師走ー10
今の職場が「明星」のような所ならどんなに良かったかと思う日々です。
早速人間関係でトラブル発生し、我慢も限界に達し、疲れも取れず体調も限界です。
明日から抗議の意味も込めて三日間休むつもりです。
『こちらが廖さんのご自宅ですよ。』
上大岡の例のボロアパートに着いた玉玲は車から降りながら言った。
金魚も反対側のドアから降りながらアパートを見上げ言った。
『これが…?』
金魚はバッグから先程の語学留学の広告を取りだしもう一度小莱の住むボロアパートを見上げると顔を歪めながら叫んだ。
『…!騙されたわ…!』
『どうしたの…?』
突然取り乱す金魚を怪訝に思い玉玲は顔を覗きこみながら尋ねた。
『だって…見てください!この写真の建物と全然違うじゃないですか…!』
『まあ!』
金魚が手に持っている広告にはいかにも快適そうな高層マンションの写真が載っている。
学校から徒歩圏内、横浜市内を一望できる今年分譲して間なしの新築マンションと書かれてあった。
しかし、小莱の住むアパートは前の住人の荷物が残ったままの鍵と呼び鈴が壊れた築60年の訳ありボロアパートだ。
完全に詐欺だった。
『留学費用を安くするために住居のコストをケチったんだわ!この部屋、初めから鍵が壊れていたそうよ!家賃もそれなりなようだけど…いくら何でもあんまりよ!』
玉玲も怒りを顕にしながら二階の小莱の部屋に金魚を案内した。
奥から二番目、「廖」と一文字だけの手書きの表札、両隣はともに空き室だが同じく訳ありの臭いが半端なく、アパートの裏手は墓地で周囲の環境もお世辞にも良好とは言えない。
『廖さん!私よ!いらっしゃいますか!?』
玉玲は前回米奇がしたように小莱の名を大声で呼んだ。
しばらくするとドアが開き小莱が顔を出した。
『…こんにちは。』
前回と同じ部屋着に乱れた髪、優れない顔色だが、玉玲が来てくれた事が嬉しかったのか僅かに笑みを浮かべて出迎えてくれた。
『こんにちは。廖さん。ごめんなさいね?寝ていたのに…香港のお友達、朱金魚さんが来てくださっているから案内したの。』
『……!!』
小莱は切れ長の目を縦に大きく見開いて驚きの表情を見せていた。
『小莱!やっと会えたわ!今までどうしてたの!?』
金魚はそう叫ぶと小莱の細い体に全身でアタックした。
『…っ!!い…痛いよ…金魚さん…っ』
帯状疱疹で体の痛みがまだ退いていない小莱に金魚のハグは強すぎた。
『…!ごめん!そう言えば病気だったのよね!』
『いいよ…わざわざ来てくれたんだ。本当にありがとう。』
小莱は切れ長の目にうっすら涙を浮かべながら気を使って離れた金魚に力なく言った。
『さ、どうぞ…』
小莱はまた力なくそう言って二人の来訪者を部屋に招き入れた。
部屋の奥には小莱が先程まで横になっていた布団がまた乱れた状態で敷かれてあり
布団の周りにはかつての語学留学の際に購入させられた日本語の教材が散らばっていた。
『廖さん……!いいのよ!お茶なんて!私が煎れるから寝ていなさい!』
来訪者二人にお茶の用意をしようとする小莱に玉玲は慌てて言った。
『すみません…』
『まだ体調が優れないんでしょう?休んでいなきゃ駄目よ!』
玉玲はそう言いながら小莱をまるで我が子のように優しく支えながら布団の場所まで誘導した。
『布団の中でまで勉強していたの?…本当に客家の子はしょうがないわね!そのくせ休む事は教育されていないんだから…』
横になった小莱に布団をかけながら玉玲は溜め息まじりに言った。
『…日本語学校…僕一人卒業出来ないままなんです…だから、今年中に検定に受からなきゃって…』
『そうは言っても…もうすぐ聖誕節よ…こんな病気にもなっているんだし、無理はしないほうがいいわよ。』
背中の帯状疱疹が痛いためか小莱は体の側面を下にして母親のお腹の中で丸くなった胎児のような体制でいる。
