睦月ー8
調理師になってから私の“生きる事”は“食べる事”と“食べ物を提供する事”に変わりました。
それまでのライフワークであった、漫画を描いたりイラストを描く事等は完全に趣味に固定されました。
しかし、もう漫画家にもイラストレーターにもなれなくていいと思っています。
理由は下らないからです。
馬鹿馬鹿しい、遊んでいるような仕事とも言えないものだからです。
そんなものでお金を稼いだりしたら堕落した人生になりそうだからです。
資格を持ってきちんと安定性のある仕事をする事こそがやはりまともに“職業”として名乗れるものだと言うことを最近悟りました。
やはり母の言っていた事が一番正しかったのです。
資格を取らせるため調理師学校に行かせてくれた母には今はとても感謝しています。
降っては止み降っては止みを繰り返す雪で、道は凍りつき車も出せず、何とか駅まで歩いて出ては見たが、案の定、京浜急行もJRも殆どの路線が「運転見合わせ」の憂き目にあっていた。
智輝が携帯で「明星」に電話をかけると、あっさり
「それなら今日は二人ともお休みでいいわ。ゆっくりしてくださいな。」
と玉玲から返ってきた。
「思いがけず今日一日フリーになっちゃいましたね。どうします?家帰ります?」
智輝は寒さでかじかむ手をポケットに突っ込みながら言った。
「葉さんは…どうしたいデスカ?」
白い息を吐きながら今度は小莱が聞き返してきた。
「俺は廖さんと居られるならどこでも…廖さんが行きたい所ならどこでもついていきますよ。」
智輝のおおらかな返事に小莱はかじかむ手にはあと息を吹きかけながら言った。
「行きたい所は山ほどアリマス…でも、この天気ダト…難しいデスヨネ。」
「電車、動きませんからね。」
小莱の言葉に智輝は苦笑いしながら返した。
「取り合えず、暖が取れる所に行きましょうか。」
「はい。」
智輝の提案に小莱は頷いた。とにかく二人ともいい加減この寒さに堪えていた。
京急川崎駅を出てすぐの「Wing」という緑の文字が飾られたビルに三店舗ほど飲食店が入っていた。
二人はその中の「サイゼリヤ」に入る事にした。
ちょうど昼前11時過ぎ、しかも大雪の影響か店はほぼ貸切状態とも言えるほどに空いていた。
取り合えず軽めの物とドリンクバーを頼み一息ついた所
メニューを何気なく眺めていた小莱に智輝は話を切り出してきた。
「トニー先生ってどんな人だったんですか…?」
小莱はメニューから顔をあげると智輝の顔に目線を移した。
智輝はこの所、トニーの名を口にすることが増えたように小莱は感じていた。
「…姿は、葉さんにそっくり…いえ…もう、そのまま生き写しデス。」
「すごく優しくて、綺麗で…憧れデシタ…。」
「ダンスをしている時は特にかっこよくて…彼の世界に引き込まれマシタ…。」
小莱は梅の枝にぽつぽつと花が咲いていくように、トニーとの思い出を一つ一つ思い出しながら語った。
「トニー先生の人生って…充実してたように廖さんには見えてましたか?」
智輝は頬杖をつきつつ小莱を真っ直ぐ見つめながら言った。
「…ソレハ…ツマリ…ドウイウ…」
小莱は質問の意味を探るように聞き返した。
「…あ、いえ、やっぱり質問変えますね。トニー先生とはどんな風にお付き合いされてたんですか?」
小莱の困惑の表情に焦った智輝は慌てて言い直した。
「…はい、えっと…」
小莱は過去に思いを馳せながらまた静かに一言一言を噛み締めるように話し出した。
「僕が先生と本格的にお付き合いをするようになったのは20歳を迎えるころデシタ。」
小莱がダンススクールに入ったのはちょうど10歳の頃。
“優しくて綺麗で大好きな先生”
から
“恋愛対象”
へと移ったのが15歳の頃。
小莱の美少年ぶりにも磨きがかかり、色気が増したのもこの頃。
“はずみ”
で
“一線を越えてしまった”
のもこの年だった。
19歳の終わりのある日、トニーが小莱の思いを受け止めてくれたのは
“一線を越えてしまった”事に対する謝罪や責任の念もあったのだろうか。
成長した小莱はふと思う事があった。
15歳のあの日、“たった一度の行為”を最後に、トニーは小莱に一切手を出して来る事がなかった。
スクール以外の外で会う時は一緒に映画を観に行ったり、食事をしたり、買い物をしたり、小莱の習慣である寺院巡りに付き合ってくれたりしていただけだった。
小莱はトニーと過ごした時間を改めて思い出しながら思った。
『トニーは本当に生きていて楽しかったのだろうか。』
食事の時も小莱に奢るだけで、トニー自身は飲み物しか頼まず、ただ小莱が食べている様を寂しげに微笑みながら見ているだけ
