公示ってなに?、ですっ!
「公示が分からない!?」
翌朝、事務所にて高倉さんに相談したらこんな反応だった。
人間の表情筋の限界を突破していたと思う。
まるで「この非常識野郎!」とののしられた気分だった。
そのあとに続いたお小言も長かったし。
いやでも、知らないものは知らないもん。
私がそんな調子でいたからか、緊急勉強会が開かれた。
事務所の一室で二人きりになり、ホワイトボードには大きく『選挙とは』と題が打たれていた。
中の様子が気になるのか、扉の外では聞き耳を立てるスタッフたちが集合している。
なぜわかるのかといえば、
「押すな!」「押してません!」「先生を推しています!」「音を立てるな!」「立ててません!」「先生のお役に立ちます!」「ぎゃー」
と小さな声でてんやわんやしているのが聞こえるからだ。
「いいですか先生! もう時間がないですから!」
「は、はい…」
扉の外に意識を持っていかれていた私は、高倉さんの声に体を正した。
手にはメモとペンである。
「先生は選挙についてほとんどご存じないと聞いていましたが、まさかここまでひどい事態になっているとは思わず……抜かりました」
うなだれた高倉さん。
「ですが! この勉強会ですべて取り返します!」
眼鏡をかけて、それをクイッと持ち上げた。
そのままホワイトボードに『公示』と書いた。
「先生、これは何でしょう」
「文字ですか」
「怒りますよ?」
「こ、公示! 公示です」
高倉さんの威圧がハンパない。
寿命が三年は縮んだ。
「では公示とは何ですか」
「それが分からないから聞いたわけでして…」
「公示とは選挙期日をお知らせすることです。約2週間前に出されます」
「はあ」
「告示との違いは混乱するので今はやめておきましょう」
「ひい」
「ここまでは分かりますよね? 分かってください」
「ふう」
剣幕のすごさに二文字しか返すことができない。
カツン、カツン、と高倉さんのハイヒールの音が響く。
気を抜けば鞭で叩かれるんじゃないかと震え上がった。
「先生」
どちらが先生なんだか。
「公示の後、私たちはある期間に突入します。それは何ですか」
「ある期間…?」
身の恐怖を感じて思考が三倍速になる。
選挙日が知らされるということは、その前にするわけだから、
「せ、選挙活動…?」
「正解ッ!」
「…」
拳を振り上げ、高らかに宣言している。
この秘書、役に入り込むタイプだった。
「選挙活動期間になったらいよいよ自分たちの売り込みが始まるわけです。『清き一票を』と呼び掛けていくわけですね。ちなみに期間外にそのような活動をすることは認められていません」
「どうして?」
「平等でなくなるからです」
「ふ、ふうん…」
あまり意味は分からなかった。
いつでもやっていいなら抜け駆けする人もいないし平等じゃない…?
いやいや。
この話は危ない気がしたので考えるのをやめた。
「それで私たちは二週間の選挙活動で一票でも多くの支持をいただくために動くのです。この二週間は死ぬほど働いてもらいますよ」
「ええ…」
「なんです?」
「よ、喜んで働かせてもらいます!」
高倉さんに有無を言わさないオーラのようなものが見えた。
選挙活動で過労死とかするのかな。
いやな汗が出る。
「選挙期間中ではビラを張り付けるなど、演説やSNSなどで発信をしていくわけです」
高倉さんはホワイトボードに向き直って、今度は『投開票日』と書き記した。
くるりと振り向き、髪をなびかせる。
華麗なターンから決めポーズ。足の長さが際立つ。
キャラ変わってる…。
登場からわずかでキャラが定まっていないのに、もうブレ始めていた。
「次が投開票日になるんですか」
「ええ、選挙活動は毎日同じようなことをするばかりですから」
「そうなんですね…」
地味だなー。
メモにも『わりと地味』と書いておいた。
「投開票日にやれることはほとんどありませんが、当選のシステムが難解なのでお伝えしておきましょう」
『投開票日』の下に『小選挙区比例代表並立制』と追加された。
「小選挙区比例代表並立制?」
訳も分からずそのまま読み上げた。
「そうです。小選挙区制と比例代表制が合わせて採用されているわけですね!」
「は、はい…」
小選挙区制と比例代表制…。
「…」と高倉さんは私の顔を見る。
「…?」と私は愛想笑いでそれに応える。
「…」と高倉さんの顔が険しくなる。
「…」と私は冷や汗が止まらなくなる。
「っはー…」
高倉さんは外国人みたいに「やれやれだぜ」とお手上げのポーズをした。
本当に昨日と同じ人なのか?
