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第9R 春の天皇賞を前に

 誰もがあの日、一気に飛び出して先頭を駆け抜け続ける強く輝くヒガシノゲンブの姿を想像していた。

 その姿に危うさを覚えていた二人はその光を弱くとも長く輝かせようとして、ひとかけらの悪意も持たずに抑え込んだ。

 その抑え込まれた光はまったく漏れ出す気配を見せないまま眠り続け、そして目を覚ます事はなかった。







 ヒガシノゲンブの大阪杯における負けっぷりを、簡単に言えばこうなる。

 GⅠって言う名前にくっついてくる魅力その他は大きい。その大きな力ってのは、かかわる馬も人も惑わせてしまう。GⅠだなんて大阪杯だけじゃない、あるいはダービーや菊花賞のヒガシノゲンブだってGⅠと言う名前に惑わされてしまった姿だったのかもしれない。


 でもその惑わされた結果がああならば、ぼくは進んで惑わされに行く。誰だって惑わされたいと思うはずだ。ワンダープログラムが言っていたように、ぼくだって勝利したい。その為ならば、あれぐらいまで行ってしまっても構わないと思う。



「次走は京都だろ、その事を考えろ。僕だって考えてるんだから」


 ワンダープログラムは相も変わらずだ。帰国してからもまったく変わる事なく、わずか一ヶ月後の天皇賞の事ばかり考えている。

 また滝原さんに乗ってもらうのと聞いても、返事はない。滝原さんの事をよく知っているはずなのに、ヒガシノゲンブの事だってよく知っているのに。


「薄情だなあ!」

「薄情でも構わない、僕は今度こそ勝たねばならないんだから」

「ぼくに対してじゃなくて!」

「誰だって過ちの一つや二つはある、それだけの話だろ」

「自分だってあるんだから、他人の過ちも許さなければならないって事?」

「そういう事だ、じゃあな」


 ワンダープログラムの過ちって一体何なんだろう。ダービーで負けた事だろうか。それともそれ以前の事なんだろうか、あるいはもっと後の事なのか。

 ぼくだって、デビュー戦でゲートの開くタイミングとスタートが合わず出遅れた事もある。結果はもちろんシンガリ。他にも初勝利の時だって実は直線抜け出すタイミングがやや早くてもっと差を付けられるはずだったのにできなかったし、前走だって少し後ろとの差を開きすぎて目標にされてしまったせいで負けた。もちろん他にもあーあやっちゃったってのはあるけど、ワンダープログラムの考える過ちってのがレース以外に絡むとは思えない。

 今のワンダープログラムの頭の中には、次走の春の天皇賞の事しかないのだろう。それが終わればまだ次、次のレースが終わればそのまた次。まったく、本当にせわしい馬だ。




 あの大阪杯から四週間後、有馬記念以来久しぶりにワンダープログラムと一緒の週にレースを走る事になったぼくは、また今回も彼と共に併せ馬をした。ヒガシノゲンブにばかり耳目が集まったせいか、実に静かだ。天皇賞の有力候補の追い切りのはずなのに記者の人はまばらで、調教助手さんもテンションは高くなかった。


「ワンダープログラム、お疲れ様」


 調教を終えて引き上げようとしたぼくらに声をかけてくれたのは、ユアアクトレスぐらいのものだった。普段なら聞き流すはずの彼女の言葉にぼくが思わず足を止めてしまったのに対し、ユアアクトレスに引っ付かれているはずのワンダープログラムは何の反応もしない。

 その時のユアアクトレスは、なぜだかきれいだった。ワンダープログラムべったりのはずの、ぼくなど眼中にないはずの存在なのに。毛ツヤが良く、目はきれいに輝き、そしてお尻は締まっている。先週福島に行って重賞を勝って来たからだろう、ワンダープログラムならばそう言って終わりにする。分かってしまう。


「次走はヴィクトリアマイルかあ」

「当たり前よ、あんたなんかと物が違うんだから。ワンダープログラム、私だってやればできるのよ」

「僕も勝たなければいけない。今度こそ僕は勝たなければならない。ヒガシノゲンブに勝ち、滝原さんに全てを取り戻してもらわなければならない」


 その答えが分かっていたのか、ユアアクトレスは自分が今そういう目で見られる存在だと言う事をアピールしようとはしない。

 ぼくだって調教には力を入れているつもりだ。まあオーダーを決めるのは浅野先生だけど、そのオーダーの中でなるべく気合を入れて走る。それの繰り返しがぼくの日常だった。やる気のある馬、やる気のない馬。調子のいい馬、調子の悪い馬。いろんな存在に毎回出会える。同じ顔をしている事はほとんどない。

 ユアアクトレスとワンダープログラムの調教は好対照だ。ワンダープログラムがあの性格の通りいつも自分なりのポテンシャルを発揮するのに対し、ユアアクトレスはダメな時は全然ダメだった。ちなみにヒガシノゲンブは休み休み気味な所があり、一日に何本もやるか何週間も一本も行かないかの両極端になっている。


「そうよね、ヒガシノゲンブってあんなわかりやすくしょぼくれちゃって!ボクちゃんは」

「ヴィクトリアマイルの見通しは立っているのか、それから結果によっては次に安田記念とか宝塚記念ってのも可能性として存在するんだぞ、ダメでもマーメイドステークスとか。まだこの一戦で現役が終わりな訳じゃないだろう。まああるいはいきなり怪我をして引退を余儀なくされるかもしれないけどな、いずれにせよ一戦一戦気合を入れて臨まないともったいないぞ」

「おいワンダープログラム!」

「まあみんな、それぞれに頑張らなければいけないと言う事だ。できれば来月、笑顔と共に会いたいね。それじゃ」


 ぼくだって牡馬だ。ワンダープログラムが舌を動かすたびユアアクトレスから色気が消えて行くのを感じ、はほんの少しの下心と共に彼の口を塞ごうとしたが、ワンダープログラムはまったく表情を変えないまま言いたいことだけを言い続けた。そして言いたい事だけ言い終わって、すっかり力の抜けたユアアクトレスを起き残してとっとと歩き出した。


「ちょっと、ワンダープログラム!ユアアクトレスは」

「いいの、私が浅ましくて小さかっただけだから。他の馬の悪口を言って強くなれるならば苦労なんかないわよね……ハハハ……ワンダープログラムにとって大事な大事なライバルをあんな風に言っちゃえばしょうがないかなー……」


 ユアアクトレスは、わかりやすくしょぼくれていた。重賞を勝ったばかりと言う、まぎれもない栄光が与えていた力すらまったく感じられないほど重たい体を引きずりながら歩いて行く。まったく痛々しかった。

 後でそれが競馬用語でいう所のフケ、いわゆる発情期だって知ったぼくは、ワンダープログラムにそんな物が来るのかどうか自分勝手に心配してみた。




 そして春の天皇賞の前の日、ぼくは戸柱さんと共に先頭でゴール板を駆け抜けた。


「とうとうオープン馬とはな」


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