02話 月夜の音色 後編
その音色はとても美しかった。
だけれど、どこか儚く繊細で今にも崩れてしまいそうだった。
この曲だけじゃない。
この音色の奏で方にも猛烈な懐かしさを感じた。
美しい蝶が舞っているような、夜のような静けさを身にまとっている。
だけどこの曲は確か…。
そう思った次の瞬間、曲調がガラリと変わった。
やはり、そうだ。この曲は…!
クライマックスに近づくにつれこの曲は激しさを増す。
鍵盤の端から端まで疾走感は止まらない。
先ほどまでの静けさはまるで嘘だったかのように。
いや、まるで全く別の曲かと錯覚してしまうほどに。
――――――天才だ。この人は。
軽快に最後の音が鳴り響いた。
その音が鳴り止むまで一度も狂うことも止まることもなかった。
その人は曲を弾き終わるとふぅ…とため息をついた。
「その曲は……月光ですよね…?」
と俺は思わず声をかけてしまった。
まずいと思った瞬間にはもう間に合わなかった。
万が一、ここで正体がバレて騒ぎにでもなったら後々大変だからだ。
というか、この人も只者ではないとは感じていたが、ここで騒がれてしまったら…。
どうか、俺の正体に気が付きませんように…!
長い髪をふわりとなびかせその人は振り向いた。
その女性は俺の顔を見た瞬間とても驚いた顔をした。
やってしまったかもしれない…と思ったが…
「そうですよ!よく曲名がわかりましたね!」
とキラキラと輝いた表情で答えてくれた。
よかった…どうやら俺のことには気がついていないようだと安心したが…
「あの…。もしかして…間違っていたら申し訳ないんですけど…あなたって…」
俺はすぐさま人差し指を立てた。
彼女は即察してくれた。
「なんだか懐かしくて…思わず声をかけたんです…。というよりもこの曲を演奏できるって只者じゃないなというか…」
………俺は何ペラペラと話しかけているんだ。
正体バレてる時点でその場から早くいなくなるべきなのに、何ちゃっかり会話しているんだ…?
彼女はおかしかったのだろうか。驚いた顔をまたしたかと思うと今度は笑い出した。
「あははっ…!ごっごめんなさい…!ちょっとあまりにも面白かったので…!ほんとにすいません…!確かに只者じゃないかもしれませんね…!」
そう言うと彼女は立ち上がってこちらを向いた。
「私は、琴音雪!ピアニストやっています!あなたが言ってくれた言葉あながち間違いじゃないかもしれないですね!でも…あなたも只者じゃないですよね…?なんか変な共通点がありますね!」
と笑って自己紹介をしてくれた。
なんというか…こんなつもりじゃなかったのに…!俺は正気に戻り小声で、
「なんか本当に軽率に声をかけてしまってすいません。そうです…。俺は白宮夏向です…。どうかここであったことは内密に…。」
いやいやいや…!自分から声をかけておいてなんだその自己都合は…!あほか!!!
「あっははは…!もちろんそうしますよ…!まぁそれができない人も中にはいますからね!それよりイメージと違いすぎて…って…!ごめんなさい悪い意味じゃないけれど…!」
……中々この人変わっているな。どこにツボっているの…。
というか、ピアニストなのにわざわざこんな誰でも弾けるような場所で弾いているっていうのも不思議だ。
グランドピアノで弾けるところこの人ならば一つや二つあるのではないかと…。
なぜここで…?というか職業だよな…?ましてやここコンサートホールとかで普段演奏しているってことだよな…?
