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白鳥の子  作者: 夏凪カナメ
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05話 優しい嘘



俺は息を切らしながらも、強引に手を引かれながらどこかへと走っていた。

漆黒で長い髪をヒラヒラなびかせ、まっすぐに道を走る彼女の背中を俺はただぼうっと眺めていた。

どことなく彼女は蝶のような存在であると思った。

突然ふわりと現れ、俺の周りを美しく舞う。

俺は思わず時間と自分を忘れてしまうほど彼女に見とれてしまう。

不思議だなぁ…。

それに、どことなく彼女の存在が懐かしいと思ってしまうのはなぜだろうか…。



「ピアノって…どこに向かうの?」

「この近くに小さな公民館があるんです!そこにピアノが置いてあるんですよ!」

と彼女も息を切らしながらも楽しそうに答えた。

「月二回、その公民館で演奏しているんです。まさに今日がその日で帰り道だったんですけど、まさか夏向さんに会うとは…!びっくり!!!そしてなんか叫んでいたのでダブルでビックリしました!」


……なんて彼女は面白がってそう言うが、俺にとってはとても恥ずかしい。

恥ずかしいところをまだ二回ほどしか会ったことのない人間に目撃されたのだ…。

絶対にドン引きされてもおかしくはないはずなのに、なぜ今こんなことになっているのだ…?いきなり叫び出した男を引き連れて走る彼女も相当やばいぞ…?ある意味、危機感というものがなさすぎる…!危ないぞ…。


「…なんか……とても恥ずかしいところを見られた…。今日のことは忘れてください…。」


情けない…一体俺はどこまで情けないのだ…多分俺の8割程度は情けなさでできているのではないかと思う。


「あっはは…!そういう一面を見ることができて私は嬉しいですけどね!どんまいです!」

……どんまいです!めちゃくちゃに明るいな!!!!

「どんまいって…!!ははは」

俺も思わず笑ってしまった。


「やっと笑いましたね!……ほら着きましたよ!」


彼女に言われてその建物を見上げた。

古臭く小さな公民館。

昔から使われてきたのだろう。

中の電気はもうとっくに消えていて、人気の気配がどこにもない。



「これって入れないんじゃ…?」

「あー、入れますよ!さっき窓開けっ放しで外出てきちゃったんで!」

「おいおいおい!!!それはまずすぎますって!!!警備員とかきたらまずいのでは?!」

と滅茶苦茶に焦った。彼女は本当に突飛な人だ…。


「ここ警備員さんいないから大丈夫!大丈夫!ピアノ弾いても防音だから外には音聞こえないし!」

と彼女はそう告げると公民館の方へどんどん歩いて行った。

やがて、一つの窓の前に来ると、カララっと彼女は窓を開け俺を見て、ね!開いたでしょ!というような視線を送った。

そして彼女はあっという間に、窓の向こうの闇へと消えた。

このまま彼女を放置するのもおかしな話であるから、俺も渋々と闇の中に飛び込んだ。



闇の中をただまっすぐ歩いた。

彼女に腕を引っ張られながら。

正確に言うと電気もついていないところであったから目がまだ慣れていなかったのだろう。ただまっすぐと歩いた先に分厚い扉があった。

彼女はなんの躊躇もなくその扉を開き中へ一緒に入った。

ええっと…たしか…などと彼女は呟きながら手探りで壁にあるスイッチに手を伸ばした。するとパッと一箇所だけピンポイントに明かりが灯った。

暗闇からひとつのグランドピアノが現れた。

周囲を見渡すと、小さな体育館のようなところにいた。

そのステージの上にピアノが置かれていた。


「今日はここでピアノを弾いたんだよ。おじいちゃんおばあちゃん、それにちっちゃい子供までいたの。なんだかほっこりしたなぁ。この公民館のいいところはお客さんとの距離感が近いところよね!」