玉玲はそんな小莱を労るように優しく言った。
『…玉玲さん…どうしたら日本語って覚えられるんですか…?あんな難しい言葉…僕より年下のミックだってあんなに自由に話せているのに…』
『そりゃあ、一筋縄ではいかないわよ。この国の言葉は。漢字だけで何種類も読み方があるし、文字表記だって四通りよ。』
横になったまま辛そうに声を掠れさせながら尋ねる小莱に玉玲は優しく諭すように言った。
『漢字、平仮名、片仮名、あと一つは…?』
『ローマ字よ。まあ、日本語ではあまり使わないけど、お店の看板とか、色んな所でお洒落に見せるために使われているわ。』
『ああ、そう言えば…。それと僕、日本語の“てにをは”…助詞が、本当に分からないんです…。接続詞も難しいし、つっかえる発音も出来ないし…あの…あれも…“ん”の発音が本当に難しくて…』
小莱は日本語学習の際の悩みを洗いざらいぶちまけ始めた。
『分かるわ。夫だって未だに下手くそよ。伸ばす発音、「牛乳」とかも苦手でしょう?』
玉玲はそんな小莱の話に共感するように頷きながら言った。
「…牛乳…」
『ね?そうなっちゃうわよね!でも仕方ないわよ!中国語には無い発音だもの!』
試しに言ってみた小莱に
玉玲は明るく励ますように言った。
『日本語って…そんなに難しい言葉だったの…?』
二人のやりとりをそれまで黙って見ていた金魚だったが、小莱が余りにもたくさん話している様子に驚き割って入ってきた。
『ええ。大人になってから学ぶとなると相当難しい言語かもしれないわね。』
『…そんな…』
玉玲の言葉に金魚は表情を曇らせ呟いた。
『僕…未だに一回も検定に受かってないよ…。せっかく十一万香港ドルもかけたのに…情けないよね…』
小莱はそう言いながら布団に顔をうずめ押し黙った。
金魚も玉玲も小莱が涙を見せないようにしていると瞬間的に察し二人同時に小莱の肩を優しく撫でだした。
『廖さん。私でもミックでも、葉さんでも、誰でも頼りにしていいのよ。日本語ぐらい、いくらでも教えるわ。』
『そうよ!小莱。今日は私、あなたの愚痴を思う存分聞いてあげようとも思っていたの!一晩中だって付き合うから!』
金魚も小莱の肩をさすりながら優しく言ってくれた。
小莱はそんな二人の優しさにまた涙が溢れそうになるのだった。
一方「明星」では智輝と
壽康が遅い昼御飯を食べていた。
「やっぱり廖さんのお粥、最強に美味いですね。」
「塩味キカセルホント上手ダカラネ!冷凍して解凍しても味クズレナイ!スバラシ!」
壽康も満面の笑みを浮かべながらパクついていた。
時刻は四時過ぎになろうとしていたが、店に新たな客が入る気配はない。
「葉サン。今日、モウヤルコトナクナタカンジタラ5時二上ガテモイイヨ!」
「えっ!いいんですか?」
智輝はこれからコックコートに着替えて夕方からの仕事に備えるつもりだった。
「イイヨ!ダイジョブ!昼ダケデ儲ケ、30万超エタ!葉サン働キ充分ヨ!」
「ありがとうございます。」
「ソデナクトモ、日本人働キ過ギ!モト休マナイト体壊ス!無理スル、絶対ダメ!」
「…そうですよね。」
智輝は深く頷きながら壽康の言葉に共感しながら言った。
壽康自身も小莱の体調の変化に気付いてやれなかった事に責任を感じていた。
臨時で店の休業日を授けようかとも考えていた。
「イブトクリスマス、休ミ入レテオイタ!家族ト過ゴス大切!思イデ作ルイイヨ!」
壽康はそう言いながらさっきの僅かな時間の隙間に書き換えたシフトを智輝に渡した。
書き換えられたシフトを見て智輝は度肝を抜かれた。
「ええっ!休み…こんなに!?」
そこには先程のイブとクリスマス、24日と25日その後三回出勤の後、29日30日31日の大晦日まで連休になっている、これまで勤めていた所では見たこともないシフトになっていた。




