神無月ー2
「From where I stand 」続きです。
お楽しみ頂ければ幸いです。
JR川崎駅から徒歩十五分ほどの所の閑静な住宅街に智輝の実家はあった。
ここは川崎の工業地帯に勤務する人達に向けて開かれたベッドタウンの一角で実際に彼の家の両隣共に工場務めの主の家庭だった。
智輝自身も派遣社員として、川崎市内の工場という工場はほとんど制覇していた。
食品工場系列ではレトルト食品の製造やコンビニ弁当の盛り付け作業、それらに異物混入がないか検品作業、箱詰め作業をこなした。
電子部品工場系列では、ラインに乗せられた緑色の電子基板にコネクターやトランス等の電子部品を差し込む作業
をこなし、
またそれらに不良基板が無いかや、差し込み漏れが無いか確かめる検品作業もこなした。
他にも流れてきた完成基板をピッキング工程に持っていくために専用のスタンドにセットし、決められた棚に格納する作業や
自動車部品工場では流れてきた完成前の自動車の部品のビスやナットを差し込んでは締め差し込んでは締めの繰り返し作業もこなした。
どの仕事もただただ、お金のため以外に働く理由が見つからない
仕事に対しての情熱もやりがいも全く見出だせない
仕事だった。
「子供の頃の自分が今の大人になった自分を見たらどう思うだろう。」
智輝は派遣社員の自分を肯定する事が出来なかった。
「こんなものになりたかったんじゃないんだ。俺が本当になりたかったのは…」
智輝が本当になりたかった仕事は絵の能力を生かせる仕事だった。
イラストレーターやグラフィックデザイナー、アニメーター、法廷画家、絵本作家、漫画家、古美術作品の修繕師等と数えればキリがないほどあるクリエイティブ系職業だが
彼はこの中のどの職業にも就くことが出来なかった。実際に才能があるにも関わらずである。
智輝は子供の頃から絵を描くのが好きで、小学生の頃は絵画コンクールで金賞を取ったこともある。
高校を卒業したあとは美術系の短大に進み、イラストレーターを目指したが、智輝が在学中は課題制作は専らアナログの手描き手法が強いられていた。
しかしその時代は2000年代も始まって間なしだったが既に世の中はIT化、デジタル化の波にのまれていた。
あらゆる全てのクリエイティブ系列の
作業の一切はパソコン上で行われ
データ化された作品をWeb上でやり取りするシステムが既にスタンダードと化していた。
要するに智輝が通っていた短大の手法は大幅に『時代遅れ』だったのだ。
そのせいか、Adobeイラストレーターやphotoshop、JavaScript等のツールを使いこなせなければ
どんなにデッサン力があろうと
色彩センスがあろうと
アイデアが無限に尽きない宇宙規模の発想力の持ち主であろうと
全て意味がないのである。
しかも彼の時代は不景気真っ只中の絶賛就職氷河期時代だった。
事実、当時の卒業生で同級生の中で無事思いどおりの企業に内定をもらい就職をこなした者は片手で数えるほどしかいなかった。
重い気持ちのまま、智輝は玄関の鍵を開けた。
玄関のドアは二重ロックになっているので上と下の両方を開けなければならない。
今日は家族全員が留守だったので上と下両方が閉まっていた。
築12年のオール電化の実家はまだ住宅ローンが残っているので空き巣に入られるわけにはいかないのである。