そう言いながら彼女は俺の腕から手を離し、隅にあったパイプ椅子を俺のところに持ってきて、どうぞと俺に座るよう促した。

俺がパイプ椅子に座るとギシっと音を立てた。

その音がなんだか俺が今この空間に間違いなく存在しているのだと実感させられた。

何弾こうかなぁと声を弾ませながら彼女はグランドピアノに向かい、かかっているカバーを外して蓋を開けた。

今日は一体どんな音色を奏でてくれるのだろうか…。

彼女の演奏を楽しみに思った。

ある意味、一曲聞いただけで彼女のファンになったのかもしれないなと思った。



「それでは聞いてください!」

彼女はその一言だけ言うと俺に向かってお辞儀をし、椅子に座りグランドピアノと向き合った。

そっと鍵盤に指を重ねた。

静かな沈黙だけが二人の間に流れていた。

次の瞬間、美しい音色が穏やかに鳴り響いた。

高音から始まるその曲は俺の耳にも馴染みのある曲であった。

ただ、静かにそっと暗闇を照らしているような。

キャンドルのような小さい明かりの中にいるような気持ちになった。

ただ優しく寄り添ってくれているような…。

この前のように猛烈な懐かしさというものはなかったが、ずっとこの音色を聴いていたいと思った。



ドビュッシー、月の光。



どこか寂しげで、でも美しさを感じる。

しかし、その音色たちは一瞬で消えていく。

静かな街の中にある一本の夜桜が月夜に照らされているような…。

風とともに散りゆく花びら。

しばらく見ることのできない、いや、本当はもう一生その同じ桜を見ることはできないのだろう。

ピアノも同じだ。

どんなに同じ曲を弾こうが、その時生まれた音色はその時にしか聞くことができない。

一瞬で消えていく儚すぎる命。

いたってシンプルで単調なその曲は心を落ち着かせるにはとてもよかった。

本当に彼女は音のセラピストかもしれないと思った。

たった数分の曲なのに、あれほど長く続いた俺の心の荒波もすぐに収まった。

最後の最後まで丁寧に音を奏であげた彼女は一呼吸置いてから鍵盤から指を離した。



彼女は椅子に座りながら俺の方に目を向けた。

「少しは落ち着いたかな?」

ピアノを弾く前までとはまた違う彼女の様子に少し驚いた。

なんだかまだ弾き終わったばかりの曲に取り憑かれているように見えた。

穏やかで優しい声色が体育館に静かに響いた。


「少しどころかだいぶ。ありがとう。」

よかったと一言呟くと彼女はふふっと安堵の笑みを向けた。

「忘れてた!えっとね!この曲はドビュッシーの…!」

「月の光」

俺は彼女の声に覆いかぶさるように曲名を述べた。

彼女はさすが〜!と言いながら感心していた。

あんなに俺が心を乱していたのに彼女は何も聞いてこない。

ただ俺を気遣い、挙げ句の果て夜の公民館に無断で立ち入ってまでピアノを演奏してくれた。



どうして…どうして…そこまでしてくれたんだ…。



「なぁ、俺さっきまであんなにおかしくなっていたのにどうして理由を聞かなかったの…?」

思い切って聞いてみようと思った。

なんとなく、この人なら大丈夫だと思ったから。


「無理してほしくなかったから。人間、生きていれば話したくないことだってたくさんあるものじゃない。私もあるし、きっと君にもあるからそれでもいいって思ったの。だからといってあんなにぐちゃぐちゃになっていた君を放って置けないから少しでも…安らぐ時間があればいいなって思ったの。無責任かもしれないけどただそれだけ…。」