状況からして正気に戻ったはずだったのにまた混乱してきた。
そんな俺を差し置いて彼女はまだ笑っている。
「どうしてこんなところで弾いているんですか…。ピアニストがここにいることも大分不思議だと思いますが…。」
「なっ!なんという先入観!!私だってこういうところで弾きますよ!!息抜き?というかなんというか…それよりこのホワイエが好きだし!!」
とムムッとした表情でこちらを見てきた。
「というかあなたがここにいるのも……!」
俺は再び人差し指で内緒ポーズをすぐさまとり、
「……場所変えましょう…。」
と提案した。
俺たちは建物を出て、人気の少ない外階段に場所を移した。
先ほどまで混乱していた俺は少し落ち着いたが、なぜこのような状況になってしまったのか不思議で仕方がない。
「あの…。なんかすいません。ただあまりにもびっくりしたもので…。昔、誰かが弾いていた曲だったから懐かしかったのかもしれません…。」
そうだ。どこかで聴いたことがあるのだ。
確かに有名な曲ではあるからどこかで耳にする機会は何度もあるはずだ。
それとも、昔ピアノ教室で聴いたことがあるのか…?
「この曲有名ですからねぇ。どこかで聴いたことくらいは多くの人があってもおかしくないと思いますよ。」
違う…。こんなにも印象に残っているのだ。
スピーカー越しではない。
さっきのように生演奏で聴いたことがあるはずだ…。
あんなにも鮮明な音を懐かしく感じてしまうのはやはりそういうことなのだろう。
「多分、生演奏で聴いたことがあるんです…。あまりにも鮮明に音を覚えていたから…。」
彼女は不思議そうにこちらを見ていた。
「じゃあ、きっとそういうことなのかもしれないですね。その音が夏向さんの中で響くものがあったんだろうなぁ。なんだか嬉しいです。」
と彼女は笑った。なんだか思い出話をしているようで恥ずかしくなった。
「雪さんはすごいです。そういう力を持っているっていうことは中々いないだろうし…。」
あれ…?なんか俺またすごいネガティブ思考になりかけている…?
おかしい。会って数時間も立っていない人間にこんな姿を晒すとは…やはり疲れているな…。
「それをいったら夏向さんだってすごい力を持っているじゃないですか!私、この間のドラマで夏向さんのセリフに心撃ち抜かれましたよ?!あっ、心打たれたが正しいですかね?!」
「俺は…与えられたセリフを、役を演じているだけです。雪さんがセリフで心を打たれたのであれば、本当にすごいのはその役やセリフを生み出した人じゃないですかね?」
そうだ。俺は与えられた役を演じているだけ。
自分が作り出したあるいは導き出したものではない。
時には人を欺いているとでさえ感じる。
「でも、それって演じてくれる人がいるからそのセリフや命が初めて生きるのだと思いますよ?伝えるひとがいなくっちゃその言葉はどこにもいけない。」
――――どこにもいけない…。
「夏向さんが今どんな悩みを抱えているのかきっと私には想像がつかないんだろうけど、中には私みたいに夏向さんの存在で元気をもらっている人はたくさんいますよ。…なんて陳腐な言葉かもしれませんが、この世界に生まれてきてくれてありがとうございます。」
そういうと彼女は深々とお辞儀をした。
「…っはは…!そんな律儀にお礼される筋合いはないですよ…!」
「え?!私は本当に思ったからそう言っただけで!なんならファンの一人としてお伝えしただけですよ?!」
と彼女は慌てた様子で言った。
ほんとうにコロコロといろんな表情をする人だなぁ。
笑いが止まらなかった。
「夏向さん笑いすぎですよ!!……でも、夏向さんいつでもここに来てくださいね。私、ピアノ弾いているので。羽を伸ばしに来てください。」
と彼女は真剣な表情を浮かべていた。
「ありがとうございます。なんだか雪さんのピアノを聴いていると元気がでるので。また来ますね。」
「……!はい!」
そうして、俺たちは解散した。
琴音雪という人物と別れた後、キーンという耳鳴りがしばらく続いた。
今日は混乱することが確かにあったし疲れているのだろうとそのまままっすぐ帰宅し、すぐさまシャワーを浴びた。
久しぶりに深い眠りについた。