睦月ー5
智輝の言動や考え方等は、自分自身のそれを参考にしていたりします。
お楽しみ頂ければと思います。
午前11時過ぎ、智輝が目を覚ました時は既に家には誰もいなくなっていた。
父、嵩は仕事。
母の美子は持病の薬を貰いに行き付けの病院に行ったのだろう。
数年前持病を悪化させ入院して手術をしてから美子は薬が手放せなくなっていた。
リビングには二枚の書き置きがあり、一枚は美子、もう一枚は小莱からだった。
この日は店の定休日で智輝も小莱も休みだった。
「金魚さんと食事をしてきます。」
と日本語で書かれてある紙切れを手に取りながら智輝は小さく微笑んだ。
「廖さん、綺麗な字だなあ…。って金魚さん、まだ香港に帰ってなかったのか。」
そんな風に考えている智輝の鼻もとを、嗅ぎ覚えのある匂いが横切った。
「…!」
この匂いは…
智輝の脳裏にあのボロアパートで暴いてしまった“パンドラの箱”の存在が過った。
『葉童雄的遺物』
「葉童雄の遺品」
その中にあった香水が入ったアトマイザー。
その中身の香りで間違いなかった。
小莱は智輝の家に居を移してきた時、トニーの遺品の入った白い段ボール箱も持ってきていた。
そして、時折それを開いてはトニーを思い出している事実も智輝は知っていた。
「…っ!」
智輝にとってトニーは不愉快千万以外の何ものでもない存在だった。
後にトニーの死因が自殺だと知ってから、智輝の彼に対する嫌悪は更に膨れ上がっていた。
容姿は自分に瓜二つだが
こいつは好き勝手に楽しく生きて、愛してくれていた人がいたのにも関わらず、自分勝手な理由で自ら命を絶って小莱や金魚を傷つけたのだ。
周囲の人間に一生消えない心の傷、癒えない哀しみを植え付け自分だけ楽になる道を選んだ最低の男と認識していた。
「廖さん…。まだ好きなのかよ…あんなクソヤローの事…。」
あんな物にすがっていつまでも死んだ人間の影に苛まれながら生きているのははっきり言って居たたまれないにも程がある。
智輝自身、本音を言うとトニーの遺品などすぐにでも捨ててやりたいぐらいだった。
廖さんの心を楽にしてあげたい。
一緒の時を重ねる毎に智輝の頭の中はいつしかその思いでいっぱいになっていた。
しかし、トニーが智輝にとっては最強のクズ野郎だったとしても、小莱にとってはかつて愛した大切な人物に違いはなく、遺品を勝手に捨てたりしようものなら
それこそ、これ以上ないほど小莱を傷つけることになるだろう事は火を見るより明らかだ。
優しい智輝には勿論そんな事出来ようはずもなかった。
「いつまでも過去に囚われていないで、いい加減現実を見ろ。あんたの目の前に居るのはトニーなんかじゃない。俺なんだ。俺はちゃんと生きていて、温もりもあるしあんたの事、思いっきり抱き締めてあげる事も出来るんだ。俺を見ろよ。廖さん、俺を見てくれよ。」
智輝の心中では爆竹が弾けるように本音が炸裂していたが
「駄目だ。こんな考え…。俺の方こそ自分勝手じゃねぇか…。」
言えるはずもなかった。
智輝は思った。
廖さんを傷つけるのだけは絶対嫌だ。
俺は廖さんにとって優しい存在でありたいんだ。
憩いや癒しや安らぎでありたいんだ。
「葉さんは天使サマの生まれ変わりデス。」
川崎大師に初詣に二人で行った時、参道で小莱に言われた言葉を智輝は思い出していた。
「仕方ねぇな…。」
智輝は取り合えず一切合切を“受け入れる”事にした。
自分自身が先ず、“こだわり”を封印すればいいのだ。
もういいや。
廖さんが俺にあのクソヤローの面影を重ねていたって
未だに過去を引きずってあいつの遺品を後生大事にしていたって
あいつの使っていた香水の香りを纏っていたって
廖さんにとって、あいつの死を乗り越え本当の意味で立ち直るまでの必要な行為なら
どんなに時間がかかろうと構わない。
待っていてあげよう。
見守っていてあげよう。
一種の“あきらめ”にも似てはいたが、何よりも現状を良くし
自分自身の心を穏やかにするにはこの考え方に変える以外に方法が見つからなかった。
ふいに目をやったリビングの角。
“世界の亀山ブランド”のシールが貼られた60インチの薄型テレビ。
電源の切れた真っ黒な画面はさながら鏡のようになっていた。
智輝はそこに映る自身の表情が驚くほど安らいでいる事に気付いた。
そしてもう一つに
光の加減か何かの錯覚か
自身の背に翼のようなものが一瞬見えた気が確かにしたのだった。