買い物の時も小莱の見ていた物を何も言わず買ってくれてはいたが、自身は何も買わず
寺院を巡る時も、門の外で待っているだけ、拝む事はおろか、線香も供えず、占いもせず、御守りも買わず…
初めは仏教徒ではないからと小莱は思っていたが
ある日キリスト系の教会の前を通った時は非常に不愉快そうに塔の先端に取り付けられた十字架を見ていた事があった。
その様子から小莱はトニーには信仰心という物が無いのではないのかと思ったのだ。
信心深い小莱は神にせよ仏にせよ
拝んで心の拠り所となるものであるなら
全て尊いものと捉えて間違いない意識があった。
小莱は仏教徒であり、道教の教えも大切にしていたがキリスト教会ですらも拝みの対象にしていた。
礼拝堂に飾られた聖書の一説の場面を描いた絵画もお気に入りで何度も眺めに入ったりしていた。
絵画の中に描かれた天使の姿にはトニーの面影があった。
小莱はいつかトニーを教会でも仏教のお寺でも道教のお寺でも、どれでもいいから連れて入りたかった。
ただ手を合わせ心静かに拝むだけでいいから
線香の匂いを嗅ぐだけでいいから
鐘の音を聞くだけでいいから
“そういう存在”がいて守ってくれることや生きる上での道を標してくれることを教えたかった。
しかし、ある日突然トニーは小莱の前から姿を消した。
足首の怪我を理由に小莱にダンススクールの講師の代理を頼んだ後、トニーからの連絡は一切途絶えてしまい、小莱が25歳を迎えた頃
彼が既にこの世のものではなくなっていた事を知ったのだ。
享年30歳。
自宅アパートのベッドの上で何処で手に入れたのか、拳銃でこめかみを撃ち抜いて亡くなっていたと聞いた。
自殺の理由は、怪我だと思っていた足首に骨肉腫が出来ていた事、切断する以外助かる道が無く、更に血液検査で調べた結果からHIVの感染も発覚していた事によるものだった。
“踊る事は生きる事”
それがトニーの信条だった。
足を失い踊れなくなるぐらいなら
一生治らない病を抱え続けるぐらいなら
死んだほうがマシだと思ったのか。
トニーは小莱の知らない所で相当に荒んだ生活をしていた。
薬物にも手を出していたし、夜の街を徘徊しては適当な相手に体を売り、ダンススクールの経営者とも爛れた関係を築いていた。
全て受け取った遺品に紛れていた小莱宛のトニーからの“最期の手紙”に書かれていた真実だった。
骨肉腫もHIVも小莱にはどうすることも出来ない現実問題であったが
それでも救い出す道はなかったのか
小莱は今でも自問自答する事があった。
いつの間にか目の前には先程頼んだおつまみメニューの「辛味チキン」が運ばれていた。
そしてそれを大変幸せそうにモグモグと頬張る、トニーに生き写しの青年がいる。
智輝だ。
やはり智輝はトニーとは違うのだ。
トニーがこんなに美味しそうにものを食べている所など小莱は見た事がない。
「超うめぇ。廖さんもほら、冷めない内に食べましょ!メチャメチャ美味いっすよ!」
「…はい。」
智輝に促され小莱も辛味チキンを1つつまみ上げふうふうと息を吹きかけたあと頬張った。
柔らかな肉からはジューシーな肉汁が噛み締める度に口に広がり、ピリリと効いた香辛料の辛味と香りが食欲をそそり本当に美味しいと思えた。
「美味いもの食うと生きてる実感がわきますよね!やっぱり腹減ってきちゃったな!このまま昼飯にしちゃいましょうか。」
智輝はメニューを広げながら楽しそうに言った。
小莱はそんな智輝がトニーとは両極の存在に思えて仕方なかった。
トニーは死んでいるが、智輝は生きている。
トニーは生きていた時も常にふわふわと心を宙に浮かせ、生活やこれから先の未来の事などまるで興味が無いようだった。
周りも見えておらず常に自分の世界の中だけで生きているようだった。
ただ大好きなダンスさえ出来ていれば…
そんな感じだった。
しかし智輝はしっかりと現実を受け止め、地に足をつけ、今を一生懸命生きているのだ。
お腹いっぱいご飯を食べ、世のため人のため自身の生活のために働き
充分に睡眠も休息もとり、人間らしく感情を持ち、他者を思いやり、信仰心も持ち、また、未来のビジョンもその胸に想い描きながら、精一杯命を輝かせているのだ。
智輝の放つ、“生”の輝き、温もり、彼自身の人柄、温かく、力強く、それでいて優しく穏やかで
それにどれほど自分が救われているか、支えられているか
愛、希望、生きる力をもらったか
小莱は改めて思い返さずにはいられなかった。
自身が生きている実感
それを味わえるのは
やはり美味しいものをお腹いっぱい食べる正にこの瞬間なのだ。
智輝は改めて小莱にその事を教えてくれていたのだった。




