弥生ー2
終戦記念日の8月15日は聖母マリア様が天に昇られた日でもあります。
この世から悪なる戦争が完全になくなるよう祈ります。
3月が到来しても大気の状態は未だ不安定だった。
関東一帯でも肌寒さは残っており、神奈川県でも時折にわか雪が降った。
智輝が入院している間、小莱は智輝が家庭でこなしていた家事の一切を代わりに担っていた。
洗濯物は智輝の父の嵩が朝、出勤前にやってくれていたが、朝ごはんや晩御飯の支度は小莱が率先してやっていた。
「しかし、智輝のやつ、いつの間にこんな美人の“嫁”さん手に入れてたのかしら…知らせてくれてたらちゃんと挨拶したのに…」
ホラン千秋似の智輝の姉、照美は台所に立つ小莱を横目で見ながら言った。
「小莱さんっておっしゃる方よ。日本に語学留学で香港から来ていらっしゃるの。お料理もとっても上手なのよ。」
智輝の母の美子はにこやかに言うと、台所まで行き小莱に尋ねた。
「何かお手伝いしましょうか?やっぱりずっと小莱さんにばっかり任せてちゃ気が引けるわ。」
「いえ、そんなとんでもありマセン…。お母サン、病気ですカラ…ゆっくりしていて頂いて大丈夫デスヨ…!」
台所で得意料理の“中華粥”をかき混ぜながら小莱は遠慮がちに応えた。
「ありがとう。でも…ここの所ずっとやってもらってるから申し訳なくて…」
美子は心底申し訳ない様子で顔を曇らせながら言った。
「大丈夫よ。母さん。お手伝いなら私に任せて!」
今度は照美が小莱の横に立って指示を促してきた。
「小莱さん!私がやるわ!何でも言いつけてちょうだい!」
「そんな…お姉サン…お腹に赤ちゃんいます…!無理させるできマセン…!」
今度は小莱が心底困り果てた様子で言った。
智輝が入院して3日後に目を覚ました日、照美の三人目の妊娠が明らかになっていた。
お腹はまだ目立たないが、その胎内には確実に新しい命が宿り、この世に生を受ける時を待ちわびているのだ。
小莱はそのお腹の子がもしかしたら誰かの生まれ変わりかもしれない予感がしていた。
「大丈夫よ。それに動きすぎないのもかえって良くないって先生も言ってたしね。簡単な作業ならいいでしょ?ね?」
照美は魅惑的な茶色の大きな瞳をクリクリと動かしながら小莱に言った。
「はい。デハ、レタスを一口サイズに手で千切って頂けマスカ?」
小莱も仕方なく折れると困り笑いを浮かべながら照美に言った。
「はい!他にもあったら遠慮なく言ってね!」
照美は明るく元気に微笑みながら応えた。
一方、聖ヨゼフ病院で智輝は一人病室のベッドで「祈り」に対する「返しの祈り」を捧げていた。
「大天使ザドキエル」
への祈りは、大半が、“慈善”“慈悲”“赦し”の力を求めるものだった。
自分を差別し侮辱し罵詈雑言を浴びせた者を赦す優しさを分け与えてほしい。
ドメスティックバイオレンスを働いてくる夫を赦し慈しむ心を持たせてほしい。
大切な家族を殺害され持って行き場のない悲しみと怒りの感情を赦しと犯人の回心のための慈悲の心へ変えてほしい。
自分一人に職場のクレームを一身に押し付け責任転嫁の後退社に追い込んだ者達に対し赦し慈しみ愛する心を持たせてほしい。
ほとんどの祈りが、“この世の悪”から虐げられ苦しめられ痛めつけられどん底に落とし込まれている人びとからだった。
どんなに“悪なる存在”から痛めつけられようとも、“赦し”“慈しむ”“相手を思いやる”心を持ちたいと願い祈る人びと
崇高な神に近い尊い魂だからこそできる業だった。
彼ら彼女らの美しい魂の祈りの言葉や清らかな心の様はどれも傷付いて血にまみれていた。
まるで鞭打たれ磔にされたイエスのように
ザドキエルである智輝は彼らの体の痛み心の痛み、苦しみが自身に一身に流れてくる度
その痛みに悶えた。
塞がれたはずの腹部と胸部の刺し傷の痛みがじくじくと甦り
思わずうなり声を上げてしまう程だった。
彼らの涙は自身の涙になり、苦しみの呻きは自身の呻きになった。
それでも智輝は祈りに応え、彼ら彼女らの願いに応えた。
「聞いてください。人の子らよ。父なる主に作られし人びとよ。」
「尊き清らかなるあなた方の願いは聞き届けられました。」
「あなた方の清らかなる涙は悲しみから慈しみへ」
「あなた方の耐えざる痛みは愛へと変わりました。」
「今あなた方は誰も恨む事なく、憎む事なく怒る事もなく全ての悪なる感情から解き放たれました。」
「主があなた方を赦すようにあなた方も彼らを赦せるようになりました。」
「赦し慈しむ清らかなる心持つ正しい人びとなるあなた方は神の国に近づきました。」
「あなた方を苦しめる悪からもやがては解き放たれるでしょう。」
「父と子と聖霊の御名においてアーメン。」
これがザドキエルなる智輝の“返しの祈り”だった。
智輝は本気でこの祈りを捧げてくる人びとが苦しみから解放される事を望んだ。
何故なら、“返しの祈り”は相当に体力を消耗し、ましてや肉体を持っている状態の今は祈りを捧げてくる人びとの痛み苦しみが“実際の痛み”として体に表れもしたからだ。
何度ナースコールを押そうかと思ったかわからないぐらいの激痛に智輝自身意識を失わんばかりだった。
「大丈夫か…これ…ずっと続けてたらもう早死に必至だな。俺もミック君もとんでもねぇ重い十字架背負わされちまった…」
息も絶え絶えになりながら智輝は窓からぼんやりと外を見た。
桜の枝にはもうピンクの蕾が薄闇でもわかるほどに膨らんでいるのが見て取れた。




