドは彼の話をさえぎった。アロハシャツにサングラスといった出で立ちのエリックは、少し驚いたように動きを止めた。
「なんだい?」
「本当に彼らは……テロリストだったんでしょうか?」
「と、いうと?」
「…………」
カラフルなパラソルの下で、アルフレッドは俯いたままだった。タイミングよく流れてきた情報。まるで見つけてくださいと言わんばかりの変装。アルフレッドに与えられる任務は、いつも一方的だ。『こいつは”敵”!』、ただそれだけ。
陽動のために、7名が死んだ。テロリストが5名。宿泊客が1名、アルフレッドの部下も1名死んだ。それを、陽動のただ一言で済ますには、あまりにも……。
「パパぁ」
二人が押し黙っていると、エリックのそばに6歳になる娘が駆け寄ってきた。焼けた肌は砂まみれで、右手に白い貝殻を握っている。
「はい、プレゼント」
「ありがとう、リリィ」
エリックがこれ以上ないと言った具合に顔をほころばせた。
「パパ、私、アイス食べたい」
「よしよし、じゃあ、買いに行こうか」
親娘が立ち上がった。
「また連絡する」
去り際、上司が顔だけこちらに向けて言い放った。
「次は一週間後だ」
「偽情報の可能性は?」
「34%ってところかな」
降水確率でも話すみたいな口調で、それっきり、エリック親娘は人混みの中へと紛れて行った。後にはぬるいビールと、報酬のトランクだけが残された。しばらくして、のろのろと立ち上がり、アルフレッドは報酬片手に歩き始めた。見上げた空は真っ青に晴れ渡り、ビーチは笑顔で溢れ返っていた。駐車場の入り口には、名前も知らない、血を吸ったような真っ赤な花々が、気持ちよさそうに風に揺れているところだった。