そう告げると再び鍵盤の方へ目を向けた。


「……俺、俳優向いてないんだって思ったんだ…。」


彼女は驚いた様子でこちらに顔を向けた。

俺はそのまま淡々と話し続けた。


「今、映画の撮影をしているけど、どうもその役に入り込めないんだ…。今回だけじゃない。今までのいろんな作品でもそうだった。同じ気持ちになれない。その展開がうまく自分のピースに当てはまらなかったりするんだ…。どんなに結末がうまくまとまっていても納得がいかないんだ…。納得が行かないけど、俺がその役を最後まで演じきることができれば問題ないはずなのに…。自分がそう思っていなくてもその役の通りにならなくちゃいけないのに、どうしても嘘をついているように思えてしまう。俺は画面越しの見てくれている人たちを欺いているんだ…。何度も、何度も…。」


彼女はただ黙って話を聞いている様子であった。



「俺はただたくさんの人を欺いている…。そうして生きることしかもうできないんだ…。」



「欺いているんじゃない。君は優しい嘘を付いているだけだよ。」



「優しい嘘…?」



なんだそれはと思った。

俺の話をずっと聞いていてくれた彼女が放った一言はどうも一瞬では理解ができなかった。



「君が演じることで誰かを救うこともできるの。どれだけ自分が真逆の気持ちでいたとしても君がその気持ちに抗って見せてくれた輝きが見ていた人の人生に彩りを与えることだってあるんだから。それってさ、優しい嘘じゃない?誰かを傷つけない。」



「…。」



「私だって、たくさん嘘をついてきた。昔ね、ピアノが大嫌いになった時期があったの。」



「え、嘘。意外だな?」



と驚くとふふっと彼女が笑った。

あんなに表現力に溢れたピアノを弾く彼女を見ていたから想像ができない。


「でもね、そんな時。私のピアノを褒めてくれた人がいたの。すごく綺麗な音だって。嬉しかった。大嫌いなピアノで人を喜ばせることができるなんて皮肉だなって思ったけどさ。正反対な気持ちを持っていたとしても人に与えた印象は前向きだったの。嘘をついているようなものじゃない?」


確かにそうだなと思った。

優しい嘘…。

そういったもので支えられていることもあるのだろう。

誰かを傷つけるためのものじゃない。

時には優しい嘘で守れるものがあるのかもしれないと…。

悲しい現実も辛い現実も救済するために優しい嘘をついて虚構の世界を作りあげてしまったとしても…。


「優しい嘘か…。確かに俺もそういったことで救われていたことがあるのかもしれないな。きっと気づいていないだけで…。」

「いずれ分かることもあるんじゃない?今は見えなくてもさ!」

「そうかもな。」


俺は思わず笑ってしまった。

なんだか俺が今まで抱えていた苦悩が少し晴れた気がした。



「ゆっくりでいいんだよ。君はまだまだ少年なんだからさ!」


「俺…たぶんもう少年と呼べる年齢じゃないと思うのだが…」


「いいの!いいの!小さいことは気にしなーい!たくさん悩め!少年よ!」


「そんな軽くていいのか?」


はははっと二人で大きく笑った。

そろそろ行こうかと俺は告げ、二人でまた歩き出した。

そういえば、いつの間にかお互いタメ口で喋っていたなどと他愛のない会話をしながら。

なんならいっそ気軽に名前で呼び合うのもいいねと。

出会って2回目のはずである二人なのに、壁が一つなくなった気がした。

暗い廊下の果て、窓の前にたどり着くと雪は弾んだ声を上げ窓の外へ飛び込んでいった。

なんだろうと思いそのまま俺も窓の外へと飛び込むと、雪が降っていた。

東京の空では中々見ることのできない雪。

特別感のあるこの雪は俺の記憶へと刻まれるであろう。

いいや、今日の日の出来事といったほうが正しいのかもしれない…。

雪という一人の人間との出会いは間違いなく俺の人生の一部を染めてくれた。

空から降る雪がアスファルトを白く染めるように、静かに…。



ありがとう雪。



駅まで二人で歩き、それぞれの帰路へと別れた。

今度こそまっすぐ自分の自宅へと向かって再び歩き出した。

また明日も仕事はあるが、ほんの少し変わった気持ちで向き合えるかもしれないと思った。

こうして自分の中に小さな期待が生まれたのだ。


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