04.5話 下野瀬航という少年
「……なんというか…。最後までちゃんと演じきれたらいいなぁって…。」
と白宮夏向という青年は淡々と答えた。
彼はいつもこんな調子だ。
なんだかひび割れたガラスのコップのようで、触れてしまったら簡単に壊れてしまいそうで不安だ。
どれだけ注いでも、そのヒビからこぼれて満杯にならない。
なんとも繊細な人だった。
三年前からマネージャーとして夏向のことを見てきた。
―――――俺には弟がいる。
五つ離れた弟で一見小生意気な奴であったが、根は誰をも包み込む優しさというものを持っていた。
純粋無垢な奴で、俺を呼ぶときはいつも大きな瞳を輝かせ真正面から見つめてくれた。
…そう、その瞳から輝きを失うまでは…。
「なあ!にいちゃん!」
「なんだよ?」
「にいちゃんは将来どんな人になりたいの?」
「俺か…?急になんだよ…」
いつものように騒がしい鳥のように俺の前に飛んできた。
「にいちゃんはどんなのかなぁって!気になったからさ!」
俺には将来どんな人になりたいかなんてはっきりとしていなかった。まだ中学生であるのに、将来のことを真面目に考えるのは高校生になってからでいいと思っていた。
特別才能があったわけでもないし、勉強だってまあまあだ。
だから、漠然とした考えではあるが普通にどこかの会社に就職してサラリーマンやって、そのまま定年まで働いて平凡な最期を迎えるのだろう。
…まぁ家族くらいは作りたいけどさ…。
「まぁ…普通にサラリーマンくらいでいいかな。」
「なんだそれ!!!夢ないじゃん!」
まだ小学生である弟は呆れた顔で俺を見つめてきた。
「夢っていうかさぁ…!そういうお前は夢あんのかよ!」
と俺はぶっきらぼうに答えたが、
「あるよ!」
弟は即答し、俺が呆気にとられるほどそのまっすぐな眼差しは純粋に輝いていた。
「俺ね、ヒーローになりたい!!!」
「……ヒーロー…?」
「そう!ヒーロー!」
まだ小学生だが、もう高学年になるのに流石にその答えはお子ちゃますぎるだろ…。
「ヒーローってお子ちゃまみたいって思っただろ!!」
…こいつは妙に人の顔色を伺うのが得意な面がある。
俺に向けているまっすぐな眼差しというものはきっと俺以外の家族や友人にもしてきたのだろう。
この眼差しは人の表情から感情、あるいは心の中までも見ようとしてきたのだろう。
成長を重ねると同時にそれらはたくさんあることを彼なりに知ったのだろう。
嬉しい、
楽しい、
悲しい、
苦しい、
そういった様々な感情をまっすぐ見つめてきたことで、読み取ることがうまくなったのだろう。
最近は、俺が怒りそうになって喧嘩が始まってもおかしくはないときに弟は一歩引いてなだめたり、機嫌を取るような行動に出る。
こいつも成長したことにより、最近は仲が前より良くなったのではないかと思う。
「…悪い…バレバレだったか…」
「もぉ!ヒーローっていってもただのヒーローじゃないから!」
ただのねぇ…警察官や消防隊そこらへんだろうと思った。
「役者…!役者になりたい!」
「……役者?」
思いもよらぬ発言に驚きを隠せなかった。
役者ってことは芸能界とかいう世界にいる人間のことだろう…?
そもそも役者が身近にいた存在でもないし、なんならこんな田舎にいる人間からしたら縁がなさすぎるのではないか?
