01話 それでも世界は回る
ピリリリッピリリリリリッ!!!!!!!
けたたましいアラームの音は容赦無く今日が訪れたことを告げる。
「ん"…」
ベッドの中から左腕がすっと顔を出した。
この騒々しい音をまずは止めなければならないと本能的に知っているかのように、その騒音の在り処を手探りで探す。
指先に何か冷たい感触が伝わった。
エアコンで冷え切った室内の空気と同化したかのようにひんやりとした液晶画面。
指先でそれを捉え、手のひらまでに引っ張り出したかと思えばそのまま布団の中に引きずり込む。
吐息のかかる距離までそれを持ってくると、液晶画面をタップし音を止めた。
時刻は7時を指していた。
「もう朝か…今日は少ししか眠れなかったな…。」
名残惜しいように布団からもぞもぞと顔を出す。
真横にあるサイドテーブルの上に乗っているメガネに手を伸ばしそのままかけて、渋々体を起こす。
少し埃かかった部屋、カーテンの隙間からは朝日がそっと差し込んでいた。
いつものようにそのまま洗面所へと向かいバシャバシャと顔を洗い、目を覚ます。
コンタクトをつけるとぼやけていた世界が一気に鮮明になり、現実世界へと連れてこられたような気がした。
テレビをつけ台所に向かい食パンをトースターに入れた。
ジジジジジ…と秒針が静かに動き出した。
「確か今日は長丁場だったな…取材からの撮影だから移動中に台本の確認はできそうだな。家を出る前にもう一度スケジュール把握しよう…。」
とぶつぶつ独り言を呟きながら、冷蔵庫から牛乳とマーガリンを取り出した。
一人暮らしが長いせいかいつもこんな調子だ。
チンッ!と音がなり食パンが焼きあがったことを告げる。
皿に食パンを移しマーガリンを贅沢に広げる。
こんがりと焼けた小麦色の表面にその白い塊はじわじわと溶け込み、微かな輝きを残し消えていった。
コップに牛乳を注ぎ、マーガリンとともに再び冷蔵庫へと戻す。
手慣れているから食事の準備はすぐに終わる。
コップと食パンが乗っている皿を手に持つとそのままテーブルへと向かった。
白宮夏向、職業俳優。
中学一年生の頃に現在も所属している芸能事務所にスカウトされた。
母に部活動で使うテニスラケットを買ってもらうために出かけていたときであった。
自分自身芸能界に興味がまったくなかったが、母いわく、そこの事務所は芸能界の中でも有名で、いわゆる大手芸能事務所であるらしい。
やるだけやってみたらいいんじゃない?という母からの提案で、深く考えずに芸能界へと足を踏み入れた。
最初はもちろん仕事もなく、様々なオーディションに参加し落ちまくりであったが、高校二年生の夏、とある映画で主役の友人役で出演したことをきっかけに一気に俺の名前が世に出回った。
「眉目秀麗!」「超絶美少年!」「次世代を担うスター誕生!」
などとテレビ番組やネットで騒がれ、ありがたいことに次々と仕事を頂いた。
そして現在に至る。
もし、俺があの時スカウトされていなかったら多分、平凡な人生を送っていたのだろう。
普通に就職して、
普通に仕事して、
普通に疲れて、
普通に休日を過ごして、
普通に眠って…。
俺の性格上そのような未来が安易に想像できた。
きっと俺が俳優にならなかったとしてもその世界は回っていくし、本当は今だって俺がその世界に必要とされていないのではないだろうか…。
ぼんやりとそんなことを考えながら食パンにかじりつくと、食パンはサクッと音を立てた。
「昨日、午前2時頃。道路に人が倒れていると通行人から110番がありました。警察が駆けつけたところ20代と思われる女性が倒れており、搬送先の病院で…」
そうだよな…。とテレビを見てふと考えてしまった。
命を自ら絶とうとする理由として、俺が今考えていたことのように世界に必要とされていないと感じてしまい、それが「死」への引き金を引いてしまう場合もあるのではないかと。
仕事や恋愛、もしくは家庭、それとも不治の病か… ?
ぐるぐると思考が回り出した。
もちろんそれ以外の理由もあるのだろう。
幸福そうに見える人でも自ら命を絶ってしまう人もいるのだから…。
俺が何を見ようとも考えようとも世界は目まぐるしく回っている。
今ニュースの報道で流れているその人も同じような状況にいたのだろう。
どんなことを考え、どんなことを感じてその選択をしてしまったのか。
それは、もちろん当の本人しか真実を知ることはできないだろう。
たとえ、遺書や遺言があったとしてもその人自身の事情や感情全てを知ることはできない。
俺自身、誰しもが苦悩を抱えて生きていることも十分知っているつもりでいる。
その苦悩というものも人によって抱え方も違ってくるだろう。
「だめだ…。」
このままでは朝からネガティブな感情に飲み込まれてしまうと思い、ミルクをグイッと飲み干した。
そのまま意識をそらすかのように液晶画面を開き、スケジュールアプリを立ち上げた。
今日の予定は覚えていた通りであった。
このスケジュールはマネージャーと共有しており、仕事が入るとマネージャーが記録してくれる。
なんと便利な世の中になったものだ。
次の日の予定もついでに確認すると、そこにはいつも通り仕事でぎっしりと埋まっていたが、いつもと違う予定が一つ埋め込まれていた。
母誕生日。
俺は忘れていた。
そしたら、明日は久々に母のいる実家へと帰るのもアリだなと考えた。
帰りは遅いが、明後日の仕事は運が良いことに午後からの撮影のみであるから、午前だけでもゆっくりと過ごすことができる。
よし、決定。あとで母に連絡を入れよう。
液晶画面を閉じ、そのまま席から立ち上がった。
さっと食器を洗い、身支度を整えテレビを消した。
顔を隠すためにサングラスと帽子を深く被り、ガチャリと音を立てながら重い扉を開いた。
外へ出ると眩しすぎるくらいの日差しがジリジリと肌に焼きついた。
今日も猛暑日。八月らしい日和である。
「あっつ…。」
と思わず口から感情がこぼれ落ちながらも歩き出した。
いつもなら家までマネージャーが車で迎えに来てくれるが、今日は現場が家から近かったため、自力で向かうことにした。
こうして今日も一日が始まる。
何をしようが何を考えていようが現実というものは容赦なく現れる。誰にでも。
この八月の暑さから、何かを感じ取る人もいるのではないのだろうか。
俺はいつも考えてしまう。
暑くても。寒くても。
俳優という仕事はどんなことがあったとしてもその役を演じきらなければならない。
たとえ、大切な人の死が耳に入ってきたとしてもだ。
幸であっても不幸であっても自身を騙して演じる。
本当にそんなことをして良いのだろうかと罪悪感を感じることもあった。
だけれど、今日もその現場へと向かう。
足早に歩みを止められない。
結局何を考えても現状というものは中々変わらないのだろう。
情けない…。何が俳優だ…。
澄み渡る青い空、鳴り止まぬ車の音、ぐるぐると回る思考。
目の前の信号は赤だった。