「いいですか先生、まず小選挙区制についてお話しますね」
「よろしくお願いいたします」
「小選挙区制とは読んで字のごとく、地域を分割して小さな選挙区を作るわけです。そしてその区分けされた地域の中で立候補したうちの、一位だけが当選できることになります」
「えっと、一位以外の人は全員落ちると…?」
「正解ッ!」
やはり高倉さんは拳を突き上げた。
「選挙ってそんな厳しいんですね…」
アイドルでも上位何人かは選んでもらえるけど、選挙は地区ごとに一人なのか。
「でも、救済制度のようなものもあります。復活当選って聞いたことありませんか」
「ありませんね…」
「ハァ…それでよく出馬する気になりましたね…」
心底落胆したような表情でこちらを見た。
私がドMなら喜べたんだろう。
そうじゃないからひたすら辛いだけ!
手に力が入って、メモをぐしゃりと握りつぶしてしまった。
「復活当選というのはですね、こちらの比例代表制がカギになってきます」
ホワイトボードの該当箇所を示した。
「どういうことですか」
「比例代表制は選挙区は関係なく、全国をいくつかのブロックに分けて、政党ごとの投票数で議席を与えるわけなのです。それで、それぞれの政党が作った候補者名簿の上から当選していくことになります」
えっと。
小選挙区のように小さく区切るのではなく、もう少し大きくとらえなおして、チームごとに票数を数えるということだろうか。
となると。
「それは小選挙区とは別で投票するってことですか。別枠っていうか」
「そうなります! なので、小選挙区で落ちちゃった人でも比例代表で当選することができるわけです。これが復活当選と言われます!」
「あ、ああ…」
頭がパンクしそうだ。
何を言っているのかよくわからなくなってきた。
たぶん、一位じゃなくてもチームの中で推されていればもう一回チャンスがあるということかな。
でもこんなひよっこにそんなチャンスはないだろう。
そういうのはたぶん大御所的な人にお鉢が回るに違いない。
私は受け取った知識がこぼれないように頭を押さえた。
難しすぎて頭を抱えたとも言う。
「とっても分かり易く簡単に説明したので後からちゃんと理解してくださいね」
「はい…」
とりあえず返事だけしておこう。
「とりあえず返事だけしておこうって思いました?」
「ふぇっ! いや、まさか!」
動揺してペンもメモも取り落した。
心の中まで読まれるようになってしまったようだ。
人間、ちゃんと「ふぇっ」とか言うらしい。
「まだ気を抜かないで下さないね。先生」
「何があるんですか」
「先ほどの公示ですが、明後日です」
「え」
「ですから、明後日が選挙戦の幕開け日です」
お?
ということは、もうすぐ二週間の選挙活動をしなければならないわけで。
何の知識もない、父の威光で先生と呼ばれる私が戦わなければならないのだ。
無理では?
比例代表とかいうのも機会がなさそうだから、小選挙区一発勝負になる。
いくら父の票田があるとはいえ、私はただその血を受け継いでいるだけだ。
無謀な戦い。
そんな文字列が頭を巡った。
選挙で勝たなければならない理由はある。
だが、それがまさかそんな目前になっているとは思わなんだ。
正直に言って、半年くらいは準備期間があると思っていた。
アイドルは若くして引退するものだから、早い段階でチャンスと巡り合うのは素晴らしい。
でも、いくらなんでも早すぎる。
戦うと心に決めてからひと月も経っていない。
まさかお父さんはこのことをわかっていて取引をしたのだろうか。
さすがベテラン議員、狡猾な手段である。
こんなんじゃ勝てるわけがない。
私はアイドルになれず、このままお父さんの後を…。
花園ゆうきではなく田山ゆうきとして生きていくしかないのかな。
「先生」
絶望で目の前が真っ暗になりそうな私に、高倉さんがやさしく声をかけた。
眼鏡も外して、名前で呼んでいたころの「もち」さんだった。
「もちさん…」
「高倉です」
「高倉さん…」
そう思っていたのは私だけらしい。
「そう気を落とさないでください」
「え…」
「そんな先生にもう一つ、お伝えしたいことが…」
まさか、強力な助っ人?
すべてを解決する方法?
父が取引を無効にした?
私の中で期待がどんどん膨らんでいった。
高倉さんの薄い唇に注目して、その微細な動きにも目を離さない。
「同じ小選挙区に超有力なライバルが登場しました」
あ。
はい、もうおわりでーす。
ノックアウトの文字が眼前で踊る。
評価のほど、どうぞよろしくお願いいたします。
次話は明日20時に更新ですので、良ければブクマ登録もしていただけると幸せです。