「そう、役者。すごいよ!あんな風にお芝居して…時には人の心を動かしちゃうじゃん。俺ね…この前テレビでやっていたドラマの主人公に勇気もらえたんだ。」
いつもはうるさいくらい元気な弟が珍しく落ち着いた声色でぽつりぽつりと答えた。
「…どんな?」
いつもだったらその場でつっぱねる勢いで会話を終わらせる俺だが、このときはいつもとは違う様子の弟に珍しさを感じたのか弟の夢の真相が知りたくなった。
「その主人公はね、高校生の男子だけどめっちゃ弱虫なんだよ…。俺も最初見ていてムズムズした。」
もどかしいというやつか。
まだムズムズとかいう擬音で話す弟がどこかかわいらしいと思った。
「でもさ、ある時、主人公には好きな女子がいたんだけど、その女子はクラスメイトにいじめられていたんだ。最初は主人公も見て見ぬ振りだったんだけど、だんだんその女子を助けるようになったんだ!」
よくあるストーリーだと思うが、なぜ役者になりたいと思うまでになったのだろうか。
俺は不可解そうな顔をしながら黙って聞いていた。
なんでそんな顔をするんだよと言いながらも弟は話を続けた。
「最初は、誰もいないところで彼女の話を聞いたりするだけなんだけど、いじめられているところに遭遇したとき堂々と止めに入ってその女子を助けるんだ!その男子もいじめられるけど、最後はみんなと仲良くなるんだよ!!すごいじゃん!!!」
「まぁ…確かに勇気のいることだけどなぁ…それと役者がどう繋がるんだ?」
かっこよかったからなどと単純な回答が返ってくるのだと思った。
「何かを伝えることってすごく勇気のいることなんだってそのドラマを見てわかった。仲が悪い人同士ならなおさらそうじゃん。伝わらないことのほうが多いと思った。でも、負けないで仲良くなろうとして何度も会話をしていた。だんだん仲良くなれたのはそれまでにお互い言葉を投げ合っていたからじゃん。役者はさ、いろんなドラマとかやっていくうちにたくさんのセリフを覚えなくちゃいけないじゃん。俺はセリフをたくさん覚えてたくさんいろんな人に言葉を届けたいって思ったんだ。」
思っていた以上に大人びた答えが返ってきた。
一つのドラマが弟にこんなにも影響を与えていただなんて知らなかった。
「それだけじゃないよ?同じ境遇にいる人の希望にもなると思ったんだ。その主人公がかっこよくて俺もそういう風になりたいって思えたし!」
いつの間に弟はここまで考えるようになったのだろう。
自分の芯というものもしっかり持っていた。
少なくとも、俺が小学生の頃はもっと漠然とした考えでしか日々を過ごしていなかった…。
このときの俺はただ純粋に弟の夢を応援したいと思っていた。
ただ、あんな出来事が起こるまでは…。
月日は流れ、俺は高校生になり弟は中学生となった。
俺はテニス部に所属し弟は演劇部に所属しているため、昔のように兄弟で過ごす時間はだいぶ減ってしまったが、それでも何かしら家で顔を合わせると他愛のない会話はしていた。そんなある日…。
ガチャンと玄関から音がし、誰かが帰ってきたことがわかった。
この家に住む者は必ず帰宅すると「ただいま」と声をあげるのだが、扉を開く音がしただけでそれっきし何も音が聞こえてこない。
居間にいた母と俺は異様な雰囲気を感じ取り、顔を合わせた。
しかし、一向に足音が聞こえない。
俺は無言で様子を見てくると母に視線を送り立ち上がった。
一応何かあったらと考え念の為、読んでいた本を片手に持ち静かに玄関に向かった。
施錠は自分がしっかりやっていたから鍵を持っている俺たち以外の誰かが帰ってきただけだろうと思ったため自然に、「誰が帰ってきたんだー」と言いながら廊下を歩いた。
角を曲がり、ようやく玄関の見える位置にたどり着いた瞬間俺は思わず足を止めた。
「……!!!お前……どうしたんだよ……!」
顔に大きな痣と、鼻血が垂れっぱなしで、制服がところどころ鮮血に染まっていた。
一瞬で悟った。
彼はいじめられていたのだ。
喧嘩ではない。
彼はそういう奴ではない。
なぜなら、ヒーローに焦がれている紛れもない自分の弟だったから…。
「……はは…。もうこれじゃあ隠せないね…」
と弟はこんなにも傷だらけなのに笑っていた。
母もすぐ駆けつけ弟の姿を見ると一気に青ざめ何があったのと弟を問いただし、混乱していた。
弟は何度もごめんと母に声をかけていた。
そんな異常な光景を俺はただ漠然と見ることしかできなかった…。
その日は一日中雨が降り続いていた。
雨で昼間でも暗く、それはいつまでも振り続けるのではないかと思うくらい。
「もう…。あいつらを相手にすんな。」
吐き捨てるように俺は弟に対してそう言葉を呟いた。
「…!!!なんで…?まだ会話が足りなくてお互いのことを理解ができていないだけなんだ…だからあともう少し話し合えたら…!!」
「あいつらにはお前の言葉なんて一ミリも届いていない!!!」
「…っつ!!!」
俺は弟の言葉を遮るように叫んだ。
本人も薄々気がついてはいたのだろう。
でも、気がつきたくはなかったし悔しかっただろう。それでも…
「そうだよな…!!言葉がまだ届いていないだけなんだよなぁ!!なぁ…兄さんだったらどんな言葉を投げたらいいと思う???俺はどうしたらいいかとかかなぁ…!?」
「…違う違う違う!!!お前は馬鹿すぎる!!!!言葉が届いていないじゃない!!!言葉を聞こうとしないんだ!!!!分かるか?!あいつらはお前の言葉なんか聞こうとしないんだよ!!!!ドラマの世界じゃないんだよ!!!!」
錯乱している弟に対し、俺もつい感情がむき出しになった。
純粋無垢が抜けきらず、どんなに酷いことをされたとしてもその相手のことを知ろうと思いやり、自分で自分を不幸にしていることにすらも気がつかないその弟の全てがあまりにも愚かでどうしようもなく救いようがない。
彼は諦めるということを知らない。
「それじゃあ!!!俺が今までしてきたことは全部全部無意味だったって兄さんすらも言うのか?!何度も話し合って理解したかった…!!なのに…俺は…俺は…!あいつらのことを知ることができなかった…!!どんなに殴られても蹴られてもその行動の意味を理解できなかったことが何よりもずっとずっと痛かった…!!!!でもさ…気がつきたくなかったんだよ…どんなに話しても無意味だってことを…だって…ただの憂さ晴らしでしかないから…あいつらの目を見たら分かる…何も考えていないことくらい…。」
この時、俺は弟の挫折というものを初めて目の当たりしたのだろう。
いや、弱さだろうか。伝え合うことを諦めたくなかった弟かららしくない言葉が溢れたのだから。
「お前は優しすぎる…。あいつらはお前の言葉なんてどうでもよかったんだ。もうあいつらに口を聞くことはやめろ。」
終いには、言葉というものを人一倍に大切にしている弟に絶対に向けてはいけないことを口にした。
そうすれば弟は苦しみから解放され楽になると思ったから。
「もう言葉を投げても意味がない。」
そうやって俺は遠回しに弟の夢を全否定した。
―――――――俺は兄貴失格だな…。
それから間も無く、弟は今までの行いは全て嘘だったかのように心を閉ざした。
明るく真っ直ぐに突き進む少年は今にはもういいない。
ただ暗い部屋に毎日閉じこもり、一人だけの世界へと行ってしまったのだ。
言葉を誰にも伝えることのない世界へ。
父も母もただそっとした。
今はただゆっくりさせてあげようという考えであったからだ。
俺も当初はそうだった。
しかし、こんなにも美しい心を持った人間がこんなところに留まらせてはいけないと思い始めた。
なぜなら、彼は心を殺されたまま今もそこから逃げ出せていないからだ。
お前には、そんな暗い雨が降り続く世界ではなく、青くて広い大空へと羽ばたいてほしい。だから、俺はその日あった出来事をドア越しに毎日一人喋り続けるようになった。
いつの間にか、かつての弟のように陽気な人間のように振る舞うようになった。そう見せかけているだけなのかもしれないし、ただおちゃらけているようにしか見えないかもしれない。
あるいは、昔の自分を取り戻して欲しいという自分勝手な願いからそうするようになったのかもしれない。
弟は時々、部屋から出てくることはあっても俺たちには何も発さなくなった。
弟が以前輝かせていた瞳はもう、ただどこにも焦点があっておらず、まるでこの世界を生きていないと思ってしまうほど光はとっくに消えていた。
止まってしまった時間、どんなに傷ついても御構い無しにそれでも回り続ける世界。
俺もいつの間にか社会に出る年齢になった。
何度も悩み続けた。
兄貴失格の俺が弟を救い出す方法を。何度も何度も…。
だが、かつて弟が憧れていた世界を俺が少しでも知ることができたら弟を救うヒントがそこに何か隠れているのかもしれないと思った。
だから俺は…
「俺、タレントのマネージメントの仕事をやってみようと思う。」
固く閉ざされた扉の先へ届くように語りかけた。
「俺は、お前みたいに根っから芸能界に憧れている人間じゃないけど、お前がしたいことを間近で見てみたくなった。お前が信じてきたことが間違いじゃなかったことを俺が代わりにこの目で見て、感じて確かめてくる。」
「………それを俺に教えてくれる…?」
思いもよらぬ出来事に俺は驚いた。
か細く、覇気のない小さな声で…彼は言葉を発したのだ。
「あぁ…!もちろん…!」
俺は咄嗟に答えた。
「お前に伝える。お前がかつて俺に教えてくれたように…。今度は俺がお前に届くまで伝えるからな…!」
「………ありがとう…待ってるから……。」
「あぁ…!」
諦めない。諦めない。絶対に。
こいつがそこから抜け出せるまで。俺は諦めない。
あのとき誓ったことは今でも俺の心の中をジリジリと燃やしている。
今でも弟に毎日あったことを扉の外から話しているが、あの日以来弟の口から言葉が発せられたことはない。
……きっとまだまだ足りないのだろう。
そう思う。
それに、白宮夏向という青年の行先はまだまだ危なっかしい。
かつて白宮夏向という青年は俺に弱いところを見せたことはない。
つまり、彼の真の本音というものを俺はまだ見たことがない。
だから、俺はお前のマネージャーとして本当は失格なのだろう。
いや、まだまだ未熟者なのだろう。
ただおちゃらけて少しでも彼をリラックスさせてあげたいだなんてただのおせっかいを焼いているだけなのだろう。
夏向とともに仕事をしていくうちに芸能界の闇の部分もやはり見えてきたものがあるから。
こんな世界だからこそ少しでも暗い闇の部分を隠そうだなんてそんな俺のエゴがお前を本当は傷つけているのかもしれないし、過去と同じ過ちを繰り返してしまっているのかもしれない。
結果的に、夏向は他人に上手く隠しているだけで彼もまた闇の中にいることに俺は気がついていた。
そして、夏向は弟と重なって見える部分が心なしかいくつもある。
だから、俺自身不安になることもある………。
………それでも俺はお前のことを見守り続けたい。
お前が今いる闇の先に送り出してあげたい。
あのとき、できなかったように…。
これが償いというものだろうか。
いいや、違う。
最愛の弟に俺はまだ傷をつけたまま何もできていないただの『兄貴失格者』のままだ。
そんな大事な弟すらを助け出せていない俺がこう願うのもおかしな話かもしれない。
本当はお前のことをどこまでも見守り続けたいなんてそう思っていてはいけないのかもしれない。
それでも、どうか……
『彼が行く末は明るい道へと繋がっていてくれ。』